「大日本帝国」の崩壊--東アジアの1945年 加藤聖文著・中公新書 2009年中央公論発行
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重慶・新京
「連合国」中国の苦悩
蒋介石の屈辱
重慶の蒋介石は屈辱感にまみれていた。
日本との抗日戦争を世界大戦にリンクすることに成功した1941年12月8日こそが、彼にとって生涯最良の日だったかもしれない。
プライドの高い蒋介石にとってみれば、ポツダム会談に呼ばれもせず、宣言案を一方的に呑まされたことは、屈辱以外なにものでもなかった。
政権内の腐敗が深刻になり、米軍が指揮権を得て立て直しを図ろうとした。
中国奥地の重慶に立てこもるしかなかった蒋介石は、米国とも相互不信が広まった。
ヤルタの密約
以前から、蒋介石のもとには、ヤルタ会談で米ソで満州をめぐって取引があったとの情報がもたらされた。
1945年7月、ソ連は
モンゴル独立、大連港の優先利用館、旅順港の租借権、旧東支鉄道および満州鉄道の共同経営権を認めるよう、モスクワで中ソ交渉が始まる。
ソ連は外交攻勢を仕掛け主導権を完全に握った。
モンゴル独立問題
もともとモンゴルは大清帝国の版図であり、辛亥革命を機に分離独立の動きが盛んになった。
しかし五族協和(漢・満・蒙・蔵チベット・回)をスローガンに生まれた中華民国は外モンゴルの独立を認めた場合、ほかの民族の独立にまで拡大し、中華民国自体が解体の恐れがあった。
帝政ロシアはモンゴル独立を支持し、事実上モンゴルは独立状態になっていた。
1939年のノモンハン事件は、満州国とモンゴルとの国境線をめぐる問題にソ連軍が加わって戦った。
蒋介石にとって、対日戦終結後の国家再建は頭の痛い問題であった。
中国共産党の勢力が拡大していた。
国府軍は日本軍との8年の戦闘で疲労し、中共軍は日本軍との戦闘を避けながら支配地域を拡大していた。
ポツダム宣言案
7月24日重慶の米大使館にポツダム宣言案が届いた。
内容の検討も許さない強圧的姿勢だた。
対日戦をもっとも長く戦い、国土も荒廃した中国に対する配慮は微塵もみられなかった。
米英二か国で宣言発表を何より恐れ、我慢するよりなかった。
ソ連の対日参戦
国府軍が自力で東北へ進駐して接収完了の力はなかった。
ソ連が東北に居座る事態は避けねばならない。
スターリンは、
ポツダム宣言で対日問題の討議から外され、米国の原爆投下で急ぎ対日参戦を決断する。
8月14日モスクワで「中ソ友好同盟条約」が結ばれた。
あらゆる軍事問題は、ソ連軍司令官に属すること。
ソ連軍の撤退時期は、日本降伏後最大三ヶ月で撤退完了が記された。
スターリンは帝政ロシアが満州にもっていた権益の復活で、「日露戦争の復仇」と公言してはばからなかった。
関東軍
本土決戦が現実化しつつあった5月30日、全満州の3/4を放棄し、朝鮮北部から満州東部山岳地帯における対ソ持久戦の準備がはじまった。
ソ満国境では無用の刺激のないようにした。
7月30日までに、いわゆる「根こそぎ動員」が行われた。
8月9日午前0時、
満州の東部・西部・北部の侵攻が始まった。
午前1時頃新京にソ連軍が爆弾投下したが米軍によるものと思った。
関東軍は午前4時、満州国防衛令を発令。
以前から極東ソ連軍の増強情報をつかんでいたが関東軍司令官山田乙三は、大連に出張中だった。
満州国政府
出先機関からの通信は途絶、関東軍からの経過はもたらされず、情勢判断ができず、さらに人手不足で事務系等も滞りがちとなっていた。
軍は通化移転し、政府は二分された。
8月17日、満州国は皇帝の退位と「解散」が決まった。
満州消滅
日本の敗戦による満州国の消滅は、満州の中華民国への復帰を意味する。
大本営からの停戦命令がないため、関東軍とソ連軍の戦闘はつづいていた。
8月16日午後4時、即時停戦と停戦協定、武器引き渡しを認める命令が届いた。
8月31日、旧満州国の満系首脳が一斉に拘引され、シベリアへ連行された。
ソ連軍兵士の悪行
新京に進駐したソ連軍兵士によって、早くも日本人家屋の占拠や物品の強奪、婦女子の強姦、理由不明の拘引や殺害がいたるところで頻発するようになった。
さらに、
ソ連国境周辺で戦闘に巻き込まれて難民となった開拓団員たちが続々と新京など満鉄沿線の各都市に流入しはじめ、瞬く間に治安と衛生環境が悪化の一途を辿っていった。
満州全域にやってきたソ連軍兵士の軍規は最悪で、暴行略奪の対象は日本人だけでなく中国人にも向けられた。
だが彼らは俗に言われる囚人部隊でなく、ドイツ戦線から転用されてきた精鋭部隊であった。
彼らは報復の名のもとに略奪・強姦・虐殺とあらゆる悪行を互いが重ねあい、殺戮戦と化した独ソ戦の影響をもっとも受けた部隊であり、欧州でおこなったことを満州でも行ったにすぎなかった。
さらにソ連軍の組織が完全に縦割りで、再三日本側からの要請があっても指示が行き渡らなかった。
在満日本人の引揚検討
関東軍が事態の深刻さに気づき引揚を考えはじめたのは9月になってからである。
日本政府からの現地定着方針は伝えられていた。
9月4日山田乙三は重光葵外相に、早期引揚を求める悲痛な内容に満ちた電報を宛てた。
9月5日、山田司令官秦総参謀長は拘引されハバロフスクへ連行され関東軍は消滅した。
山田(司令官兼大使)が拘引され、在満日本人を保護する責任者が不在となった。
9月27日、武部や古海ら満州国日系幹部がシベリアへ送られた。
7万人いた白系ロシア人の多くも捕らえられシベリアへ送られた。
満鉄の消滅
中ソ友好同盟条約に基づいて満鉄は9月27日、法的消滅と幹部の解任が一方的に告げられた。
日本人救済総会
9月中に満州国にあった主要機関はすべて消滅、中枢にいた人たちもソ連軍に拘引され満州国は完全に消滅したのである。
在満日本人の保護は高崎達之助らによる救済総会が引き継ぐことになった。
日本人の引揚機関として1946年7月1日まで活動を担った。
関東州(所借地=旅順と大連)23万人の邦人
8月22日にソ連軍が到着、進駐してから治安は極度に悪化、翌月にかけて満州国と同じような暴行略奪が頻発した。
結局1947年3月末までに約22万人が引揚げた。
「以徳報怨」演説の意味
1945年8月15日、蒋介石自らマイクの前に立ち「以徳報怨」の演説を全中国と全世界に向けて行った。
戦争最大の被害国である中国が加害国である日本に対して、報復ではなく徳をもって臨むことを宣言した。
しかし英国は、香港の接収を要求し米国も同調した。
ソ連は満州にとどまらず山海関へも侵出を図り、8月15日を過ぎても行動停止はしなかった。
支邦派遣軍は、中国本土に100万人を超す部隊を抱え軍組織がそのまま維持されていた。
以徳報怨は、この無傷の巨大な日本軍を強く意識したものだった。
伊梨事件
ソ連軍は、中国から取り尽くすことを徹底していた。
1945年9月2日、新疆の伊梨でソ連軍が爆撃した。
新疆へ圧力をかけ、東北問題で主導権を握ろうとした。
済南事件以来「雪恥」の二字は続いた。
1945年9月9日、
支邦派遣軍と中国総司令部の間で降伏文書調印式が行われた。
岡村司令官は、戦後の日本の復興のために日華関係をより強固すべきと考え、武装解除以外にも技術者を中心に積極的に協力していた。
100万人の武装解除と行政権の移譲は順調に進んだ。
年内に復員が開始され、翌年春にほぼ終了した。
国共対峙
満州を占領したソ連軍は、中国が対日賠償の一環であると主張する在満日本資産を、戦利品であると次々にソ連国内へ運び出していった。
国府からは何も手が出せない状態で、撤収さざるを得ないほどであった。
しかも、
三か月を過ぎても撤退する気配を見せなかった。
満州国の主要な産業施設の接収とソ連への移送に成功したソ連軍は、1946年3月ようやく撤退を開始、国府軍がその後に進駐した。
ソ連軍はモノだけでなく、関東軍兵士や民間人(朝鮮人・中国人含む)を労働力としてシベリアに送り込んでいた。その数60万人、うち6万人が犠牲になる。
満州に残された日本人は1946年3月まで、何の動きも見られなかった。
5月から引揚が始まり、夏に本格化し、年内には大半の日本人が引揚げていった。
犠牲者は日ソ戦での死亡者を含め約24万5千人、うち8万人を開拓団員が占めた。
満州での民間人犠牲者数は、東京大空襲や広島の原爆、さらには沖縄戦を凌ぐものであった。
消される歴史
国共内戦に勝利した毛沢東は、1949年10月中華人民共和国の建国を宣言する。
内戦勝利を決定づけたのは東北全域を掌握したからである。
8万人を超える日本人が技術者ばかりでなく、医師・看護婦、雑役婦などとして中共軍に留用され国共内戦に巻き込まれていった。
いまなを続く大陸と台湾との分断の背後には、満州国と台湾という大日本帝国の「遺産」をめぐる歴史が存在するのである。
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重慶・新京
「連合国」中国の苦悩
蒋介石の屈辱
重慶の蒋介石は屈辱感にまみれていた。
日本との抗日戦争を世界大戦にリンクすることに成功した1941年12月8日こそが、彼にとって生涯最良の日だったかもしれない。
プライドの高い蒋介石にとってみれば、ポツダム会談に呼ばれもせず、宣言案を一方的に呑まされたことは、屈辱以外なにものでもなかった。
政権内の腐敗が深刻になり、米軍が指揮権を得て立て直しを図ろうとした。
中国奥地の重慶に立てこもるしかなかった蒋介石は、米国とも相互不信が広まった。
ヤルタの密約
以前から、蒋介石のもとには、ヤルタ会談で米ソで満州をめぐって取引があったとの情報がもたらされた。
1945年7月、ソ連は
モンゴル独立、大連港の優先利用館、旅順港の租借権、旧東支鉄道および満州鉄道の共同経営権を認めるよう、モスクワで中ソ交渉が始まる。
ソ連は外交攻勢を仕掛け主導権を完全に握った。
モンゴル独立問題
もともとモンゴルは大清帝国の版図であり、辛亥革命を機に分離独立の動きが盛んになった。
しかし五族協和(漢・満・蒙・蔵チベット・回)をスローガンに生まれた中華民国は外モンゴルの独立を認めた場合、ほかの民族の独立にまで拡大し、中華民国自体が解体の恐れがあった。
帝政ロシアはモンゴル独立を支持し、事実上モンゴルは独立状態になっていた。
1939年のノモンハン事件は、満州国とモンゴルとの国境線をめぐる問題にソ連軍が加わって戦った。
蒋介石にとって、対日戦終結後の国家再建は頭の痛い問題であった。
中国共産党の勢力が拡大していた。
国府軍は日本軍との8年の戦闘で疲労し、中共軍は日本軍との戦闘を避けながら支配地域を拡大していた。
ポツダム宣言案
7月24日重慶の米大使館にポツダム宣言案が届いた。
内容の検討も許さない強圧的姿勢だた。
対日戦をもっとも長く戦い、国土も荒廃した中国に対する配慮は微塵もみられなかった。
米英二か国で宣言発表を何より恐れ、我慢するよりなかった。
ソ連の対日参戦
国府軍が自力で東北へ進駐して接収完了の力はなかった。
ソ連が東北に居座る事態は避けねばならない。
スターリンは、
ポツダム宣言で対日問題の討議から外され、米国の原爆投下で急ぎ対日参戦を決断する。
8月14日モスクワで「中ソ友好同盟条約」が結ばれた。
あらゆる軍事問題は、ソ連軍司令官に属すること。
ソ連軍の撤退時期は、日本降伏後最大三ヶ月で撤退完了が記された。
スターリンは帝政ロシアが満州にもっていた権益の復活で、「日露戦争の復仇」と公言してはばからなかった。
関東軍
本土決戦が現実化しつつあった5月30日、全満州の3/4を放棄し、朝鮮北部から満州東部山岳地帯における対ソ持久戦の準備がはじまった。
ソ満国境では無用の刺激のないようにした。
7月30日までに、いわゆる「根こそぎ動員」が行われた。
8月9日午前0時、
満州の東部・西部・北部の侵攻が始まった。
午前1時頃新京にソ連軍が爆弾投下したが米軍によるものと思った。
関東軍は午前4時、満州国防衛令を発令。
以前から極東ソ連軍の増強情報をつかんでいたが関東軍司令官山田乙三は、大連に出張中だった。
満州国政府
出先機関からの通信は途絶、関東軍からの経過はもたらされず、情勢判断ができず、さらに人手不足で事務系等も滞りがちとなっていた。
軍は通化移転し、政府は二分された。
8月17日、満州国は皇帝の退位と「解散」が決まった。
満州消滅
日本の敗戦による満州国の消滅は、満州の中華民国への復帰を意味する。
大本営からの停戦命令がないため、関東軍とソ連軍の戦闘はつづいていた。
8月16日午後4時、即時停戦と停戦協定、武器引き渡しを認める命令が届いた。
8月31日、旧満州国の満系首脳が一斉に拘引され、シベリアへ連行された。
ソ連軍兵士の悪行
新京に進駐したソ連軍兵士によって、早くも日本人家屋の占拠や物品の強奪、婦女子の強姦、理由不明の拘引や殺害がいたるところで頻発するようになった。
さらに、
ソ連国境周辺で戦闘に巻き込まれて難民となった開拓団員たちが続々と新京など満鉄沿線の各都市に流入しはじめ、瞬く間に治安と衛生環境が悪化の一途を辿っていった。
満州全域にやってきたソ連軍兵士の軍規は最悪で、暴行略奪の対象は日本人だけでなく中国人にも向けられた。
だが彼らは俗に言われる囚人部隊でなく、ドイツ戦線から転用されてきた精鋭部隊であった。
彼らは報復の名のもとに略奪・強姦・虐殺とあらゆる悪行を互いが重ねあい、殺戮戦と化した独ソ戦の影響をもっとも受けた部隊であり、欧州でおこなったことを満州でも行ったにすぎなかった。
さらにソ連軍の組織が完全に縦割りで、再三日本側からの要請があっても指示が行き渡らなかった。
在満日本人の引揚検討
関東軍が事態の深刻さに気づき引揚を考えはじめたのは9月になってからである。
日本政府からの現地定着方針は伝えられていた。
9月4日山田乙三は重光葵外相に、早期引揚を求める悲痛な内容に満ちた電報を宛てた。
9月5日、山田司令官秦総参謀長は拘引されハバロフスクへ連行され関東軍は消滅した。
山田(司令官兼大使)が拘引され、在満日本人を保護する責任者が不在となった。
9月27日、武部や古海ら満州国日系幹部がシベリアへ送られた。
7万人いた白系ロシア人の多くも捕らえられシベリアへ送られた。
満鉄の消滅
中ソ友好同盟条約に基づいて満鉄は9月27日、法的消滅と幹部の解任が一方的に告げられた。
日本人救済総会
9月中に満州国にあった主要機関はすべて消滅、中枢にいた人たちもソ連軍に拘引され満州国は完全に消滅したのである。
在満日本人の保護は高崎達之助らによる救済総会が引き継ぐことになった。
日本人の引揚機関として1946年7月1日まで活動を担った。
関東州(所借地=旅順と大連)23万人の邦人
8月22日にソ連軍が到着、進駐してから治安は極度に悪化、翌月にかけて満州国と同じような暴行略奪が頻発した。
結局1947年3月末までに約22万人が引揚げた。
「以徳報怨」演説の意味
1945年8月15日、蒋介石自らマイクの前に立ち「以徳報怨」の演説を全中国と全世界に向けて行った。
戦争最大の被害国である中国が加害国である日本に対して、報復ではなく徳をもって臨むことを宣言した。
しかし英国は、香港の接収を要求し米国も同調した。
ソ連は満州にとどまらず山海関へも侵出を図り、8月15日を過ぎても行動停止はしなかった。
支邦派遣軍は、中国本土に100万人を超す部隊を抱え軍組織がそのまま維持されていた。
以徳報怨は、この無傷の巨大な日本軍を強く意識したものだった。
伊梨事件
ソ連軍は、中国から取り尽くすことを徹底していた。
1945年9月2日、新疆の伊梨でソ連軍が爆撃した。
新疆へ圧力をかけ、東北問題で主導権を握ろうとした。
済南事件以来「雪恥」の二字は続いた。
1945年9月9日、
支邦派遣軍と中国総司令部の間で降伏文書調印式が行われた。
岡村司令官は、戦後の日本の復興のために日華関係をより強固すべきと考え、武装解除以外にも技術者を中心に積極的に協力していた。
100万人の武装解除と行政権の移譲は順調に進んだ。
年内に復員が開始され、翌年春にほぼ終了した。
国共対峙
満州を占領したソ連軍は、中国が対日賠償の一環であると主張する在満日本資産を、戦利品であると次々にソ連国内へ運び出していった。
国府からは何も手が出せない状態で、撤収さざるを得ないほどであった。
しかも、
三か月を過ぎても撤退する気配を見せなかった。
満州国の主要な産業施設の接収とソ連への移送に成功したソ連軍は、1946年3月ようやく撤退を開始、国府軍がその後に進駐した。
ソ連軍はモノだけでなく、関東軍兵士や民間人(朝鮮人・中国人含む)を労働力としてシベリアに送り込んでいた。その数60万人、うち6万人が犠牲になる。
満州に残された日本人は1946年3月まで、何の動きも見られなかった。
5月から引揚が始まり、夏に本格化し、年内には大半の日本人が引揚げていった。
犠牲者は日ソ戦での死亡者を含め約24万5千人、うち8万人を開拓団員が占めた。
満州での民間人犠牲者数は、東京大空襲や広島の原爆、さらには沖縄戦を凌ぐものであった。
消される歴史
国共内戦に勝利した毛沢東は、1949年10月中華人民共和国の建国を宣言する。
内戦勝利を決定づけたのは東北全域を掌握したからである。
8万人を超える日本人が技術者ばかりでなく、医師・看護婦、雑役婦などとして中共軍に留用され国共内戦に巻き込まれていった。
いまなを続く大陸と台湾との分断の背後には、満州国と台湾という大日本帝国の「遺産」をめぐる歴史が存在するのである。