しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

終戦前後の③連合国・中国の苦悩

2020年04月22日 | 昭和20年(戦後)
「大日本帝国」の崩壊--東アジアの1945年 加藤聖文著・中公新書 2009年中央公論発行


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重慶・新京
「連合国」中国の苦悩

蒋介石の屈辱
重慶の蒋介石は屈辱感にまみれていた。
日本との抗日戦争を世界大戦にリンクすることに成功した1941年12月8日こそが、彼にとって生涯最良の日だったかもしれない。
プライドの高い蒋介石にとってみれば、ポツダム会談に呼ばれもせず、宣言案を一方的に呑まされたことは、屈辱以外なにものでもなかった。
政権内の腐敗が深刻になり、米軍が指揮権を得て立て直しを図ろうとした。
中国奥地の重慶に立てこもるしかなかった蒋介石は、米国とも相互不信が広まった。

ヤルタの密約
以前から、蒋介石のもとには、ヤルタ会談で米ソで満州をめぐって取引があったとの情報がもたらされた。
1945年7月、ソ連は
モンゴル独立、大連港の優先利用館、旅順港の租借権、旧東支鉄道および満州鉄道の共同経営権を認めるよう、モスクワで中ソ交渉が始まる。
ソ連は外交攻勢を仕掛け主導権を完全に握った。

モンゴル独立問題
もともとモンゴルは大清帝国の版図であり、辛亥革命を機に分離独立の動きが盛んになった。
しかし五族協和(漢・満・蒙・蔵チベット・回)をスローガンに生まれた中華民国は外モンゴルの独立を認めた場合、ほかの民族の独立にまで拡大し、中華民国自体が解体の恐れがあった。
帝政ロシアはモンゴル独立を支持し、事実上モンゴルは独立状態になっていた。
1939年のノモンハン事件は、満州国とモンゴルとの国境線をめぐる問題にソ連軍が加わって戦った。

蒋介石にとって、対日戦終結後の国家再建は頭の痛い問題であった。
中国共産党の勢力が拡大していた。
国府軍は日本軍との8年の戦闘で疲労し、中共軍は日本軍との戦闘を避けながら支配地域を拡大していた。

ポツダム宣言案
7月24日重慶の米大使館にポツダム宣言案が届いた。
内容の検討も許さない強圧的姿勢だた。
対日戦をもっとも長く戦い、国土も荒廃した中国に対する配慮は微塵もみられなかった。
米英二か国で宣言発表を何より恐れ、我慢するよりなかった。

ソ連の対日参戦
国府軍が自力で東北へ進駐して接収完了の力はなかった。
ソ連が東北に居座る事態は避けねばならない。
スターリンは、
ポツダム宣言で対日問題の討議から外され、米国の原爆投下で急ぎ対日参戦を決断する。
8月14日モスクワで「中ソ友好同盟条約」が結ばれた。
あらゆる軍事問題は、ソ連軍司令官に属すること。
ソ連軍の撤退時期は、日本降伏後最大三ヶ月で撤退完了が記された。
スターリンは帝政ロシアが満州にもっていた権益の復活で、「日露戦争の復仇」と公言してはばからなかった。

関東軍
本土決戦が現実化しつつあった5月30日、全満州の3/4を放棄し、朝鮮北部から満州東部山岳地帯における対ソ持久戦の準備がはじまった。
ソ満国境では無用の刺激のないようにした。
7月30日までに、いわゆる「根こそぎ動員」が行われた。

8月9日午前0時、
満州の東部・西部・北部の侵攻が始まった。
午前1時頃新京にソ連軍が爆弾投下したが米軍によるものと思った。
関東軍は午前4時、満州国防衛令を発令。
以前から極東ソ連軍の増強情報をつかんでいたが関東軍司令官山田乙三は、大連に出張中だった。

満州国政府
出先機関からの通信は途絶、関東軍からの経過はもたらされず、情勢判断ができず、さらに人手不足で事務系等も滞りがちとなっていた。
軍は通化移転し、政府は二分された。
8月17日、満州国は皇帝の退位と「解散」が決まった。

満州消滅
日本の敗戦による満州国の消滅は、満州の中華民国への復帰を意味する。
大本営からの停戦命令がないため、関東軍とソ連軍の戦闘はつづいていた。
8月16日午後4時、即時停戦と停戦協定、武器引き渡しを認める命令が届いた。
8月31日、旧満州国の満系首脳が一斉に拘引され、シベリアへ連行された。

ソ連軍兵士の悪行
新京に進駐したソ連軍兵士によって、早くも日本人家屋の占拠や物品の強奪、婦女子の強姦、理由不明の拘引や殺害がいたるところで頻発するようになった。
さらに、
ソ連国境周辺で戦闘に巻き込まれて難民となった開拓団員たちが続々と新京など満鉄沿線の各都市に流入しはじめ、瞬く間に治安と衛生環境が悪化の一途を辿っていった。
満州全域にやってきたソ連軍兵士の軍規は最悪で、暴行略奪の対象は日本人だけでなく中国人にも向けられた。
だが彼らは俗に言われる囚人部隊でなく、ドイツ戦線から転用されてきた精鋭部隊であった。
彼らは報復の名のもとに略奪・強姦・虐殺とあらゆる悪行を互いが重ねあい、殺戮戦と化した独ソ戦の影響をもっとも受けた部隊であり、欧州でおこなったことを満州でも行ったにすぎなかった。
さらにソ連軍の組織が完全に縦割りで、再三日本側からの要請があっても指示が行き渡らなかった。

在満日本人の引揚検討
関東軍が事態の深刻さに気づき引揚を考えはじめたのは9月になってからである。
日本政府からの現地定着方針は伝えられていた。
9月4日山田乙三は重光葵外相に、早期引揚を求める悲痛な内容に満ちた電報を宛てた。
9月5日、山田司令官秦総参謀長は拘引されハバロフスクへ連行され関東軍は消滅した。
山田(司令官兼大使)が拘引され、在満日本人を保護する責任者が不在となった。
9月27日、武部や古海ら満州国日系幹部がシベリアへ送られた。
7万人いた白系ロシア人の多くも捕らえられシベリアへ送られた。

満鉄の消滅
中ソ友好同盟条約に基づいて満鉄は9月27日、法的消滅と幹部の解任が一方的に告げられた。

日本人救済総会
9月中に満州国にあった主要機関はすべて消滅、中枢にいた人たちもソ連軍に拘引され満州国は完全に消滅したのである。
在満日本人の保護は高崎達之助らによる救済総会が引き継ぐことになった。
日本人の引揚機関として1946年7月1日まで活動を担った。

関東州(所借地=旅順と大連)23万人の邦人
8月22日にソ連軍が到着、進駐してから治安は極度に悪化、翌月にかけて満州国と同じような暴行略奪が頻発した。
結局1947年3月末までに約22万人が引揚げた。


「以徳報怨」演説の意味
1945年8月15日、蒋介石自らマイクの前に立ち「以徳報怨」の演説を全中国と全世界に向けて行った。
戦争最大の被害国である中国が加害国である日本に対して、報復ではなく徳をもって臨むことを宣言した。
しかし英国は、香港の接収を要求し米国も同調した。
ソ連は満州にとどまらず山海関へも侵出を図り、8月15日を過ぎても行動停止はしなかった。
支邦派遣軍は、中国本土に100万人を超す部隊を抱え軍組織がそのまま維持されていた。
以徳報怨は、この無傷の巨大な日本軍を強く意識したものだった。

伊梨事件
ソ連軍は、中国から取り尽くすことを徹底していた。
1945年9月2日、新疆の伊梨でソ連軍が爆撃した。
新疆へ圧力をかけ、東北問題で主導権を握ろうとした。
済南事件以来「雪恥」の二字は続いた。

1945年9月9日、
支邦派遣軍と中国総司令部の間で降伏文書調印式が行われた。
岡村司令官は、戦後の日本の復興のために日華関係をより強固すべきと考え、武装解除以外にも技術者を中心に積極的に協力していた。
100万人の武装解除と行政権の移譲は順調に進んだ。
年内に復員が開始され、翌年春にほぼ終了した。

国共対峙
満州を占領したソ連軍は、中国が対日賠償の一環であると主張する在満日本資産を、戦利品であると次々にソ連国内へ運び出していった。
国府からは何も手が出せない状態で、撤収さざるを得ないほどであった。
しかも、
三か月を過ぎても撤退する気配を見せなかった。
満州国の主要な産業施設の接収とソ連への移送に成功したソ連軍は、1946年3月ようやく撤退を開始、国府軍がその後に進駐した。
ソ連軍はモノだけでなく、関東軍兵士や民間人(朝鮮人・中国人含む)を労働力としてシベリアに送り込んでいた。その数60万人、うち6万人が犠牲になる。
満州に残された日本人は1946年3月まで、何の動きも見られなかった。
5月から引揚が始まり、夏に本格化し、年内には大半の日本人が引揚げていった。
犠牲者は日ソ戦での死亡者を含め約24万5千人、うち8万人を開拓団員が占めた。
満州での民間人犠牲者数は、東京大空襲や広島の原爆、さらには沖縄戦を凌ぐものであった。

消される歴史
国共内戦に勝利した毛沢東は、1949年10月中華人民共和国の建国を宣言する。
内戦勝利を決定づけたのは東北全域を掌握したからである。
8万人を超える日本人が技術者ばかりでなく、医師・看護婦、雑役婦などとして中共軍に留用され国共内戦に巻き込まれていった。
いまなを続く大陸と台湾との分断の背後には、満州国と台湾という大日本帝国の「遺産」をめぐる歴史が存在するのである。
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終戦前後の②台湾

2020年04月21日 | 昭和20年(戦後)

「大日本帝国」の崩壊--東アジアの1945年 加藤聖文著・中公新書 2009年中央公論発行より転記。

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台湾の解放はもっとも遅かった。
台北で台湾総督安藤利吉が国民政府とのあいだで降伏文書に調印したのは、敗戦から2ヶ月以上経った10月25日。
暴動や略奪といった混乱もないなかでの台湾支配の終焉は、日本人にとっても台湾人にとっても、もっとも平穏に迎えられたものだった。
しかし、中華民国国民として「光復」を迎えたはずの台湾人にとって、期待が失望へと変わったこの日は、帝国臣民としての「降伏」でしかなかった。

台湾
8月15日、12:00。台湾全土に玉音放送が流れた。
しかし、台北の街は同じような日常がつづいた。
沖縄の米軍が進駐でなく、中国国民軍が進駐することになっていたためである。
重慶の奥の国府軍は、台湾に進駐するには相当の時間を要した。
そのため、日本軍がそのまま駐留し、台湾総督府が行政と治安をこれまで通り執り行う。

日本統治時代、
究極の目標は日本への同化なのか、自治権獲得なのか、台湾独立なのか、中国復帰なのか明確でなかった。
敗戦後、在台日本人は、
台湾人によって危害を加えられたり、不安に駆られたことがなかった。

日米開戦後に
中国は日本に宣戦布告し、日中戦争は第二次世界大戦に連結された。
中国は連合国の一員となった。

10月17日、ようやく国府軍が上陸。
目の当たりにした国府軍は、ボロ靴を履き鍋釜を担いで雨傘を背負った。
軍隊とはかけ離れ、侮蔑感さえ抱かせる姿であった。

蒋介石の台湾認識
中国軍=国府軍は解放軍なのか占領軍なのか----、台湾人のなかで計りかねる状態がしばらく続いた。
蒋介石は西方の国防の要と位置づけ、民心よりも戦略的価値にあったのである。
蒋介石は、台湾人も大陸と同じ漢族であって、祖国に復帰するのは当たり前だと考えていた。
だが、台湾は複雑な民族構成から成り立ち近代以降は大陸とは異なる独自の歴史経緯を辿っていた。

中国による接収と経済悪化
台湾で行われた日本側資産の接収ほど徹底されたものはなく、これは大陸でも同様であった。
大は建物、小は文具用品にいたるまで所持するすべての備品台帳の作成と提出であった。
さらに学校を含めた公的機関、三大国策会社ばかりでなく、個人経営も含めた企業も対象であった。
国民党の所有物となった。
対岸から中国商人も一攫千金を狙って大挙、台湾へ渡ってきた。
さらに大陸からインフレーションが持ち込まれ、台湾経済は急速に悪化していった。
台湾統治は大陸系によって握られ、
台湾人が期待した政治参加は限定され、言語や生活習慣の相違による軋轢が重なり、政府に対する不信感、大陸から来た中国人に対する反感は日増しに高まり、1946年早々に顕在化した。

日本人への冷たい視線
台湾人の不満は日本人へも向けられた。
新聞も反日記事による扇動が始まる。
在台日本人の中にも、接収にともなう失業、物価暴騰による生活苦、さらに反日の増加により、日本人の非特権化が明らかになってきたことで、日本への引揚を希望する者が漸次増加していった。

第10方面軍は、
敗戦時の30万人から17万人に減っていたが、依然として無傷で駐留していた。
中国大陸では国民党と共産党の対立が顕在化し、一挙に不安化がすすんだ。
12月15日、トルーマンは国民政府への積極的支援の政策を発表、残留日本軍の早期帰還も採り上げた。
大陸に留まる100万を越す日本軍と台湾の10方面軍の送還計画が立てられた。
12月25日、はやくも復員第一陣が出港するにいたった。
こうして1946年3月末から在台日本人の引揚がはじまり、5月末までに兵士の復員完了、民間人28万が引揚げた。
また台湾にいた朝鮮人は「韓僑」として扱われ、約2.000人が日本人引揚とほぼ同時に祖国へ送還された。

日本人の留用と「琉僑」
日本人の送還が決定されると同時に、日本人の本格的な留用を開始した。
日本人技術者を留用して技術移転を図るとうものである。
医者や金融関係、軍人まで含まれた。
台湾では、家族を含め約28.000人が留用された。
留用者を除き1946年末まで日本人が台湾を去った。
沖縄人(八重山諸島が多い)は、米軍占領の沖縄に還れず「琉僑」と呼ばれた。
日本人と区別して1946年4月から翌年にかけて15.000人が引揚げた。

1946年4月、軍の復員と民間人の引揚はいったん終了した。

1947年、「2・28事件」
台湾に土着する「本省人」と大陸から渡ってきた「外省人」といった区分が生まれ、彼らの溝は深まった。
1947年2月28日台湾全島に及ぶ政治暴動が発生した。
大陸からの軍隊増援により18.000~28.000人の台湾人が無差別に虐殺された。
とりわけ旧日本時代からのエリート知識層が大打撃を受けた。
この事件を機に対立は構造化され、大陸の中国人に対する「台湾人」意識が芽生えてゆく。

最後の皇軍兵士
1974年12月、インドネシアのモロタイ島で日本陸軍兵士であった中村輝夫一等兵が「発見」された。
中村は正式名「スニヨン」で日本統治時代に高砂族と呼ばれていた台湾原住民の出身であり高砂義勇隊として従軍していた。
日本語教育を受け、帝国臣民として志願して戦場に行った。
彼には日本政府から何の補償もなかった。
台湾人のあいだでいわれている「犬が去ったら豚がきた」、
台湾人の失望と日本に対する複雑な心情をよく表している。


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終戦前後の①朝鮮半島

2020年04月21日 | 昭和20年(戦後)
「大日本帝国」の崩壊--東アジアの1945年 加藤聖文著・中公新書 2009年中央公論発行より転記。

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1945年8月15日正午、「帝国臣民」は日本の敗戦を知った。
では”忠良なる爾臣民”とは誰を指したのか。
実はそこに表れる臣民とは、内地にいる「日本人」だけになっていた。
「国体護持」をめぐる対立のなかで、「帝国臣民」は一度も顧慮されなかった。


京城
韓国併合以来、朝鮮半島に君臨してきた「朝鮮総督府」の最後の総督は元首相の阿部信行であった。
8月9日午前0時にソ連軍が満州になだれこんだが、その30分後にはソ連軍機が朝鮮に侵入、日本の新潟と満州を結ぶ要衝の地であった羅津を数度にわたり爆撃した。
ソ連軍の侵入は、主戦場である満州を側面支援のものであった。
当時朝鮮半島に約70万人の日本人と財産をいかに守るか悩ました。
ポツダム宣言で朝鮮の解放が謳われ、日本の領土でなくなるのは確実だった。
だが、そこに住む日本人がどのように取り扱われるかは、わからなかった。
韓国併合前の状態に戻り、居留民として残留できるのか、
すべての日本人は朝鮮半島から追放されるのか、
どちらにせよ、誰が日本人の生命財産を保護するのか?

1919年に起きた3・1独立運動の
失敗によって海外へ亡命した独立運動家は上海で臨時政府をつくり、日米開戦時には日本に「宣戦布告」をしていた。
李承晩は米国で朝鮮独立を訴え続けていた。
金日成の抗日パルチザンはソ連領に逃げ込んでいた。

半島内にも総督府の監督下の民族主義者呂運亭がいた。
8月15日、総督府の進言で呂運亭は建国準備委員会を結成した。
敗戦時の警察官の7割は朝鮮人だった。そのため事態収拾の丸投げをしようとした。

日本人世話会
民間人が結成。仁川では残留か引揚かで議論が真っ二つに分かれた。
日本での生活基盤のない定住者が多かった。

第17方面軍の軍備
終戦頃北部は関東軍が担当、南部を方面軍が担当となった。
大本営は本土進攻作戦の一環として、大陸と日本の連絡を絶つため済州島か半島南部に上陸すると予測していた。
そのため増強された第17方面軍は無傷のまま23万の陸軍、3万の海軍兵力がいたとされる。

(8月19日に内務省で、朝鮮・台湾・樺太に在住する民間人は、出来る限り現地に於いて共存親和の実を挙ぐべく忍苦努力するとの方針が決定された)

8月22日、日本軍の武装解除は38度線以北がソ連軍、以南が米軍が担当すると連絡があった。

米軍が上陸後、公用語は日本語から英語になった。米軍政策への服従を求められた。
米軍は、朝鮮半島からすべての日本人を本国へ送還する方針を立てていた。
まず兵士の復員であった。
10月3日に米軍政長官が在朝日本人の本国送還を発表。
翌春まで40万人の民間日本人は引揚ていった。
その一方で、日本から多くの朝鮮人が帰還していった。

米英の独立に関する評価
第二次世界大戦で連合国は自由と民主主義を標榜していたが、民族自立と植民地解放を掲げていたわけではなかった。
植民地帝国の英・仏・蘭にとって、植民地解放は自殺行為に等しかった。
また多民族国家であるソ連や中国は、国家分裂を引き起こしかねない問題であった。
アメリカ以外は独立に関心を示さなかった。

米国が選んだ李承晩
米国生活が長く、ハーバード大で学びオーストラリア人の妻を持ち、英語が堪能な李承晩に白羽の矢を立てた。
その国の歴史も事情も知らないまま、米国本位の人物を押し付けて形式的な民主主義国家を作った結果、かえって独裁国家を生み出して事態を悪化させるという南ベトナムや中南米、中近東などで繰り返される米国外交の宿痾が、南朝鮮で早くも現れていたいたのである。

12月米英ソの外相会議があり、
統一国家は先延ばしとなった。
大日本帝国の崩壊後に朝鮮半島に生まれた二つの国家は、自らの力でなく米ソの思惑によって作られた。
しかし、朝鮮民族を代表する国家としての正統性を認めさせるためには、日本の敗戦と同時に自らの力で独立を勝ち取って、35年間にわたる屈辱を晴らしたとしなければならなかった。
韓国も北鮮も「建国の神話」を背負わなければならなかった。
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樺太地上戦

2020年03月16日 | 昭和20年(戦後)
樺太は米軍の空襲も受けず、大戦中でありながら平和に暮らしていた。
昭和20年8月9日から、突然戦争状態になり混乱しつくした。
状況は満州国とほぼ同じ。


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「NHKスペシャル・樺太地上戦・終戦後7日間の悲劇」角川書店・2019年発行より転記


「宝の島」
樺太は1905年日本領土になった。
それから40年後、樺太は日本で最も豊かな地域であったという。
公務員の給与水準を高く設定していたため、全国農村から若くて優秀な若者が学校の教員などとして数多く押し寄せていた。
豊かな天然自然を生かした漁業や林業に加え、各地に製紙工場が設立され、炭鉱の開発も相次ぎ、「宝の島」とまで呼ばれていた。
鉄道網や道路網も発達、人口約40万人。
戦火に脅かされることも、食糧不足に陥ることもない、宝の島にありつづけた。
あの夏、
わずか2週間ほどの間に、樺太で人々が築き上げた暮らしや財産はすべて失われた。
ソ連軍の攻撃によって奪われた命は五千とも六千とも言われる。


陸軍第88師団(樺太師団)
8月16日、札幌の第5方面軍より「自衛戦争は継続すべし、樺太を死守せよ」の軍命令が届いた。
戦後第5方面司令官・樋口季一郎中将は戦後、
「私自身はソ連がさらに進んで北海道を侵攻することがないかという問題に直面した。
ソ連の行動如何によっては自衛行動が必要になろう」。
樋口中将が北海道占領の”防波堤”として樺太死守を命じたと考えられる。
しかし、樺太師団にはそもそもソ連軍に対抗できるだけの戦力は無く援軍もなかった。いわば捨て石の状態に置かれた。


推移
8月9日・樺太国境にソ連軍が侵攻。
8月13日・緊急疎開が始まり、宗谷丸が大泊を出港。(軍や官庁の関係者のみ)
8月14日・国民義勇隊を発令。
8月18日・占守島攻撃。
8月19日以降・局地的に停戦すすむ。
8月20日・ソ連、真岡砲撃・侵攻。
8月21日・ソ連総司令官「サハリン占領後、23日までに北海道北部占領の準備をすること。開始時は追って指示する」。
8月22日・ソ連、豊原空襲。樺太から北海道へ向かう三船が殉難。1708人死亡。樺太全土の停戦協定成立。
8月25日・ソ連、南樺太の占領が完了。
9月1日・ソ連、国後・色丹占領。
9月2日・東京湾、ミズーリ号で降伏文書に調印。
9月3日・ソ連、歯舞群島占領。



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自由、寛容、正義を説いた勝者②蒋介石

2020年01月09日 | 昭和20年(戦後)
中国では。

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「日本帝国の最後」太平洋戦争研究会編 2003年発行 新人物往来社、より転記。

報復を禁じた蒋介石の放送。

日本政府がポツダム宣言の受諾を条件つきながら連合国に申し入れたのは8月10日のことである。
中国大陸ではひとしおの喜びと感慨を持って迎えられた。
重慶はむろんのこと、各地は爆竹とドラの音と民衆の雄叫びでわきかえった。
8年にわたる抗日戦が勝利に終わったのであるから当然だった。
蒋介石が放送した、その要旨は、
「われわれはけっして報復を企図してはならない。
ことに敵国の人民に侮辱を加えてはならない。・・・
もしも暴行をもって敵の従来の暴行にこたえ、侮辱をもって彼らの誤った優越感にこたえるならば、恨みに報いるに恨みをもってすることとなり、永久に終止することなく、われわれ仁義の軍の目的ではない」
マッカーサーよりも早く、蒋介石は寛容の精神を訴えたのだった。



いっぽう、関東軍はソ連極東軍司令官に降伏、停戦協定を結んだ。
しかし、この協定はほとんど実行されず、ソレン軍は勝手に各地で武装解除を始め、協定にはもちろんなかった将兵のシベリア移送を強行した。



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8月18日(土)慰安施設設置の指令

2018年02月21日 | 昭和20年(戦後)
たった3~4日前まで、
戦争にもし負けたら、鬼畜米英に男は殺され、女は犯されたうえで殺されると喧伝していた政府は、
連合軍が来る町へ慰安施設設置の指令を出した。

こうゆうことは素早い。
書類を焼き捨てたり、慰安施設の設置といい、やることがあくどい。


下記の本から転記する。
「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会

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(昭和20年)
8月18日
内務省、地方長官に占領軍向け性的慰安施設設置を指令。

8月26日
接待業者ら東京銀座に特殊慰安施設協会設立。

8月27日
最初の施設小町園、大森に開業。

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蒋介石の抗日戦勝利演説

2018年02月20日 | 昭和20年(戦後)

終戦後、中国からの復員が平和裏に行われたのは、蒋介石や中国の人のおかげが大きい。戦後の日本人には中国に対し、感謝の気持ちが少ないように思う。

下記の本から転記する。
「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会

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蒋介石の抗日戦勝利演説(20・8・14)


わが中国が暗黒と絶望の時期を8年にわたって奮闘してきたその信念は、今日ついに実現を見るにいたった。
わが全国同胞が抗戦以来8年間に受けた苦痛と犠牲は一年ごとに増加したが、抗戦必勝の信念もまた一日ごとに強まった。
同胞たちは無限の圧迫と侮辱の暗黒を受けたが、今日完全に開放された。

わが中国の同胞は「旧悪を思わず」及び「人のために善をなす」ことがわが民族伝統のもっとも高貴な徳性であることを知らねばならない。

われわれは一貫して、正義にそむいて戦いを始めた日本の軍閥と敵とし、日本の人民を敵としない声明してきた。
いまや敵軍はわれわれの同胞によって打倒された。
われわれはきびしく彼らに責任をもたせ、あらゆる降伏条件を忠実に実行させなければならないが、決して報復を企図してはならない。
ことに敵国の無辜の人民に侮辱を加えてはならない。
もしも暴行をもって敵の従来の暴行に答え、侮辱をもって彼らの従来の誤った優越感に答えるならば、恨みに報いるに恨みをもってすることになり、永久に終止することはなく、われわれ仁義の軍の目的ではない。

戦争が確実に停止した以後の平和は、巨大な困難をともなう仕事のあることを明示するであろう、われわれは戦時同様の苦痛をもって、また戦時よりもさらに巨大な力量をもって、改造し、建設せねばならない。

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戦後自決した方々

2018年02月20日 | 昭和20年(戦後)
陸軍大臣阿南大将は、
神州不滅を確信しつつ「一死以て大罪を謝し奉る」
と、終戦の前夜自刃した。

これは誰に対して”謝し”なのか不明で、もう一言あった方がわかりやすい。
死んでいった兵に対してか?銃後の国民にか?軍の暴走を納める意味か?
戦争に勝てなかった責任か?天皇に対するおわびか?

「陸軍省発表。
阿南大臣は輔弼の責めを十分に果たし得ざりしを閣下に御詫び申しぐる・・・」
となれば、天皇に死んで詫びたことになる。
今の国民の目線からすれば、ちょっとさびしい。

しろみ村では元海軍将校が自宅で自刃した。
全国では568名いたそうだ。


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額田担編「世紀の自決-日本帝国の終焉に散った人びと」

昭和43年刊、巻頭に「留魂=終戦自決五百六十八柱の芳名」を付し、内外各地で自決した軍人・軍属144名の書簡・遺書等を載せる

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捨てられた開拓移民

2017年06月12日 | 昭和20年(戦後)
満州に居た邦人は、日本政府が守ろうにも無力であったゆえ犠牲者が多かった、と思っていた。

朝日新聞によれば、本土に帰っても、
住む家も食べるものも無いので、帰らずに土着を指示したようだ。どうしょうもない悲惨な指示だ。


朝日新聞(2015年11月22日)より転記する。


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捨てられた開拓移民

1945年の終戦時、植民地を含め海外には軍民660万人の日本人がいた。当時の人口の約9%にあたる人たちの引き上げが始まった。
旧満州や朝鮮半島北部では、女性や子どもたちが「難民化」。病気や飢えのほか、ソ連軍の攻撃や集団自決で約24万人が亡くなったといわれる。

日本政府が受諾したポツダム宣言には、日本軍の武装解除と本国送還の方針は盛り込まれたが、民間人については触れられなかった。

「居留民は出来る限り定着の方針を執る」。日本政府は8月14日付の在外公館あての暗号通信でこう指示した。
国内で食糧や住宅不足が深刻化し、300万人以上を受け入れる余地がないと考えたのだ。
ポツダム宣言受諾を議論し、終戦に向かう過程で、日本政府の焦点は唯一『国体護持』だった。
海外の邦人をどう保護するのかという意識は欠如し、民間人は結果的に、棄民となってしまった。

旧満州の民間人の犠牲者数は詳しい調査がなされないまま、24万人余りと推計されている。その数は原爆(広島・長崎で45年末まで21万人)や沖縄戦(県民約12万人)を上回る。





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グライダーが燃やされる話

2015年12月12日 | 昭和20年(戦後)
太平洋戦争の開始前後、旧制中学校に突然のようにグライダー部が流行ったのは、国家の強い後押しであり、飛行機乗り要員の育成であった。
国家(軍)の思惑通り多くの予科練生を生み出した。
その事は当時の学校の名誉であったろうが、敗戦の後は学校史には一行も、ひとことも記載されていない。

ただ、機が燃え上がる様だけが書かれている。


「興譲館120年史・グライダー物語」より転記

昭和16年、太平洋戦争が勃発するや全国の学校にグライダー訓練が始まった。
本校もまずグライダー指導者を決め、グライダーを注文した。
募金募集にとりかかり、漸くプライマリー三機を購入して大正橋の下手を滑空場として毎日猛訓練が始まった。
中級機・セカンダリー一機を購入して漸く飛行機らしい感じのものとなり、なかり高いところが飛べるようになった。
更にもう一機セカンダリーを購入したところで終戦を迎えることとなった。
10月頃だったか井原市高屋町に進駐軍約30名が駐屯する事になり、その命令で彼らの目の前で全機5機を大正橋の処で焼かされ、グライダーは残骸を残すのみとなった。

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