しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

特殊接待婦 岡山市の場合

2015年07月22日 | 昭和20年(戦後)
岡山県史より

10月12日に進駐軍先遣隊が来岡すると、宿舎である県庁分館(内山下国民学校)内に数人の連絡員と通訳を常駐させた。先遣隊からは自動車の提供、必要物資のあっせんが要求されたが、戦災による市内での物資調達は困難を極めた。
そのうえ予定より3日早く10月21日に本軍が進駐実施の連絡を受けた。

いわゆる特殊接待婦については東・西中島遊郭に90余室の専用応急施設を作り、10月25日に開業した。
また岡山劇場・三井物産岡山主張所・日赤岡山をダンスホールに改造、一般公募のダンサー100人にダンスの講習を行い、阪神方面から移入した100人とともにダンスホールに配置、10月25日開場した。

かつて日本軍が占領区域で示した暴虐行為の記憶が、いまだ経験したことのない外国軍の占領という事態に対する不安感を一層増幅させた。
進駐軍受け入りの心得の中にも「握手は求められた時だけに止めよ。毅然たる態度を保持せよ」等々、婦人に対する注意事項が多かった。
幸いにも進駐部隊と市民との間には、さほど大きなトラブルは起きなかったようである。

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求む「日本の新女性」--Recreation and Amusement Association

2015年07月22日 | 昭和20年(戦後)
「昭和史9占領下の日本」より

昭和20年、終戦直後にRAAがいち早く設立された。
要するに占領軍兵士に慰安婦を提供する機関である。
このRAAはアメリカ側の要請でなく、日本政府のきもいりでできたもの。
運営は東京都の料理飲食など接待業の団体が当たることになった。
そして「日本の新女性」を求むという広告を出して募集したところ多数の女性が応募し大森の小町園で店開きした。
彼女たちは「特別女子挺身隊員」と呼ばれ、占領軍兵士から一般の婦女子を守る防波堤になった。
ショートタイム100円、泊まりは300円だったが、兵士たちは手に手に100円札を握りしめ開店前から行列を作るありさまだった。
しかし巷にヤミの売春婦があふれ性病が蔓延したことから、米軍司令部は売春行為をするところに出入りすることを禁止し、昭和21年3月RAAはその機能を失った。

RAAの多くは街の女に転落したが、なじみの兵と専属となりオンリーと呼ばれる者もあった。オンリーとはひとつの部屋か家をあたえられ、基地周辺には派手な原色の洗濯物が干された。

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昭和20年 農作物9月12月 報告表

2015年07月18日 | 昭和20年(戦後)
小田郡城見村の役場綴りに保管されている。
終戦当時の畑作物がわかる。



小田郡城見村 昭和20年9月末日

作物名 面積 実収高・貫
タマネギ 2反 450
キュウリ 7 1600
カボチャ 3町0 5800
スイカ 1 400
トマト 4 1230
秋播キャベツ 1 285
マクワウリ 0 0
ユウガホ 1 16
ラッキョウ 9 1800
エンドウ 2 400
ソラマメ 3町4 32石
ジョチュウギク 栽培面積6町9 収穫面積 14.町9 1242貫
タケノコ 1町 1町 850貫
コウゾ 0 0
ミツマタ 0 0
モモ 16町2  40750貫
ビワ 4町5  7200貫
ウメ 0 0 110貫(畦等で栽培)
イチジク 4町1 83000貫


小田郡城見村 昭和20年12月末日

秋植馬鈴薯 9町8反 18620
小豆 13町3反 10石
キビ 3町0 30
アワ 6反 7
ヒエ 0 0
ソバ 3町5反 34
サトイモ 7反 1190貫
ダイコン 1町9反 5700
カブラ 0 0
ニンジン 0 0
ゴボウ 7反 2400
ナス 5反 1500
春播キャベツ 1 400
結球白菜 4 1200
非結球漬菜 1 350
トウガラシ 0 0
ヤマイモ 0 0
ゴマ 1 1石
イチビ 0 0
ワタ 0 0
ミカン 3町1反 ○540貫(注・ミカンの数量は間違いもあり)

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昭和20年の城見の水産業 ・城見村役場綴の資料から

2015年07月18日 | 昭和20年(戦後)
国の調査表と思える資料から転記する。
「其の他の魚類」が多いが雑魚なのだろうか?





昭和20年11月12日に報告している。
昭和20年第一期分 (自2月1日至7月31日)


漁獲数量 貫
魚類
タヒ(クロダイヲモ含ム) 5

ボラ 1
其の他の魚類 353

貝類
0
其ノ他ノ水産動物
イカ 77
タコ 10
エビ 134
カニ 94
計315

藻類
0

調査方法 漁業会二ヨリ調査

昭和21年2月末日報告
昭和20年第二期分 (自8月1日至1月31日)

魚類
其の他の魚類 106

貝類
其の他の貝類 57
其ノ他ノ水産動物
イカ 20
タコ 0
エビ 10
カニ 10
其他の水産動物50

藻類
0

合計253

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昭和20年11月の城見村人口その二 (笠岡市役所資料室より)

2015年07月17日 | 昭和20年(戦後)
小字別の調査票について

昭和20年11月7日の人口統計表に戸別の内訳表(調査表)が付いている。

世帯主と男女別の家族数で、大家族が多い。
10人超えも珍しくない。茂平の最大数は13人家族。他に二桁家族が数件ある。

私の実家の場合男5女4の9人家族になっている。
姉・父・母・祖父・祖母・曽祖父の6人までは分る。

不足する3人は祖母の妹とその子2人であろうか。神戸の家が空襲で焼けて実家に戻った。
しかし、半年くらいで転居している。その頃曽祖父は伝染病で死んだ。その後兄が生まれた。
一家の数は、何所の家も終戦前から戦後1~2年は変化し、暮らしにまったく余裕がなかった。

復員・誕生・病死の世帯がほとんどで、調査員も大変だったと推測される。



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昭和20年11月の城見村人口 (笠岡市役所資料室より)

2015年07月17日 | 昭和20年(戦後)
粗末な用紙とは言え、終戦前後の紙としては上質であり印刷物に数字を記入する表となっている。県でなく国の調査と思える。
年齢は0才がないので、数え年であろう。村長は公職追放で不在の為助役の名で報告している。

特徴として、「産めよ殖やせよ」の成果か幼児の人口が多い。
15才から39才までの男女別を記した、男性数が少ない。調査後に復員した人もいるだろうが、当然戦死者も要因だろう。
なお、調査は困難の様子であったようで、訂正あり、?マークもある。
以下表から転記した。


昭和20年人口調査
岡山県小田郡城見村
昭和20年11月7日  城見村長代理・助役

1才・63
2・・80
3・・78
4・・71
5・・72
6・・76
7・・66
8・・65
9・・76

10・・71
11・・65
12・・72
13・・60
14・・67
15・・64 男22 女42
16・・57  23   34
17・・58  30   28
18・・47  24   23
19・・61  37   24

20・・53  22   36
21・・35  17   18
22・・46  19   27
23・・36  11   25
24・・35   7   28
25・・28  7  21
26・・32  8  24
27・・25  10 15
28・・27  12 15
29・・38  14  24
30・・23  10  13

31・・37  12  25
32・・47  14  33
33・・34  13  21
34・・34  14  20
35・・37  15  22
36・・31  14  17
37・・34  15  19
38・・43   7  36
39・・37  15  22

40・・24
41・・38
42・・39
43・・30
44・・22
45・・32
46・・32
47・・25
48・・26
49・・25

50・・28
51・・23
52・・20
53・・27
54・・17
55・・17
56・・19
57・・20
58・・18
59・・19
60・・24

61・・21
62・・13
63・・19
64・・21
65・・31
66・・17
67・・27
68・・22
69・・15

70・・21
71・・19
72・・・8
73・・16
74・・10
75・・10
76・・10
77・・・9
78・・・4
79・・・8

80・・・3
81・・・9
82・・・8
83・・・7
84・・・3
85・・・2
86・・・3
87・・・1
88・・・1
89・・・4
90・・・2

91・・・0
92・・・2
93・・・0
94・・・1


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終戦直後の岡山市③進駐軍が来た

2015年02月16日 | 昭和20年(戦後)


10月12日に先遣部隊が内山下小学校に来た。一番恐ろしい人間を迎えるのだから知事以下の心痛は一通りではなかった。


焼け残った岡山の洋館で、相当な収容力を持つのは日銀・中銀・勧銀・郵便局・電話局・清心女学校・弘西、内山下小学校だけなんだ。
つづいて23日、宇野から上陸し法界院駅へ旧48部隊兵舎へ、29日まで5000人の米軍が進駐してきた。


それは「取りこし苦労」にすぎなかった。
何ひとつ事故も起こらず、和気アイアイのうちに進駐は修了した。軍政部は郵便局の2・3階に置かれた。

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終戦直後の岡山市②中島遊郭も特別待遇

2015年02月16日 | 昭和20年(戦後)


玉音放送を聞いてから、張りつめていた「討ちてしやまん」の根性が抜け、誰もかれもボンヤリしとった。
それでも進駐軍の話で神経がしだいに高ぶってきだした。

「男は奴隷的労働を強要し、女は慰安婦に狩り出され、拒絶したら手りゅう弾の稽古台にするそうナ」という流言飛語がもことしやかに伝えられた。
県庁の「進駐軍受入本部」でも頭を悩ませ小原○○(旅館・後楽のオヤジ)が東署に呼ばれ、義勇娘子軍の組織を署長から懇々と頼まれた。小原はもちまえの侠気を出してひと肌脱ぐことになった。

岡山市の娘を救うため、ぜひ実現させなければならん、と本気なんだ。
素人にはむずかしい仕事だから、ひとつ中島の親方衆に話して、東中島遊郭23軒(元54軒)が合同して54人の娼妓(もとは142人)を
集めて、焼け残った電車筋北側の家を借りて8月21日から復活開業するに至った。


ところが広島から内報があり、10月23日から5000人の米軍が岡山へ進駐することが判った。
さあ大騒動だ。東遊郭の50人や60人では真拍子にあわん。

そこで東署の斡旋で食堂・カフェを糾合して娯楽施設協会が組織された。
これが主体になって慰安主体のカッフェを誕生させ、人肉市場の買い手氾濫を緩和させようとした。

まず第一に柳川筋で岡山劇場の復活に着手。曲馬団の木下○○に談判してコワ葺小屋を借り切ってダンスホールを始めることになった。
それを買って出たのが六条院生まれの浅野其という中年の男だった。
いよいよ時期切迫し、神戸の福原から連れてきたダンサー52人の健康診断と検梅をやったら、8人しか合格者がいない。
そこで津山と日比の遊郭から志願者を選抜したが、それでも間に合わんから一般から募集に決した。
「ダンサー急募」「月収500円」のポスターが街の角々に貼られて通行人の目をひいた。

赤十字病院の別館では、キャバレー・サクラというナイトクラブを開業。西川筋の旧三井物産の建物ではキャバレー・リバティが戸を開けた。
これらのダンサーは100人以上も応募してきた。ズブの素人ばかりだからダンスを教えた。
「生活の窮乏から一身を犠牲にする決心をした」と平然と語る娘さんばかりなのには驚いた。身体を張って生活と戦う女の態度には勇気凛然たるものだ。

中島遊郭の方も、両町の中央に東・61室、西31室の二階建て営業場が新築された。ここで集団生活をしながら、稼ぐことになったわけだ。

パンパンも盛んなもんだった。
この時分の岡山は、昼の日中に人が見とろうが堂々と取引している。夜は焼野が原で人通りも少ないし用心も悪いから無理はない。
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終戦直後の岡山市①進駐軍受入

2015年02月16日 | 昭和20年(戦後)



9月25日県庁内へ「進駐軍受入本部」を設け、本部長に知事がなった。
初仕事は通訳と慰安婦の募集だった。
通訳は60人くらい見つけ出したが、確実なのは40人くらいしかいない。

進駐軍に対する悪い噂が立って、市民の不安がはなはだしいので「受入心得」と称して町内会へ回覧させた。

1・軍の素質は海兵隊が不規則、ついで空軍、陸軍が善良。中国地方へは陸軍が来る予定。
1・着物はモンペがよい。
1・軍刀や戦闘帽を欲しがる。見えぬところに隠す事。
1・紛争で日本人を殺すことはない。女子に対する暴行は日本人が白痴だった。
1・女や酒を欲しがる場合は慰安所へ同行のこと。
1・女はいつも毅然たる態度であること。犯されたのは態度が悪いので誤解された。

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慰安婦からオンリーさんへ

2015年02月12日 | 昭和20年(戦後)


以下は「昭和史9占領下の日本」の記事。




昭和20年、終戦直後にRAAがいち早く設立された。
聞こえはいいが、ようするに占領軍兵士に慰安婦を供給するものだった。

アメリカの要請ではなく、日本政府のきもいりで出来たもの。
東京都の料理飲食など接待業の団体が当たることになった。

「日本の新女性を求む」という広告を出したところ多数の女性が応募し大森で店開きした。

彼女たちは「特別女子挺身隊」と呼ばれ一般婦女子を守る防波堤となった。
ショートタイム100円、泊り300円。
兵士たちは100円札を握りしめ開店前から行列ができた。

しかし巷には売春婦があふれ性病が蔓延した。
このことから米軍司令部は「いかなる場所であっても売春行為をするところに出入り禁止」を警察庁に伝達し(昭和21年3月)、RAAは機能を失った。

RAAの女性の多くは街に転落し、なじみ客から部屋・家を与えられたオンリーさんも現れた。
基地周辺には、こうしたスイートホームが建ち並んだ。

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