しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

古城昌治先生像

2023年10月28日 | 銅像の人

場所・岡山県井原市井原町向町

 

(母方の)祖父は農作業中にハミ(まむし)に噛まれ、
「すぐに中央病院に行ったので助かった」
と母がよく話していた。
母にとって実父の命の恩人であり、
管理人にとっても祖父の命の恩人でもある。
それが井原の井原中央病院。
2014年に井原中央病院は廃業になった。

 

・・・

 

 

・・・

Web「井原歴史館」


こじょうしょうじ
古城昌治


 年代     1884 - 1943 ( 近代 ) 
 活躍分野   医師 

 古城昌治は、小田郡小林村(現在の小田郡矢掛町小林)で生まれた。
医師を志し東京に行き、日本医学(現在の日本医科大学)で開業医の資格を得て帰郷し井原で開業した。
また、医師をしながら郡会議員、井原町長を務め、
井原高等女学校(現在の井原高校)の運営や井原実業学校(現在の精研高校)の設立に尽力した。

・・・

 

撮影日・2015.9.2

 

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井戸平左衛門

2023年10月14日 | 銅像の人

場所・岡山県笠岡市笠岡

井戸平左衛門は、”芋代官様”と今も笠岡市民に敬われている。
薩摩芋の栽培は飢饉を救い、さらに人口増に寄与した(招いた)。
他にも、日本全国には多くの、”芋代官”や”芋大名”がいるのだろう。

・・・

 

代官 井戸平左衛門の像

石見国大森代官として赴任して、享保17年(1732)から約1年間、笠岡代官を兼務した。
領民を飢饉から救うために、数々の善政を行った名代官として知られる。
この胸像は昭和30年に製作。白セメント製で、
かつて代官所があった笠岡小学校の校庭に建てられていたものである。


・・・


井戸公園の説明版


井戸平左衛門正明第14代笠岡代官(1721)

さつま芋の栽培を広げて飢饉の窮乏から救った代官として有名。
享保18年5月(1722)幕府の許可を待たずに官庫の食糧を放出した責任をとって自刃、
また病死とも伝えられている。
墓は隣接の威徳寺にある。
平成2年4月14日井戸代官の縁により島根県大田市と友好都市縁組を結ふ。
     笠岡市都市計画課

・・・


撮影日・2023年10月14日

 

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役行者

2023年10月06日 | 銅像の人

場所・岡山県倉敷市林  五流尊瀧院 

 

役行者(えんのぎょうじゃ)は、役小角とも呼ばれ、山伏の祖とされる。
修験道と古代の呪術師で各地に伝説が残る謎が多い人。
7~8世紀に大和を中心に活動したようだ。

 

 

「鴨方町史・民俗編」 鴨方町  昭和60年発行

山伏

山上様(行者様)
山上様とは、本来、奈良県吉野郡にある大峯山系の山上ヶ岳を意味するものであるが、
普通は、
修験道の開宗といわれる役小角(えんのおずぬ)を指す。
鴨方町あたりからもこの山上ヶ岳に登拝する風習が、江戸時代には存在した。
また、町内の各地に役小角を祭って山上様と称し、
山上様の祭られている堂を山上堂(行者堂)ともいった。
町内には、山上講をいまも続けている地区もある。

・・・

 

・・・


「新修倉敷市史第八巻自然・風土・民俗」 倉敷市 1996年発行

修験の里

山伏の宗教を修験道(しゅげんどう)という。
伝説では7世紀末から8世紀初頭の人・役行者(役小角)を開祖とするが、
実際は日本古来の山岳信仰と平安初期に唐より伝来した密教(呪術的仏教)が融合して成立したものである。

・・・

 

 

撮影日・2023.10.5

 

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禅海和尚

2023年10月06日 | 銅像の人

場所・大分県中津市本耶馬渓町曽木 青の洞門

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大分県HP

青の洞門/禅海和尚

天下の名勝・耶馬溪にあって羅漢寺とともに四季を通じて訪れる人の絶えないところであるが、
ここには時の流れを超えて後世に語り継がれる物語がある。
「江戸で人をあやめた禅海が、諸国巡礼の途中、この地で鎖渡しの難所に苦しむ人々を見て隧路開さくを決意。
風雪にも、嘲笑にも屈することなく、大岩盤に挑むこと30年、ついに洞門を完成させる」。
大正8年、菊池寛が小説「恩讐の彼方に」のモチーフにも使った禅僧海の物語である

 

 

・・・

「恩讐の彼方に」  中央公論 菊池寛

心の底から湧き出ずる歓喜に泣く凋びた老僧を見ていると、
彼を敵として殺すことなどは、思い及ばぬことであった。
敵を討つなどという心よりも、
このかよわい人間の双の腕によって成し遂げられた偉業に対する驚異と感激の心とで、胸がいっぱいであった。
彼はいざり寄りながら、再び老僧の手をとった。
二人はそこにすべてを忘れて、感激の涙にむせび合うたのであった。

 

・・・

撮影日・2007.5.4

 

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日本唯一かな? ”二宮尊徳像”

2023年07月31日 | 銅像の人

場所・岡山県井原市芳井町吉井  芳井体育館駐車場


芳井町の町中心の中学校跡地に銅像が建っている。
ところが、この像には銘板もなく、説明板もなく、台座に刻したものもなく・・・、



銅像近くでゲートボールの老人に尋ねても、誰一人その名も功績も知らず
井原市の資料館館等で聞いてもわからず。

誰も知らない像が、公共地に建つ、という珍事になっている。





頭にちょんまげ、羽織袴、腰には小刀。江戸時代末期の商家か農家の大旦那さんで、地域にために尽くした人の感じがする像。





なにげなく見ていた本に「緒方研堂」の記述があった。
たぶん、研堂ではないだろうか?



「岡山人じゃが2011」 岡山ペンクラブ 吉備人出版 2011年発行  

井原生まれ、幕末の蘭方医
緒方研堂(緒方竹虎の祖父)をもっと理解しよう

赤井克己

大坂・適塾創始者緒方洪庵(1810~1863)は著名な蘭学者。
一方、同時期の蘭方医、井原生まれの緒方研堂(1814~1871)は、
洪庵と義兄弟の契りを結ぶほど肝胆相照らす仲。
適塾運営に協力するとともに医学振興に尽くしたが、PR不測のせいか事跡が語られることは少ない。
著名な政治家緒方竹虎の祖父であることも知る人はほとんどいない。
今年は研堂没後140年、知られざる備中出身蘭方医緒方研堂の生涯について。

研堂は文化11年備中国後月郡簗瀬村に生まれた。姓名は大戸郁蔵である。
江戸末期、この簗瀬地区は研堂、その師山鳴大年、養子の弘斎らの蘭学者を輩出した。

天保9年(1838)洪庵が適塾を開くと入門。
刑場での解剖、種痘、ロシア船の通訳も務めた。
このため洪庵の信頼は大きく、義兄弟として緒方姓を名乗ることを許され、研堂と号した。


(以後略)

・・・・・・

 

緒方研堂であろうと思っていたが、自信がないので投稿を保留していた。
ところが、「緒方研堂」でなく「二宮尊徳」の像であることが判明した。

 

・・・

「精研 六十年の歩み」 岡山県立精研高校 平成7年発行

尊徳像の前で

・・・

日本中には、学校に金次郎像、学校その他に尊徳像や報徳像が建っている。
でも、この姿(羽織・袴)の像は極めて珍しい。
ひょっとしたら日本唯一かも?

 


撮影日・2021年3月27日

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小早川隆景

2023年07月17日 | 銅像の人

場所・広島県三原市本町(駅裏)

 

小早川隆景

(Wikipedia)
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。
毛利元就の三男で、兄弟に同母兄の毛利隆元・吉川元春などがいる。
吉川元春と共に毛利両川として戦国大名毛利氏の発展に尽くした。
毛利水軍の指揮官としても活躍している。
豊臣政権下では五大老の一人に任じられた。
実子はなく、豊臣秀吉の養子となっていた羽柴秀俊(小早川秀秋)を養子として迎え、家督を譲っている。

 

・・・

「あなたの知らない広島県の歴史」 山本博文 洋泉社 2012年発行

豊臣秀吉は得意の絶頂にあった。
しかし、高齢であった秀吉は、幼少の秀頼を残して死ぬことを何よりも心配していた。

自身の死後の安定を図り、有力者に幼い秀頼を補佐させなければないと思い立った。
そして当時秀吉に次ぐ地位を誇った徳川家康、前田利家、毛利輝元、小早川隆景、宇喜多秀家の5人の大名に対して、
豊臣政権における政治上の最高顧問を委嘱し、のちのことを託したのである。

・・・


三原観光navi

三原の礎を築いた知将・小早川隆景

三原の礎を築いた知将・小早川隆景
三原の歴史を語る上で欠かせない人物といえば、1567(永禄10)年にこの地に三原城を築いた戦国武将・小早川隆景です。
隆景は、戦国時代に中国地方の覇者として君臨した毛利元就の三男として生まれ、
毛利家にまつわる有名な逸話「三矢の訓(みつやのおしえ)」のうちの一本として本家・毛利を支えました。

 

・・・

 

撮影日・2014年10月26日 「 第11回みはら浮城まつり」

 

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笹川良一母子像(孝養の像)

2023年07月17日 | 銅像の人

場所・岡山県岡山市北区高松稲荷・最上稲荷

 

最上稲荷に行くと、笹川良一さんの銅像(母子像)があった。
昔はTVコマーシャルでよくみた銅像。

岡山県内には倉敷市児島ボートレース場にもある。
児島ボートの銅像は「孝養の像」と呼ばれるから、
この最上稲荷の銅像も「孝養の像」が正式名称かもしれない。

でもなぜ、最上稲荷とは縁がなさそうな笹川さんの像がココに建つのだろう。

 

・・・

笹川 良一

(Wikipedia)抜粋

生年月日 1899年5月4日
没年月日 1995年7月18日(96歳没)
称号 勲一等旭日大綬章
座右の銘 「世界一家 人類兄弟」。

 

・・・

 

撮影日・2023年7月16日

 

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奥村五百子

2023年06月19日 | 銅像の人

場所・佐賀県唐津市東城内

・・・

「近代日本の出発」 板野潤治 新人物文庫 2010年発行

与謝野晶子が厭戦派婦人の代表であったとすれば、
主戦論派の婦人代表は愛国婦人会の奥村五百子(おくむらいおこ)であった。
東本願寺派の僧侶の娘であった奥村は、
義和団事件にさいして東本願寺の出兵慰問使として清国におもむき、
帰国後の明治34年3月、
軍人遺族や傷病兵の救援を目的とする愛国婦人会を組織した。
皇族や華族を役員としたこの会は、日露戦争中には20万人近い会員を擁する一大婦人組織となっていた。

与謝野晶子はこの愛国婦人会の活動に批判的で、
「御者」や「馬丁」を引きつれて下手な包帯巻きをする
「立派な令夫人」たちの行動を
「あなかしこ、私などの知らぬこと、願わぬこと」
と記している。

・・・


奥村五百子のことは知らなかったが、杉村春子が奥村五百子を演じた映画になるほどの人だった。
創立した「愛国婦人会」は、背景に軍人や軍国主義があるため、奥村の再評価は難しいように思える。






奥村 五百子(おくむら いおこ)
(Wikipedia)

弘化2年5月3日(1845年6月7日)-明治40年(1907年)2月7日)は、幕末・明治期の社会運動家。愛国婦人会の創設者。

経歴
肥前国唐津出身。
父は真宗大谷派釜山海高徳寺の住職で、父の影響を受けて尊王攘夷運動に参加、文久2年(1862年)には男装の姿で長州藩への密使を務めたこともあった。
同じ宗派の福成寺の住職・大友法忍に嫁ぐが死別、続いて水戸藩出身の志士の鯉淵彦五郎と再婚するが離婚する(征韓論を巡る意見対立が理由とされる)。
離婚後、唐津開港に奔走する傍ら朝鮮半島に渡って明治29年(1896年)、光州にて実業学校を創設、半島への浄土真宗布教のために渡った兄・奥村円心を助けた。
北清事変後の現地視察をきっかけに女性による兵士慰問と救護や、遺族支援が必要と考え、1901年に近衛篤麿・小笠原長生や華族婦人らの支援を受けて愛国婦人会を創設する。
以後、会のために日本全国で講演活動を行い、日露戦争時には病身を押して献金運動への女性の参加を呼びかけ、戦地慰問に努めた。






愛国婦人会(あいこくふじんかい)
戦前に国防及び戦死者の遺族・傷病兵を救うために結成された団体である。

1900年(明治33年)に起きた北清事変(義和団事件)に際し、佐賀県唐津市出身の社会運動家、婦人運動家の奥村五百子が、本願寺慰問使の一員として戦場に赴き、つぶさに前線将校・兵士の惨苦を視察して帰国。陸海軍の支援や政治家の近衛篤麿らの援助により1901年(明治34年)2月24日に創立した。

初代会長は宮内大臣であった岩倉具定の妻岩倉久子が務め、1903年(明治36年)には皇族の載仁親王妃智恵子を迎え入れた。

1920年、会長に下田歌子が就任。1927年、会長に本野久子が就任。1937年時点で、会員数311万人余に達し、内地のみならず樺太・南洋諸島・朝鮮・台湾・満州国にも地方組織が置かれていた。

1941年(昭和16年)6月10日、定例閣議において、大日本連合婦人会および大日本国防婦人会の婦人3団体の統合要項が決められた。
翌1942年2月、大日本婦人会(日婦)の結成がなされ、発展的解消をとげた。最終的に内閣の決断を仰がねばならなかったところが、統合の困難さを物語っている。


活動内容
当初は戦没将士の遺族および廃兵の救護を目的としたが、1917年(大正6年)欽定を改正して他の救護事業にも当たるようになった。
関東大震災後の救済その他救護館の設立、婦人職業紹介、花嫁紹介など、幅広い活動を行った。
また、機関誌『愛国婦人』も発行し奥村は全国遊説にあたって会員を増やした。

初期は上層階級の婦人や皇族、貴族が大半を占めていたが、日露戦争時の1905年(明治38年)には一般婦人にも拡張。会員数は46万人に達し、日本最大規模の婦人団体に成長した。
各府県支部長には知事夫人が就くなど、地域名士の夫人が役員に名を連ね、サロンの趣きがあった。





撮影日・2014年1月11日


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平清盛

2023年06月14日 | 銅像の人

場所・広島県廿日市市宮島町

 

広島県や岡山県の瀬戸内海に、”唐船”(とうせん)という地名の湊町が点在している。
あれは平清盛が開港したり、唐船が寄港したり、因んだ土地なのだろうか。

 

 

平清盛と宮島

「瀬戸内の風土と歴史」  谷口・後藤・石田共著  山川出版社 昭和53年発行


清盛が安芸国主となるのは1146年、29歳の時である。
清盛と厳島神社の関係はこの時に始まるといわれている。
清盛はその後、
日宋貿易に有利な地位を確保するとともに、いよいよ内海地域との因縁を深めることとなる。
1167年ついに従一位太政大臣の栄華を占める。

当時唐船と呼ばれた宋商船を幾艘か手に入れ、
厳島神社参詣などにもつねに唐船を利用した。

清盛には、おそらく生涯の参詣は数十度に及んだもののようである。
その一門子弟もこれにならうもの多く、
1174年には後白河法皇、
1180年には高倉上皇、
1176年に建礼門院が、
こうした辺地のへ御幸は、当時まったく異例のことであった。

 

 

撮影日・2023.6.10

 

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灘尾弘吉先生像

2023年06月14日 | 銅像の人

場所・広島県広島市中区基町(広島城三の丸・内堀沿い)

 

庶民の生活とは無縁で、
東京生まれのぼんぼんで、
二代どころか、三代、四代が主流の自由民主党。

自由民主で、何人も機会均等であることを標榜しながら
ムスコという理由だけで候補者に決め、
国会議員になることがあたりまえになっているのが、日本の政権政党の実情。


かつては、この政党にも高い志をもった人たちが選挙で当選していた。
広島県能美島出身の灘尾弘吉さんは、
知性教養がその風貌にまであらわれていた。
そして”自民党三賢人”と呼ばれた。

 

 

灘尾さんは衆議院議長ののち引退した。(もちろん身内を後継とせずに)

 

いっぽう賢人にはほど遠かった、同じ選挙区の同党議員(二代目)は引退後、ムスコに後を継がせ、
今ではムスコ(三代目)が首相をしてる。
三代目もムスコ(四代目)を秘書官にして、2023年に新聞を騒がせた。

 

 

撮影日・2023.6.10

 

 

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