しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

茂平の偉人・松浦岩蔵さん

2023年04月30日 | 銅像の人

岩蔵さんの銅像は無い。
世に
偉人でない人の銅像も多いし、銅像が無い偉人も多い。

 

・・・

 

父の話・2001年5月1日


まだこの辺(茂平、それに茂平と並んだ果物どころ今立など)にブドウがないときに岩蔵さんはつくった。

岩蔵さんは国繁の平地に甲州ブドウ、山側にも甲州ブドウを植えとった。

 

おじいちゃん、(オヤジ)といっしょに国繁の岩蔵さんのところに作り方を聞きに行っていた。

 

(岩蔵さんが先駆者だと、いう感謝のような、そんな語りくちだった)

 

・・・・・

 

 

岡山文庫 「岡山の果物」(昭和43年初版)

 

 


松浦岩蔵氏は明治2年2月25日城見村大宣に生まれ、日清戦争除隊後全家を携えて転居。
松浦氏は尋常小学校を卒業後農業を手伝っていたが、明治19年18歳の時発心して、無縁の孤島に等しい国繁の不毛の地に移り開拓に着手した。
氏は日清・北清・日露の三役に従軍した。除隊後、旧家を去って一家をあげて国繁に移籍、雇用を排して家人を督励、自力をもって細道さえない不毛の山麓から海岸に至る約2町歩を開墾。

葡萄栽培に特に熱意を傾け、大正天皇御登極の際、葡萄献納の栄光に浴し、栽培品種は欧州種の路地栽培(当時県内に欧州種の栽培に成功した人はいなかった。)
に先鞭をつけ、マスカット・ハンブルグに成功し、三尺、キャンベル・アーリー、デラウェア、甲州、なかんずく甲州葡萄については山梨の主産地を訪れ、帰郷後葡萄研究会を組織し、長梢剪定方の統一を目論み、
みずから砲兵の射程測定を則りその適正を判定すると称して、二芽の短梢と二間の長梢剪定を比較し熱心に研究を続けた結果、遂に長梢の否を覚った。

また園内の小谿を利用して旱害を防ぐ施設、一方暗渠を構築して排水にそなえ、強砧利用によるフヰロキセラ予防はともに本県の草分けであるり、園の一側に枇杷を栽植して潮風害を防ぎ、
経営労力の節減のため葡萄棚を高め、中耕、除草、施肥一切を蓄力に委ねるため、随時支柱を除くも馬耕に支障なからしめ、
これがために婦子女の作業に支障なきよう高下駄を園内各所に配すなどその着想は衆人を驚嘆せしめた。

明治28年海岸に荷揚げ場構築して果樹の出荷はほとんど舟艇を駆使して、帰路必ず福山、笠岡、金浦より塵埃、紡績屑を搬入利用することを園の生命なりとし。
剪定屑、落ち葉、籾殻をもって燻炭製造設備を設け、加里給源として重用し、当代既に全面施肥、腐植の重要性をもって垂範していた。


除虫菊栽培の端緒を拓き勘説に努め、
犬をもって園番に任ぜじめ、用便に当っては止め金を伸ばし寸暇を惜しむに至っては、その透徹した経営構想と実行力を衆人等しく驚嘆するところである。

 

・・・

 

「ひらけゆく笠岡」 昭和35年 笠岡市教育委員会発行

松浦岩蔵

明治2年城見村大冝に生まれました。
若い頃から地方産業、特に果樹栽培に熱心でした。
大冝から国繁に移って、甲州葡萄の栽培を行って、非常に成果をあげました。
この地方に現在のように果樹栽培が発展したのは、
実に岩蔵氏の研究と苦心があったからです。

・・・

 

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緒方郁蔵(研堂)

2023年03月14日 | 銅像の人

井原や芳井の人からも忘れ去られた偉人。

 

場所・岡山県井原市芳井町

 

・・・・
「芳井町史」 井原市史編纂室 平成20年発行


緒方郁蔵へ位階追贈

後月郡簗瀬村出身で、緒方洪庵と義兄弟の盟約を結んだ医師緒方郁蔵は、
明治4年7月9日病死した(享年58才)。
大正7年になり郁蔵の遺族が2年後の7月に没後50年祭を計画するが、これを知った大阪府知事は、
内務・文部両大臣宛てに大正7年9月23日付で「位階追贈」の内申を行った。
この結果、翌8年11月15日「従五位」の追贈が決定した。

両大臣宛ての「内申」には、郁蔵について次のような評価が記述されている。
洋学を修め、医術を究めもって新式の治療を施し、あるいは諸生を教導し、各種の著述をなす等、学界に貢献せし」

 

・・・

 

・・・


「岡山人じゃが2011」 岡山ペンクラブ 吉備人出版 2011年発行  

井原生まれ、幕末の蘭方医
緒方研堂(緒方竹虎の祖父)をもっと理解しよう
赤井克己

大坂・適塾創始者緒方洪庵(1810~1863)は著名な蘭学者。
一方、同時期の蘭方医、井原生まれの緒方研堂(1814~1871)は、
洪庵と義兄弟の契りを結ぶほど肝胆相照らす仲。
適塾運営に協力するとともに医学振興に尽くしたが、PR不測のせいか事跡が語られることは少ない。
著名な政治家緒方竹虎の祖父であることも知る人はほとんどいない。
今年は研堂没後140年、知られざる備中出身蘭方医緒方研堂の生涯について。

研堂は文化11年備中国後月郡簗瀬村に生まれた。姓名は大戸郁蔵である。
江戸末期、この簗瀬地区は研堂、その師山鳴大年、養子の弘斎らの蘭学者を輩出した。

天保9年(1838)洪庵が適塾を開くと入門。
刑場での解剖、種痘、ロシア船の通訳も務めた。
このため洪庵の信頼は大きく、義兄弟として緒方姓を名乗ることを許され、研堂と号した。

・・・

撮影日・2021年3月27日

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北条早雲

2023年03月12日 | 銅像の人

場所・岡山県井原市東江原町 井原鉄道「早雲の里荏原駅」

 

 

戦国時代、屈指の長寿の武将として知られる北条早雲。


後北条氏の初代・北条早雲の生誕地である備中高越城の、
いちばん近い駅でる”早雲の里江原駅”の駅前に、早雲の石像が建っている。

 

 

(像の碑文)

戦国の魁


北条早雲は、永享4(1432)年、高越城主伊勢新九郎盛定の子として生まれ、
新九郎と名乗った。
備中伊勢氏は室町幕府の政所執事を世襲した名族京都伊勢氏の分流である。
新九郎は青年期を荏原荘で過ごし武芸と学問を菩提寺法泉寺の古潤仁泉に学び、
三十三歳で京に上り伊勢貞道の養子となり足利義視に仕え応仁の乱で伊勢に下る。
その後妹の嫁ぎ先、駿河の守護今川家の内紛を収めた功によって駿河興国寺城主となった。
その後堀越御所に足利茶々丸を攻め、またたく間に伊豆一国を平定、
さらに版図を相模に拡げ小田原城、新井城を攻めて関東制覇の礎を築いた。
このように武勇と情勢判断に優れた早雲は領国経営にも卓越した手腕を発揮し領民から名君と慕われ戦国大名の魁となったのである。

 

 

訪問日・2023年3月11日

 

 

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高杉晋作立志像

2022年12月29日 | 銅像の人

場所・山口県萩市南古萩町”萩城城下町”


奇兵隊を創設し、幕府軍と戦い、歴史に名を残した高杉晋作。
銅像は、残念ながら下関市長府のものと比べると・・・薄い。

 

 


蛤御門の変

元治元年(1864)七月十九日、長州軍は敗退した。
この敗戦によって藩主敬親父子は朝敵の汚名を着せられ、つづいて第一次の長州征伐となる。
幕府は数十藩の兵を催して長州を包囲し、総督徳川慶勝は十一月、広島に到着した。
このとき長州藩内には保守恭順派と主戦派の争いが起こり、
恭順派は幕軍の要求するままに、蛤御門の変の責任者として益田親施・福原元嶽・国司親相の三家老に自刃を命じてその首級を徳川総督の実検にそなえた。
徳川総督は降伏の条件が満たされ、大坂へ引き揚げた。

このとき高杉晋作は兵を下関であげ、主戦派も呼応し、恭順派を破った。
その後の藩政は高杉晋作・木戸孝允・井上馨・広沢真臣らによって指導され、幕府に対しては『武備恭順』の方針を決定した。
外には恭順の態度を失わないけれども、内には大いに武備を充実して、
幕府の再征にそなえようというのである。

「山口県の歴史」 三坂圭治 山川出版社 昭和46年発行

 

 

奇兵隊の創設

文久三年(1863)四月、長州藩は他藩にさきがけて下関で米・仏・蘭の艦隊を攻撃して攘夷を実行した。
六月には報復攻撃をうけ、砲台は破壊され民家を焼かれ敗北を喫する。
実力の差を知らぬ攘夷派の暴走であったが、
ここで長州藩は画期的な政策を実施する。
高杉晋作の建議による奇兵隊の創立である。

あとから考えれば何でもないことではあるが、戦いは武士の仕事という観念から抜け出すことができない当時の頭では、
そんな武士以外の軍隊の存在を認めることはできない。
自分たちの縄張りを犯すものとして、長州藩内においても反対の声があがった。
けっきょく藩庁は高杉の建議を認めた。
藩の重役たちが、高杉の建議をいれて奇兵隊の創設を認めたということは、
彼らが他藩の重役たちにくらべれば、目覚めた人たちであったことの証明であろう。


奇兵隊
幕末の風雲が日ごとに危急を深める文久三年(1863)四月、
長州藩主毛利敬親は藩府を萩から山口へ移して、攘夷の実行をはかった。
その二ヶ月後、高杉晋作・来島又兵衛らによって、奇兵隊が結成された。
五月に世界の列強と交えた馬関戦争に敗れ、新しい組織による強力な軍隊の創立を痛感したのである。
高杉晋作は、
「有志之者」の参加をよびかけた。
身分の上下を問わなかった。
武士・足軽のほかに百姓・町人の有志をつのってつくったこの軍隊は、
正規兵に対するという意味で奇兵隊と名付けられた。

「日本の城下町」  ぎょうせい 1981年発行

 

 

訪問日・2022年12月19日

 

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山頭火 「まったく雲がない笠をぬぎ」

2022年12月24日 | 銅像の人

場所・山口県山口市小郡  JR新山口駅(新幹線口)前

俳人・種田山頭火は日本各地を漂白し、各地で句を詠み、各地に句碑が残る。

その風貌は牛乳瓶底メガネの乞食坊主姿。
句にある”笠”は、安物の菅笠でなく、先達が被る網代笠を愛用していた。
生き方も、句も自由で、生前も今もファンが多い。

 

 

(Wikipedia)

種田山頭火

1882年(明治15年)12月3日 - 1940年(昭和15年)10月11日)は、
日本の自由律俳句の俳人。山頭火とだけ呼ばれることが多い。

山口県佐波郡(現在の防府市)の生まれ。
『層雲』の荻原井泉水門下。
1925年に熊本市の曹洞宗報恩寺で出家得度して耕畝(こうほ)と改名。
各地を放浪しながら1万2000余りの句を詠んだ。

 

 

 

撮影日・2022年12月19日

 

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久坂玄瑞進撃像

2022年12月24日 | 銅像の人

場所・山口県萩市江向  中央公園(萩城城下町側)

 

幕末の萩藩で、もっとも急進的な討幕派の志士として知られ、
蛤御門の変で25歳で敗死した久坂玄瑞の像。

 

 


萩市観光協会公式サイト

久坂玄瑞進撃像

尊皇攘夷の先頭に立つ、若き久坂玄瑞の立像
城下町の近くにある「中央公園」の一角に、平成27年1月に建立されました。
松下村塾の双璧と称され、尊皇攘夷派を牽引して国事に奔走し、いまから151年前の元治元年(1864)禁門の変(蛤御門の変)にて25歳の生涯を閉じた久坂玄瑞。
吉田松陰から「防長年少第一流の才気ある男」と絶賛され、松陰先生の妹・文(大河ドラマ『花燃ゆ』のヒロイン)と結婚しました。

銅像の高さは1.8mで、台座を含めて3m。尊皇攘夷の先頭に立つ若き玄瑞の立像となっており、右手を上げて力強く東を指す、勇ましく凛々しい姿です。

 

 

撮影日・2022年12月19日

 

 

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佐々木義彦翁

2022年12月24日 | 銅像の人

場所・山口県萩市江向  中央公園

 

山県有朋騎馬像のすぐ近くに佐々木義彦翁の胸像がある。

山県の像があまりに立派なので、ついつい、小さくて気の毒と感じてしまう。

 

 

胸像の隣に立つ説明文を写す。


佐々木義彦

明治20年(1887)生まれ、萩中学校を経て神戸高等商業学校を卒業した。
台湾銀行を経て、帝国人絹・日本製粉・神戸製鋼などの重役を歴任し、
昭和36年(1961)東邦レーヨン社長に就任した。
萩に対しては小学校の施設整備や灌漑用水と公会堂の整備などに多額の寄付をし、
教育の充実や福祉の増進に大いに貢献した。
昭和47年、萩市の名誉市民に推挙された。
台座の文字は総理大臣をつとめた佐藤栄作の揮毫である。
               萩市

 

撮影日・2022年12月19日

 

 

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毛利元就「三矢の訓像」

2022年12月22日 | 銅像の人

場所・山口県萩市江向 萩市民会館前

 

三矢の訓は、小学校の6年生の頃学校で習った記憶がある。

有名な訓話で、日本人なら誰でも知っている訓話の一つ。

なんとなくその場所は安芸高田をイメージしていたが、萩市の市民会館前に像があった。

 


【萩市観光公式サイト】


毛利元就の逸話「三矢の訓え」

「三矢の訓え」は、萩城を築いた毛利輝元の祖父・元就が、三人の息子(隆元、元春、隆景)にあてた教訓状をもとに作られた説話です。
元就が息子たちに書状を送った年(弘治3年(1557))は、
大内氏を倒した陶晴賢・大内義長の軍勢を打ち滅ぼし、防長両国を支配下に置いた年であり、
大内氏に代わって中国地方から北九州にかけて大きな勢力を持つ戦国大名にのし上がるきっかけを作った年でした。
大きくなればなるほど一族間での争いが生じることは戦国の世の常である。
毛利家の将来のため、一家の頭領として三人の子どもに一致団結を切々と説き
「1本の矢なら簡単に折れるが、3本まとめて束にすれば折れない。それと同じように、3人が力を合わせれば、誰にも負けることはない」
と諭したと伝承されています。

萩市民館前に建つこの銅像は、萩出身の彫刻家・長嶺武四郎が製作したものです。
また、城下町建設の測量起点にした基準石である「萩城下街割原標石」が市民館の西側に残っています。

 

撮影日・2022.12.19

 

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杉山岩三郎

2022年12月22日 | 銅像の人

場所・岡山県岡山市北区幸町 下石井公園

 

 

「おかやまインターパークス里丘」のイルミネーションを見に行った。

会場に胸像があった。

杉山岩三郎翁の胸像とあるが、今日の今日まで翁の名は知らなかった。

 

 


【コトバンク】

杉山岩三郎(すぎやま・いわさぶろう)


1841-1913 明治時代の実業家。
天保(てんぽう)12年8月15日生まれ。
岡山県典事,島根県権(ごんの)参事をつとめる。
明治5年郷里の岡山にかえり,士族授産のため,第二十二国立銀行や岡山紡績所などの創立にくわわる。
28年中国鉄道社長。
備前西郷と称された。
大正2年7月18日死去。
73歳。
本姓は中川。名は厚。

 

 

撮影日・2022.12.19

 

 

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笠井信一

2022年11月21日 | 銅像の人

場所・岡山県岡山市北区丸の内 (烏城公園)

 

 

山陽路に聳えていた岡山城と福山城の天守閣は、その時期をほぼ同じくして、

昭和20年に米軍の空襲で焼失。

昭和41年前後、コンクリートで天守閣再建。

令和4年、改修工事が完成しお披露目。

 

岡山城天守閣は金の鯱が、いっそう光り輝いている。

 

 

 

その烏城天守閣の石垣の前に笠井信一・元岡山県知事の銅像が建つ。

笠井知事は戦前、貧民救済に尽力し、今も県政に名を残している。

 


笠井信一

(Wikipedia)


笠井 信一(かさい しんいち、1864年7月22日(元治元年6月19日) - 1929年7月25日)は、日本の内務官僚・政治家。貴族院議員。

経歴
静岡県出身。笠井勘三郎の三男として生まれる。
静岡県立静岡中学校、第一高等学校を経て、1892年、帝国大学法科大学を卒業した。
1893年2月、内務省に入り、内務属として警保局に配属された。
1907年1月、岩手県知事に就任。
1913年3月、地元出身初の静岡県知事に就任。
1914年6月、岡山県知事に転じた。
1917年5月、後の民生委員制度の先駆となる済世顧問制度を制定した。
1919年4月、北海道庁長官に就任。
1921年5月、貴族院勅選議員に任じられ、交友倶楽部に属し死去するまで在任した。

 

撮影日・2022.11.13

 

 

 

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