しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

定置網漁

2020年07月23日 | 暮らし
茂平の漁獲の大半は壷網と呼ばる定置網だった。

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「海に生きた百姓たち」渡辺尚志著 草思社 2019年発行


定置網漁

定置網漁は、決まった場所に常に網を設置しておき、そこに魚が入るのを待って捕獲する漁法であり、
マグロ・ぶり・イワシ・アジ・タイ・イカなどを獲るのに用いられた。
ミチアミ(誘導網)・ウンドウバ(囲い網)・ノボリ(登網)・ハコアミ(箱網)の4種の網が複合しものであった。





定置網を仕掛けておきさえすれば、魚群は放っておいてもハコアミに入ってくるので、魚群の到来を常に見張っている必要はない。
また、魚が入ったら、ハコアミの部分だけを曳き揚げればよいので、人手もあまり必要としない。

このように、定置網漁とは、漁にかける時間と労力を節約して、効率的に漁獲をあげる漁法であった。






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昔から魚を食べていたか?

2020年07月23日 | 暮らし
管理人は海辺の村だったので、漁師の家から雑魚をもらい、それが食卓に出ていた。
つまり、毎日・・・雑魚ではあるが・・・魚は食べていた。
しかし農山村の場合、戦後であっても「買って」食べる魚は週に1~2度ではなかったのではないだろうか?
(昭和35年頃までは)

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「海に生きた百姓たち」渡辺尚志著 草思社 2019年発行


日本人は、昔から魚をたくさん食べていたか

明治期(1912年まで)の漁獲量は非常に少ない。
急激な増加は太平洋戦争後のことである。
その理由は二つある。
動力船と冷蔵・冷凍技術の未発達である。
手漕ぎの船は沖合まで出漁できない。
魚は長期間の保存がきかない。
輸送手段は人馬で、魚の消費地は水揚げ港から近距離に限定されていた。
せっかく魚を獲っても、売さばかなければ意味がないのである。
一部は干物や節物(鰹節・鯖節など)に加工されて内陸部にももたらされたが、
やはり流通範囲が限られたのは大きかった。

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アミの塩辛

2020年07月22日 | 暮らし
子供の頃、いつの季節だったか忘れたが、その時期になると毎日食卓にあったのが「アミの塩辛」。
毎年その季節は毎日食べていたのに、すっかり忘れ果てていた。

本を読んでいたら出てきたので忘備録で残す。

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「瀬戸内海事典」 南々社 2007年発行より

アミの塩辛
岡山県沿岸で今も作る。
アミは、エビに似た小型の甲殻類である。
ことに児島産のものは品質が優れている。
手網でアミをすくい、塩をして塩辛に仕立てた。
児島は良質の塩の生産地でもあった。
みりんや麹を加えて発酵させたのもあるが、塩だけで馴(な)れさせたものの方がうま味はある。
酒の肴として珍重するが、近年人気のキムチを漬けるときアミの塩辛を細かくたたいて煮立て、その煮汁を使うと上品なキムチができる。

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おじいさんは、山へ柴刈りに②(燃料集め・野々浜むかし語り)

2020年06月27日 | 暮らし
茂平は果物どころで、クドにくべる木は果物の木で、剪定や老木を割り木にしていた。
木を割るのは祖父の仕事だった。
父が山から丸太をもって帰るのは、シイタケの栽培用くらいだった。


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「野々浜むかし語り」野々浜公民館 1991年発行より転記

燃料集め

日々の炊事の燃料は、木の葉や薪を使い、それをどの家も自給自足していた。
持ち山がある家は、わが山の木で割り木をたくさんこしらえた。
しかし、持ち山が無いものが大方だから、毎日山へ入って木の葉、
それも主に松葉を集めた、昔の女の重要な仕事で、山に入らぬ日は無かった。

風が吹いたと言えば、次の朝には夜も明けぬうちから起き出していったもんだ。
だから、その頃はどの山もきれいだった。

はるばる沖山から茂平にかけて在った大きな山まで取りに行く。
野々浜の他に津之下の者もこの山に来ていた。
この山は元は茂平の人の共有の山で、いつの頃か引野の人がまとめて買った。
それで引野の人は来ず、この辺のみんなが木の葉を集めにおしかけた。
この山は松浦組が砕石のため崩して、今は大方無くなってしまっている。

荒神山は毎年伐採しては氏子で分け、それを燃料にしていた。
伐採する範囲を決めると氏子が総出で山に入って木を切る。
各自が家に持って帰り保管しておき、少しづつくべ木に使う。
そして翌年は次の範囲を切る、ということを繰り返していた。

燃料は自分で自給自足せねば日々の飯も炊けなかった。

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おじいさんは、山へ柴刈りに(燃料集め・金光町史)

2020年06月27日 | 暮らし
むかしむかし、おじいさんは山へ・・・、おばあさんは川へ・・・(桃太郎)

茂平では川の洗濯を見たのは、おしめ。
山への柴刈りは、ほぼ全ての家庭で昭和30年代の中頃まで続いた。日常風景だった。

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「金光町史・民俗編」 金光町 平成10年発行 

山仕事
山仕事は、麦播きの終わった12月から、麦の手入れが始まる3月ごろまでの冬の仕事である。
この間に1年分の焚き物を確保し、一部は売りに出した。

自由採取
林野に所有権はあるが、次の物は慣習として、自由に採取しても叱られることはなかった。
落ちている松かさ、枯れ枝を集めたり、
シャシャキ、
ワラビ、ゼンマイ、木の実。

コノハナデ
松の落ち葉を木の葉(このは)とかマツゴという、自由採取のところもある。
共有林では、風が吹いたら女の人は誘い合って掻きに行った。
炊きつけに便利で売るに行く人もあった。
熊手で搔き集め籠に入れて運んだ。

下刈り
林の手入れとして、林床に生えた雑草木を刈りとって掃除する作業。
町内では、肥料や飼料には使っていない、自家用燃料にした。

カケギと割り木
間伐で伐った木を、割木に割るか、カケギとして売った。
割木は丸太を1尺2寸に玉切りし、割木とした。自家用の余りは売り出した。
クドで使う、
家の軒下、壁際、縁の下などに積んで保存していた。

松葉
松の葉の付いた小枝を適当な長さに切って束ね、担ぎ出した。
自家用の、焚き付け用。

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戦前は、何才からお酒を飲んだ?

2020年06月06日 | 暮らし
「昔は何歳からお酒を飲んでいた?」
という問いがあるとすれば、
今と同じで、
「法律では20歳、実際は学校を出ると飲んでいる」、という回答になると思う。

しかし飲む実態は、
今と違いすぎる。
貧しくて酒を飲む機会が無かった。

父の話では、
「飲むのは年に2~3回、
元旦、
それに春、青年団で北川の薬師に酒を飲みに花見に行っていた。
薬師まで徒歩10キロくらいだが、みんなお酒を飲めるので距離は気にならなかった」ようだ。

毎晩の晩酌が可能なのはご大家に限られていた。

おじ(母の弟)は戦中に、
15歳で海軍志願兵に行ったが、
週に一回、夕食に茶わん一杯のビールが付いていたそうだ。
15,16歳の子供に飲ませていた。
 海軍は国家機関だが、
国が法を犯して・・・・、
まあ今の内閣と同じか。




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資生堂の『椿会』

2020年06月02日 | 暮らし
資生堂の『椿会』

管理人が高校生の頃、化粧品会社の資生堂がMG5(エムジーファイブ)という男性用の化粧品を発売した。
それまで、化粧品とは女性のもので、男性が使うものではなかった。
資生堂は、
若い女性が増える時代、日本が豊かになる時代を見越して、青田刈り同様に学校を卒業する女性を”椿会”という組織で囲い込みをしていた。
当時の資生堂は、時代をリードする企業だった。
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2020.6.1 姉の話

中学校の時、
進学組と就職組があった。
就職組の3年生で女性を、セールスの人が学校の許可を得て放課後に、
教室で講座をしょうた。
それに出ると、ちっちゃい袋の中に化粧品や化粧水や口紅がはいっとった。それをくれるんよ。

高校の時、
メイン(資生堂のターゲット)は高卒(の女性)よね、高校にきょうた。
就職の人も進学の人も、気になる人は行きなさい、ゆう感じじゃった。
そこで資生堂のモデルの人が座り、その人に塗っていく。
きれいな人がくるので、よけいきれいになりょうた。
ええ櫛をくりょうた。今の櫛よりいいわ。
椿会に入るような勧誘はなかった。袋の中に申込書があったかもしらん。

卒業後も
化粧品は使ようらなんだ。化粧品をつけたとしても、おとしようを知らなんだ。

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仲買人・物々交換(カエコト)

2020年06月01日 | 暮らし
岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版 昭和56年発行 より転記

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仲買人
仲買商ともいう。県内ではトンビといわれている。
井笠地域では
小豆、ササゲ、大豆などの雑穀や、
除虫菊、薄荷、い草、繭、藍などの商品作物の仲買人をニブシという。
麦稈真田の仲買人を真田買いといった。
トンビは生産農家に出かけて買い集め、問屋に納める。
小豆・ササゲ・除虫菊・い草などは相場の変動が激しく、一日ごとに上がったり下がったりした。


物々交換
カエコトをするとか、小麦をうどんに変えてこいとかいう。
製粉所へ小麦をもっていって小麦粉に変えてもらうと、小麦10に対して小麦粉6くらいの割で交換した。
主たる物々交換は、
小麦とうどんやそうめん。
大豆と豆腐、油揚げ。
小豆やササゲと日用品、
菜種と菜種油。

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西浜(ようすな)の漁業、里庄の大原焼、正頭(しょうとう)の杜氏

2020年05月31日 | 暮らし
岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版 昭和56年発行 より転記

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漁業
笠岡市西浜
明治18年ごろ、広島県幸崎町能地から打瀬網が導入された。
日生からは建網が入った。
打瀬網漁師は魚閑期に、塩飽諸島・燧灘・四国の各漁港・壱岐・対馬・南九州へ櫓漕船で行き生魚を買う「出買い」をした。
いっぽう、
この出魚を「カツギ」と称して魚籠を担いで、吉備高原の村々へ、何人かでリレー式に運んだ。
出買いは動力船の出現とともに衰微する。
カツギも陸上交通機関の発達により衰微する。
打瀬は明治24.25年ごろが最盛期で、昭和27年ごろ衰微していった。
網糸は昭和初期までは綿糸であった。
以後ラミーへ。
さらに絹糸へと変わってゆく。
建網漁師は夜の操業もあって、船に蒲団を持ち込んでいる。
旧5月5日の菖蒲の節句には、昼間にオシグランゴという勇壮な船漕ぎ競争をおこない、夜には東西の山を照らすヒッタカなどの祭りや、恵比寿講や、竜宮まつりなど、派手に行ってきた。
昭和26年当時、
打瀬網55軒、
建網35軒、
壷網28軒、
一本釣り25軒であった。
昭和52年末に全員廃業し陸に上がった。


大原焼
浅口郡里庄町里見字大原は伝統的な焼き物「焙烙(ほうろく)」で、素地のまま釉薬を用いないものである。
製造には轆轤(ろくろ)と竹べらがあればいい。
時代とともに、台所用品の要求によって手焙烙、土瓶、釜、土鍋、七輪を作るようになり、明治中期からは火鉢も製造し始めた。
最盛期は明治後期から大正で、
笠岡の富岡港まで車力で運搬し、
船に積んで岡山・広島・山口・四国・播州まで運んだ。
最盛期には20艘の大原船(帆船)がいた。
陸上では自転車行商、徒歩行商までいた。
第二次大戦中は窯場55戸、大原船2艘。
大戦後の物資不足の時代は、火鉢・炬燵が飛ぶように売れた。
昭和28年ごろから、燃料革命と家庭電化、金属台所用品の出回りにより減少。
昭和56年には2戸だけになっている。

備中杜氏
発祥地は笠岡市正頭(しょうとう)である。
備中杜氏の名を得るに至ったのは文化年間といわれている。
杜氏の出身地は笠岡市大島地区、浅口郡寄島町、倉敷市玉島黒崎が多く、
農漁民である。
冬季100日間稼ぎといい、農漁閑期を利用して、秋のとり入れがすむと、一人の杜氏が六・七人の蔵人を連れてゆく郷党的集団で、春の4月5月まで滞在する。
最盛期は大正7年の米騒動ごろから昭和初期である。
黒崎町の場合、香川あたりの酒造組合へ挨拶回りをするのが重要な職務の一つだった。
蔵人の賃金はかなりよかったが、労働はつらかったようだ。
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生理の日・脱脂綿(高校の時)・・・その2

2020年05月11日 | 暮らし
確認を含めて再度姉から聞いた。

姉の話 2020.5.3 
.........................................................

お祖母さんが持っていた(見せてくれた)のは、
手ぬぐいのようなのを、ちょん切って、それを折ってたたんで。
使ったあとは洗濯して、何度も使う

使うときは、ふんどしのように(股に)はさんで・・帯か紐かゴムかで止みょうた。
お祖母さんはそのうえに腰巻を巻きょうた。

お祖母さんは
閑じゃったんで自分で出るのを調整しようたんじゃない。

・・・

ブラジャーは、
祖母も母も無かった。
お乳がようけい出るときは困りょうた。こぼれたり、肌につきょうた。

・・・

学校(中学・高校)でも、なんもおしえてくれなんだ。
お母さんもおしえてくれなんだ。

お母さんは
大きな脱脂綿を買ってきてくりょうただけ、「あとは自分でし」。
それで脱脂綿を切って押さえて、小さくぎゅうぎゅう絞める。
それをポケットに入れとった。ポケットが膨らむ。
(男性から見られて)「生理じゃろうが」と、ばれたこともある。

高校の体操時間
(生理で)休んだことはない。

こぼれる心配
いちばん心配は、いちんちだけ量の多い日がある。
その日はこぼれたらいけん思うて心配じゃった。
自転車こぐとき漏れることがある。
夜になると寝ていてこぼれることもあった。
(当てといても)知らんうちにこぼれる。

生理が来る2~3日まえから頭がいとうなりょうた。
きっちり決まった日で、ゆううつじゃった。

・・・

(高校卒業して1~2年後)

アンネナプキンは、
生理バンドがあって、それを使ようた。そのうえにパンツをはきょうた。

タンポンは、
入れるより、出す時が嫌いできらいじゃった。

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