しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

日本国憲法

2025年03月15日 | マッカーサーの日本

日本国憲法は、できてからおよそ80年間つづいている。その間社会や政治の安定、経済成長もあったから”良い”憲法だったのだろう。
終戦後のどさくさに一週間とか10日間でつくった憲法とよく言われるが、
たぶん日米開戦頃から、アメリカは既に理想的な憲法を創案していたと思われる。


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「日本占領史」 福永文夫  中公新書  2014年発行

マッカーサーは急いでいた。
天皇制存続を決めていたマッカーサーは極東委員会の介入を避けたかったからである。
他者からの介入を嫌う生来の性格に加え、天皇制存置を心に決めたマッカーサーにとって、
ソ連やオーストラリアを含む日本管理の最高政策決定機関とされた極東委員会が妨げとなることが予想された。
さらにマッカーサーは、4月に予定されている衆議院選挙で、憲法草案を日本国民に問いたいと考えていた。

日本政府
GHQ草案には、象徴天皇、戦争放棄など日本側が想像もしなかった条文が含まれていた。 
それは直接受け取った吉田や松本はもちろん、報告を受けた首相の幣原さえ顔色を失するものであった。

 


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「もういちど読む日本戦後史」 老川慶喜  山川出版社 2016年発行


日本国憲法の制定

1945(昭和20)年10月, マッカーサーは幣原喜重郎首相と会談し、
大日本帝国憲法 (明治憲法)の改正を要請した。 
幣原には憲法を改正するという積極的な意思はなかったが, マッカーサーの指示を受けると, 
憲法改正が国務であり内閣の責任であるとして閣議決定した。

民間では, 高野岩三郎, 鈴木安蔵, 森戸辰男らによる憲法研究会が、
1945(昭和20)年12月に主権在民原則と立憲君主制を採用した「憲法草案要綱」を発表し, GHQ や日本政府に提出した。
GHQは, マッカーサー草案 (GHQ草案)を作成するさいに,この 「憲法草案要綱」も参照したといわれている。

一方日本政府は,国務大臣の松本烝治を委員長とする憲法問題調査委員会を設置し, 
1946(昭和21)年2月に「憲法改正要綱」 (いわゆる松本試案)をまとめた。 
しかし、これはあまりにも保守的で, 国体護持を前提とし, 天皇制にもとづいた明治憲法の根本原則を変更するものではなかった。
松本試案の内容を知ったマッカーサーは, 
1 天皇は国家の元首 (the head of State) であること, 
2 戦争を放棄すること(非武装, 交戦権の否認) 
3 封建的諸制度を廃止すること, 
の3 原則を示して、民政局にGHQ草案の作成を指示した。 
そして、日本政府が提出した松本試案を拒否し, GHQ民政局が起草した新憲法草案を日本側に提示した。
GHQの草案には、天皇大権を否定し,基本的人権と民主主義を尊重するなどきわめて進歩的な内容が盛り込まれていた。

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「もういちど読む日本戦後史」 老川慶喜  山川出版社 2016年発行

幣原首相は, マッカーサーからGHQ草案を受け入れる以外にないと説得され, その基本原則を受け入れながらも、
衆議院のみの一院制とされていた国会を, 参議院を加えて二院制とするなど、若干の修正を施し, 
1946(昭和21)年3月に象徴天皇制、戦争放棄, 国民主権を基調とする 「憲法改正草案要綱」を作成した。 
この政府案はマッカーサーの支持を受けるとともに、天皇制の廃止を主張していた日本共産党をのぞく各党の賛同もえた。

『毎日新聞』 (1946(昭和21)年5月27日) によれば、
象徴天皇制は85%, 戦争放棄は70%という高い世論の支持をえていた。

こうして新憲法は1946(昭和21)年10月7日に成立し, 
明治天皇の誕生日である明治節の11月3日に公布された。 
11月3日は, この日をもって「文化の日」となった。 そして, 翌1947(昭和22) 年5月3日に日本国憲法として施行された。
日本国憲法は,主権在民・ 平和主義・基本的人権の尊重という大原則に立ち, 
天皇は日本国と日本国民統合の象徴であって, 国政への権能を有しないとした。
国民の代表機関として,二院制 (衆参両院) の国会が国権の最高機関となり,
行政府の首長である内閣総理大臣の指名権をもった。 
このように議院内閣制が制度化され、議会制民主主義の原則が確立された。 
また, 第9条の戦争の放棄と戦力の不保持は,類例のないこととして世界の注目をあびた。

 

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「教養人の日本史」 藤井松一 社会思想社 昭和42年発行 

主権在民·戦争放棄

敗戦によって、近代天皇制支配の骨格をなした明治憲法は当然改変される運命にあった。
すでに天皇制は嵐でゆらいでいた。
しかし支配階級はあくまでこの護持をはかろうと奔走していた。 
マッカーサーは政府に対しすでに昭和20年10月、憲法を改正すべしとの示唆を行なった。
これを受けて政府は、松本蒸治国務相を中心に改正案の作成をすすめた。
21年2月はじめ、松本試案はまとまりGHQに提出された。
だがGHQは、明治憲法的な天皇制支配を温存させるような政府案を拒否した。 
マッカーサーは民政局長ホイットニーに憲法草案の作成を命じた。
ホイットニーは極秘のうちに草案の起草をはじめ、2月10日には作成をおわった。 
マッカーサーはこの案を幣原首相につきつけ、その際、
「象徴天皇制と戦争放棄の二条件は、変更することのできない二大原則であり、
これのみがソビエトの反対を押して天皇制を維持する道である」と述べた。
ところがGHQ案をつきつけられた政府は、われわれ人民がこの憲法を制定するという前文にアッと驚かされた。
幣原内閣は受諾か否かをめぐって二つに割れた。
芦田厚相は「もしアメリカが発表されたら、わが国の新聞は必ずこれに追随して賛成するであろうし、
また幣原内閣が責任をとれないといって辞職すれば、
来たるべき内閣の性格がどういうものか想像できる。
さらに総選挙の結果を考えるとまことに憂慮すべきものがある」と述べて、
政府としてはGHQに順応すべきだと主張して、これが容れられた。
こうして、提出された原案のほとんどそのままのものが、
3月6日政府の憲法改正草案要綱として発表され、マッカーサーはこの草案に無条件の承認を与えると述べた。

 


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「昭和を変えた大事件」 太平洋戦争研究会編 世界文化社  2006年発行

ホイットニーは昭和21年2月4日から12日まで昼夜兼行の作業で、9日間でつくりあげた。
一日でも早く、この憲法を宣言することが天皇制を護ることだ、
と世界情勢を認識するマッカーサー、ホイットニー。
回答期限の2月22日、幣原首相は天皇にことの次第を奏上した。
天皇は幣原に、もっとも徹底的な改革、
たとえ天皇自身の政治的機能がすべて利奪されるようなものであっても、全面的に支持する、と躊躇なく表明した。
GHQ憲法草案の受け入れも、 天皇の聖断で決まったのだった。

 

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「マッカーサーの日本(上)」 週刊新潮編集部 新潮文庫  昭和58年発行


ホイットニー少将

憲法は決して、〝押しつけ”ではなく、民政局草案は、あくまでも「日本側と話し合って」作っていくための基礎資料に過ぎなかった。
戦争放棄は幣原氏の発案になるもので、 あれが今の日本に適合するかいなかは、日本人が考えるべき問題だ。
吉田茂氏は自分をきらっていたらしいが、自分は吉田氏を尊敬していた。
昭和42年、吉田氏の国葬に際しては弔電を送った。
ことなどを説明した。
「占領の問題を考えとき、ぜひ、マッカーサーのなみなみならぬ人格を念頭に置いてもらいである。」
 負かした国の憲法まで作る・・・・・・。 それは何百の勲章や銅像にもまして、 
自己崇拝の傾向の強い一人の軍人を満足させたといえるのかもしれない。 

(なお、ホイットニー少将は本誌のインタビューから半年足らずの昭和44年3月21日、病死した)

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「マッカサーの日本(下)」 週刊新潮編集部 新潮文庫  昭和58年発行


ケーディス大佐の情熱と挫折


昭和44年3月21日、マッカーサーの参謀であり、側近第一人者だったコート・ホイットニー少将(GHQ民政局長)が七十一歳で他界した。
"日本占領〟は、ますます昔のことになっていく。
この将軍の棺をかつぐ親戚、友人たちの中に、民政局次長として、
故人のNO.1の部下だったチャールズ・ケーディス氏(63)=44年3月当時=がいた。
やせ型でシャープだった占領当時に比べれば、いくぶん柔和な感じを加えたが、その考え深そうな目つきは変っていない。

民政局ケーディス次長は、GHQにあって最も華やかな存在の一人だった。
この本でも絶えずえずその名前は登場したが、マッカーサーも、
「この人たちの才能と技能がなかったら、ほとんど何の成果もあげ得なかったに違いない」
と、「回想記」の中で8人の将軍や局長クラスの名前をあげ、その次に、一介の大佐で局次長に過ぎなかったケーディス氏の名をあげ称えている。

実際、ケーディス大佐は日本改革の旗手であった。
新憲法起草をはじめ、
公職追放、 
財閥解体、
農地改革、
婦人参政権
から汚職追及、町の顔役退治に至るまで、
「日本に民主主義を植えつける」ための大きな施策なら、
そのほとんどが彼の立案によるものといわれ、八面六臂の働きをした。

第一相互ビル6階の民政局で秘書をしていたルース・エラマン嬢は、当時の上司ケーディスをこう描写する。
「チャック(注=チャールズの愛称)はそのころ40歳になったばかりでしたが、
すごい才能の持主で、いつも頭の中に何かがひらめいている人だった。
やせ型で色は浅黒く、働き者で、大へん魅力のある人物といえた」
憲法草案を8日間で書き上げたとき(昭和21年2月)のケーディス氏について、
同じく民政局の秘書だったベアテ・ゴードン夫人は「まったく改革の理想の炎だった。」

マッカーサーとホイットニーとの間柄は、ジョン・ガンサーによると、
「二人の気持がぴったりと合い・・・、マッカーサーは彼に対して二度と同じことを頼んだり、説明したりする必要は全然ない。
ホイットニーはあたかも直覚で感じとるかのように、自分の親分が何を欲しているかを正確に知ってしまう」
ほどのものである。
だから、ホイットニーの持って来た案に、マッカーサーはほとんど上キゲンで発進信号を与える。
「やりたまえ!」
ゴーアヘッド

こういう調子だから、民政局のエリートたちは気をよくして仕事をやったし、
やることはすべてスピーディーで、効率がよかった。
その民政局エリートの中のエリートが、ケーディ ス次長だったことはいうまでもない。
ケーディス氏の思想を端的に表わすものとして、
民政局がまとめた「日本の政治的再編成」と題する日本占領行政に関する公式報告書の中から、彼が書いた〝序文"を紹介しよう。 
ミズーリ調印の昭和20年9月から、23年9月に至る期間の成果を報告したもので、24年に発表されている。
この原稿が実際に執筆されたのは23年秋、
......新憲法施行から1年半、食糧危機もヤマを越したし、時の内閣も民政局があと押しする中立の芦田連立内閣である。
ケーディス氏としては、かなり満足気にこれを書くことができる時期だ。
序文は、最初に、「マッカーサーが上陸する20年8月30日以前の日本」について、要旨、こう規定する。

「日本は絶対の権力を持つ天皇によって支配されており、
天皇制を支える明治憲法は秘密結社などによって守られていた。
国民、特に労働者、小作農、小商人は搾取、抑圧され、基本的な市民の自由もない。
軍閥、財閥、官閥による三頭専制は、1854年、ペリーの下田入港に始まり、マッカーサー将軍の占領に至るまで続いた」

そこへ、占領軍がやって来た。 
ケーディス氏はここで〝革命"という言葉を使っている。 
「占領から三年たった今日、土地を持たなかった農民は土地を持ち、
労働者たちは団体交渉の権利を持っている。
天皇は今や象徴に過ぎず、政治に手を出すことは禁じられて、彼の宮廷は新聞の自由な批判の対象となっている。
男女は同権になり、
警察、教師、神主などによって心に植えつけられた従属心から、しだいに脱皮しつつある......」
そして、新憲法によって規定された日本の代議政体は、
「決して外部からムリヤリに押しつけられたものではなく、また完全に日本国民の発意によって生れたものでもない」
といっている。

しかし、マッカーサーのように、「憲法は日本人が作った」と強弁するようなところはない。 
代議政体は、必ずしも日本人の発意だけで作られたものではないが、
「それだけが時代の要求と日本の国民性に合う唯一のやり方だった」と説明している。
ケーディス氏は、「マッカーサーの改革は〝触媒的改革”である」と規定する。
占領軍自身がすべてをやるのでなく、触媒として刺激を与え、あとは多く日本人自身にやらせる、という米国の根本方針の表現である。
次に、彼の根本的な考え方が表明される。 
くだいて書くと、「他の国民と同様に、日本人は自分たちの伝統、慣習、昔の制度への感傷を深く持っている」から、
これを力でたたきこわすことはしない。
フランス革命でも、恐怖政治のあとに出て来たのは、革命家ジャコバン が夢みた美徳ではなかった。
そこで力で無理に改革するのではなく、「昔の〝天皇の道”が復活する危険性がかなりあることを承知の上で」、
かつての「狂信者たちが作った」 社会制度を相当に残しておいた、というのである。
承知の上でリスクを残した。
したがって、このリスクの部分は、今後時間をかけて、
「日本人自身の改革の欲求が育ってくる時」を待って 改革するのだ、という。
これでわかるように、ケーディスは、「革命」という言葉は使っても、
いわゆる”マルクス主義流の急進派”ではない。
そうでなくて、いかにもアメリカ的な、現実と妥協した”改革”をやるのだ、といっている。

新憲法制定に情熱を注いだケーディス大佐は、次に憲法の精神を完全に実施する日本の政治家を求め、
それを盛り立てることに賭けた。
それが、社会党の片山哲氏であったことは、彼の文章で明らかである。
「民政局がとった戦略は、進歩的少数派を押すことで、その目的を達成することだった」と、 
ウィリアムス国会課長は後日、自分の研究論文に書いている。
ケーディス氏らの〝戦略”はマッカーサーに支持された。
片山内閣の最重要政策であった 炭鉱国家管理法案が、党内紛争と保守党の妨害で座礁しようとした時、
マッカーサーは片山首相に、「法案に対し、GHQは何の先入見も持っていない」とわざわざ手紙を送って援護射撃をしている。
ケーディス氏が頼んだのかも知れないが、明らかにこの時点でマッカーサーは社会党に賭けていた。
また、23年2月に片山内閣が空中分解したが、片山首相は〝憲政の常道〟を無視して国会を解散せず、
また政権を野党第一党の 自由党に渡さないで、芦田均氏の進歩党と連立内閣を作った。
いわゆる〝政権タライ回し" である。
しかし、この"タライ回し”に際しても、マッカーサーは「そのやり方はまったく民主的である」という手紙を書いている。
ケーディス氏は、何がなんでも、吉田氏に政権を渡したくなかった。

・・・

「ライシャワーの日本史」 ライシャワー 文芸春秋 1986年発行


新憲法 

禁止措置にもまして、重要な改革があった。
もっと民主的な政治制度をつくりあげることを狙って占領軍当局がとった前向きの改革措置である。
それは、専制的な日本よりも民主的な日本のほうが平和のために役立つはずだという、もっともな考え方からきていた。
政治改革の努力は、もっぱら新憲法の起草問題に集中した。

1946年2月になって、日本政府の用意した憲法改正草案がマッカーサーの意に満たないことがはっきりすると、
マッカーサーは急遽みずからの幕僚に命じ、まったく新しい英文の憲法草案を起草させた。
この草案は、日本政府が若干の手直しを加えたあと、
1889年の欽定大日本帝国憲法の勅令による修正というかたちで帝国議会に提出され、
議会の審議、可決を経て、1947年5月3日に施行された。
新憲法は、二つの点で日本の政治機構に根本的な変革をもたらした。
その一つは、天皇の地位に関する憲法原理を客観的現実に即して改めたことである。
具体的には、天皇の「大権」を日本国民の主権に移し替え、
また天皇は単に「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であって、
一切の政治的権能をもたない旨、疑問の余地なく明確に規定した。
天皇は1946年の元日、自分が決して「神」ではないことを国民に宣言し、みずから新憲法への下準備を整えた。
もっとも天皇は、それまでももちろん、西欧人の意識するような「神格」の持ち主とみなされてきたわけではない。


天皇の取り扱い問題は、占領軍の日本改革のなかで、最も論議を呼んだテーマであった。

とりわけ海外では、天皇を裁判にかけて処罰すべきだという意見が多く、論議はきびしかった。
しかし、もしそのような措置がとられたら、天皇が現実には実質的な権力をもっていなかったこと、 
また個人的には戦争に反対する思想の持ち主であったことに照らして、きわめて不当な扱いとなったことであろう。
そうなればまた、遅かれ早かれ、日本国内に憂慮すべき反発を招いたことと思われる。
マッカーサーとアメリカ軍がこのような措置に与しなかった理由も、主としてそこにあった。
そのかわり、大変革が相つぐなかで、皇室制度は憲法の規定にしたがいやがては日本人の心情のなかでも
イギリスの立憲君主制に比すべき地位に、小ぢんまりと姿を変えていった。
天皇制をこのように処理したことは、
あとからみて、はるかに安全で長続きする解決策であった。

いま一つの憲法上の大きな変革は、イギリス流の議会制度の確立を明確に規定したことである。 
憲法は、衆議院を国権の最高機関として明記したが、その形態は、1920年代の姿と本質的には変わるところはなかった。
また軍部、枢密院、貴族院といったこれと競合するような権力の中枢機関は、すべて解体された。
最高裁判所職員と政府官僚は明確に首相の指揮下におかれたが、 
その首相は、衆議院が国会議員の中から指名することになった。
旧貴族院に代わって、参議院が設けられた。
議員全員が公選で、任期は6年、その半数が3年ごとに改選され、
2/5は全国区、3/5は都道府県単位の選挙区から選出されることになった。


・・・

 

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