しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

女の仕事着(モンペ)

2021年12月10日 | 暮らし
母が、たまに言っていたこと。
「あれには、くつれいだ」、が二つあった。
それが、着るものが”モンペ”になった時。
自分の身体の”生理”が終わった時。

母が嫁に来る(昭和17年5月)頃、ちょうど国民運動としてモンペの普及が図られた。
母は喜んで、持っている着るものをほどいて、モンペに仕立て直したそうだ。
母を思い出すとき、まっさきにモンペ姿が浮かぶ。
昭和17年頃から平成25年頃まで、家でも外でもモンペを着ることが多かった。



「奥津町の民族」  苫田ダム水没地域民族調査団  ぎょうせい 平成16年発行

女の仕事着

明治のころから戦前までは女も上衣のジバンとか腰着(腰切り)、下衣の紺股引を着用したのが特徴である。
腰着、尻切れジバンの上から、または長着を短く着付けて帯(半幅帯、ぼろ帯など)をして、前掛けで農作業をするのもあった。
第二次大戦中に、モンペが流行し、保温にも、ブト除けにもよく、作業効率もよいことからモンペの着用が定着した。

戦時中までは男女ともにジバンに股引で仕事をしていた。
終戦後モンペがはやり、ほどいたり、一反の布でモンペ2枚を縫った。
お腰し(腰巻き)は戦後まで使った。昭和になってパンツが使われ出した。
割烹マイカケはずっと前からあった。
戦争でよかったのはモンペくらいのもの。








「戦前昭和の社会」  井上寿一 講談社現代新書 2011年発行

モンペが脚光を浴びるのきっけとなったのが日中戦争である。

「東京朝日新聞」(昭和12年9月27日)は、
「和服が非活動的なものであるとは、つとにいわれているところです。
そこで着物に変わるべき非常服として、カーキ色の国防服とか、スカートをボタン一つでズボン式に変える仕方とか種々考案されていますが、
最近活動に便でしかもとっさの場合にも非常服として役立つもんぺが各方面から推賞されて、
山村の野良娘の服装が一躍昭和の非常服として再認識されるに至りました」。

モンペの着用前に、和服に対する批判となって展開する。

帯がむだです。
袖は短くして。
日本婦人の服装が世界で一番危険な着物といわれている。

戦時下の女性の「作業服」としてモンペが役に立つ
「都会の婦人」も防空演習でモンペの便利さを認めた。
「服装改善」委員会は、戦時服としてのモンペの機能性の再評価した。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

縄ない

2020年09月12日 | 暮らし
子供の頃、雨の日に祖父は長屋にいた。
長屋には縄ない機があった。
イスに座って稲わらを供給しながら、足踏みで縄をなっていた。
その縄は畑仕事など、自給用で必要量以外は縄をなうことはなかった。

茂平には、”もとやん”という漁師がいて、海の仕事がない日には家で手編みで藁草履を編んでいた。
小学学校の運動会の前の日には、もとやんの家に行って藁草履を一足買っていた。
藁草履で走れば速く走れると、上級生が言っていた。
他にもう一軒、藁の手仕事で人形か台所用品か忘れたが、作っているおばあさんがいた。


下記は引野の話だが、
福山では「縄ない大会」があり、「全国大会」にも出場していたようだ。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「梶島山のくらし」 梶島山のくらしを記録する会編  2011年発行




梶島山の大事な副業としての縄ない

稲作・麦作以外に現金収入を手に入れるために、イグサ、レンコンなどさまざまなものを作ったものだ。
手仕事では、麦稈真田を作っていたが、なんといってもこの地域に盛んに取り組まれた手仕事は縄ないだった。

縄ない機ができると、以前の手ないに比べと格段に生産量があがった。
(明治40年三吉町の鳥越式製縄機を発売)
梶島山には、どの家にも一台の縄ない機があり、二台三台と据えて、その収入で食べていく家もあったほど盛んだった。

縄は梱包に欠かせないもので、米俵、麦や塩を入れる「かます」などに大量に需要があった。
縄ないはいい副業になった。

朝4時ごろから起きて朝のうちに縄ないをし、田んぼの仕事をすませると夜なべ仕事でも縄をなっていた。
がんばれば朝なべと夜なべで一台で二巻き(出荷時の四巻)ぐらい作ることができた。
冬は手袋をはめたら仕事にならない。


藁を他所から買う
自分のところの稲藁だけでは足らんので、
荷馬車で神辺や有田や用之江へ藁を買いに回る人もいた。
牛にひかせて笠岡まで買いにいくこともあった。
縄ないが盛んになると船で笠岡や九州まで行って、沖浦に大量に荷揚げをするようになった。
後には自動車(バタンコ)で運ぶ人も出てきた。
藁を全部家に置くことはできないので、田んぼに「とんど」にしておいて、
いるぶんだけ持って帰り、長屋の天井に投げ上げて保管した。

縄干し
庭に立てた二本の棒の間に縄を下から上へ隙間ないようにぐるぐる回すようにかけて干した。
乾いたころ、ちびた竹箒で縄を擦ってケバを落として仕上げた。

縄の出荷
丸く巻き取り輪にした仕上げの縄を五つひとまとめにして出荷した。
買い取り業者の検査員が、青いインクの判を一等・二等・三等と印を押した。

俵ない大会
縄工芸品生産を推進するために、縄ない競技会の他にも手縄と「こも」を作る競技会も行われた。



全国縄ない大会

全国縄ない大会は戦争中から始まり東京で行われた。
わしは、昭和22年と23年に全国大会に出場した。
22年には3位だったが、23年には優勝できた。
引野村から二人選ばれて深安郡地区及び備後地区の予選会を勝ち進んだ。
東京の後楽園野球場に全国から集まった三府四五県の人と競技した。
大会には自分の縄ない機とわらを貨車に積んで、農協の職員、県の職員、父親と東京へ行った。
優勝の記録は15分で897尺3寸(約272m)だった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

田舎の映画館主の仕事

2020年09月10日 | 暮らし
町の映画館は昼夜上映し、同じ映画が1週間つづいた。
田舎の映画館は夜だけ上映し、映画は日替わり。

以前、元・映画館主さんと話したら
仕事の大半はポスター張りだったそうだ。
決まった場所にポスターを持っていって、毎日張り替える。
(盆正月のみ2~3日、同じ映画をすることがあった)

フィルムは自転車で運んできてくれ、終わったら自転車に積んで返しに行ったそうだ。




(2016.5.15 福山市船町)



・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「新修 倉敷市史 6近代」

映画館

映画フィルムの流通は、映画会社が直営館を持ち自社の作品を上映した。
洋画の場合は日本支社の営業部員がフィルムの選定を館主と交渉したり、あるいは館主が東京や大阪へ行き、自分の目で確かめる時代もあった。
現在では情報が早く、地方も都会もなく、電話一本で取り決めることができる。

我が国の映画の配給ルートは日活系と松竹系に分れ、館はいずれかに組み込まれ、両方からは買えない。
各館には序列があり、低位の館は順番待ちで遅くなる。
低位館同士で上映時間をずらし、フィルムを自転車で運ぶなどの苦労もかつてはあった。
第二次世界大戦後、昭和25~40年が映画の全盛期で、県下の常設館は137を数えた。
現在と比較して、映画は大衆娯楽の主流を占めていた。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

屋根の葺き替え

2020年09月10日 | 暮らし
家は麦藁屋根だった。
子どもの時、葺き替え工事があった。
手伝いをしたわ訳ではないが、古い藁にさわったのか、こすったのか・・・
工事の期間中、着ている服も、顔も煤だらけになった記憶がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


「新修 倉敷市史8」

屋根葺き

かつての倉敷の農村では、麦藁葺き屋根や葭葺き屋根が主流を占めていた。

二毛作として麦作り盛んであった。
一般の農家では、屋根材料の小麦藁は、自家製麦で賄われていた。
葭(よし)は、用水や干拓地や高梁川の中州などから購入された。
麦藁に比べて葭の方が耐用年数は長いが、費用は葭の方がかさんだ。
県北では萱(かや)を使うが、県南では葭(よし)を使う。また一緒に使う場合もある。




手順
丸太を使った足場作りから始まる。
長い丸太を屋根の垂木に縄でくくりつけ、およそ2m間隔に置き、上に板を渡し、作業の通路を作る。

垂木の上には桟竹を並べて屋根の下地とする。
古屋根の修理の時には、腐ったり虫食いした竹や、屋根の扠首(さす)組みの取替や補修が行われる。

次に、屋根に葭を挿す作業にかかる。
屋根の下地に使う葭は、傷みの少ないものを再利用した。
新しい葭に比べ、古い葭は長さが短くなっているので、新しい葭と交互に挿すことで、葭の傾斜が屋根の外側で緩やかになり、葭が滑り落ちることが防げる。
もちろん予算の面から、新品ばかりでなく、古い葭の再利用も行われた。

昔は、倉敷周辺にも、草葺き屋根職人が30人ほどいたが、今では都窪郡早島町に、明石芳行がいるだけである。
屋根屋は、親方に弟子入りし、技術を覚え、設計・足場・葺き手間・手伝いの見積もりができなければならなかった。
普通家屋で2~3にん、下働きが3~5人。
農村の場合は「モヤイ」として近隣・親類の手助けがおこなわれた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

発動機とバーチカルポンプ

2020年09月09日 | 暮らし
子どもの時、家にある唯一ともいえる近代的な農具は発動機だった。
発動機で脱穀したり、
畑や田んぼの灌漑にはバーチカルポンプとに使用していた。

・・・・・・・・・・・・・・・・






「目で見る岡山の昭和」 蓬郷巌著 岡山文庫 昭和62年発行

農発とバーチカルポンプの普及

昭和2年
石油発動機の大量生産が昭和時代に入るとともに増えて、県内の普及台数は25.000台で全国第一位。
昭和12年の「岡山農発」の生産は17.000台で、全国60%のシェアを誇った。
かんがい専用のバーチカルポンプも全国に先がけて普及し、機械化農業の先進県になった。



コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

隔離病舎

2020年09月08日 | 暮らし
伝染病は怖かった。
2~3日前には、いっしょに遊んでいた子があっという間に亡くなった。

家族では昭和20年の赤痢が流行した年、祖母と曽祖父が感染、隔離病舎に送られた。


(小田郡城見村の隔離病舎跡地。現在は笠岡市「恵風荘」)

その時、祖母は治り、曽祖父は死んだ。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「金光町史本編」 金光町 平成15年発行


隔離病舎

伝染病の予防は諸外国との不平等条約改正のためにも政府は力を入れ、
隔離病舎建設を市町村に強く要請した。
「悪疫流行については、避病舎設置を厳達あり」強制を迫られた。

伝染病の隔離病舎維持に莫大な経費がかかるため、対策として村民にその予防法を提示している。
それは
「蠅の駆除、肥溜の管理、寝具等の日光消毒、食器等の煮沸消毒」等を挙げた。

一例・昭和3年の患者数
赤痢 19(死亡6)
腸チフス 3
パラチフス 13
計35人。
伝染病関係費合計9191円。
町会計の5%を占め、重い財政負担であった。

隔離病舎の患者治療の要員は、患者が出た時、村の医師、看護婦に看てもらい、その賃金を村議会承認のもと村から支給していた。
その後、隔離病舎は存続したが、衛生思想の発達と医療の進歩で患者が減少し、近隣の市町村が協力していくという広域体制が整い、
昭和42年議会で廃止が決定し、同年備南伝染病隔離病舎組合に加入した。


明治期の保健衛生は伝染病との闘いであった。
ただ神仏に治癒を祈る状態であり、大正時代も同様であった。
抗生物質の薬のない時代、
また薬が高価な時代の伝染病との闘いは
いかに苦しかったか想像に絶するものがある。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

病気・・・戦中・戦後

2020年09月08日 | 暮らし
「日本医療史」 新村拓著 吉川弘文館 2006年発行


戦時体制下の医療


1929年の世界恐慌の波及による不況は、農村を疲労させ、産業の合理化は多くの失業者を生み出した。
凶作に苦しむ東北では娘の身売りがみられ、欠食児童の急増や母子心中の増加が社会問題化していく。

国民の体力低下を如実に示したのは、
徴兵壮丁検査の結果である。
徴兵検査の不合格者は大正末期、1000人につき約2502人であったが、
1930年代には350~400人にまで増加した。
筋骨薄弱者や結核患者が急増。
合格者のうち、甲種合格者は年々減少していった。

危機感を感じた軍は、新しい省の設立構想を打ち出した。
「世界に冠絶する大和民族天賦の優良素質を今日ここまで低下せしめたるは衛生軽視の政治、行政機構に存するのである」として、
中央行政機関の整備を強調した。

1937年首相に就任した近衛文麿は、新しい省の腹案を提示した。
1938年、厚生省が誕生した。
明治以来の内務省衛生局は新省の衛生・予防のほかに体力局によって担われることになった。



人口政策

明治5年に35.000.000人だった人口は急増し、昭和12年には70.000.000人に達した。
高い出生率と死亡率の上昇で、多産多死型となった。

人々は窮乏生活に耐えながら多くの子どもを産み、何人かを失いつつ、低賃金労働に従事することを余儀なくなれた。

1918年の米騒動は、農業生産の停滞と米の需要増大との矛盾に起因し、人口と食糧の均衡が破綻した。

1922年産児制限運動家のサンガー夫人が来日すると、日本でも産児調整運動が高まりをみせた。
この動きに政府は弾圧を強めた。
国は、人口増加策を維持したまま、海外進出によって人口問題解決する方針を展開していくのである。

1940年代に入ると、軍主導のもとで積極的な人口膨張政策が打ち出された。
アジアへ軍事的進出を企てる戦時国家体制を前提とした人口政策は理念上問題があっただけでなく、医師不足のなか、
保健婦や保健所が中枢機関となった。

生活と健康は悪化の一途をたどった。

軍関係の病院や療養所は着実に増加した。
しかし1944年から米軍による爆撃で病院焼失や破壊が増え、病院数は減少していった。



戦時体制下の健康問題

未熟練工が長時間労働に従事したため、機械による外傷や指の怪我などが増え、結核や脚気の羅患者も増大した。



戦後の医療

GHQの医療分野はPHWが担当した。
PHWができる1945年、日本では伝染病が急激に増加していた。
占領軍への感染を恐れたPHWは検疫を強化、患者の隔離、薬品の準備などを進めた。

伝染病と並び食糧不足が占領軍を悩ませた。
餓死するものが出るほど危機的状況が進行していた。
占領目的が脅かされることを心配したマッカーサーは、食糧緊急放出と同時にアメリカ政府に食料供給を要請した。
1946年民間団体ララが援助物資が届き、学校給食が開始された。
パンに脱脂粉乳という、当時の児童にはなじみのうすい食事には日本人の栄養摂取パターンを変えるというねらいもこめられていた。

終戦直後、日本の病院の大半は、戦災によって破壊され、機能不全に陥っていた。
応召や徴用により医師や職員が不足したうえ、医薬品や医療機器も払底しており、惨憺たる状況を呈していた。
PHWはまず、軍関係医療機関の厚生省移管であった。
軍の医療機関は国立病院や国立療養所となった。



人口の高齢化と疾病構造

終戦直後に男女とも50歳代であった平均寿命は40年後の1985年(昭60)には男性75才、女性80才までに達し世界の最長寿国となった。
長寿は、人類が太古から希求してきた「夢」であるが、長いきは、必ずしも幸福にむすびつくわけではない。
本人や家族だけでなく、社会も困難な課題に直面することになった。

「人生50年時代」には、個々の家族によって担われいた高齢者のケアが「人生70年時代」にさしかかったこの時期に、社会問題として浮上してきた。


「健康日本21」

成人病と呼ばれていた疾病は、患者本人の節制不足を強調した「生活習慣病」と言い換えられ、野菜摂取量や平均歩数を
掲げながら、政府が主導する国民の「健康管理」が進められた。
2002年には「健康増進法」が制定され、「国民は、生涯にわたって自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない」と国民の責務が明記されている。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

病気・・・予防医学など

2020年09月08日 | 暮らし
「日本医療史」 新村拓著 吉川弘文館 2006年発行


性病予防行政

性病予防行政は、売買春の場を中心に警察によって展開された。
検梅を実施した。
娼妓たちの商品価値の維持と営業保全と目的に検梅を実施した。
遊郭の経営者たちは、娼妓が病気で休むことを避けようと画策したため、医学的な予防対策としては限界があった。

性病はコレラや天然痘のように目に見えるかたちで社会に衝撃を与えるわけはない。
その対策は遅れた。

1910年サルバルサンを発見したことによって、梅毒はようやく治癒可能となった。
この薬は副作用が強く、ペニシリンが登場するまでは治療に困難が伴った。
一般の人が梅毒の苦しみや恐怖から解放されたのは、ペニシリンが普及するようになった戦後のことである。


東京大学医学部付属病院

1877年「貧困にして、研究上須要と認る者を無料入院せしめ、治療を施すもとす」、と記され
医学研究のための患者確保にあったことがわかる。


慈恵医療

1910年代、
「廃兵」(傷痍軍人)の存在が社会問題化となった。
1911年恩賜財団済生会が設立された。
済生会は、天皇からの下賜金と一般寄付金で、貧民救済し、国民を国に有用な人的資源としていくための方法で、慈善ではない。


医師会誕生

医師会の設立は任意とされたが、1910年各地で医師会が形成された。
これを加速させたのは1916年に薬剤師が提起した医薬分業問題である。


乳児死亡と母子保健
大正の頃、生後1年未満の乳児死亡は1.000対150を超え、1918年には188.6を記録した。
さまざまな保健指導機関が登場した。

1930年代に入り、戦時を支えるための健康が求められるという逆説的な状況はさらに進展していくのである。


看護職

1885年(明治18)新島襄が同志社病院の中に看護婦学校を設けた。
次いで東京帝大附属病院、1889年には日本赤十字の前身である博愛社に。
日本赤十字社は、当初から陸軍との関係が深く博愛慈善の欧米の赤十字とは異なった性格をもっていた。
看護婦は軍隊における需要に基づいて増加してゆくことになる。

助産婦(産婆)は、
江戸時代から女性の職業として認められていた。
1899年産婆規則により試験制度が導入され、業務・資格が統一された。

薬売り
庶民の多くは病院や医師による診療とは無縁の生活を送っていた。
人々の健康を支えていたのは、伝統薬である。
日本では古くから各地で薬の行商が行われ、各家庭ではなじみの業者から買い入れた薬を常備していた。
越後の毒消し売りは、
女性が売り子である。
大きな荷物を背負って関東・信州・会津を農家に泊まりながら販売した。
薬事に関する法律が整備されるにつれて行商のスタイルや扱う薬品が変わった。
戦後も1970年代まで続けられた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

病気・・・伝染病など

2020年09月06日 | 暮らし
「日本医療史」 新村拓著 吉川弘文館 2006年発行



伝染病と衛生行政


幕末から明治初期における急激な社会変動がもたらした人口の大幅な流動化によって、伝染病は全国に蔓延した、死者数も増加した。
医療・衛生にとどまらない深刻な社会問題と化した。

痘瘡については強制種痘が施行されていた。患者に対する療法はなかった。

住民の糞尿が肥料として使用されることが多く、コレラ・腸チフス・赤痢など消化器伝染病が発生すると、感染は一気に拡大した。
患者が発生すると自然治癒をまつしか手がなかった。


コレラ

コレラは、安政5年(1858)に大流行。
治療法・薬はなく、庶民の間では村境で鉄砲を打つコレラ退散祭りなどした。

人々はコレラを「トンコロ」と称して非常に恐れた。
政府の対策は検疫強化と侵入後の消毒・撲滅・遮断・隔離に重点がおかれた。

患家には縄が張られ、目印の黄色い紙が出された。
患者を天井裏に隠す例も少なくなかった。

文久2年1862)7月にも大流行、9月に入り衰えた。


性病

明治初期に設立された特定疾患を対象とした病院で、伝染病院と並んで梅毒病院が多い。
公娼制度のもと各地にみられた遊郭は、梅毒をはじめとする性病の感染源となった。
病気は人々の生活の中に深く入り込んだ。
事態を変えたのはイギリス公使パークスである。
1867年(慶応3)、開国後の日本に駐在することになったイギリス軍は、
検梅制度の実施を強く求め、これに応じるかたちで遊郭に梅毒病院が設置されるようになった。

梅毒
18世紀後半ファン・スウィーテン液が蘭方医に伝幡し1932年まで引き継がれた。
駆梅療法剤としてサルバルサンが1909年に出た。
ペニシリン等の抗生物質が1952年以降確立された。




脚気

明治期に入ると国民病といわれるほど患者数が増加した。
とりわけ、
産業化につれて都市に集中するようになった貧困層に羅患者が多くみられ、その病因は副食が乏しい白米中心の食生活にあった。
症状が急転し、死に至ることも稀でなかった。
伝染病ととらえ怖れる人も少なくなかった。

1878年、患者は陸軍の1/3にのぼり、軍部内の深刻な問題になった。
陸軍に米麦混食が普及し、その結果、脚気の発生は低下傾向に向かった。

1910年鈴木梅太郎が玄米にオリザニン(ビタミンB1)があろことを発見、第一次大戦後、
恐ろしい伝染病とされていた脚気は、栄養に配慮することによって克服できる病気へと変わった。



結核

江戸時代に労咳などと呼ばれた結核の多くは肺結核であった。
空気感染であったので都市化と共に流行した。
一種の伝染毒であり、書生・奉公人・処女のままの人に多く、看病人・医者・針医・按摩にも伝染する。



女工と結核

結核は20世紀半ばまで、死病として恐れられてきた。
明治期の近代化の過程で、産業の発展と共に「国民病」となった。
衛生学者石原修は、内務省と農商務省から嘱託され1910年工場調査をおこなった。

日本の工場労働者 約930.000人
うち民間工場 約800.000人
うち女性が 約490.000人
うち60%が 繊維工場で20歳未満の女性。

女工
約7割が寄宿舎に入り、一日14~16時間労働 徹夜作業が状態
体重低下、発育不全。
石原は、劣悪な労働環境、長時間労働、寝具の共同利用と不衛生な寝室について記述し、
これらが結核伝染の温床となったことを明らかにした。

問題は工場の外にも広がった。
結核に罹患し解雇された女工は、転々と職業を変えつつ都市で生活するか、帰郷することになる。
いずれの場合も治療を受けられないまま、辛い療養生活を送り、そのまま死に至るものも少なくなかった。
そして、
彼女らが感染源となって農村に結核が蔓延していった。

結核死亡者は増加の一途をたどり、全国主要都市に療養所が設置されたが、療養法が確立されず救貧施設の域を出なかった。
本格的な取り組みは軍隊における結核が深刻化する1930年代まで待たねばならなかった。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

瀬戸内海の歴史と暮らし

2020年08月16日 | 暮らし
「瀬戸内諸島と海の道」編者・山口撤 吉川弘文館 2001年発行

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

北前船

地乗りと沖乗り
中部瀬戸内の航路は、中世までは陸地沿いの「地乗り」(じのり)が主流であった。
江戸時代になってしだいに「沖乗り」航路が用いられた。
(陸地沿いでなく倉橋島や因島の南側を通る)
(鞆から下津井までは従来どおりで、白石と高島の間を通る)
それまで櫓漕ぎが主流であったのに対して、木綿帆を用いることで帆走能力が向上し、一気に沖合をすすむことも可能となった。


西廻り航路の発達

「沖乗り」をおこなうようになった背景には海上輸送量の飛躍的増大があった。
幕府や大名の財政は、年貢米を大坂や江戸に運んで売却することで成り立っていた。
酒田から下関をまわって大坂・江戸を結ぶ西廻り航路が整備され、これ以後
西国だけでなく東北・北陸地域からも続々と年貢米を積んだ廻船が瀬戸内海にやってくるようになる。
やがて年貢米だけでなく各地のさまざまな特産品も大坂に集まり、大坂から桧垣廻船や樽廻船で江戸に回送されるという構造ができあがっていく。
塩飽の廻船は幕府御用船として寛文から元禄にかけて栄えた、のち特権的地位を失った。
年貢米に代表される領主的流通が中心とされるが、後期には広範な商品生産の展開を背景とした商品流通のうねりが押し寄せてくる。
たとえば、畿内・瀬戸内地域にひろがる綿作地帯では大量の魚肥を必要とし、従来の干鰯(ほしか)のほかに北海道産ニシンの〆粕(しめかす)などが求められた。

初夏、あるいは秋に蝦夷地の産物を積んで西廻り航路を瀬戸内海にやってきた北前船は、船頭の裁量で積み荷の米・ニシン・数の子・〆粕・昆布などを各地で売却し、大坂でひと冬越したのち翌年春には、大坂周辺あるいは瀬戸内各地の塩・砂糖・紙・木綿・古手・甘藷などの産物を積んで北国に向かう。
また大坂・瀬戸内各所の廻船も北国・蝦夷地とを結ぶ交易に進出していく。
九州・中四国と大坂を結ぶ廻船もいっそう盛んに往来した。


港町と遊女

主要な港町には例外なく遊女屋があった。
御手洗の場合も、
町の成立とともにその活動が始まり、江戸時代後半にはつねに100名程度の遊女がいて町人口の2割から1割を占めていた。
「船後家(ふなごけ)」の商売。
船に女性を乗せて各地の港を訪ね、商売がうまくいくところに居着くやり方。
あちこちの港町にすばやく遊女屋が成立するわけである。
遊女たちの境遇は、前借り給銀と引き替えに差し出す茶屋奉公人請状の内容通りで、
年季の間はいかなる事情があっても勤めを逃れることはできず、主人の考えひとつでいつどこへ移されても、またどこでどのような病気で果てようとも、何ら異議を唱えられないものであった。


・・・・・・・・・・・


段々畑


後世「白砂青松」と称される瀬戸内海の代表的景観は、膨大な燃料需要による自然の可容力を越えた林野利用の生み出したものであり、環境破壊の先進地という一面も有している。


綿糸紡績業


綿製品の輸入をおさえ日本の綿糸紡績業の育成をめざした明治政府は、官営紡績所の建設、紡績所企業者への資金貸付などで実現をめざした。
1888年倉敷紡績所、93年に福山紡績所、・・・
98年には西大寺・笠岡・松山・宇和・淡路・阿波・小豆島などの紡績所が営業しており、有数の綿糸紡績地帯を形成していた。
1880年代綿作は外国品におされて衰退した。


・・・・・・・・・・・・・・

花栽培の島

岡山県真鍋島は、昭和20年代後半、花の島として一躍有名になったことがある。
昭和26年から県の指導で6戸の農家が花の栽培にのりだした。
阪神地方に出荷したところ、飛ぶように売れたことから、栽培地が増え、またたくまに全島にひろがった。
しかし、
真鍋島の成功はほかの地域にもすぐ波及した。
笠岡半島や香川県の塩飽諸島、荘内半島でも花つくりが盛んになり、手強い競争相手になったのである。
海上距離が長い分、真鍋島は、競争上、不利な立場にあった。
それでも需要の増大に支えられて、瀬戸内海の島々と互して花つくりを発展させていった。
ところが1980年代末から沖縄から空輸による花が入ってきた。
沖縄では路地栽培である。
航空運賃と暖房費のコスト競争になったが、軍配は沖縄にあがった。

石の島の盛衰
花崗岩地帯の瀬戸内海は、古くから石材の宝庫であった。
近代に入っても、
岡山市沖の犬島は大阪築港の石の供給地として栄えたし、
国会議事堂は広島湾の倉橋島、徳山沖の黒髪島の石が使われた。
戦後に入っても、石材業は、瀬戸内の「石の島」にとって重要な収入源、雇用機会の場であった。
北木島も石材の島である。
人口別では、
農業1.200人
石材業600人
水産業122人
となっており、生産額では
鉱業12800万円
農林業4200万円
水産業300万円で、石材業の比重の高さが知られる。

1960年代にはドリル・火薬・運搬重機が導入され、
産出力ば飛躍的に増大した。
折からの高度経済成長で、「石の島」は活気づいた。
北木島では海面下75mまで掘り進められた。
しかし、
1970年代後半になると、中国などからの安い輸入石で状況は一変する。
安い輸入材に対抗できず、石切り場はつぎつぎに姿を消す。
北木島では最盛期127ヶ所あった丁場が6ヶ所になった。
今は石の加工が主となった。
加工場は島内に60ヶ所あり、年間総生産額は200億円にのぼる。
その中で北木石は1割弱である。
輸入石は福山・水島になどに陸揚げされ、そこからトラック便である。
北木島へは笠岡港からフェリーでやってくるが、それならばと、笠岡湾を埋立てた工業団地などに移転したのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする