しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「絶唱」山鳩  (鳥取県智頭)

2024年06月28日 | 旅と文学

「絶唱」の主人公・園田順吉は、
身分違いの少女・小雪を愛した物語というよりは、
身分制度そのものに反対し、自己の考えどおり下層身分の子を愛した。
言行一致の愛の物語。

単純な純愛ではない。
自己の生活や人生を懸けての愛。


二人の純愛は駆け落ちで成就するが、日中戦争の勃発によって引き裂かれた。
日中戦争から太平洋戦争がはじまった。
順吉はなぜか、除隊もなく例外的に、長期の現役兵がつづいた。
戦争が終わると、シベリアへ拘留された。
これほど万が悪い人もいない。(生きて帰れただけいいが)

だが、
小雪は長期間の”銃後”の生活に耐えきれなかった。
無理に無理を重ね、やせ細り、結核(不治の病)になって死んだ。

 

 

・・・

旅の場所・鳥取県八頭郡智頭町
旅の日・2007年4月14日 
書名・絶唱
著者・大江賢次
発行・河出書房新社 2004年発行

・・・

 

「山園田」といえば、山陰地方でも名だたる豪家で、中国山脈の北側に鬱蒼としげっている杉や檜の森林のめぼしいものは、
ほとんどといってもいいほど所有していた。
その持山の谷々からは、素戔鳴尊の大蛇退治の伝説このかた、良質な鋼のもとである砂鉄鉱と、べつに全国一の含有量をもつクローム鉱とを産出しているので、都会の実業家ほどにはめだたないけれども、資産はガッチリと文字通り大地に根を張っていた。
順吉は園田家のひとり息子で、京大へ在学中に神経衰弱になって帰郷すると、そのまま中途退学をしてしまった。


僕は、この地方でも富裕な地主の、長男として生れた。
お七夜の紅白の祝餅をくばるのに、七組の小作人夫婦が四俵も搗いたというから、これだけでみどりごの僕がどんな位置にあって、どんな寵愛の的になっていたかなずけるだろう。

 僕の幼年時代の不幸はその中で、何にも増して大きな打撃は母の死だった。
母は僕の六つの秋、結核をながくわずらってなくなった。

父には職業に貴がないことも、人間は平等でなければならないことも、世の中がはたらくものの手に移りつつあることも、
とうてい理解できなかった。
徹頭徹尾、現状維持をねがってエゴに満足していた。
だから、小作人や貧しい人たちがめぐまれるの を好まないのだ。
したがって、山番は終始山番のめぐまれない生活の連続であるべ きで、
それは山番のうまれあわせがわるいのだ・・・・・・と運命論的に断じていた。

 

智頭町「西河克己映画記念館」


なにもかもものうい僕の眼に、これはまた驚くばかりに発育をとげた小雪が映った。
かの女はみずみずしい果実を香っていた。
僕が市から市へさすらっているうちに、山鳩はすくすくと少女から生娘に成長し
すでに小雪は妹でなくなって、ひとりの召使として僕にかしずいてくれた。
かの女の 素朴であたたかいまごころは、僕の遍歴の次にめぐりあったどの女性にもないものだ った。
それは郷愁をみたす母のふところのような、おおどかな愛がゆたかにたなびいていた。
いささかの打算も駈引もない、あるがままの浄らかな献身が・・・・・ 文句なしに「実行」をしているのだ。 

僕は、よく小雪と山へ行った。
秋の山はゆたかな幸をはなむけてくれる。
栗、茸、あけび、山ぶどう、柿...一度など僕たちは革茸の群生をみつけた。
山の中でただ二人、思うぞんぶんに暮すのはたのしいものだった。
でも僕はふしぎと 小雪にみだらな気持をみじんもいだかなかった。
僕の意志ひとつでキスもできたであろうし、肉体さえ所有することもできるのにかかわらず、
思うだに虫酸が走るほど潔癖で謙虚だった。
その克己がつよければつよいだけ、小雪への愛はますます募るばかりだ。


昨日、僕ははじめて小雪へ心をこめてキスをした。
かの女は数年前の骨っぽい少女ではなくなって、ふくよかであたたかい、
神聖をやどす花びらのくちびるを素直にうけると、上体は本能が拒みのかたちをみせながら......下半身はわれしらずすり寄った。
ひっそりととじた瞼があどけなくて、上頬から額へかけてはじめての感動をともなう哀愁が、やるせなげにただよってふるえた。
静かな山ふところ、鶯がさえずるほかは、木の芽ののびる音すらきこえるほど、僕たちの抱擁は永かった。

 


「あげな山出しの小娘が、なんとこともあろうに主家の御曹司をうまくたらしこんでからに、
しかも大仰に駈落ちをするがほどの魅力が、まあ、あの小い身柄のどこにひそんでいただやら...? 
悪たれは小雪だ、あのむすめは魔性だぞ! なんでも、狐か蛇と何して生れた子にちがいないぞや」
かれらは無性に、頭から山番夫婦をにくんだ。


......それから三日して、園田順吉に召集令状がきた。
小雪といっしょになってからわずか八ヵ月目だった。
とうとう、くるべきものがやってきたのだ。
婦人たちは千人針と十二社参りでごった返すし、小学校は壮行会や見送りのために校庭と生徒が動員されて、
ろくろく授業ができない有様だった。

 

智頭町「西河克己映画記念館」

 


列車の窓で、
「わすれちゃならないことは -おたがいに心に翼をはやすことだ。 
小雪、遠く離れれば離れるだけ、かえってよけいに親しく会えるんだよ。
このことをおたがいにかたく信じようね」と、順吉は手をのばしてかの女の頭の上においた。
「ほんと、あなたもお体を大切に」
ふと、「あなたの坊主あたま、思いだす... 中学生みたい!」
順吉は、坊主あたまをなでて微笑んだ。私たちもわらった。
列車がうごきはじめると、小雪は順吉の手をにぎったまま歩きながら、ものも云わずにジイッとみつめて手を離した。
応召兵の顔がしだいに遠のいて、豆粒になり、芥子粒になり、ついに視野から消えうせる。

 

・・・

 

・・・

当時の日本は、産めよ殖やせよ を国策にしていた。(昭和16年・厚生省)
女性は21歳で結婚し、
平均5児を産む。

母は21歳で昭和17年結婚。終戦まで2児を授かった。
順吉・小雪夫婦には国策が及ばなかったのだろうか?


・・・

   (つづく)

 

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「青春の門 」筑豊扁  (福岡県田川市)

2024年06月27日 | 旅と文学

瀬戸内海地方の代表産業だった製塩は、昭和30年代初めに突然のように消えた。
山陽本線の広島県松永駅~岡山県岡山駅の線路沿い見わたす限りにひろがっていた藺草は、昭和50年頃に消滅した。

北海道から九州まで盛んだった石炭産業は貿易の自由化によって、昭和30年代に大半が閉山となった。
今ではボタ山を目で見ることができなくなった。

・・・

福岡県の筑豊炭田はもっとも有名な炭坑だった。
伊吹信介は炭鉱の町田川で生まれた。
祖父は、石炭を運ぶ遠賀川の川船船頭だった。
父は、「さがり蜘蛛」の入れ墨者だったが、落盤事故の鉱夫を救助するため自ら犠牲になった。
信介は、未亡人であり、継母であるタエの一人息子として成長していった。

 

・・・

旅の場所・福岡県田川市
旅の日・2017年2月14日 
書名・「青春の門 」筑豊扁  
著者・五木寛之
発行・講談社文庫 1972年発行

・・・

 

大きな戦争がつづいていた。
その当時は、それは大東亜戦争とよばれ、聖戦ともいわれていた。
日本は中国やアメリカなど自国の何十倍もの大きな国々と戦争を行なっていたのである。
それは後に太平洋戦争とよばれ、十五年戦争ともいわれることとなった。

 

 

筑豊の空気も、すでに信介の父親がくのぼり蜘蛛の重〉とか、<伊吹の頭領>とよばれていた時代とは、すっかりかわり果てている。
作業の現場には朝鮮から連れてこられた労働者や、徴用でやってきた独身坑夫たちが目立ってきた。
<産業戦士>などという言葉がつかわれた時代である。
これまで一度も坑内にはいったことのないような都会の一般の市民や青年たちも、送りこまれてきた。
彼らは〈報国隊〉とよばれ、はじめての苛酷な作業のなかで、事故をおこしたり、逃亡を企ててリンチにあったりした。

 


信介たちも小国民とよばれて、授業よりも作業のほうがおおい学校生活を送っていた。 
その日、信介は学校の仲間たち数人と集団下校の列を組みながら、中川ぞいの道を歩いていた。
二学期がはじまって、まもなくのころで、信介はおそらく九歳くらいだったにちがいない。
澄んだ空にアメリカ軍のB29が一機、まっ白い飛行機雲をひいて浮かんでいる。 
偵察のた 飛んできたのだろう。
その一週間まえには、B29の編隊が小倉方面を爆撃して、かなりの被害をあたえていたのだ。
「わが軍の戦闘機は、なんばしよっとじゃろかね」
と、仲間の一人が空を見あげて、くやしそうにつぶやいた。
「一機ぐらい落したって、仕方がなかろうもん」
と、信介はその子に言い、ふと昨夜、母親の所へ訪ねてきて夜おそくまで話しこんでいった徴用坑夫たちの会話をおもいだした。
<満州に関東軍という精鋭を誇る日本軍がいる。
いまわが軍は、すべての兵力と軍備をそこに集結して温存してるのさ。
いざ決戦という日まで、軍はじっと満を持して待つ気らしい〉
東京からやってきたという若い男が、信介たちには奇異にきこえる東京弁でまくしたてるのを信介は花ゴザの敷物の上でうつらうつらしながらきいていたのだ。
信介はそのことをおもいだして、みんなに言った。
「関東軍がいまにでてくる。そしたらアメちゃんにあげななめた真似はさするもんか」
「そりばってん、日本軍の高射砲じゃあすこまでとどかんけん、射たんとげなばい。兵隊さんがそげん言いよったもん」
「そげなことば言うもんな非国民ぞ」
信介は強い口調で言い、その少年の肩を突きとばした。


B29の影は南の空に、すでに見えなくなっている。
白いきれいな飛行機雲だけが青空をななめに断ち切って残っていた。
「腹が減った--」
下級生の一人がつぶやき、やけくそのような黄色い声でうたいだした。

きのう生まれた
ブタの子が
ハチにさされて
名誉の戦死
ブタの遺骨はいつかえる

 

 


そのとき、彼らの正面から一人の男の子が急ぎ足に歩いてきた。
痩せて、手脚がやけに長く、 鋭い目つきをした男の子だった。
その男の子の表情には、どこかけわしい感じがあった。
あちこちにつぎのあたった汚れたシャツと、すり切れたラミーの半ズボンをはいている。
手に大きな紙袋をさげて、こちらに歩いてくるのだ。
「チョウセンぱい」

信介の仲間の一人が道の端に寄りながら小声でささやいた。 
信介はたちどまり、やってくる男の子の通路をふさぐように腕組みした。
痩せた男の子は、紙袋を抱くようにして信介に近づいてきた。そしてすりぬけるように信介の横を通りすぎた。
信介はそれが朝鮮人の子だということをしっていた。
「おい、朝鮮!」
「どやされてもよかとか」
「ソッチガ悪イ。朝鮮人ノ悪口ヲイッタ」

その日、信介はタエにありのままにしゃべった。
タエは黙って信介の話を聞いていたが、しばらくして、
いきなり平手で信介のはれあがった頬を打った。
つづいて反対側から平手が飛んだ。
「情けなか!」
それ以上タエは何も言わなかった。
信介には、なぜ、自分が殴られたのか、
ぼんやりとわかる気がした。


・・・・

 

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父と暮らせば  (広島県広島市)

2024年06月25日 | 旅と文学

初本は1994年に新潮社から発行されてる。
作者・井上ひさしさんは、この重いテーマを
数年以上かけて調査したり、被爆者の話を聞いたりしているだろう。
1994年といえば、身内に限っても
呉から原爆のキノコ雲をみた16歳の海軍志願兵(予科練)のおじも、
原爆投下二日目に広島に入った海軍兵の義父も、まだまだ元気だった。
義父が話す地獄絵のような風景を見た人は2024年の今、もう世から去ってしまった。

 

「日本は東アジアへの侵略国で加害者であったが、
広島・長崎では非人道的兵器の被害者であった」
という、この本の論評者がいたが、それでは一つ足りない。

広島・長崎の市民は、街から転居するのを禁じられていた。
あの日、
「おとったん」は40才過ぎくらい。
「美津江」は20才くらい。
軍都広島が昭和20年8月に空襲を受けないはずがなかった。

 

 

(広島陸軍被服支廠)

・・・

旅の場所・広島県広島市 
旅の日・2018年5月3日
書名・「戦争と文学13」父と暮らせば
著者・井上ひさし
発行・集英社 2011年発行 

・・・

 

現在は昭和23(1948)年7月の最終火曜日の午後五時半。
ここは広島市、比治山の東側、福吉美津江の家。 
間取りは、下手から順に、台所、折り畳み式の卓袱台その他をおいた六帖の茶の間、そして本箱や文机のある八帖が並んでいる。

 


美津江 
うちよりもっとえっとしあわせになってええ人たちがぎょうさんおってでした。
そいじゃけえ、その人たちを押しのけて、うちがしあわせになるいうわけには行かんのです。
うちがしあわせになっては、そがあな人たちに申し訳が立たんですけえ。

竹造
そがあな人たちいうんは、どがあな人たちのことじゃ。

美津江 
たとえば、福村昭子さんのよう鼎立一女から女専までずうっといっしょ。
昭子さんが福村、うちが福吉、名字のあたまがおんなじ福じゃけえ、八年間通して席もいっしょ、
じゃけえ、うちらのことを二人まとめて「二福」いう人もおったぐらいでした。
昭子さんが会長で、うちが副会長でした。

竹造
成績もしじゅう競っとったけえのう。

美津江
(首を横に振る)駆けっこならとにかく、勉強では一度も昭子さんを抜いたことがのうて、うちはいっつも二番。 
これはたぶん、おとったんのせいじゃ。

竹造
・・・いきなりいびっちゃいけない。

美津江 
なによりもきれいかったです、一女小町、 女専小町いうてされてね。
うちより美しゅうて、うちより勉強ができて、うちより人望があって、ほいでうちを、
ピカから救うてくれんさった。


竹造
······ピカから、おまいを?

美津江 
手紙でうちを救うてくれんさったんよ。

竹造
 手紙で......?

美津江 
あのころ昭子さんは県立二女の先生。三年、四年の生徒さんを連れて岡山水島の飛行機工場へ行っとられたんです。
前の日、その昭子さんから手紙をもろうたけえ、うれしゅうてな らん、徹夜で返事を書きました。


竹造
わしはたしか縁先におった。
石灯籠のそばを歩いとったおまいを見て、「気をつけて行きいよ」

美津江
(頷いて)その声に振り返って手をふった。そんときじゃ、うちの屋根の向こうにB29 と、そいからなんかキラキラ光るもんが見えよったんは。
「おとったん、ビーがなんか落としよったが」


竹造
「空襲警報が出とらんのに異な気(いなげ)なことじゃ」、
そがあいうてわしは庭へ下りた。

美津江
「なに落としよったんじゃろう、 また謀略ビラかいね」
見とるうちに手もとが留守になって石灯籠の下に手紙を落としてしもうた。
「いけん......」、拾おう思うてちょごんだ。 そのとき、いきなり世間全体が青白うなった。

竹造
わしは正面から見てしもうた、お日さん二つ分の火の玉をの。

美津江
(かわいそうな)おとったん。


竹造 
真ん中はまぶしいほどの白でのう、
周りが黄色と赤を混ぜたような気味の悪い(きびがわりー)色の大けな輪じゃった......。

(少しの間)

竹造(促して)ほいで。


美津江 
その火の玉の熱線からうちを、石灯籠が、庇うてくれとったんです。

竹造
(感動して)あの石灯籠がのう。ふーん、値の高いだけのことはあったわい。


美津江 
昭子さんから手紙をもろうとらんかったら、石灯籠の根方にちょごむこともなかった思います。
そいじゃけえ、昭子さんがうちを救うてくれたいうとったんです......。

(いきなり美津江が顔を覆う)


美津江 
昭子さんは、あの朝、下り一番列車で、水島から、ひょっこり帰ってきとってでした。 
西観音町のおかあさんとこで一休みして、八時ちょっきりに学校へ出かけた。
ピカを浴びたんは、千田町の赤十字社支部のあたりじゃったそうです。

竹造
(唸る)うーん。

美津江 
昭子さんをおかあさんが探し当てたのが丸一日あとでした。
けんど、そのときにはもう赤十字社の裏玄関の土間に並べられとった...。

竹造
なんちゅう、まあ、運のない娘じゃのう。

美津江 
(頷きながらしゃくり上げ)モンペのうしろがすっぽり焼け抜けとったそうじゃ、
お尻が丸う現れとったそうじゃ、少しの便が干からびてついとったそうじゃ......。


(少しの間)

竹造
もうええが。人なみにしあわせを求めちゃいけんいうおまいの気持が、
ちいとは分かったような気がするけえ。

美津江
・・・・。

竹造
じゃがのう、このよな考え方もあるで。
昭子さんの分までしあわせにならにゃいけんいう考え方が・・・。

 

 

・・・

 

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「きけわだつみのこえ」日本戦没学生の手記  (鹿児島県鹿屋市)

2024年06月23日 | 旅と文学

戦没学生とは、学生身分の軍人で戦死した人。
大方が幹部候補生で、一般兵より身分が高かった。
高等教育を受ける人は限られた数のエリート層だっただけに、
戦没学生の手記は戦後社会へ反響も大きかった。

この手記の本は映画化され、管理人も学校の講堂で映画を観た。
「死んだ人々は還ってこない以上、生き残った人々は、何が判ればいい?」
二等兵役の信欣三の表情が印象的だった。

 

・・・

旅の場所・鹿児島県鹿屋市今坂町「特攻慰霊塔」 
旅の日・2013年8月10日
書名・「きけわだつみのこえ」日本戦没学生の手記  
発行・東京大学出版会 1952年

・・・

 

大塚晟夫
中央大學學生。昭和二十年四月二十八 日、沖縄嘉手納神で戦死。二十三歳。

昭和二十年四月二十一日
はつきり言ふが俺は好きで死ぬんぢやない。
何の心に残る所なく死ぬんぢやない。國の前途が心配でたまらない。
いやそれよりも父上、母上、そして君達の前途が心配だ。
心配で心配でたまらない。
皆が俺の死を知って心定まらず悲しんでお互ひにくだらない道を踏んで行つたならば俺は一體どうなるんだろう。
皆が俺の心を察して今迄通り明朗に仲好く生活して呉れたならば俺はどんなに嬉しいだらう。
君達は三人共女だ。
之から先の難行苦行が思ひやられる。
然し聰明な君達は必ずや各自の正しい人道を歩んでゆくだろう。
俺は君達の胸の中に生きてゐる。
會ひ度くば我が名を呼び給へ。

四月二十八日
今日やる事は何もかもやり納めである。
搭乗員整列は午後二時、出発は午後三時すぎである。
聞きたいことがあるやうで無いやうで変だ。
どうも死ぬ様な気がしない。
一寸旅行に行くやうな軽い氣だ。
鏡を見たって死相など何慮にも表れてるない。
泣きっぽい母上ですから一寸心配ですが泣かないで下さい。
私は笑って死にますよ。
私が笑ひますから母上も笑って下さい。
午前十一時
東京はもう櫻が散りかけてゐるでせう。
私が散るのに櫻が散らないなんて情けないですものね。
散れよ散れよ櫻の花よ、俺が散るのにお前だけ咲くとは一体どういふわけだ。
之から食をとつて飛行場へ行く。
飛行場の整備でもう書く暇ない。 
之でおさらばする。
大東亜戦争の必勝を信じ、
俺はニッコリ笑って出撃する。

林 市造
京大経済学部學生。昭和二十年四月十二日特別攻撃隊として沖縄にて職死。二十三歳。

元山より母堂へ最後の手紙
この手紙は出撃を明後日にひかへてかいてゐます。
お母さん、たうとう悲しい便りを出さねばならないときがきました。
親思ふ心にまさる親心今日のおとづれ何ときくらむ、この歌がしみじみと思はれます。
ほんとに私は幸福だつたです。我ままばかりとほしましたね。
けれどもあれば私の甘へ心だと思つて許して下さいね。
晴れて特攻隊員と選ばれて出陣するのは嬉しいですが、お母さんのことを思ふと泣けて来ます。
母チャンが私をたのみと必死でそだててくれたことを思ふと、何も喜ばせることが出来ずに、
安心させることもできずに死んでいくのがつらいです。

 

上原夏司
慶大經濟學部學生。昭和十八年十二月入隊。二十年五月十一日 特攻隊員として沖縄にて戦死。二十二歳。

所感

栄光ある祖国日本の代表的攻撃隊とも謂ふべき陸軍特別攻撃隊に選ばれ、
身の光榮之に過ぐるものなしと痛感致して居ます。
思へば長き学生時代を通じて得た、信念とも申すべき理論万能の道理から考へた場合、
これは或は、自由主義者と謂はれるかも知れませんが自由の勝利は明白な事だと思ひます。
人間の本性たる自由を滅す事は絶対に出来なく、例へそれが抑へられて居る如く見えても、
底に於ては常に闘ひつつ最後には必ず勝つと云ふ事は彼のイタリヤのクローチェも云つて居る如く眞理であると思ひます。

(慰霊塔横の記念碑)

今日もまた黒潮おどる海洋に 飛びたち行きし友はかえらず

 

 

・・・

昭和20年6月23日、沖縄戦が終わった。

 

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ひめゆりの塔  (沖縄県糸満市)

2024年06月23日 | 旅と文学

昭和20年の日本の学生は、
男子は19才から兵役義務、
男女とも、大学・高校・中等学校は1年繰り上げ卒業、
大学・高校・中等・国民学校は一年間学業なし(休学)、
あるのは、
徴兵・志願兵・学徒動員・食糧増産・開墾。

そんな中、沖縄県は戦場となり、住民も戦闘事態になった。
全国の高等女学校では、全校生徒が学徒動員の報国団が結成されていたが、
沖縄県の女学校は前線に向き合う事態になった。
女学生たちは、戦場の中で兵とともに死んでいった。

 

・・・


ひめゆり学徒隊

看護要員として軍に動員された沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒による女子学徒隊。
南風原の沖縄陸軍病院に配備され、負傷兵の看護などにあたった。
だが、戦況悪化のため、1945年5月末には病院の移転とともに南部に移動。
6月18日、戦場の中に置き去りにされたために犠牲者は増え、最終的には教師を含めて動員された240人のうち136人が亡くなった。 
沖縄県における高等女学校生徒などによる学徒隊としては、このほか「白梅」「なごらん」「瑞泉」「積徳」「梯梧」などがあった。


「昭和時代」  読売新聞社 中央公論 2015年発行

 

・・・

旅の場所・沖縄県糸満市「ひめゆりの塔」
旅の日・2012年12月18日
書名・「ひめゆりの塔ー学徒隊長の手記ー」
著者・西平英夫
発行・雄山閣 平成7年発行

・・・

 

「ひめゆりの塔ー学徒隊長の手記ー」 西平英夫 雄山閣 平成7年発行


どの壕を訪れても重患でいっぱいであった。
時には通路にさえ担架のまま寝かされていた。
壕内は重患のうめき声と耐えがたい腐臭で満ちていた。
奥にはいればはいるほど薄暗い急造カンテラに照らされている光景は凄惨であり、すぐにも目まいが来そうであった。
その中にあって学生は寝もやらず立ち働いていた。

生徒たちから聞いたことなどもふくめてその時のようすを記しておこう。
慣れた患者は「看護婦」と呼ぶかわりに「学生さーん」と呼んでいた。
四、五十人を収容している壕では、この「学生さん」と呼ぶ声が随所にあった。
呼ばれるたびに生徒はバネ仕掛けのように立ちあがった。
小便をとってくれと言う者、
水が欲しいと言う者、
隣りの患者を訴える者、
上の患者を訴える者、
それはさまざまであった。 
身動きも出来ない重患には、すべての生命が学生に託されているようなものであった。
それを思うと 生徒たちはどれだけ疲れていても、じっとしてはいられなかった。


治療が始まると、
「アイタッタ.....」「ウ!!」とうなる声、「バカ! 軍人のくせに泣くやつがあるか!」と 威圧する声が次第に壕の奥に移動していって、
後は次第に不思議な安静の気が壕を満たしていく。
時には「この患者は少し切開する。 足をつかまえておけ」 
と、言うが早いかメスを取って傷口を十センチあまり「ぐさっ」と切ってしまう荒治療に急にふらふらとして、
「これくらいで貧血をおこして役に立つか。バカ野郎!」と、
どやされることも一再ではなかった。
しかしほどなく慣れた生徒は、手ぎわよく働くようになって、四、五十人の治療もわずか四、 五十分で済んでしまうようになっていった。

食事の面倒をみることも仕事の一つであった。
それは玄米飯のボールほどのにぎり飯であったが、
患者は一つずつ順々に配られていくのを咽喉を鳴らして待っていた。
子供におやつをやる時のように、食事の前には汚れた手を水できれいにふいてやらねばならなかった。
さし出された手の上に一つずつおにぎりを配るしぐさも、おやつを配る時によく似ていた。
母性本能が自然に働くのであろうか、どの生徒もよく面倒をみてやっていた。

重患には水を欲する者が多かった。 
「水をください」の声には生徒たちは思わず眉をひそめた。
「水は飲んではいけません。傷口が悪化します。すぐよくなりますから辛抱してください」と必死になってなだめる。
しかし死期の近づいている患者にはどうしても水を飲ませてやらなければならない。
生徒たちはよくそれを見わけて行動するようになっていた。
そのためには時には弾雨をおかして水を汲みに出ることもあった。
敵の攻撃の中断するのは決まって朝夕のほんの三、四分であったが、
その時にはどの壕からも水筒を五つも六つも肩にかけた生徒が水を汲みに井戸に集まっていた。

 


またこの時にはどの壕からも担架をかついで四報患者(死亡者)を運び出していた。
せっかくよくなりかけた傷も栄養不足のために衰弱して骨ばかりになって音もなく死んでいく患者もあれば、
昨日まで元気で第一線に早く出たいと言っていた患者がガスえそのため、 翌日は傷口が風船のようにふくれ上がって死にいたる。 
破傷風のためしきりに苦痛を訴えながら全身をけいかんさせながら死んでいく者など、多い時には一つの壕に五、六人も四報患者が出る。

しかし朝夕のわずかな空襲のあい間に埋葬するのだから、埋葬といっても穴を掘って埋めるのが精いっぱいで、
二、三間おきにある弾痕にくずれた坂道を運ぶことが、すでに大きな苦労であった。 
墓標などはいつの間にか立てられなくなり、
終りには昨日の塚が再び弾雨を受けて今日の墓穴になるようなありさまであった。

こうした活動のためにどの生徒も疲労でいっぱいだった。
生徒は一日に四、五時間、荷物箱の上や柱によりかかって休養するのみであった。
席はないのかと尋ねると、決まって「患者を寝かす所がないのですから仕方ありません」と答えた。
無理をするなと席をとってやってもまたすぐ患者に提供してしまうのである。

 

 


六 恨みの転進

いつのまにか戦線は首里・那覇をとりまく首陣地に移っていた。
敵は物量作戦の威力を発揮して日本軍陣地の徹底的破壊を試みた。
病院陣地からも前面の首里や識名が攻撃されるのが手にとるように見られるようになった。
そこは 昼夜の別なく主力艦の巨砲から撃ち込まれた。
三連発の主砲から撃ち出される砲弾は「ドドドッ」「ド ドドッ」と火花をあげて、山の一方から他方へと何回となく炸裂していった。
樹木が飛び、人が飛ぶ凄絶な光景はむしろ美しく冴えて見えた。
「○月○日赤い標燈をつけた飛行機から降下されるのは友軍であるから敵と間違えないように」。
こんな情報が伝えられたのもこのころであった。
「いよいよ友軍の空挺隊が来るぞ」 「敵ははさみ撃ちだ」などと、われわれはその戦果を期待した。

それにもかかわらず南風原(はえばる)には東からも西からも機関銃や小銃の音が聞こえるようになって来た。
与那原や安里のほうに敵が進出して来たものと思われた。
このような情勢の中で、首里に命令受領で出頭していた病院長が帰って来た。
命令は次のようなものであった。
「沖縄陸軍病院は五月二十八日までに山城地区に転進し二千名収容の陸軍病院を開設すべし」。
それは五月二十五日の明け方のことであった。
これを聞いた瞬間、私は頭の先までじーんとしびれていくのを感じた。
水をうったような沈黙がやがて一方から崩れていって院内には名状しがたいどよめきが広がっていった。
二千名を越える重患をどう処置するのか。
われわれ学徒は何をするのか。
傷ついている生徒をどうするのか。
こんなことが私の頭の中を駆け回った。

戦線は日一日と縮少され、危機は刻一刻われわれを取りかこんでいった。
敵機は一人でも人影を認めると機銃掃射を加えて来た。
一つの集落に一つの井戸、地下水のわくところを掘り広げて小池のようにした所に村中の人が水をくみに集まるのである。
これをどうして敵が見逃がそう、井戸は一変して血の池地獄と化してしまった。

 


九 終焉

大度(おど)の海岸は敗戦の悲哀をこめて明けていた。
戦いに敗れ指揮を失った兵隊がよれよれの軍服をまとって右往左往していた。
「敵はついそこまで来ているぞ」と後ろから駆けぬけて行く兵隊があるかと思えば、
前から来る兵隊は「お前ら、どこへ行くだ。摩文仁にはもう敵が来ているぞ。おれたちは今そこから引き揚げて来たんだ」
と尋ねもしないのに言い捨てて足早に去って行く。
大渡の松林まで行ったが、その中には幾人もの死骸がころがっているので危険だと思った。
小川の縁に待避しようすると、小川には、まりのようにふくれあがった死骸がいくつも浮いていた。
「阿檀〔熱帯性常緑低木〕の陰にはいろう」と岸本君が言ったが、私はその気にならなかった。 
「今日はもう最後の段階だ。日本軍のいそうな林やジャングルの中は必ず攻撃される」こんな気がしたのであった。
せっぱつまって畑の中にたこ壷を掘るよりほかないと考えた。
 比較的柔らかそうな所を見つけて、たこ壺を掘りにかかったが、 手掘りでは二十センチも掘るとそれ以上はどうにもならなかった。
その時すでに例の悪魔の使いトンボ(敵機)の爆音がきこえて来た。 
「早く掘れ」と言ったが「どうにもなりません」 と言う悲痛な叫びが返って来るばかりであった。

 

 

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竜馬がゆく  (高知県高知市)

2024年06月22日 | 旅と文学

日本国内にある銅像数は、弘法大師と二宮金次郎が群を抜いて多いと思える。
お大師さんは寺院だけでなく、日本全国の街道・路傍に建っている。
金次郎さんは、ほぼ小学校に集中している。

では次に銅像が多い人は?
たぶん坂本竜馬ではないだろうか。

この人の像の特色は近年に造られた像が多い。観光地に多い。
更に言えば、
2010年NHK大河ドラマ、福山雅治主演の【龍馬伝】の放送がきっかけで、
縁の地を観光地化し、その土地に観光目的の銅像が数多く立った。

 

 

・・・

旅の場所・高知県高知市上町・坂本龍馬記念館
旅の日・2015年2月28日 
書名・竜馬がゆく
著者・司馬遼太郎   
発行・文春文庫 1998年発行

・・・

 


竜馬は、十二になっても寝小便をするくせがなおらず、近所のこどもたちから「坂本の寝小便ったれ」とからかわれた。
からかわれても竜馬は気が弱くて言いかえしもできず、すぐ泣いた。

十二のとき、ひとなみに父は学塾に入れた。
ところが、入塾するとほとんど毎日泣いて帰るし、
文字を教えられても、竜馬のあたまでは容易におぼえられない様子なのである。
ついに、ある雨の夜、師匠の楠山庄助が たずねてきて、
「あの子は、拙者には教えかねます。お手もとでお教えなされたほうが、よろしかろう」
見はなされたのである。
「えらい子ができたものじゃ。この子は、ついに坂本家の廃れ者になるか」
兄の権平もにがい顔をしていた。


(略)

--龍馬はつよい。
という評判が城下にたったのは、この正月の日根野道場における大試合からである。 
竜馬は、はじめ三人の切紙と立ちあってそれぞれ初太刀でしりぞけると、つぎに古参目録者ふたりの面と胴をとった。
試合の翌日、日根野弁治は、小栗流の目録をあたえた。 
わずか十九歳である。
異例だった。

 

 

 

(桂浜)

 

 

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「太平記」船上山行宮  (鳥取県琴浦町)   

2024年06月21日 | 旅と文学

1332年。
天皇は二人。
元弘2年で、正慶(しょうきょう)2年。
後醍醐天皇は討幕失敗で隠岐の島に流罪となった。
島から脱出し船上山に立てこもった。

 

船上山は絶壁が城塞のように続く山。
ここで後醍醐天皇は名和長年と、幕府軍と対峙した。
後醍醐天皇は約80日間ほど、船上山に滞在していた。

 

・・・

旅の場所・鳥取県東伯郡琴浦町山川・船上山
旅の日・2010年11月5日 
書名・太平記
作者・不詳
現代訳・「太平記」 森村誠一 角川書店 平成14年

・・・

 

 


人の梯子

隠岐の島前島後には、蒙古来襲以来夷狄の侵入に備えて、各島の見晴らしのよい場所に番所が設けられている。 
後醍醐配流前はもっぱら外敵の侵入に備える監視所であったのが、その後は後醍醐奪還に備えるための侍の詰め所になっている。


「其方、これより長年と名乗れ」
そのとき後醍醐は又太郎に長年という名前をたえた。

「当面の敵は隠岐の守護である。帝に島より逃げられ奉りて、 立場上黙視できまい。
必ずや兵を催し、帝を奪い取りるために押し寄せて来るであろう。
まず船上山に急げ」

一族を督励して武装をも慌しく、後醍醐を船上山に奉戴することにした。
この有事に際して、名和一族が多年蓄えた富力がものを言った。
長年は近郊の住民に、
「名和一党船上山に立て籠り、帝ご親征の旗揚げを仕る。 
我が領倉にある兵糧を一荷運ぶ者には銭五百文をあたるべし」
と触れをまわし、領内から五千の人夫を動員して、一日のうちに兵糧五千石、白布五百反を山上に運び上げた。

 

 

船上山は長年が見立てた場所だけあって、大山の主稜からら東北に矢筈山、甲ヶ山、 勝田ヶ山、船上山とつづき、
北方には豪円山、鍔抜山、東南には鳥ヶ山、擬宝珠山などの火山群を連ねている。
標高六百十六メートル。東西を勝田川と国府川の峡谷にはさまれ、
山勢険しく、守るに 易く攻めるに難い天然の要害である。

この船上山大山寺に行在宮を設け、名和の手勢百五十名が護った。 
後醍醐は大山寺に着御すると同時に、綸旨を近国武将に発して、親征軍の錦旗の下に速やかに馳せ参ずるように求めた。
「尊皇有志が駆けつけるのが早いか。隠岐の追手が攻め寄せるのが早いか」
後醍醐や長年の懸念はその一点にあった。


「よいか。これは帝のご親征の第一歩を進める戦 いである。この戦いを勝ち抜くことが、帝の都還幸の第一歩となるのだ。石にかじりついても支えよ。
最後の一兵となるまで帝を守護し奉れ」
長年は部下に悲壮な命令を下した。


二十九日、案じられたとおり隠岐の判官の追手約三千余騎が攻め寄せて来た。
名和一族だけで約二十倍の大軍を支えなければならない。


「正成殿も五百の寡勢をもって十万の大軍を支えておる。 
我らが三千の寄せ手を支えられぬはずあるべきや」
長年は部下を督励した。
ここで敗れたら、せっかくの後醍醐の脱島が水泡に帰する。

 

 

このとき勝利の女神が名和勢に微笑んだ。
寄せ手の一将、伯耆の守護代佐々木弾正左衛門が麓の本陣で采配を振っていたが、
流れ矢に右目を射抜かれ討ち死にした。
佐々木の手勢五百は主将を失って戦意が萎えた。


隠岐の判官佐々木清高はわずかな手勢を引き連れて命からがら隠岐へ逃げ帰ったが、
島民から愛想づかしをされて、追放され、風と潮流に任せて敦賀へ漂着した。
その後間もなく六波羅滅亡とほぼ時を同じくして、近江国番場の辻堂において自ら腹を切って死んだ。

この合戦の勝敗は、朝幕の潮流を分ける重要な分水嶺となった。
幕府は後醍醐脱走の報告を受けても、
その主力精鋭軍を千早城に釘づけにされているために、船上山に援軍を送る余力がなかった。

幕府軍が船上山において一敗地にまみれると知るや、後醍醐脱走後の成り行きを凝っと見守っていた各地の日和見勢力が、草木も吹き靡くように後醍醐へ靡いた。


本来北条の勢力であった出雲の守護塩冶高貞が後醍醐の膝下に馳せ参ずると、
出雲、伯耆、因幡三か国のおよそ弓矢に携わる武士という武士はこぞって駆けつけて来た。


さらには石見、安芸、備後、備中、備前、また 遠くは四国、九州の有志が我先にと船上山に参陣して、
その勢力はたちまち張れ上がった。
名和長年は一党の命運を懸けた賭けに勝ったのである。 
後醍醐隠岐より船上山へ還幸の報知は全国へ飛んだ。 
後醍醐は船上山大山寺に第一橋頭堡を築くと、西国、九州の有志に討幕の詔勅を発した。
後醍醐の隠岐よりの還幸は各地の反幕勢力に火をつけ、たちまちその火勢を強めながら燃え拡がっていった。

 

 

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「太閤記」高松城水攻め  (岡山県岡山市)

2024年06月21日 | 旅と文学

高松城水攻め⇒本能寺の変⇒城主・清水宗治湖上で切腹⇒中国大返し⇒山崎の戦い
戦国時代最大の連続した出来事であり、歴史上も重大な事件。

史書に、小説に、映画に、テレビに、ゲームに、漫画に、絵本に、・・・頻繁に
登場するが、歌はない。


高松城主・清水宗治は為政についての資料は何も残ってないが
辞世の句、一句で今も名を高松の苔に残している。


~浮き世をば 今こそ渡れ武士の 名を高松の苔に残して~

 

・・・
旅の場所・岡山県岡山市高松・高松城跡
旅の日・2023年7月16日
書名・「太閤記」
原作者・小瀬甫庵
現代訳・「古典文学全集・13太閤記」 ポプラ社 昭和40年発行  

・・・

 

高松城水攻め

 

年があけると信長は、甲州へ兵を進め、家康と力を合わせて、武田をほろぼしました。
武田勝頼は、三月十一日に天目山で家族の者と自殺してしまいました。

いっぽう、秀吉も今年こそ毛利を降参させてしまおうと、中国攻撃にとりかかり、三月十五日に姫路を
出発して岡山へ寄り、宇喜多の兵力と合わせて三万八千の軍兵をひきいて、備中へ攻めこみました。


城将 清水宗治がてごわい敵であることを知っていましたので、秀吉は、蜂須賀彦右衛門と黒田官兵
御を使者にして、降参するようにすすめたのですが、なんとしても承知しません。
力攻めにすればもちろん味方にもたくさん死傷者がでます。
竜王山の本陣から高松城をながめていた秀吉は、黒田官兵衛を呼びました。
「官兵衛。この城をひぼしにするにはどうしたらいいだろう。」
「城のうしろは立田山・つつみ山 竜王山にかこまれ、前は泥田ですから、こっちから攻めていっては
けが人がたくさんでます。
兵力をすこしも傷つけずに城を落とすのは水でしょう。」


「わしもそう思っていたのだ。城兵は五千人ほどいる。あれがひと足も外へ出られぬようにしておけば、
城内の食糧はたちまち食いつくしてしまうにちがいない。
いまは梅雨どきで川の水はぐんぐんふえている。あれをしめきろう。」
秀吉は、七八人の供をつれただけで、門前村から蛙が鼻まで四キロほどを、ゆっくりと馬を進めました。
そのうしろにところどころ目じるしの旗をたてました。
「いまのところへ今夜じゅうに塀をつくれ。
 一町(約一〇九メートル)ごとにやぐらをつくれ。」

 
蜂須賀彦右衛門は、すぐに人夫を狩り集めて工事にかかり、ひと晩のうちに塀とやぐらをたてました。 
やぐらには鉄砲組と槍組をのぼらせ、やすみなく城にむかって矢を射こみ鉄砲をうちかけましたので、
城兵もしきりにやぐらめがけてうってきました。
そのあいだに塀の外では人夫たちが、土や石をはこんで土手をつくりました。
土手づくりには兵士たちも総動員されましたから、わずか三日で四キロの土手ができあがりました。

いよいよ川をしめきるときがきました。
ちょうど運よく雨が降りだして、川の水がどんどんふえてきました。
黒田官兵衛は、二千人の兵士を川岸へ集めました。
土をつめた俵を何千俵もつくり、千人ばかりの人夫を待機させました。
「さあ、軍勢はみんないちどに川へはいって、川上へむかって押していけ。」
とともに二千人の武者が、どっと川へ飛びこみ、えいっえいっと武者声をあげては手を組み合い、
びったりとかたまりあって川をのぼりはじめたので、川の流れは人の群れにせかれてとまってしまいました。
「それぇ、土のうをぶちこめ。」
声の下から川の中へ土のうがいちどに投げこまれましたので、たちまち川の水はせきとめられ、
みるみるうちに城下の町や村や田畑を水の底へしずめていきました。

高松城をすくうために、毛利輝元も腕を組んでいたわけではありません。
小早川隆影・吉川元春が三万の軍勢をひきいてかけつけました。
高松から二十四キロほどはなれたところに陣取ったのです。
秀吉は、一万の兵を川の岸に集めて敵の進撃をくいとめました。
川の水がふえていて、毛利勢も渡ることはできません。
日差山・岩崎山には吉川勢・小早川勢の旗のぼりが林のように立っていましたが、さっぱり動かない
水はどんどんとふえてきて、城はとうとう水の中につかってしまいました。


五千人からの人ですから小舟ではこびだすことはたいへんですし、そんなことは実行不可能でした。 
そのままにしておけば、鳥取城の二の難です。
小早川隆景は、便を城将清水完治におくり、
『助けたいのだが、どうにもならないから降参して城内の兵士を助けろ。』
との手紙をわたしました。 
官兵衛は、すぐに、安国寺恵と会って講和をすすめました。
四日の朝、宗治が切腹するというので、小舟に酒やさかなを乗せて贈りました。
宗治は、小舟に乗って蛙が鼻へこぎよせ、秀吉の陣屋の下で見事に腹を切って死にました。
宗治のりっぱな最期をみとどけて、秀吉は、講和の約束の書類に署名をしました。

 

 

・・・

 

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「太平記」桜井の別れ   (大阪府桜井宿跡)

2024年06月20日 | 旅と文学

昭和20年、終戦と共に、日本は平和日本となり
「軍神」は日本から消滅した。

その日から80年、令和の日本で軍神の名さえ忘れ去られようとしている。
日露戦争・旅順港の広瀬中佐、
昭和7年上海事変の爆弾三勇士、
真珠湾攻撃の九軍人、など。
なかでも、国民的英雄として扱われたのが”大楠公”こと、楠木正成。


大楠公は”戦の神”であり、現人”神”の忠臣で、
神が重なり戦前では最高・最大の軍神だった。

庶民がつくり上げた神でなく、国家がつくり上げた神で、
学校教育で児童が学んだのが特色な神。
天皇(南朝)の為に一族は無私な心で、天皇を助け、命を投げ打つ。

戦前の笠岡男子小には「楠公父子」、笠岡女子小には「楠公母子」の銅像があった。
(今はない)
東京の皇居外苑には、戦前からの「大楠公」像が今も残る。
そこに銅像の説明はあるが、楠木正成の説明はない。
(楠公よりも住友が大切なのか?)
説明板がないと、現代人は楠木正成・正行を知らない。
唱歌で習わないし、国史はなし。
楠公父子を知る機会がない。

・・・

 

「大阪府の歴史」 藤本篤  山川出版社 昭和44年発行

―桜井の訣別―

父上いかにのたもうも 見捨てまつりてわれ一人
いかで帰らん帰られん この正行は年こそは
未だ若けれ諸ともに 御供仕えん死出の旅

「自分は死ぬが、父に代わって天皇様を助け最後まで守りつくすように」と、
よくよく分かるように悟され・・・

南北朝の時代の争乱は、摂河泉の争奪戦ともいわれている。
九州で勢いを盛り返した尊氏、弟の義直は海陸呼応して東上してきた。
くいとめるため出陣した楠木正成は、途中、
桜井の駅(三島郡島本町)において、嫡子正行を河内におくりかえすとき、
最後の教訓をあたえた。

ときに正行は10歳であったという。
この話は「太平記」にのせられたもので、太平洋戦争の敗戦前までは、
小学校の教科書にもとりあげられ、歌にもうたわれて有名であった。

しかし、明治時代の学者から、つくりばなしではないかといわれていた。
その理由は、当時正行は左衛門少尉の官職をもち、成人に達していたはずであること、
このころ正行の書いたものをみると、とても10歳くらいの少年の文字とは思えないこと、等々である。

 

・・・

旅の場所・大阪府三島郡島本町桜井  桜井駅跡史跡公園
旅の日・2021年11月4日 
書名・太平記
作者・不詳
現代訳・「太平記」 森村誠一 角川書店 平成14年

・・・

 

 

桜井の訣別

この日五月二十一日、正成一行は摂津国島上郡桜井の宿において宿営した。
当時の都へ上る交通の要衝で、戦乱の都度兵火に見舞われている地域である。 
桜井のすぐ東で桂川、 宇治川、木津川の三川が合流し淀川となる。
対岸には石清水八幡宮がある。


まだ陽は高かったが、 正成は桜井の宿で兵馬を停め宿営を命じた。
馬上悠然と揺られて来た正成は、常とまったく変わらぬ表情であったが、深く心に期するものがあった。
生きてふたたび帰らぬ戦さという正成の決意は、彼に従う約一千の将兵に伝わっている。
このとき正成は四十三歳、楠木一族の命運を懸けて、後醍醐を支持して蜂起したが、
ついに決して勝てぬ戦いへ一族を導いてしまった。
その責任を正成はいまひしひしと感じている。

 

「今宵はこの地にてゆっくりと兵馬を休めよう。
お主たちも充分に休め」
正成は家臣に言った。
兵士専門の娼婦もいて明日なき兵士にこの世の名残りの歓を尽くさせる。 
正成が桜井の駅に兵馬を休めたのは、生きて帰る当てのない軍旅の将兵にせめてこの世の最後の名残りを惜しませたかったからである。
正成はここで気前よく兵士たちに軍費を分けてやった。
兵士は歓声を上げ酒や女に群がった。

 

宴が果てて家臣たちがそれぞれの寝所へ引き取った後、その場に正成と正行二人が残された。
「正行、これへまいれ」
正成の手がつと伸びて、正行の肩に置かれた。 
「そなた、何歳に相なる」
と正成が問うた。
「十二歳でございます」
「おお、そうじゃったのう。 顔をよく見せよ。」

常々威厳に充ちている父の面が、今夜は穏やかに優しい。
「そなた、明朝この地より河内へ帰れ」
正成が突然言った。
「なに故でございますか。私も父上のお供をいたします」
「それはならぬ。そなたにはわしの留守の間河内と母者や弟たちを守ってもらわなければならぬ」
「正行は楠木家の嫡男。 父上と共に死にとうございます」
「そなたはまだ十二歳じゃ。軽々に死を口にしてはならぬ。
楠木家の嫡男であればなおさら、父の代わりに河内と母者や弟たちを守らなければならぬ」

この度の出陣は万に一つの生還も期せぬ死刑場への道である。
正行には父の愛情がわかった。

「正成が討ち死にすれば、天下は足利のものとなろう。だが一時の命を助からんために多年の忠節を失い、節を屈して足利に降ってはならぬ。
金剛山に立て籠り、一族門葉ただ一人となっても戦え。 
それがそなたが父から引き継ぐべき楠木家の道じや。
決してあきらめてはならぬ。それこそそなたの第一の孝養と心得よ」

正行の頬がいつの間にか濡れている。
正行にとって正成は父としてよりは一族の長の象徴であった。
常に威厳に溢れ、厳然としていた。 
又は嫡男としての正行を特に厳しく薫陶した。
正行には常に一族の統領として振舞った。

「わかりました。正行は河内へ帰ります」
「おお、聞き分けてくれたか。それでこそ我が子じゃ」
「父上」
「はは、死ぬと決まったわけではない。また生きて河内で会おうぞ」
親子は手を取り合った。


桜井の宿に別れを告げた行く者と帰る者は、二度と会うことはなかった。

 

 

 

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陸奥爆沈  (山口県周防大島「陸奥記念館」)

2024年06月19日 | 旅と文学

昭和18年1月7日、戦艦陸奥が柱島沖で突然爆発して沈没した。

乗員1.474人、うち助かった人353人。
艦内にいた人は全員死亡、甲板にいた皿洗いなどの新兵が助かった。
助かった人は別れながらも、南洋の戦場へ飛ばされた。

事件は徹底的に隠されたので、
死んだ人にも、しばらく給金が送金された。
死んだ人は、その後に別の場所で死んだことになったのだろう。

陸奥爆沈の原因はわかっていない。
内部調査であり、調査書等はもとからないのだろう。
あったとしても、敗戦後、まっさきに焼却処分しているはず。
可能性が高いと言われるのが作者の言う人為爆発説。

 

吉村昭は、軍の密閉した体質をとことん・・・
それを、いつものようにたんたんと・・書いている。

・・・

旅の場所・山口県大島郡周防大島町東和・陸奥公園「陸奥記念館」 
旅の日・2013年4月25日 
書名・「陸奥爆沈」 
著者・吉村昭 新潮文庫 昭和54年発行

・・・

 

 

「陸奥爆沈」 吉村昭 

 

昭和四十四年四月三日早朝、私は、農業専門月刊誌の編集次長山泉進氏と防予汽船の小さな定期船で岩国港をはなれた。
私は、前々日の午後東京から全日空の中型旅客機で広島空港に降り、タクシーで岩国市に入った。
私の仕事は、岩国市の紹介紀行文を書くことで、山泉氏がカメラマンを兼ねて同行してきてくれたのである。


「桂島に行ってみませんか」
と、山泉氏に言われた時、私は当惑した。
桂島という地名は、私も熟知している。
その島の近くの海面は、戦時中内地での連合艦隊最大の根拠地で、柱島泊地と称され多くの艦艇が集結した。 
その広大な海面の周辺には、多くの島が点在していて艦艇の望見されることを防ぎ、海面もおだやかで投錨地としての条件をそなえていた。
艦の修理・改造・諸試験にすぐれた設備と能力をもつ呉海軍工廠や弾薬、糧食その他を補給する呉軍需部も近く、
その上大燃料庫ともいうべき徳山要港からの重油の供給を受けられるという利点にも恵まれていた。

 


昭和十八年六月八日正午頃、
柱島泊地の旗艦ブイに繋留中の戦艦「陸奥」(基準排水量三九、〇五○トン)は、大爆発を起して艦体を分断しまたたく間に沈没した。


夜になると、軍艦が爆発して沈没したらしいという噂が各戸につたわった。
そしてそれを裏づけるように、翌朝島の周囲の海面一緒におびただしい重油が流れてきて、海軍のハンモックや兵の衣類なども岸に漂着するようになった。
島は、騒然となった。


そのうちに、住民たちの間にさまざまな話がひそかに流れるようになった。 
柱島の近くの無人島に小舟で貝をとりにいった或る少年は、波打ちぎわに横たわった水兵の死体を見て恐しくなっ逃げ帰った。
また桂島の南端にある洲で、死体にガソリンをかけて焼いているのを遠くから目撃したという話も伝ってきた。

呉鎮守府から警備隊員が乗りこんできて、島の住民を厳重に監視するようになり、住民たちを 一種の恐慌状態におとし入れた。
島から岩国港まで通う定期船が桟橋につくと、張りこんでいた私服が乗ってきた住民に近づいてきて、
「大きな軍艦が沈んだそうだね」
と、なに気ない口調で声をかける。
「そうらしい」
と答えた者は、一人の例外もなくそのまま憲兵隊に連行された。
また爆沈海面に近い大島でも、
「軍艦が沈んだらしい」
と、口にした者多数が連行された。


呉警備隊は、まず陸奥爆沈の事実を一般にさとられぬ方法として、漂着死体やそれに準ずる浮物の収容につとめることになった。
ただちに警備隊二ヶ中隊が編成され、漂着物の流れる可能性のある島々や諸島水道等に急派した。
「ところが、ニヶ中隊を編成したものの、なんの目的で任務につかせるのか説明するわけにはゆきません。
しかし、それでは趣旨が徹底しないし、全くあの時は困りました。
小隊長以上には 『陸奥』のことを話す必要があるだろうという意見を述べる者もいて、その是非で大激論を交しました。
結局、小隊長以上を呼んで、決して他言はするなと厳しく念を押して『陸奥』のことを話し、出発させたのです」
山岡氏は、苦笑した。
しかし、警備隊二ヶ中隊といえば四五〇名にも達するので、行動の目的をさとらせぬための配慮もはらった。
ニヶ中隊は細かく分けられ、小グループずつ出発させた。しかも、陸上での移動は目立つので、呉から舟にのせて任地に赴かせた。


焼骨には、石油、重油、木材が使用されたが、殊に木材は多くを必要とし、柱島や他の島々で 買い求めると爆沈の事実をかきつけられるおそれもあるので、
呉軍需部からひそかに団平船で運ばせた。

「陸奥」乗組の生存者は、「扶桑」「長門」の艦内で監禁同様の処置を受け、「長門」「扶桑」乗員 との私語も禁じられた。
かれらの所属は失われていた。
集合時には、「『陸奥』乗員、集れ」と命じられていたが、「扶桑」では「第二十四分隊」 と呼称されるようになった。
かれらは、死体収容と焼骨作業に従事するだけで、その作業中も絶えずきびしい監視を受けていた。

負傷者は呉海軍病院の隔離病棟に収容され、外部との接触を遮断された。
また負傷者に接する看護兵、看護婦もごく少数の者にかぎられ、かれらも病棟外に出ることを禁止された。
さらに機密保持の完全を期して、負傷者たちはひそかに内火艇に乗せられ呉港外の海軍のみで使用している三ツ子島の隔離病棟に移され、そこで約二ヶ月間軟禁状態におかれた。
むろんかれらには、「陸奥」に関することを口外せぬよう厳しい命令があたえられていた。

一般人に対する処置としては、「陸奥」 爆沈時に、近くで漁をしていた一隻の漁船がいたことが確認された。 
哨戒艇はその漁師をとらえ連行した。
漁師は、濃霧の中で大爆発音をきき黒煙を眼にしただけだと述べたが、大事をとって付近の島に軟禁した。
海軍では、その漁師に酒食を提供し金銭まで支給した。

 


陸奥爆沈の報を受けた日本海軍中枢部は、初め敵潜水艦による雷撃の公算大という柱島泊地かのに緊張したが、
やがてその疑いも薄らぐと新たな不安におそわれた。


海軍省は、海軍艦政本部に対し至急に事故原因を調査するよう命じた。 
爆沈原因は三式弾の自然発火だという専門家たちのほとんど断定的とも思える判定が下された。
日本海軍を一種の恐慌状態におとし入れた。
日本の主力艦にはすべて三式弾が搭載されていて、専門家たちの判定が正しければ、それらの艦も「陸奥」と同じような爆沈事故をおこす危険にさらされていることになる。
それは、日本海軍にとって一刻の猶予も許されぬ憂慮すべき事態であった。


死体となって発見された野〇三等水兵が、なんらかの目的でドアをこじあけ火薬を持ち出し、火を点じた。
火薬は爆発し野〇三等水兵は窒息死した。
野〇三等水兵の身辺が徹底的に洗われた
日常生活に於てもその日の行動からみても火薬庫放火の疑いは深まるばかりだった。
その目的は、火薬庫爆発による自殺と判断されざるを得なかった。

 

・・・

昭和46年頃、戦艦陸奥が引き上げ揚げられることがニュースになった。
深田サルベージが大型海上クレーンで船体を何カ所・部分を引き上げた。
陸奥引上は、あれは何が目的だったのだろう?
その頃、つづいて戦艦大和も引き上げる、ことも話題になっていたような気がする。

 

身内の話だが、当時義兄が中国財務局に勤務していて、
「本省の偉い人が読む」陸奥引上儀式のあいさつ文の原稿をつくった。
テレビを見ながら「あれはワシが書いた」と満足そうに義兄は言っていた。

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