しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「今昔物語」美人に会った話  (京都府伏見稲荷)

2024年06月18日 | 旅と文学

今昔物語には面白い話が多いが、
「美人に会った話」もおもしろい。

生活感がまるでなく、いつも恋や、歌を詠んで暮らしていたのだろうか?

 

・・・

旅の場所・京都府京都市伏見区「伏見稲荷大社」 
旅の日・2014年9月9日 
書名・今昔物語
原作者・不明
現代訳・「今昔物語 宇治拾遺物語」  世界文化社 1975年発行

・・・

 

今昔物語・ 古山高麗雄


稲荷詣に行き美人に会った話

二月の初牛(はつうま)の日は、古来、上下を問わず京中の人々が、稲荷神社に、参詣して、人出で賑わうのである。


近衛府の舎人どもも、稲荷神社に参詣に出かけた。
中の社の近くまで来ると、参詣に来る人、参詣をおえて帰る人が行き交う中に、えも言えず美しく着飾った女に出会った。
舎人たちは、みだらな戯言を言ったり、あるいは、身を屈めて、女の顔をのぞきこんだりす

重方は元来、好色である。
舎人たちの一行の中で、この女に格別執心したのが、好色の重方である。
重方は女に近づいて、口説き始めた。 
「家にお帰りになれば、ちゃんとした奥方がお待ちになっていらっしゃいましょうに。
行きずりの戯れ心でおっしゃることを真に受けてはおかしうございます」
と女は、可愛らしい声を出す。

 

 

「私は、それはまあ、つまらぬ妻がいさる。
顔は猿のようでな、心は物売女なみの女でして、ま、離婚しようとは思っているのですが、 
当座、綻びを縫ってくれる者がいないのでは、なにかと不便で、ずるずるになっていますが、
しかし、気に入った女性にめぐりあったら、乗りかえようと本気で考えているわけで。」

「本気でおっしゃっているのですか。 戯言をおっしゃっ ているのではございませんか」


「この御社の神もお聞きあれ。 参謡の甲斐あって、あなたのような方を神様が賜わったのではありませんか。
そう思うと胸がいっぱい、うれしくてなりません。
ところであなたは、ひとり身でしょうか。
また、どちらにお住まいですかな」

「行きずりのお方の言葉を真に受けるとは、私も愚かな女でございます。さ、お出かけくだされ。私も失礼いたします」
と言って、女は歩きだした。


重方は、手を合わせて額に当て、烏帽子を女の胸につけるほどに頭を下げて、
「神様、お助けください。そんな殺生な。 つれないことを言ってくださるな。
このまま、あなたの所へ参ります。 
妻の所にはもう二度ともどりませんぞ」

重方は、そう言って、口説いたのであった。
その重方を、烏帽子の上から、女はむずとつかんで、顔をバシンと、山も響くばかりに打った。

重方は、びっくりして、
「これは、なんとなさる」
と言って、女の顔を見上げると、
なんと、これは、妻はないか。

妻に謀られたわけであった。

 

 

 

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彼のオートバイ、彼女の島  (岡山県白石島)

2024年06月17日 | 旅と文学

この本のおわり、作者の「あとがき」がいい。

ついでに書いておこう。
瀬戸内海のどのあたりでもいいから、ほんのすこし船でいくだけで、いまの日本がどれだけひどい状態にあるかを、全身の痛みのようなかたちで感じとることができる。
おなじテーマで、ぼくはまたひとつ、長い小説を書こうとしている。
コオやミーヨと、どのくらいおもむきがちがってくるか、楽しみだ。
著者

「彼のオートバイ、彼女の島」 片岡義男 角川書店 昭和52年発行

・・・・

片岡義男氏が瀬戸内海の島々の状況を憂い嘆いたのはもう47年も前のことだ。
今の瀬戸内海では、島を一周しても人の声が聞こえない島が多い。
洗濯ものが庭先に干してあるから住んでいる。
テレビの音が聴こえるので住んでいる。
猫がいるから人も住んでいる。
それが現状だ。

島から島へお嫁に行く「瀬戸の花嫁」はおそらく、
広い瀬戸内海でも年間一組もないだろう。
島の人口が減ると、選出議員も当然減ってくるし、政治力も少なくなる。
架橋工事はほぼ無くなった。

白石島は本土から近く、名のとおり白石で美しい島。
「白石踊り」はユネスコ遺産にも登録された。
恵まれた環境にあるが、海水浴はレジャーとしてすたれ、島民の高齢化はすすむ。

 

 

・・・

旅の場所・岡山県笠岡市白石島 
旅の日・2023年2月25日 
書名・彼のオートバイ、彼女の島
著者・片岡義男
発行・角川書店 昭和55年発行

・・・

 

 

彼女の島

「瀬戸内海へ来ない?」 「いきたい」
「八月のね、十四日から十六日まで、盆踊りなの。今年は休みをとって帰ろうと思う」
「どこだって?」
彼女は、島の名前を教えてくれた。
「なに県だい」
「岡山」
「笠岡って、あるでしょ。海ぞい。福山の、ちょっと倉敷より」
「そこから、オートバイなら、フェリー。四十分くらいよ」
「来る?」
「計画をつくる」
「そうね。フェリーは一日に一本よ」

 

 

笠岡の、国道2号線からすぐの、小さな港からフェリーに乗った。
車は一台もいず、大きなオートバイはぼくのカワサキだけ。
ほかに、島の人だろう、ホンダのベンリイのおじさんがいた。
おばさん 女子高生それに、島へ泊まりがけで海水浴にいく人たちで、フェリーは、なんとなく満員の感じがあった。
白く塗った、小さなフェリーだ。

 

 

快晴だ。
笠岡から、美代子の待つ島へ、第五喜久丸というフェリーが、むかっている。
ぼくは、カワサキといっしょに、そのフェリーに乗っている。
うれしい。陽が強い。
とても暑い。
陽のなかに、上半身は裸で、ぼくは立ちつくした。海や空をながめた。
照りつける陽が、ぼくの肌を焼く。


港は、丸い入江のようだ。 
その入口の両側から、防波堤がのびている。
片方の防波堤の突端には、
濃いえんじ色の煉瓦でつくった、小さな夢のような灯台が立っている。
フェリーは、汽笛を、みじかく一 度、鳴らした。
港の奥にも、山のつらなりが見える。
港のまわりを、古風な民家が、まばらにとりまいている。
灯台のコンクリートの台座に、誰か人がいる。
若い女のこだ。フェリーを見ている。
紫色のタンクトップ、片手で髪をかきあげ、もういっぽうの手を、フェリーにむかって振っている。
陽焼けした顔で、にこにこと笑っている。脚が、まぶしい。
彼女が、両手を頭のうえで、振りまわす。
「コオ!」

 

「いいとこだね」
「気に入った?」
「とても」
「よかった。私も、久しぶりなのよ。でも、ぜんぜん、かわってない」
ゆるやかな坂道をのぼっていった。
その坂道の突き当たりに、美代子の家があった。
石を積みあげた塀の中に、どっしりと建っている。大きな二階建てだ。
黒いかわらに、壁の板も、黒く塗ってある。
門を入ると、きれいな中庭だ。
庭の奥には畑が広がり、そのさらにむこうには、樹が何本もあり、
「すごい家だな」
と、ぼくは、思ったままを言った。

 

 


「家にあがって」 「うん」
ここも、澄んだ空気いっぱいに、わけもなく悲しくなるほどの、セミしぐれだ。
濡れ縁の半分を、腸に焼けた三枚のすだれがふさいでいた。
障子をあけると、座敷だ。 
「弟は大阪。両親だけなの。夕方には帰ってくるわ」
夢のような日々だった。
日々と言っても、三日間だけど。
ミーヨがつくってくれた朝食を、彼女の両親と、いっしょに食べる。
ついでだけど、この三日間で、ぼくは美代子のことをミーヨと呼ぶようになってしまった。
もはや、 ぼくにとって、彼女は、ミーヨ以外ではありえないのだ。

 

 

朝食がおわったら、さっそく、海だ。
ぼくは、夏の海にうえていた。
昼すぎまで、海にいる。泳いだり、砂浜に寝そべって陽に焼いたり、満潮のときは沖の岩山へ泳いでいき、瀬戸内海をひっきりなしに往き来する船をながめたり。
昼すぎに、ミーヨの自宅に帰る。
彼女が昼食をこしらえてくれる。母親と三人で食べる。
父親は、島の反対側にあるという石切り場に弁当を持って働きにいってしまっている。

 

 

・・・

この「彼のオートバイ、彼女の島」は昭和61年映画化された。
残念ながら、映画の
”彼女の島”は、
白石島でなく、岩子島が舞台となった。

監督が尾道映画の大林宣彦さんという理由もあろうが、
大勢のロケ部隊を連れて、効果的に近隣で映像ロケをするとしたら
架橋の岩子島の方が離島の白石島より条件が勝っている。仕方ない。

・・・

 

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「東海道中膝栗毛」小田原  (神奈川県小田原)

2024年06月16日 | 旅と文学

弥次さん・喜多さんの話はおもしろい。
子どもから大人まで楽しめる。

江戸時代に、発売とともに売り切れ・大人気だっというのもうなずける。
江戸時代でも現代でも楽しめる話。

この本の最大の参考書は、歌川広重の「東海道五十三次」。
広重の絵画を見ながら、弥次喜多を読むと、楽しさが倍増し、
なんとなくあの時代がわかったような気になる。


小田原では、
宿場の女中に色気をだし、風呂でやらかし、読者を安心(?)させる。

 

 

・・・

旅の場所・神奈川県小田原市
旅の日・2015年7月8日
書名・東海道中膝栗毛
原作者・十返舎一九
現代訳・「東海道中膝栗毛」 世界文化社 1976年発行

・・・

 

小田原 


宿引「あなたがたは、お泊りでございますか」
弥次「貴様のところは奇麗か」
宿引「さようでございます。この間建て直しました新宅でございます」
弥次「女はいくたりある」
宿引「三人でございます」 
弥次「器量は」
宿引「ずいぶんと美しゅうございます」

 

 

やがて宿に着くと、亭主は先に駆け出して入りながら、
「サァお泊りだよ。おさん。お湯をとってあげろ」 「お早いお着きでございます」
早速、茶を二つ持ってきた。
弥次郎それを横眼でチラリとながめ、喜多八に小声で、
「見なよ。まんざらでもねえな」
喜多 「今夜はあいつをやっちゃお」
弥次「ふてことをぬかせ。おれがやるんだ」


喜多 「おっと、じゃ入るぜ」
と、待ち兼ねたように裸になり、一目散に湯殿へかけこみ、いきなり風呂に片足つっこみ、
喜多「アツ、、、、、弥次さん弥次さん、たいへんだ、
ちょっときてくんな」
弥次 「馬鹿め、風呂に入るのに、べつに作法があるものか。まずそとで金玉をよく洗って」

下駄でかたかたと足踏みするものだから、ついに釜の底を踏みぬいてベタリと尻餅をついてしまった。
湯はみな流れてシュー
喜多 「うわー、助けてくれ」
主「どうなさいました」
喜多 「イヤもう命に別条はねえが、釜の底がぬけてアイ」
亭主「こりゃ、又どうして底がぬけました」
喜多 「つい下駄で、ガタガタとやったもんだから」
亭主「イヤァおまいは途方もないお人だ。すい風呂に入るの にわざわざ下駄をはくという事があるものでございますか。しょうがない人だ」
喜多「いや、わっちも初めは裸足ではいってみたが、あんまり熱いもので」
亭主「いや、にがにがしいことだ」
弥次郎も気の毒になって、仲裁に入り、釜の修繕代に二朱銀一つ払うことで、ようやく事がおさまった。 

 

 

・・・

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「新選組始末記」島原の角屋  (京都市島原)

2024年06月15日 | 旅と文学

「新選組始末記」は、作者・子母澤寛の取材の熱意と汗が伝わってくる作品だ。
新選組と、その関係者への取材は、人間の寿命があり時間が限られる。
大正末から昭和初期、日夜を惜しんでぎりぎり間に合ったと思える。
この作品のおかげでその後、多くの新選組の作品が生まれた。

 


・・・

旅の場所・京都市下京区(島原大門・角屋)
旅の日・2020年1月30日                
書名・「新選組始末記」
著者・子母澤寛
発行・中公文庫  昭和52年発行

・・・

 

 

島原の角屋

守護職会津侯、直々のお預りというので、京の町奉行与力同心も、新選組のする事については、 
良きにつけ、悪しきにつけ、見て見ぬふりをしているので、
その勢力が強くなるに従って、芹沢鴨は、性来の乱暴狼藉をはじめて来る。
世上これを「壬生浪士」といったが、蔭口には誰も「浪士」とは言わずただ「壬生浪壬生浪」といった。

芹沢はひどく大酒で、酔ってくると、段々むずかしい顔になり、誰彼の見境いもなくなるのである。
言わば、酒乱だが、何しろ腕が出来る上に、底の知れない腕力があり、さあ一旦暴れ出したとなると、その取鎮めに骨が折れる。
酔わない時には、ざっくばらんな如何にも豪傑らしいいい気質の人物であった。

この文久三年の六月末に、水口藩の公用方が、会津の藩邸へ出かけた時の雑談に、うっかり新選組の乱暴を話したというので、
芹沢は、永倉新八、原田左之助、井上源三郎、武田観柳の四人を、水口藩邸にねじ込ませ、公用人を生捕りにしようと騒ぎ立てたが、
二条通りに直心影流の道場を開いている戸田栄之助という剣客が、その間に入って口を利き、漸く芹沢を納得させて、
隊士一同を、島原の角屋に招待した事がある。

その酒席で、角屋の取扱いに気に入らぬ事があるといって、芹沢は、例の尽忠報国の大鉄扇を振り廻して、
膳椀から瀬戸物一切、手当り次第に打壊し、その上、二階の階段の欄干を引抜いて、これをもって帳場へ下り、酒樽を打割り、
更らに流し場へ行って、料理の器物という器物、殆んど一つ残さず滅茶滅茶にして終った。
家内の者は、忽ち逃げ去ったので、別に負傷者はなかったが、芹沢はそれ位では満足せず、遂に隊名を以って、
「角屋徳右衛門不埒の所為あるにつき七日間謹慎申付ける」旨を言渡した。
この角屋処分の一件には、島原廊内が慄え上った。

 

 

 

だんだら染の制服羽織

勇士はぞくぞく集まったが、貧乏世帯には困り果てて、局長筆頭の芹沢が、
自から、山南敬助、永倉新八、原田左之助、井上源三郎 平山五郎、野口健司、平間重助の七人を引つれて、大阪へ出かけ、
鴻池善右衛門へ談じ込んで、金子二百両を借りて来た。

すぐに、松原通りの大丸呉服店を呼びつけて、麻の羽織、紋付の単衣、小倉の袴、ことに羽織は、公式の場合着用するものだからといって、
浅黄地の袖へ、だんだら染を染抜いて、一寸、義士の討入に着たようなものを、隊士全部の寸法をとらせて、注文した。
この羽織は、それから永く、新選組の制服になった。
ああ、よかった、と一同喜んだが、これをきいた会津侯は、少しびっくりした。
幕府が立つか倒れるかの、高等政策に、日も夜も足らぬ忙しさをつづけて、遂いうっかりしていたが、
これは如何にも浪士を預っている当方の手落ちだというので、すぐに、藩の公用人から芹沢を呼出して、 
「商人どもから金子を借用したとあっては、如何にも肥後守の不明という事になる。金子二百両は、当家から支出するから、
早速返済致すよう。今後は当方に於ても注意はするが、不足の事については、その都度公用方まで申出るがよろしかろう」
と申渡した。

 

・・・

 

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「平家物語」奈良炎上  (奈良県奈良市)

2024年06月14日 | 旅と文学

1180年東大寺の伽藍が焼け、奈良の大仏は首から落ちた。
清盛の命による平家の「南都焼き討ち」だが、
その後、重源による東大寺復興や、
「歌舞伎十八番」勧進帳もよく知られている。


大仏はその後、1567年に松永秀久によって二度目の落首。
現在の大仏様は、頭部が江戸時代、腹部が鎌倉時代、下部が奈良時代のもののようだ。

 

・・・

旅の場所・奈良県奈良市・奈良公園
旅の日・2021年11月5日               
書名・平家物語
原作者・不明
現代訳・「平家物語」古川日出男 河出書房新社 2016年発行

・・・

 

 


奈良炎上

「よし、南都も攻めてしまえ!」
大将軍には頭の中将平重衡、副将軍には中宮の亮平通盛、すなわち入道清盛公の子息と甥でございます。
この二人がつごう四万余騎を率いまして、奈良へ向かって出発しました。

邀え撃たんとする興福寺の大衆は、老人もいれば若いのもいる、そうした年のほどなど区別せずに七千余人が兜の緒を締め、
奈良坂と般若寺の二カ所の道に堀を作ります。
道を掘り切って断ってしまい、また搔楯をしつらえまして、
それから逆茂木を並べて待ち構えます。

平家方はと申せば、四万余騎のその軍勢を二手に分け、奈良坂と般若寺の二カ所の城郭に押し寄せて、どっと鬨の声をあげました。
官軍は馬、駆けまわり駆けまわり、もちろん弓矢も擁する。
興福寺の大衆をあそこに追い、ここに追いつめ、ああ、そこにいる限りの者全部が討たれます。
無間地獄といった炎の底の罪人どもの発する声も、これには過ぎまいと思われた一大叫喚なのでございました。

ああ。 興福寺は藤原氏代々の氏寺です。 
東金堂にましますのは仏法伝来と同時に我が国に渡ってきた最初の釈迦の像ですし、
西金堂にましますのは自然にこの世に湧いて出た観世音像でございます。
それから九輪が空に輝く二基の塔がございます。いえ、ございました。
この日、この夜に、一切はたちまち煙となったのです。
なんたる悲しさ。 

東大寺には大仏像がましました。
常在不滅で、実報と寂光の二土に通じる生身の御仏に象られあそばされて、聖武天皇がご自身で磨きたてられた、金銅十六丈の盧遮那仏が。
お首は焼け落ちて大地にある。
お身体はと申せば鎔け崩れて、ただ山のよう。
なんたる、ああ。

 

 

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「平家物語」先帝身投げ   (関門海峡・壇ノ浦)

2024年06月13日 | 旅と文学

天皇制は長く続いているが、近現代でも危機は大きい。
終戦時の危機は最大で、
”ご聖断”の際、天皇自ら「自分のことはどうなってもよい」との発言が伝わる。
昭和20年、21年、連合軍占領下で天皇制の存亡は相半ばした。

令和以降の危機も大きい。
そもそも論であるが、天皇や将軍が男性であることが必須というなら、側室が要る。
歴代の天皇や将軍や殿様は、正室の息子は少数派。

2024年の世界男女格差指数が発表された。(2024.6.12)
日本は146ヶ国中118位。
国家君主に限れば、毎年というか永遠の最下位だ。

 

天皇が二人いた時代もある。
源平の戦い、
南北朝の時代、

源平の戦いでは”先帝身投”があり、平家方天皇の安徳天皇が崩御した。
平家滅亡で、二人天皇は解消された。

 

山口県下関市

 

・・・

旅の場所・福岡県北九州市門司~山口県下関市
旅の日・2015年2月20日
書名・平家物語
原作者・未詳
現代訳・「日本の古典⑦平家物語」 瀬戸内晴美  世界文化社  1976年発行
現代訳・「平家物語」 長野常一  現代教養文庫 1969年発行

・・・

 

福岡県北九州市門司・門司城跡から古戦場を見る。

 

「日本の古典⑦平家物語」 

先帝身投げ 瀬戸内晴美

さしも栄華をほこった平家も運命つきはてては力及ばず、次第に義経のひきいる源氏の軍に追いつめられ、
西海を西へ西へと流れ、長門の国壇の浦まで追いつめられてしまった。
源氏の軍船三千余艘、平家の船は千余艘で 海面三十余町を隔てて対陣した。
時は寿永三年三月二十 四日のことであった。
この日、平家は全軍死力をつくして闘ったが、三ヵ年の間、忠誠をつくしつづけてきた阿波民部重能が、子息の教能を源氏に生けどりにされ、急に心変りし源氏に寝がえってしまった。
それをみて、四国、九州の兵も次々平家にそむき、君にむかって弓をひき、主に対して刀をぬく。 
源平の天下争いも、今日をか ぎりと見えてきた。

 

福岡県北九州市門司

 

 

源氏の兵たちがすでに平家の船に乗り移ってきて船頭や子たちも殺されて、
今は船をあやつることも出来ない。
新中納言知盛は小舟に乗って帝の御座船に乗り移り、 
「もはや最後と思われます。見苦しい物はみな海へ捨ててしまいなさい」と、自分から船中をかけまわって片づ けた。
二位殿はかねて覚悟していたことなので、喪服の純色の二つ衣をかずき、
練袴の股立を高くとって、三種の神器の神璽(しんじ)を脇にはさみ、
宝剣を腰にさし、帝を抱きたてまつって、
「私は女ではあるが敵の手にはかかりませぬ。帝の御供をしてまいります。
志のある人々は、後におつづきなさい」
といい、船ばたへ出ていった。
帝は今年八歳になられたが、お年よりはるかに大人びていられ、御容貌は美しく、 あたりも照り輝くようであった。
御髪は黒くゆらゆらとお背中までたれていられた。
途方にくれたお顔で、
「尼ぜ、私をどこへつれていくのか」
おおせになる。
小さい帝にむかって、涙をおさえていう。
「帝はまだ御承知にはなりませんか。 前の世の十善戒行のお力によって、この世に一天万乗の天子とお生れになりましたけれど、
前世での悪業の縁によって、御運はもはやつきはてました。
さあ、まず東にむいて、伊勢大神宮にお別れを申し上げなさいませ。
それから西方浄土にお迎え下さいますように、西にむかってお念佛をおとなえなさいませ。
この国はいやなことばかりあるところでございますから、
これから極楽浄土というすばらしいところへお供してまいりましょう」

帝は山鳩色の御衣にみずらにお結いになっていたが、 涙をとめどなくあふれさせ小さくかわいらしいお手を合わせ、
まず東をおがみ、ついで西にむかいお念佛をとなえられる。
二位の尼はすぐしっかりと抱きあげ、
「波の下にも都がございますよ」
とおなぐさめして、身をおどらせ千尋の波の底へ沈んでいった。
悲しいかな、無常の春の風は、たちまち花の御姿をちらし、なさけなきかな、荒き浪は玉体を沈め奉る。

 

山口県下関市

 

 

「平家物語」 長野常一  


壇ノ浦・水底の都

「こわい!」
天皇は八歳で今がかわいい盛り、髪は黒くふさやかに背中にかかり、その先を海風が軽くなぶっている。
にわかに広々とした船ばたへつれ出されたので、物珍しそうにあたりをながめておられる。
しかし、自分を抱いている二位の足の様子に、ただならぬけはいを感じられたものであろう。

「尼は私をどこへつれて行くのか。」
「ここは栗散辺土と申して、みにくく、きたない所でございますゆえ、極楽浄土という、それはそれは美しく楽しい国へおつれいたします。」
「そこには母上や乳母も行かれるのか。」
「参りますとも。そこは仏様のおいでになる国ですから、こんなみにくいいくさなどはございません。みなが笑って仲よく暮らしておりますよ。
さ、伊勢の大神宮と仏様に、ごあいさつをなさいませ。」
二位の尼は、手で天皇の髪をなでつけてあげる。

天皇は小さなかわいらしい手を合わせて、まず東の方、伊勢大神宮を拝み、つづいて、西の方、 極楽浄土の仏様を拝まれる。
「まあ、お利巧さまでございますこと。」
二位の尼はそう言って、涙にぬれた目でもう一度天皇のお顔を見つめた。
その時、一本の流れ矢が、うなりを立てて天皇のすぐそばを通った。
びっくりして、天皇は尼にしっかりと抱きつかれる。ぐずぐずすべき時ではない、と尼は思った。
「さ、参りましょう。波の底の都へ。極楽浄土へ!」
というが早いか、ざんぶとばかり海の中へ飛び込んだ。
船の中では、女たちの泣き声がひときわ高くなる。
「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」と、 念仏をとなえている者もある。
つづいて多くの女たちも、海の中へ飛び込んだ。

 

山口県下関市

 

・・・・

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城の崎にて  (兵庫県城崎温泉)

2024年06月12日 | 旅と文学

「城の崎にて」は、読者によっていろんな感想がわかれると思える。

自分の感想は、
東京に住む作者が「熱海」でも「草津」でもなく、わざわざ「城崎」という地に温泉療養に行ったこと。
大正時代の「城崎」が、東京からどれほど遠方か。
現在でも、京都・大阪から特急電車で3~4時間もかかる。


それほど遠い城崎温泉だが、温泉情緒がすばらしい。
温泉の街を流れる川、橋、柳、山。少し離れた海(日本海)。
温泉は「外湯めぐり」も楽しいが、
作者のように生き物観察も風情がある。

「城崎」のことを「城の崎」と書いているのは、「少し作り話があります」というように感じるが、
作者もそうだが、湯治客もまた「城崎温泉」のことをほめる人はいるが、けなす人はいない。
いい温泉だと思う。

 

 

 

・・・

旅の場所・兵庫県豊岡市城崎温泉
旅の日・2016年12月1日 
書名・城の崎にて
著者・志賀直哉
発行・「ふるさと文学館第34巻兵庫県」 ぎょうせい 平成6年発行

・・・

 

城の崎にて
志賀直哉

山の手線の電車にはね飛ばされてけがをした、
そのあと養生に、一人で但馬の城の崎温泉へ出かけた。
背中の傷が脊椎カリエスになれば致命傷になりかねないが、そんな事はあるまいと医者に言われた。
二三年で出なければあとは心配はいらない。とにかく用心は肝心だからといわれて、それで来た。
三週間以上――がまんできたら五週間ぐらいいたいものだと考えて来た。

頭はまだなんだかはっきりしない。物忘れが激しくなった。
しかし気分は近年になく静まって、落ちついたいい気持ちがしていた。
稲のとり入れの始まるころで、気候もよかったのだ。
一人きりでだれも話相手はない。
読むか書くか、ぼんやりと部屋の前の椅子に腰かけて山だの往来だのを見ているか、それでなければ散歩で暮らしていた。
散歩する所は町から小さい流れについて少しずつ登りになった道にいい所があった。
山のすそを回っているあたりの小さな潭になった所に山女がたくさん集まっている。
そしてなおよく見ると、足に毛のはえた大きな川蟹が石のようにじっとしているのを見つける事がある。
夕方の食事前にはよくこの道を歩いて来た。 

自分はよくけがの事を考えた。
一つ間違えば、今ごろは青山の土の下に仰向けになって寝ているところだったなど思う。
青い冷たい堅い顔をして、顔の傷も背中の傷もそのままで。 祖父や母の屍骸がわきにある。

 

 

 

(志賀直哉が宿泊した「三木屋」)

 

自分の部屋は二階で、隣のない、わりに静かな座敷だった。 
読み書きに疲れるとよく縁の椅子に出た。 
わきが玄関の屋根で、それが家へ接続する所が羽目になっている。
その羽目の中に蜂の巣があるらしい、
虎斑の大きな太った蜂が天気さえよければ、朝から暮れ近くまで毎日忙しそうに働いていた。
蜂は羽目のあわいからすり抜けて出ると、ひとまず玄関の屋根におりた。
そこで羽根や触角を前足や後ろ足で丁寧に調えると、少し歩きまわるやつもあるが、すぐ細長い羽根を両方へしっかりと張ってぶーんと飛び立つ。 
飛び立つと急に早くなって飛んで行く。 
植え込みの八つ手の花がちょうど咲きかけで蜂はそれに群がっていた。
自分は退屈すると、よく欄干から蜂の出はいりをながめていた。 
ある朝のこと、自分は一匹の蜂が玄関の屋根で死んでいるのを見つけた。
足を腹の下にぴったりとつけ、触角はだらしなく顔へたれ下がっていた。

 

 

 

三週間いて、自分はここを去った。
それから、もう三年以上になる。
自分は脊椎カリエスになるだけは助かった。

 

 

・・・

 

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若い人  (東京都二重橋前)

2024年06月11日 | 旅と文学

子どもの頃、毎日のおやつは、ほぼ【ふかし芋】だった。
それで母に、
いったい「皇太子(現在の上皇さま)は、どんなものをおやつに食べているのか?」
と問うと、母は
「そうじゃなあ、リンゴのようなもんじゃろうかなあ」という返答で、
自分も、そうじゃなあ、となんとなく納得した気持ちになった。

そのことは昭和30年代で、普通の親子の会話だが、もし
昭和10年代の会話で、うっかり巡査の耳にはいれば、不敬罪であると逮捕されていたかも知れない。

 

 

・・・

旅の場所・東京都千代田区・皇居外苑
旅の日・2018年3月9日
書名・若い人
著者・石坂洋次郎
発行・「日本現代文学全集35」 講談社 昭和44年発行
(原作発行・1933年 三田文学)

・・・

(管理人記・「不敬罪である」と軍から告訴されたのは、太字の箇所と思える)

 

「若い人」


宮城前で一同下車する。 
掃き淨められた平坦な廣場には陽の光が眩しく照り返し、内濠の水面に影を映す老松の並木には、霞のような青い氣があいたいとなびいて居た。
石垣の色、素朴なその形、写真などで子供の頃から馴染みになって居る二重橋。
晴れ上がった秋空もその一劃だけが特別に高く浅緑に澄みわたって居るかのように感じられる。
まことに此處こそは 彼女等のすべての薫育教養の大本に照臨し給う高く尊き現し神のまします神域であるのだ。

「髪が亂れぬように・・・・服装もキチンと整えるんですよ」
山形先生の改まった注意など要らないことだった。
生徒は思いつく儘に靴をこすったり鼻をかんだりスカートの折れ目を正したりした。 
間崎もネクタイの曲りをなおした。

 

「氣をつけ。 ・・・最敬禮!」
間崎は次の號令まで少し長すぎる位に間を置いた。
頭を上げさせる機會が容易につかめなかったからである。
「なおれ」
ホッと呼吸をついて互に見合す顔には赤く血がさして居た。
そして大きな仕事を果した後のような慾も得も無い放心の表情が御面のように誰の顔にもかぶさって居た。

 


間崎はふだんから斯うした瞬間の生徒の顔を見るのが好きだった。
何と云うか、賢愚美醜を全く超絶した我的な顔、類型。
... 二重橋の前から楠正成の銅像がある芝生の方に引き上げながら、間崎はそんなことを取り止めなく考えふけつて居た。
彼の両腕には生徒が二三人ずつ縋つて居た。

間崎は仰向けに寝轉んで汗くさい帽子を陽よけのために顔にかぶせた。
と、寝不足して居るので、一分も経たないうちにクラクラと眠氣が萌した。
夢うつつの間に、足許の方で山形先生を中心に一團の生徒がをひそめて語り合ってるのを聞くと


「.........先生。天皇陛下は黄金の箸で食事をなさるってほんとですか?」
「いいえ。そんなことはありませんでしょう。 やはり普通の御箸で ......。 
貴女方歴史で御習いしたように歴代の天皇様はどなたも御質素でいらっしゃいました。
醍醐天皇様でも仁徳天皇様でも・・・・・・そうでしたね」
「憶えてますわ・・・・第二十八課『寒夜に御衣を脱し給う』......」
「しつ、しつ、・・・・先生。天皇様と皇后様は御一所に御食事をなさいますか?」
「そうだろうと思います。私達の家庭と同じことでしょうね」
「先生。そしてどんな話をなさいますか?」
「それはですね。人民達が安らかにその日その日を送れるように、いろいろそんな事の御話だろうと思います」
「それから?」
「それだけです」
「あら。そんな事ないと思うわ。ね、何かもつと...」
「しつ、しつ」
「いけません!」

間崎は帽子の汗臭い日陰の中で思わずグスリと吹き出してしまつた。
それに刺激されて足もとの一團は急にはじけるような勢いで一斉に笑い出した。
屈託の無い朗らかな混聲が、色の絹絲を選り分けるように一つ一つ心よく聞き分けられた。

 

 

・・・・・

 

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足摺岬  (高知県土佐清水市)

2024年06月10日 | 旅と文学

「足摺岬」は二十歳くらいの時読んだ。
当時、若者の読むべき本とか言われていた。
他にもいろいろあった。
新潮文庫などは大々的に「夏の100冊」とか称して宣伝して、読むのを脅迫(?)していた。
今は、新潮社に限らず、ああいう宣伝がないのがさみしい。


「足摺岬」を読んだ当時は、若者らしく本に共感した。
年を経て今読むと、昭和初期の「大学は出たけれど」の暗い世相の方を強く感じる。

 

・・・

旅の場所・高知県土佐清水市足摺岬
旅の日・2018.10.2
書名・足摺岬
著者・田宮虎彦 
発行・旺文社文庫  昭和42年発行

・・・

 

 


「足摺岬」 田宮虎彦

それは、もう十七、八年も前のことになる。
その時、私は自殺しようとしていた。
なぜ、自殺しようと思いつめていたのであろうか。
死のうとしたその時でも、理由ははっきりとは言えはしなかっただろう。
何となく死にたかった。
理由もなく死にたかった。
身体も弱かったし、金もなかった。
父親とは憎みあっていた。
母が死んだ直後であった。
しいて理由といえば、母を追って死のうとしたのかもしれぬ。

私はまだ大学をあと二年近く残していた。
それまでも私は父から学資を貰っていたのではなかったけれども、それまで苦しみながらつづけて来た大学もやめようと思っていた。
やめれば数年の苦しみも無駄になるとはわかっていたが、大学を出たところでむなしい人生しか残されていはしないことが、
既にのぞき見ていた世の中から私にははっきりわかっているように思えていた。
私はあてどもなく東京の町をあるき、生きて行く仕事をさがしもとめようとした。
私には休息が必要だったけれども、休息をあがなう金は一銭もなかったのだ。
死のうと思いたったのはその頃だが、そんなことが死ぬ理由になるかどうかは私は知らぬ。
一度死ぬことを思いたった私は、一途に死にた い思いに誘われつづけたのであった。

 

・・・

 


清水の町に辿りついた翌日にでも、東京の下宿で思いつめたとおり私は死んでいたにちがいなかったのだ。
私は死にたかった。
死ぬ以外に自分を支えるものがなかった。
だが、あの時、私はなぜ足摺岬などを死場所にえらんだのだろう。
数十丈の断崖の下に逆巻く怒濤が白い飛沫を上げて打ちよせ、投身者の姿を二度と海面にみせぬという。
八、九日もすぎた後だっただろうか。
雨はまだ悲しく降りつづいていたが、待ちきれずその雨の中を私は濡れて足摺岬の方へあるいていった。

しかし、その日は私は死ぬつもりではなかった。
格好の死場所を探しに行くつもりであったといえばいいだろうか。
私は清水の町並から、その日、二里近くもあるいたようにも思う。
雨に洗われた白い県道が馬目樫の林をぬい、たぶや榕樹の大樹のかげを曲折しながら上り坂になった。
人一人 会わなかった。
幾つめかの淋しい部落をすぎ、道が崖肌を通って左に折れた時、ふいに、暗い雨雲におおいつくされた怒濤の果てしないつらなりが、私の眼の前にくろぐろとよこたわっていた。
重たく垂れこめた雨雲と、果てしない怒濤の荒海との見境いもつかぬ遠いから、荒波のうねり が幾十条となくけもののようにおしよせて来ていた。そのうねりの白い波がしらだけが真暗い海の上にかすかに光って見えた。
それはうねりの底からまき上がり、どうとくずれおち、吼えたてる海鳴りをどよませながら、深い崖の底に噛みついては幾十間とわからぬ飛沫となって砕け散った。
にぶい地ひびきがそのたびに木だまのように尾をひいて共鳴りを呼んでいた。

 

・・・

 

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井上成美 (広島県江田島)

2024年06月08日 | 旅と文学

軍や民の指導者としては、救いようもない狭さと時代遅れの思考レベルだった大日本帝国陸海軍の上層部の中にも、
少数ではあるが、広く、長く日本を考える将官たちもいた。

陸軍では2.26事件で斃れた渡辺錠太郎大将。
海軍では、米内・山本・井上とうたわれた井上成美大将がその代表。


井上大将の現実を見る目は鋭い。
日米開戦前に、
日本はアメリカに海上封鎖されたら何もできない(負ける)。
日本はアメリカを海上封鎖することは出来ない。出来たとしてもアメリカはすべて国内自給できる。(負けない)

今ならだれでも言えることを
当時の日本で発想した軍人・政治家はいない。
井上大将の言う通り、日本は封鎖され、負けた。

 

・・・

旅の場所・広島県江田島市江田島町 元・海軍兵学校+古鷹山
旅の日・2013年1月16日 
書名・井上成美
著者・阿川弘之
発行・新潮文庫 平成4年

・・・

 

 

「井上成美」 阿川弘之  

支那事変がすでに四ヶ月目に入っており、海軍は、艦隊航空部隊の一部を戦線へ投入しているけれど、
米内山本の最上層部が大陸の戦火に消極的、陸軍のやり方に批判的であるのは、部内周知の事実であった。
山本次官は、七月盧溝橋事件突発の報を聞いて、「陸軍の馬鹿がまた始めた」と腹を立て、
好きな煙草をやめてしまった。
米内海相は事変の拡大を憂慮して、先任副官近藤泰一郎大佐に、「君、揚子江の水は、一本の棒ぐいで食いとめられやせんよ」と洩した。 

彼らを補佐して最も忙しい海軍の大番頭格が軍務局長で、新任多忙の井上は、事変関係の書類を決裁しながら、よく、
「動物、動物」
と苦々しげに口走っていた。
自分が罵られているのかと、初めて聞いた副官が恐る恐る問い返すと、
「何故陸軍のことを動物とお呼びになるのですか」
「理性が欠如してるからだよ」


年が明けて昭和十三年一月十六日、首相の近衛文麿は、
「爾後国民政府を対手にせず」の声明を発表した。
東亜同文書院の院長大内暢三が、
「何という馬鹿だ。中華民国の唯一の指導者と世界が認めている蒋介石を、対手にしないなどと、
陸軍にかつがれて自ら交渉の道を閉ざすような声明なんか出して、近衛はほんとうに馬鹿だよ」と慨歎したそうだ。
これで事変の解決はますます難しくなり、英米との溝がさらに深まるだろうと見ていた。

 

 

昭和十七年十一月十日、井上成美が飯田秀雄中佐一人供に随え、第四十代目の海軍兵学校長として江田島へ着任した時、
此処には後年井上伝記刊行会の母胎となる七十一期七十二期 七十三期の三クラスが在校していた。

英語不評判の時世が来て海軍当局が困ったのは、対陸軍の関係であった。
英語追放に関し、陸軍のやり方は徹底していた。
自動車部品の呼称にも、片仮名は一切使わせない。
ハンドルが走向転把、アクセルペダルが加速践板、
聯隊によっては兵隊に食わすライスカレーまで、「辛味入り汁かけ飯」と言い換えを強制した。
それだけなら海軍が格別関心を持ったり困惑を感じたりしなくても良いのだけれど、
陸軍は開戦前の昭和十五年秋、士官学校生徒の採用試験科目から、早々と英語を除外してしまった。

身体も強健な軍人志望の少年たちが、海軍を避けて 陸軍士官学校を目ざす傾向が、統計上はっきり見られる。
それを憂慮した本省教育局の主務者が、
海軍もせめて生徒採用試験の英語は来期から廃止したらどうかと、兵学校宛に勧告を寄せて来た。
この問題が教官研究会で取り上げられた。
全員が廃止 賛成の意思表示をした。
「よろしゅうございますか、これで」
教頭に念を押された井上は、
「よろしくない」
と答えて立ち上った。
「一体何処の国の海軍に、自国語一つしか話せないような兵科将校があるか。
そのような者が世界へ出て、一人前の海軍士官として通用しようとしても、通用するわけが無い。
英米海軍のオフィサーならフランス語スペイン語、吾人の場合は最小限英語、
この研究会でも繰返し言っている通り、海軍の将校たらんとする人間にとり、英語は必須下可欠の学術であり技能である。

 

 

構内の古い桜並木が花をつけ始めた。
兵学校の桜と言えば、海軍関係者のみならず、呉広島の市民の間で昔からよく知られた春の美観だが、
今年の四月、井上は諸種の新事態へ新たな対応を迫られ、敬慕する山本聯合艦隊司令長官が亡くなり、久々の内地の花時を慌しい思 いで過した。
予備学生たちを普通学教官として江田島へ受け入れること、
皇族賀陽宮治憲王の入校準備教育を開始すること、いずれも彼にとって初めての経験であった。

中央は在校生徒の修業年限短縮を一方的に決めて各教育現場へ押しつけて来そうな気配があり、これにも対処しなくてはならなかった。

 

・・・

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