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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

沖縄戦

2022年06月11日 | 昭和20年(終戦まで)

雑誌「歴史人」 2022年6月号  

沖縄復帰50年---繰り返さないために、いま語り継ぐべきこと

沖縄戦

航空機による特攻は、その数なんと2.500を数えたという。
人間魚雷の回天も沖縄戦に投入された。
さらに人間ロケット桜花も使用された。
こうした特攻攻撃で撃沈された船は、
わずかに駆逐艦9隻。
戦艦や空母などには、かすり傷しか与えることはできなかったが、
アメリカ兵に対する精神的動揺は、相当なものがあったと考えてよいだろう。

連合艦隊の超弩級戦艦大和もこのとき、海上特攻攻撃に使用されている。
片道燃料だけを積んで、徳山湾を出港し沖縄へ向かった。
海岸に乗り上げさせた後、あらんかぎりの砲弾を敵艦隊にお見舞いし、大打撃を与えようとする計画だった。
だが、すでに制空・制海権を完全ににぎられていたため、計画自体が無謀なもので、
九州の坊ノ岬沖で沈没してしまった。

沖縄南部には民間人が10数万人いたといい、
彼らは日本軍の側にいることが安全だと思い、軍に付き従っていた。
というのは、
アメリカ人は鬼畜だという教育を受け、捕まれば拷問されたり凌辱されたりした後、むごい殺され方をすると信じていたからである。

沖縄の女子学生たちは、野戦病院の看護婦として従軍させられていた。
ひめゆり部隊も、そうした学生看護師隊の一つだった。
彼女たちは第三外科壕にいたが、そこにアメリカ軍がガス弾を投げ込んで、数十名の若い命を奪ったのである。
沖縄県民の命は、アメリカ兵だけでなく、日本兵も足手まといになる民間人に自決を強要したり、スパイ容疑をかけて射殺したりということが起こった。

6月22日、牛島中将は司令部で自殺した。「日本兵は命あるかぎり戦い続けよ」と遺言した。
軍人・民間人含めて20万人が犠牲となった。
沖縄県民は、なんと4人に1人が死んでいる。

 



 

兵力不足を補うため、県民25.000名を召集した。師範学校や中学校、専門学校の、高等女学校の生徒も徴用した。
1761名の男子は「鉄血勤皇隊」、543名の女子生徒は緊急看護衛生班員となった。


5月3日夜から総攻撃開始、目標とする米軍陣地までたどり着けないまま全滅する部隊が相次いた。
5月5日、午後6時総攻撃中止を命じた。
5月7日、ドイツが連合軍に降伏。
6月13日、海軍大田実少将以下の首脳陣は自決し、組織的抵抗に終止符を打った。
自決の直前、大田少将は海軍省の海軍次官宛てに電報を打った。
それは、今度の戦いで沖縄県民がいかに作戦に協力をしてくれたかを細かに述べるとともに、
「沖縄県民かく戦えり、県民に対し後世特別の御高配を賜らんことを」
と結んであった。
6月18日、ひめゆり部隊の看護女学生27名は、米軍急襲を受け全員即死。
6月19日、牛島軍司令官は指揮権放棄を宣言した。もう各部隊との連絡もつかなかったからである。
6月23日、牛島司令官、長参謀長は洞窟内で自決した。
約7.000名が投降した。


戦没者は18万、うち県民は12万。(軍属2.8万、一般9.4万)と言われる。
米軍死者は1.2万人だった。

・・・・・

 

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みんな軍国少女ですよ

2022年05月03日 | 昭和20年(終戦まで)
軍国少年や軍国少女のコアな世代は、およそ大正14年生~昭和4年生と思っている。
周囲が軍事一色の時代に育ち、分別つくまもなく年少兵になったり、
竹槍で本気で米兵を殺す(それ以外の世代は訓練に出る意識)愛国少女、
いちばん時代にほんろうされれている。
脚本家・橋田壽賀子は、その大正14年の生まれ。
・・・・・
高等女学校生であればわかぬでもないが、
女子師範学校が、一般的に限度の時代に日本女子大にまで進んだ筆者が、
軍国少女であったのは残念であるし、橋田壽賀子は度が過ぎた調子者であったように思う。
おそらく、嬉々として”お国のため”に労働した大学生は(高女も含め)少数のはずだ。
・・・・・





「渡る世間にやじ馬ばあさん」 橋田壽賀子 大和書房 2021年発行

太平洋戦争、死んでも忘れられない光景がある

あの太平洋戦争の頃はみんな軍国少女ですよ。
私なんかガチガチの軍国少女でした。
聖戦だと言われていたから、日本はよい戦争をしているんだ、
そう思っていました。


鬼畜米英だとか、お国のためには我慢しなければならないということを、
とことん教えられ洗脳されていましたから、食べる物がなくても、
ちっともつらいとは思わなかった。
いやお国のためなら死んでもいいと、本気で思ってた。
疑うことも知らず、そういうのが当たり前だと、
誰もが同じ価値観を持った時代でしたから。


戦争が始まったのは堺高等女学校の二年生。
二年後に日本女子大学校国文科に入学。
そのうち、授業どころじゃなくなって、学徒動員が始まった。
毎朝炒り豆と焼き米を持ってもんぺをはいて、
防空頭巾をかぶって、女子大の寮から工場へ行くわけですよ。
それで点呼があって、一斉に配電盤のビスを留める作業をやるのね。
悲壮感なんてありませんでした。
”ああ、きょうも一日、お国のために働いた”
って実にさわやかでしたよ。


やがて空襲がひどくなり学校は閉鎖、大阪に戻り、
海軍経理部に動員されました。
昭和20年の7月に,堺市が空襲を受け、急いで下宿先から堺に向かったけど
一面の焼け野原で実家はあとかたもなく焼けちゃって、熱風で近づけないんですよ。
いまも目に浮かぶのは、
あちこちに黒焦げの死体が折り重なるようになっていた光景です。


これから一ヶ月ほどがたって、あの”玉音放送”。
将校さんたちもいて、校庭に二百人ぐらいいたかな。
何がなんだかわからなくて、将校さんらに聞いても、
”戦争が終わった”とだけで、日本が負けたとは絶対に言わないんですよ。
でも、アメリカ兵が日本に上陸するという噂が広まって、
どうせ死ぬんだったら、
アメリカ兵がやってきたら刺し違えて死んでやろうと、
そんな恐ろしいことを本気で考えていました。


敗戦のときが20歳。
あの戦争から今年で60年。
戦争に協力したという責任は、やはり感じるんです。
その気持ちが強くて『おしん』の亭主には、
若者を戦場に送った責任をとらせて自殺させたんです。
私の思いを、せめて託したいと思ったんです。


「女性セブン」2005年8月11日号


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硫黄島から生きて戻った日本兵

2022年04月30日 | 昭和20年(終戦まで)
硫黄島(いおうとう)には陸海軍合わせて約21.000の日本兵がいた。
栗林中将が、硫黄島守備隊全員に配布した『敢闘ノ誓』はよく知られているが
特に
一 ・我等は敵10人を斃さざれば死すとも死せず
一 ・我等は最後の一人となるも「ゲリラ」に依って敵を悩まさん
は兵の行動にいかされた。

昭和20年3月21日大本営は、
「戦局ついに最後の関頭に直面し、17日夜半を期し最高指導官を陣頭に皇国の必勝安泰とを祈念しつつ全員壮烈なる総攻撃を敢行するとの打電。
通爾後通信絶ゆ。
この硫黄島守備隊の玉砕を、一億国民は模範とすへし。」
と玉砕を発表した。

実際にはおよそ1.000人の兵が生還した。
どういう状況で、どういう人が帰還したのだろう。
その一例。


・・・・・


森茂 財閥御曹司は部下を投稿させたのか

森茂中尉、30歳(戦死時)。

全身傷だらけの森茂少尉が生き残りの部下10数名を集めた。
「俺はもうだめだが皆はまだ大丈夫だ。
いいか皆は生き残ってくれ。
俺は本当のことを知っているつもりだが、
米国という国は国際法を守る国だ。
ここにボロ切れがあるが、
俺が死んだらこれを白旗の代わりにして米軍の方へ行け。
米軍は決して皆を殺しはしない。
生き残ってその後の日本を何とか守ってくれ、頼む」
森は可愛がっていた伍長に愛刀を渡すと兵たちを遠ざけ、手榴弾の発火栓を抜き腹に抱えて北の方を向いた。


部下を投降させた士官が硫黄島にいたのか。
もし本当なら、彼はどんな人物だったのだろう。


三木睦子の証言

平成18年12月、私は東京・渋谷にある三木武夫記念館を訪ねた。
故・三木武夫首相の睦子夫人が森中尉の三つ違いの妹である。
「昭和21年、硫黄島で兄の部下だったという方がいらして、部下に投降を勧めた話をしてくださった」
その人物は、上官だった森の最期を伝えようと遺族をさがしていた。その人の、その後の消息はわからないという。
「兄は不器用でしたが、優しい人でした。
部下を一人も殺したくなかったのだと思います」とも話す。
「この戦争はやるべきではない」と話していた兄を睦子は覚えている。

森家は多くの政治家や財界人を輩出している。
森茂は大学を二つも出て、将来は森コンツェルンを統べる人材と期待されていた。
その命を奪われた悔しさの中、家族は、
彼の最期の言葉が部下を生き延びさせたと信じた。


「硫黄島 栗林中将の最後」 梯久美子  文芸春秋 2010年発行



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「明日、仏さまにないやっとごわんど」

2022年04月27日 | 昭和20年(終戦まで)

陸軍特攻基地として知られる「万世飛行場」のはなし。

・・・・・

ある夜、ソヨは婦人会の女たちと、炊事場で出撃用のおにぎりを作っていた。
出撃前日の青年が二階から降りてきた。
倉田道次という少尉だった。
「それは誰が食べるの」
「みなさんが・・・・」
奉仕隊の一人が小さな声で答え、もう一人が
「あなたたちが,持っていくと、聞いています」
と途切れ途切れに言った。
倉田の声は穏やかだった。
「もう遅いからそんなことをしないで、早くお帰り下さい。
それを食べる時間には僕たちはもう生きていません・・・・・・」
出撃後、二、三時間で彼らは沖縄の敵艦に突入するのだ。
倉田はまだ二十二歳である。
「だから作らなくてもいいよ。残った人たちに食べさせてあげて下さい」
女たちは黙ってうつむき、ぽたり、ぽたりと涙がおにぎりに落ちた。
それを見て倉田は
「塩はいらないね」と笑った。
女たちは泣きながらおにぎりを作り続けた。
ソヨには、若者が心底で肉体の飛び散るぎりぎりの時間まで生を希求していることが分かっている。

 

息子のような彼らをかばうのも、彼女の役目だった。
出撃前夜に、将校が特攻隊員の頬を張るのを見かけたことがある。
隊員のいないところで、彼女は将校に薩摩弁で食ってかかった。
「なんてことをすっとですか!
あん人たちは明日、仏さまにないやっとごわんど」

 

ソヨは二〇〇一年に九十七歳でこの世を去った。
その仏壇では、ソヨと五人の少年兵たちの写真が佇んでいる。

 

 

特攻旅館の人々 「後列のひと」 清武英利 文芸春秋 2021年発行

 ・・・・・・


仔犬を抱いて笑ふ少年特攻兵の写真は悲しい

四五年五月末、出撃前の彼らの一人は仔犬を抱いて笑っている。
自分が乗り込む特攻機に爆弾を装備するのを見ているとき、
近くを歩きまはってゐる仔犬を見つけて抱いたといふ。

抱いてゐるのは十七歳の荒木幸雄伍長。
ここでわたしは言葉が泪に濡れないやうにして書くが、
これは昭和日本の最も悲しい写真だらう。


「星のあひびき」 丸谷才一  集英社  2010年発行



 

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昭和20年頃の学校生活

2021年08月22日 | 昭和20年(終戦まで)
「岡山県教育史」 岡山県教育委員会 昭和49年発行

終戦処理

8月16日学徒動員解除、
8月24日学校教練、学校防空関係の訓令が廃止
8月25日岡山県の通達
一 御真影、詔書類は奉安殿・奉安所に奉還すること
二 ポスターや戦意高揚の一切の資料は除去する、そのほか

戦災を受けなかった学校は、夏休みあけに二学期を迎えたが、児童の転出入はどの学校も多かった。
教育に対する価値転換と占領軍の巡視による精神的な圧迫感が教師の自信喪失となって、全般的に教育そのものも活気を失ってきた。
これに加えて、生活物資の不足、なかでも食糧不足はインフレの激化のなかで教師生活を不安定にした。

国民学校では男女共学が基準となり、二人用の机に男女が並んで席についた。



・・・

「小学校誌 ―創立百年を記念して― 大井小学校」 (昭和52年発行)

大井国民学校

終戦前後の思い出  K男(旧職員)

戦況はいよいよ深刻になり、国民の食糧さえ乏しく、小国民も食糧増産に参加して、蛸村と小平井の2個所に開墾畑を作り用具や資材を運び、
汗を流して国の方針に微力を尽くした風景が今も明確に眼底に残っています。

昭和20年8月15日正午、
あの高い玄関先へラジオを持ち出し職員が並び、生徒は下の運動場へ勢揃いして学校での終戦風景でした。
両眼からは止め度もなく涙が流れ、職員室に入って何時間も机にかじりつき悲しくて動けなかった事が思い出されます。

戦後はマッカーサーの指令とかで、色々の命令が次々と達せられ今まで大切に使用していた掛け軸や図書は一纏めにして提出、どう処理されたか不明です。
一番聖域として崇めていた奉安殿も取毀されてしまうし、
国民の混乱は児童生活のうえにも反映して昭和21年22年は極度の動揺を来たし、学校経営の困難にも遭遇しました。


思い出 F男(昭和20年度卒業)

5年生の頃は戦況も悪化し、昼も空襲があったりして授業も中断することが続くようになりました。
上級生とともに六道の山へ開墾に行き、切り開いて、芋を作ったり、麦を蒔いたりしたものです。
運動会もありませんでした。

6年生の時は、戦況は最悪でした。
初等科以外の学校では授業を1年間停止され、中学生、高等科の生徒は学徒動員として兵器を作る工場へつれていかれました。

卒業写真は私たちの学年だけありません、しかし71名全員健在で生活を送っています。


・・・

「大島東小学校百年史」 昭和50年発行より
大島中国民学校 

大島東小の思い出   H男(元大島東小教諭)

昭和20年になって疎開が激しくなり、この学区も疎開の児童が相当多くなって、私が受け持っていた4年生などは2人掛の腰掛に3人掛けさせても、まだ足らなくなり、
教壇に本やノートを置いて座って授業したこともあります。
習字の時間には2人掛でないと書けないので、廊下も使用していたほどです。
児童数は一学級80人くらいまでになっていたと思います。
机の間を通って巡視することなど出来ませんでした。



・・・
「神島史誌」

神島内国民学校


昭和20年2月4~5日 松根油製造つくり奉仕
    4月18日 高等科生、東村の山林開墾に着手
    6月22日 米機空襲。機関銃弾、付近に数発落とす

昭和21年10月 教育勅語の廃止

昭和23年4月 6.3.3の新学制実施
    5月21日 女児に対しDDT散布
    7月15日 BCG接種



「神島史誌」より
横江国民学校


昭和20年4月4日 入学式。男15、女14.
    4月27日 5.6年生全員終日開墾
    5月5日と11日 敵飛行機、頭上通過
    5月27日 小体育会。午後、義勇隊の結成会。婦人会は竹槍訓練
    5月30日 3年生以上、前8時半より後3時まで大殿洲開墾作業を実施
    6月1日 開墾地約2畝完成。サツマ芋の植付け終わる。

・・・

「学校誌~統合に寄せて~笠岡市立高島小学校」 昭和55年発行

高島国民学校


おもいで
昭和21年度卒業生 Y男

5.6年生の頃は、全校生徒70名もいたと思う。そのころは本当に楽しかった。

当時は先生方は島に泊まって共に生活しておられた。
土曜日になると、神島まで船で送っていたものです。
4年生の頃から2.3人で櫓を漕いで、先輩に潮の流れを教えてもらって、風が吹いても平気で送っていったものです。
これも当時の生きた教育ではなかっただろうか。

5年生の8月15日に終戦。
6年生の時、私は進学を志し必死で勉強した。
でも本は焼かれ或いは墨で黒く塗られ、当時の恩師K先生の指導は大変だったと思う。



・・・
「吉田小学校百年史」 平成12年発行より

吉田国民学校


小学校の思い出 S子(昭和20年卒業)

昭和14年、私は尾坂分教場へ入学しました。

親が夜なべして藁草履を作っていくれて、それをはいて学校に行きました。
4年生になると本校に通います。
その頃になると吉田村から戦争に行った人が戦死され私たちは吉田駅から道へ並んでお迎えしました。
若い看護婦さんが戦死されてきれいな写真が遺骨とともに帰ってこられたときは涙がでました。

6年生の頃になると、この学校にもお友達が次々に疎開してきました。
都会からこられたお友達はきれいでよく勉強できて輝いてみえました。
昭和20年3月吉田国民学校を卒業しました。
修学旅行も卒業写真もありません。



・・・


「笠岡小学校百年史」 昭和48年発行より

笠岡男子・女子国民学校


女子も男子と同様に軍需工場に動員された。

昭和20年6.15 学徒出動(女子校・高等科2年)
    6.28 学徒出動(男子校・高等科2年) 大塚工場へ入所式
    7.23 学徒出動(報国鉄工所)(女子校高等科1年)






・・・

笠岡高等女学校 「笠岡高校70年史」
笠岡女学校・昭和20年卒手記  (O子)

昭和19年6月、私たち4年生にも動員令が下った。
昭和20年の新年を迎えたころから、敵機の襲来の数が増した。
がんばっている私たちに、予想もしなかったショック的な知らせが報じられた。
それは4年生で学校の終了課程を終えるということだった。
仕事をしながらも、書物をひもとき、友だち同志で研究はしあっていたけれでも、
もう一度、千鳥ケ丘の教室で勉強したいと思った。
もう少し、女学生生活を明るく楽しいものにしたかったと願ったが、それは時世的にもゆるされなかった。
万寿工場の川べりの柳の芽がふくらみかけた昭和20年3月31日、
動員生徒の合同卒業式が、三菱重工業水島製作所の講堂で行われた。


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海軍志願兵・城山三郎、特攻隊として果てる?(伏龍特別攻撃隊)

2021年08月20日 | 昭和20年(終戦まで)
伏龍は終戦間際、本土決戦において敵の上陸艇に潜水服を着て潜り、機雷がついた棒を手にして水中を歩いて接近し、機雷もろとも爆死するもの。
完全に人間は死ぬ道具となっている。





「嬉しうて、そして・・・」 城山三郎 文芸春秋 2007年発行

昭和2年生まれは、少年時代を戦争の中で過ごし、青年時代の入口で敗戦を迎えた。
「末期戦中派」という言葉があるが、私たちは末期も再末期であった。
私は、名古屋の商業学校の生徒だったが、
軍神杉本五郎中佐の著書「大義」に感銘を受けて徴兵猶予を返上して、海軍特別幹部練習生になった。
自分なりにお国のために尽くそうと考えたのである。

しかし、敗戦までの数ヶ月間過ごした海軍の最底辺は、私の期待していた皇軍の姿とは似ても似つかなかった。
上官による制裁や意地悪の日々。
上官は白い食パンを食べ、私たちには芋の葉と蔓だけ。
そして戦争が終わると、手のひらを返したように、民主主義を唱えだす大人たち。
この経験を書かずには死ねないという思いが、私を文学に向かわせた。

私が入った昭和20年の海軍は、まったく軍隊としての体をなしていないように感じた。
あのまま戦争が続いていたら、私は「伏龍特別攻撃隊」として、潜水服を着て関東の海岸に潜って、
爆弾のついた棒で米軍の上陸用舟艇を突く作戦に駆り出されていただろう。
自分たちが消耗品として集められることを、憧れの海軍に入って思い知ったのである。





(Wikipedia)



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捷平さん、爆弾かかえて戦車に飛び込む「特攻兵」となる

2021年08月20日 | 昭和20年(終戦まで)
満州の吉林市に住んでいたおば(父の妹)の話では、
「戦争が始まった」とは昭和20年8月9日のことを指す。

その日までは、満州帝国は平穏な・・・日本人限定だが・・・”王道楽土”的な日々であったようだが、突然に、
戦争とロシア兵が大波のように押し寄せ、「平穏」から「生命の危機」の日々に一変していった。

捷平さんは、そうゆう満州帝国と大日本帝国の命運が尽きる直前に、兵にとられ、
一夜漬けの訓練で、あっという間に戦車体当たり”特攻兵”となった。







「続 木山捷平研究」 定金恒次 遥南三友社 平成26年発行

「私」は、8月12日、日本の軍隊から現地召集を受けた。
午後1時令状受領、午後6時入隊というあわただしさ。
一人でヤケ酒を飲み、気を大きくし
即日帰郷になるであろうことを予想して出かける。
深夜某小学校の教室に宿泊。
翌朝、身体検査なし、朝食ぬきで街頭での穴堀り作業。

「おい、そこの眼鏡のおっさん、しゃんしゃんやらんかいな」と私は引率役の上等兵に叱りつけられた。
「ああ、だが上等兵、僕は持病に神経痛があるから、腰がうずいて仕様がないんだよ」
「こくな、上等兵とは何だ?上等兵殿と言え。ここは軍隊だぞ」
「ハ。それはどうもすみません。・・・それでは上等兵殿、そのここには軍医はおらんのかネ。自分は一度診察して貰いたいと思うんだが・・・」
「バカ。そんなゼイタクなものが、おるか。神経痛ぐらい、今度、戦争が始まれば、いっぺんにすっ飛ぶ」
上等兵はスッパ、スッパ、煙草の煙を吹かすだけなのである。
なんの為に、こんな穴をほるのかとほかの新兵がきけば、敵の戦車がおし寄せて来た時、この穴の中にエンコさせて見せるのだと言うのである。

だが、穴掘りが上がらないうちに、命令がきて、私たちは再び小学校によび戻された。
学校の玄関では、古参兵が数人、せかせかと出刃包丁を木銃にくくりつけているのが見えた。
これが翌日になって、新兵唯一の武器として、私たち老兵に配給せられたのである。

間もなく講堂で部隊長の訓示が行われた。
部隊長というから、どんな、堂々、たる男かと待っていると、檀に上がったのは,まだ碌に毛も生えていないような18,19の見習い士官だった。

この見習い士官が、
「事態はまことに急迫しとるのである。
今夜、本首都に於いて戦闘が開始せられる。
お前たちは大日本帝国の軍人として、一命を陛下のために捧げられたい。
生きて囚虜となりて異郷に恥をさらすではない」
と言ったような司令官の命をつたえて、すぐに実地訓練が始まったのである。
その実地訓練は、-----どこからか古参兵が持ってきた乳母車に、フットボールを投げるという簡単なもので、学校の屋根で遊んでいる雀などには、
いい年をしたおっさんが幼稚園の生徒の真似をしているように見えたかも知れない。
が、本当のところは敵の戦車にバクダンを抱えて飛び込む練習であったのである。
いいかえるならば、私ども老兵は、入隊早々,着のみ着のまま、戦車飛込肉弾隊に編入されていたのである。


このように、「私」は日本の軍部が身体検査もせずに入隊させる横暴さを繰り返し語って、執拗に不満と反抗を試みる。
敵国であったソ連の女士官でさえ、「私」の貧弱な体躯を見ただけで放免するという人道的な扱いをした。
今夜の戦闘で老兵を肉弾として使おうという魂胆から、身体検査を省いただのと決めつけ、その間ぶりを非難する。
それにしても、侵攻してくる戦車を穴の中に頓挫させようという馬鹿げた作戦。
出刃包丁を木銃にくくりつけ、これを新兵に配るという稚拙きわまる戦争準備。
さらには拾ってきた乳母車を敵の戦車に想定し、爆弾に擬したフットボールをかかえて飛び込むという幼稚な戦闘訓練。
作戦といい、武器といい、訓練といい、一瞬のうちに壊滅する様子を克明に描いている。
ちなみに6年後に発表された「大陸の細道」でも、
威厳や品位を欠く日本の軍隊幹部の言動や、稚拙で滑稽な戦闘準備、戦闘訓練などを克明に描き、戦争への怒りと国家権力への反骨ぶりを示している。




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白壁は危ない、壁を塗る

2021年08月16日 | 昭和20年(終戦まで)
「井原市史2」 

昭和20年6月29日、午前2時頃より、井原の地から多くの人が遠く激しい岡山大空襲を見詰めており、井原町からも警防団が弁当持ちで出動していった。
7月に入ると、井原町では連日朝昼、夜の別なく空襲警報が鳴り渡り「気モオチツカズ」空襲が現実のものとして迫り、荷物の疎開、自宅内に穴を掘りブリキ箱を埋け食器類を入れた。
蓄えていた食糧を台所のコンクリートに詰めるなど、緊張感が伝わってくる。
8月8日夜10時ごろ、空襲警報が鳴って、火の手、黒煙のあがる福山空襲の様を見ていた。
13日にはいよいよ空襲の標的と身に迫る危険を避けるため、ベンガラを購入して松根油を溶いて白壁を塗った。

//////


「岡山県史 近代ⅲ」
飛行機から地上を眺めると白色のものが一番目にはいるので白い衣料は危ない。
白または白色に近い壁・屋根・土塀などは都市・山間部を問わず早急に対空迷彩を実施するよう呼びかけられた。

迷彩にはコールタールがよいが入手困難なので松根油採取時の廃澤・煤・松炭などを布海苔に混ぜて塗れば相当の効果があるとされた。
いれがない場合は泥土を塗り、絶対に小型機の目標にならないよう指示され、県下のすみずみまで迷彩が督励された。



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沖縄戦から終戦へ

2021年08月16日 | 昭和20年(終戦まで)



「岩波講座日本歴史21近代8」  岩波書店 1977年発行

沖縄戦

1945年はじめいらい、国をあげて準備に狂奔しつつあった本土決戦が、
もし実現したらどうなったかを、まざまざと示したものが沖縄戦の経過であった。

決戦主義から持久戦主義に転じ、
沖縄本島南部の塩尻地区に集結して戦略持久を策することにした。
県民の保護をはじめから計画しなかった軍は、逆に作戦上の必要から県民の労力も資材も根こそぎ動員した。
さらに直接戦闘力を補うため一般民衆を動員することも徹底して行われた。

1944年7月在郷軍人を中心とした市町村の部落単位で防衛隊を編成し、軍の直接指導下に陣地構築や輸送任務にたずさわっただけでなく、直接戦闘にも参加させた。

1944年12月からは中学校生徒の戦力化も計画され、
中学校上級生は直接軍に配属して戦闘に従事し、
中学校下級生は通信教育を受けて通信員に、
女学校生徒は看護婦教育を受けて看護婦にすることが計画された。
1945年3月沖縄本島への艦砲射撃がはじまると、計画に沿ってそれぞれ動員された。

沖縄が戦場化した最初は1944年10月10日の大空襲であった。
レイテ上陸を前にして、この日沖縄本島を攻撃して飛行機や船舶・軍需品に大損害をあたえたが、特に那覇市の住宅90%が焼失した。

1945年4月1日アメリカ軍の沖縄本島上陸がはじまる。
第一日目に早くも橋頭堡を確立。
大本営は陸海軍の航空機特攻や、戦艦大和以下の海上特攻を計画し、第32軍の攻撃を促した。
この圧力で第32軍は2回にわたり出撃したが大損害を受け、4月中旬以降持久戦に移った。
6月22日軍司令官牛島満中将が自決し、組織的抵抗を終った。
この戦闘の期間、住民の大部分は戦闘にまきこまれた。
大部分が戦死か自殺をした中学生、女学生たちをふくめて、約20万人が犠牲者となた。

沖縄戦の悲劇は戦闘による犠牲にとどまらず、友軍と信じていた日本軍に殺された例の多いことによって倍加されている。
はじめに上陸した慶良間諸島の渡嘉敷、座間味二村では、
村民は足手まといだとして守備隊によって集団自殺を強要され、
山中に逃げた者はスパイ容疑で惨殺された。
こうした例は本島でも多く、明らかに県民と知っていながら『スパイ嫌疑』で、
軍刀・銃剣・小銃で殺された。
沖縄の守備軍が、県民を利用できるだけ利用して、これを戦火の中に遺棄した。

本土決戦の基本的な考え方は、
「皇土の万物万象を戦力化し」「一億特攻」の攻撃精神で迎え撃つというもので、
まさに全国民を玉砕の道連れにする以外の何ものでもなかった。
戦場から住民を避難させるという考えは、輸送力の欠如から実行困難であり、
また避難させたとしても、それを保護する手段がなかった。
国民は動けるもの全てを戦闘に動員し、足手まといになる老人や幼児は見捨てる以外にないというのが実情だった。



本土決戦

生活の崩壊と戦意の低下

一億国民を本土決戦に総動員しようとするこのとき、
支配者の期待したような国民の戦意の燃え上がりはまったくみられなかった。
それは、国民生活そのものが崩壊に瀕していたことが大きな原因である。

生産力の崩壊と海上輸送の途絶の影響を受けたのは、とくに食糧の供給である。
1945年の農業生産は完全に破壊することになってといってよい。
軍隊への根こそぎ動員、
肥料の欠乏、
海上輸送の途絶、
本土の軍隊と工場要員の需要増は、食糧事情を窮迫させた。

支配者が憂慮したのは、国民の生命や健康がおびやかされるということそれ自体ではなかった。
その結果として飢餓状態が現出し、治安上楽観を許さない事態が生まれることであった。
主食の圧迫に加えて副食物も調味料も極端に供給が低下した。
その他、衣料品や靴は零に等しくなった。
食糧の不足以上に国民生活に破壊的影響をあたえたのは空襲の被害であった。
6月以後の中小都市への空襲被害はとくに深刻であった。
空襲を受けると、市民はいっせいに市外に退避し、消火活動に当たる者がなくなって被害はいっそう大きくなった。
工場では労働者が離散し、欠勤率50%のところもあらわれた。
最後の土壇場になって、国民は自らの生命を守るのに、軍や政府の強制にも応じなくなったのである。
空襲にたいする日本軍の反撃のないことも、国民の不信不安をたかめた。
生活の不安、生命の不安から、国民の戦争にたいする疑問と批判はようやく深刻となっていったのである。


士気の低下、戦意の喪失は一般国民の間の現象だけではなかった。
本土決戦に備える270万の軍隊の中でも、士気の頹廃、軍紀の崩壊が大きな問題となっていた。
新編成部隊は素質劣悪・訓練未熟でとうてい戦力として期待できないだけでなく、
宿舎、栄養の不足から兵士の体力気力も衰えていた。
兵器も行きわたらなく、毎日が陣地構築のための壕堀りか、食糧あさりに明け暮れて、教育訓練の余裕もなかった。

民心の離反、士気の低下にたいする対策は、一層むきだしの弾圧政策をとる以外になかったといってよい。
本土決戦体制の強化、空襲の激化に中で警察は民心の動向に対する偵知をますます深め、治安の確保に強硬手段をとりはじめた。
空襲の被害よりも民心の動揺を恐れ、
内務省は5月29日、各県警部長宛て民心の動向危惧の情勢留意の電報をした。
軍部は3月16日、憲兵隊の大規模な拡張をし、思想警察の強化をした。


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本土決戦

2021年08月16日 | 昭和20年(終戦まで)

「日本歴史21」 岩波書店 1977年発行

本土決戦が全国民を死のみちづれにすることが明らかでありながら
戦争指導者たちは具体的な戦争の終結への動きを示さなかった。
それが始まるのは、本土空襲が激化し、民心の離反が明らかになり、体制存続の危機を感じ取った時以降である。

鈴木内閣になってから始められる対ソ工作も、最初は軍部の希望するソ連の参戦阻止が目的であって、直接戦争終結をはじめるのは6月中旬以後なのであった。

4月5日、ソ連は日ソ中立条約の不延期を通告してきた。
前年の11月7日の革命記念日でスターリンが日本を侵略国と呼んだことと、
45年2月末頃からソ連の極東兵力の増強が目立ちはじめたこととあいまって、
ソ連の参戦の危険がせまっていることを陸軍は強く憂慮しはじめた。
5月にはいると兵力105万、飛行機4.500機、戦車2.000両と増加していた。
関東軍の兵備はとうていこれにたちうちできない状態になっていた。
飛行機、戦車、火砲などをほとんど失って、ソ連軍の攻撃に耐える力を持たない状態であった。

ソ連参戦に対して軍事的対抗手段をとりえない以上、陸軍としてはソ連の参戦防止がなりより望まれるところであった。

天皇が急に戦争終結に熱心になるのは6月8日の御前会議以後のことである。
ドイツの降伏、
沖縄の失陥、
東京の大空襲、
宮城の焼失などの情勢の急展が作用していることは事実であろう。
天皇の世界情勢や戦局についての認識は相当に甘かったようである。

対ソ交渉にさいして何よりも日本側の条件として、国体の護持すなわち天皇制支配体制の維持こそが全支配階級の共通した一致点であった。
7月6日スイスの加瀬公使から、ソ連の参戦が必至の情報をあったが、
戦争指導者たちは、ソ連の参戦をおそれ、希望的観測によりかかっていたのである。

7月27日、ポツダム宣言の内容を日本当局が知った。



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ゼロの文学

昭和20年8月15日戦争は終わった。
文学の自由は復権した。
荷風・白鳥・潤一郎らの老大家がまず復活し
執筆不能の状態にあった中野重治・佐多稲子・宮本百合子ら旧プロレタリア文学の流れが動き始め、
野間宏・椎名鱗三・武田泰淳・三島由紀夫の戦後派、
坂口安吾・石川淳・太宰治・織田作之助などの新戯作家といわれる人たちが登場し、文学は何十年かぶりで、その自由をかくとくした。

太平洋戦争下の約5年、そこには「芸術の名においても」また「人間の名においても」文学と呼ばれるものはなかった。
それは「ゼロの文学」だったのである。
「太平洋戦争」 世界文化社 昭和42年発行

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