しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和20年6月23日沖縄戦終了②大和特攻

2023年06月23日 | 昭和20年(終戦まで)

戦艦大和は沖縄に出撃したが、
豊後水道で早くも米軍の潜水艦に発見され、薩摩半島沖で沈没した。

もし沖縄に突撃できていたら、上陸もかなわず飢餓地獄で戦死した可能性もある。
出撃命令が発令された時点で、悲劇しかありえない作戦だった。

せめてものとして、
3隻の駆逐艦が帰還できたこと。
なお、日本軍の戦死者総数は4.044名。米軍は13名。

・・・

「教養人の日本史・5」 藤井松一  現代教養文庫 

4月6日、大本営は航空肉弾戦と特攻艦隊のなぐりこみ戦術によって退勢を挽回しようと焦り、
生き残りの大戦艦「大和」以下10隻の艦隊に片道燃料のみをあたえて出撃させた。
しかし艦隊は潜水艦にとらえられて空襲をうけ、
大和は数千名の艦員とともに徳之島に沈んだ。
ここに日本海軍は完全に姿を消した。

・・・


「連合艦隊興亡記」 千早正隆  中公文庫  1996年発行 

4月5日、連合艦隊司令部の作戦会議に、
大和を中心とする残存部隊を沖縄に突入させる案が、突如として持ち出された。
その目的とするところは悲壮きわまりないものであった。
航空部隊がすべて特攻となって善戦しているとき、水上部隊も特攻となってこれに呼応すべきでないか、
またそうすることによってのみ、大和以下の残った戦力を戦局に寄与させることができるというのであった。
その作戦が成功するかしないかは、すでに討議の外であった。

日本海軍の最期の出撃命令を受けたのは、
大和、矢矧、雪風、磯風、冬月、涼月、初霜、霞、朝霧の10艦であった。
突如として降ってわいた必死の突入作戦の指令は、歴戦の指揮官たちをも驚愕させた。
批判的な意見すら聞かれた。
しかし伊藤整一中将の、悲壮な強い決意のほどを知らされ、全艦隊の気持ちは一つにかたまった。

豊田連合艦隊司令長官が出撃にあたって訓辞を述べた。
「皇国の興廃は正にこの一戦にあり。
ここに海上特攻隊を編成し、壮烈無比の突入作戦を命じたるは、
帝国海軍をこの一戦に結集し、
光輝ある帝国海軍水上部隊の伝統を発揚すると共に、
その栄光を後世に伝えんとするに外ならず」

4月6日午後6時、徳山湾を出港。
4月7日午前7時、大隅半島を通り抜けた。
4月7日午後0時30分、約250機の艦載機が襲う。2時間戦いを続けた後、沈んだ。

・・・

・・・
雑誌「丸」 潮書房  昭和44年11月号 

その日私は『大和』の艦橋にいた
海軍少尉・渡辺光男

待つものは死以外には考えられないものだった。
私は部下に何と説明するか考えた。
艦内のうわさをすでに耳にしていた部下たちはこわばっていた。
「心乱さず家族に心置きなく通信すること。
心身を潔める意味をかねて下着は必ず着替え、身のまわりの整理をしておくこと」
と申しわたしたのである。

食卓には酒盃がくばられ、乾杯の音頭がとられ、
いつとはなしに意気天をつく軍歌がはじまった。
今宵を最後と思う各人の心にはこめあげくるものがあるとみえ、
男泣きの涙、健闘を誓いあう固い握手が随所にみられ、海面はるかを望む者もいた。

特攻出撃の4月6日の時はきた。
三田尻沖を発進した。
豊後水道はすでに敵潜水艦の侵入するところとなっており、
”全軍警戒”の艦隊命令文がだされた。
そうこうするうち、敵潜水艦の発信を傍受した連絡がきた。
ほどなく”雷跡見ゆ”の報告が入る。

4月7日薩摩半島をすぎるあたりで白じらと明けてきた。
ふたたび故国の土を踏むことはできない。

雷撃機の攻撃をうけているのか、艦の動揺が感じられ、
広くない通路は弾薬、兵器材料を運ぶ者、
あるいは負傷者を運ぶ者に出会った。
ここかしこ血臭がただよっていた。
伝令に聞くと、第二波の来襲中だという。
数十メートルの水柱がときおり艦橋内にしぶきをかける。

二時すぎ第四波の来襲をまた受けた。
傾斜も二十度を越えてくると床上に流れている血痕と傾斜で歩行も困難になってくる。
「傾斜復元の見込みなし」
やがて、
「総員最上甲板」
の命令が出された。
大和から海中に飛び込んだ。
しばらく泳ぐうち大和の爆風、衝撃で海上にたたきつけられ気を失ってしまった。
気がついたのは雪風の士官室で寝込んでいた。

思えば、
敵攻撃は大和の左舷に集中されたようで、
その物量の差をまざまざと見せつけられた海戦であった。
巨艦の最期を飾るにふさわしい割腹自殺であった。

・・・

 

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昭和20年6月23日沖縄戦終了

2023年06月22日 | 昭和20年(終戦まで)

 

沖縄戦、

敵は米軍だったが、日本軍も味方とは言えなかった。

 

・・・


雑誌「歴史人」 2022年6月号 


沖縄南部には民間人が10数万人いたといい、
彼らは日本軍の側にいることが安全だと思い、軍に付き従っていた。
というのは、
アメリカ人は鬼畜だという教育を受け、捕まれば拷問されたり凌辱されたりした後、むごい殺され方をすると信じていたからである。

沖縄の女子学生たちは、野戦病院の看護婦として従軍させられていた。
ひめゆり部隊も、そうした学生看護師隊の一つだった。
彼女たちは第三外科壕にいたが、そこにアメリカ軍がガス弾を投げ込んで、数十名の若い命を奪ったのである。
沖縄県民の命は、アメリカ兵だけでなく、日本兵も足手まといになる民間人に自決を強要したり、スパイ容疑をかけて射殺したりということが起こった。


・・・


「岩波講座日本歴史21近代8」  岩波書店 1977年発行


沖縄戦の悲劇は戦闘による犠牲にとどまらず、友軍と信じていた日本軍に殺された例の多いことによって倍加されている。
はじめに上陸した慶良間諸島の渡嘉敷、座間味二村では、
村民は足手まといだとして守備隊によって集団自殺を強要され、
山中に逃げた者はスパイ容疑で惨殺された。
こうした例は本島でも多く、明らかに県民と知っていながら『スパイ嫌疑』で、
軍刀・銃剣・小銃で殺された。
沖縄の守備軍が、県民を利用できるだけ利用して、これを戦火の中に遺棄した。

本土決戦の基本的な考え方は、
「皇土の万物万象を戦力化し」「一億特攻」の攻撃精神で迎え撃つというもので、
まさに全国民を玉砕の道連れにする以外の何ものでもなかった。
戦場から住民を避難させるという考えは、輸送力の欠如から実行困難であり、
また避難させたとしても、それを保護する手段がなかった。
国民は動けるもの全てを戦闘に動員し、足手まといになる老人や幼児は見捨てる以外にないというのが実情だった。

6月22日、牛島中将は司令部で自殺した。「日本兵は命あるかぎり戦い続けよ」と遺言した。
軍人・民間人含めて20万人が犠牲となった。
沖縄県民は、なんと4人に1人が死んでいる。

 

・・・


「一億玉砕への道」  NHK取材班  角川書店 平成6年発行


捨て石にされた沖縄

大本営は、沖縄戦を本土決戦のための前哨戦、いわば「捨て石」作戦と位置づけていた。
沖縄守備軍の任務とは、沖縄にある人と物を使って本土決戦までいかにねばり、時間稼ぎができるかというその一点だけだったのである。
海も空もアメリカ軍が島をとりかこんでいて、もうどうしようのない状況だった。
ただ人間の命を時間稼ぎのためだけに消耗するという戦いを強いられた。
4月22日、ソ連軍はベルリンに突入し、30日ヒトラーは自殺、
5月7日ドイツは連合国に無条件降伏する。
ソビエト軍兵力の東方への輸送が3月ころから始まった。
ドイツ崩壊の前後、大本営ではソ連参戦防止のための対ソ外交について議論が重ねられた。

 

沖縄玉砕

5月下旬までに、沖縄の日本軍の主力部隊はほぼ壊滅していた。
日本軍は、まともな武器も兵もないため、ゲリラ戦で抵抗を続けた。
嘉数高地から浦添をへて、首里へいたる中部戦線は、わずか10キロ。
この10キロで、日本軍は64.000人戦死。アメリカ軍も26.000人死傷という死闘がくりひろげられた。
ここで日本軍は、自爆攻撃によってアメリカ軍にたちむかっていった。


陸の特攻作戦である。
爆弾箱を、自分の腕にかかえて突進したのである。
海も空もアメリア軍に握られた日本軍は、外からの補給は絶望的で、
それをあくまで精神力でのりきろうとしていた。
5月22日ごろ首里陥落。
軍民ともに最後まで闘い、本土決戦までの時間を稼ぐ「玉砕」を選択したのであった。
日本軍による住民犠牲は、わかっている数字だけでも数百件。
アメリカ軍によるものの4倍ともいわれている。
犠牲者数15万人という凄惨な結末だった。

 

・・・

「教養人の日本史・5」 藤井松一  現代教養文庫 

硫黄島を攻略した米軍は、最後の決戦場を沖縄に求めて兵力を結集し、
4月1日上陸作戦を開始した。
総兵力54万、
軍艦38隻、
補助艦艇1.139隻、
上陸用舟艇 数千
まさに雲霞の大軍であった。

これを迎え撃つは、牛島中将指揮の
陸軍7万、
海軍8.000
男女中学生徒含む県民2万5.000人が義勇隊として動員された。
日本軍はほとんど全滅に全滅に近い。
一般住民15万人が戦火にたおれた。

6月22日、牛島司令官と長勇参謀長は洞窟の中で自決し、最後の突撃が敢行され、抵抗は終わりをつげた。

・・・

米軍よりも日本軍が恐ろしかった

「昭和 第6巻」  講談社 平成2年発行

沖縄戦で正規軍の2.2倍もの住民が戦死した。
日本軍が、沖縄の人口の大多数が居住する南部に主戦地をとって立てこもったこともさることながら、戦争と民衆、軍と市民の関係という面で、現在に至るまで考えさせる問題を提起している。

端的に言えば、住民にとっての沖縄戦は、米軍と日本軍に挟撃される逃れようのない地獄図であった。
挟み撃ちにあったのは、肉体・生命だけでなく精神もそうである。
引き裂かれ傷つけられた精神は、皇軍とは?祖国とは?軍とは?戦争とは?
を問い返して今に至っている。

沖縄戦を象徴するできごとは、米軍の沖縄本島上陸以前に起こった。
慶良間列島で相次いだ住民の集団自決である。
手榴弾で死にそこなった者は
「互いに棍棒で打ち合ったり、剃刀で自らの頸部を切ったり、鍬で親しい者の頭を叩き割ったりした」。
軍に強いられた集団自決の後、住民は「米軍より日本軍が恐ろしくなった」と語っている。

これらの手記や報告は数多く残されている。
軍は、沖縄の人たちそのものを敵視したのである。
それは「戦場の狂気」ではすまされない。
たとえば5月5日、参謀長名で「標準語以外の使用を禁ず。沖縄語をもって談話したる者は間諜として処分す」

沖縄戦の特徴は、第一に住民が軍の指揮下におかれて戦闘に組み込まれたこと、
第二に軍と住民が混在している地域が戦場となったことである。
大多数の沖縄県民は、軍と共死共生しようとした。
しかし「共死共生」を破ったのは軍の方であった。
本土人をもって構成された軍は、沖縄住民を恐れ敵視したのである。
そこには、差別意識が強く働いていたといえよう。

 

・・・

牛島満軍司令官の最期の命令、
「最後まで敢闘し、悠久の大義に生くべし」(最後まで戦って、お国のために死ね)

海軍の大田実司令官は、
「沖縄県民かく戦えり」「県民に後世特別のご配慮を」と海軍次官へ打電し自決。

牛島司令官の命令通りすすんでいたら、沖縄県は生存者ゼロ、
大田司令官は後世への言葉が残り、いくらか救われる。

・・・

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終戦記念日

2022年08月15日 | 昭和20年(終戦まで)

(父の話)


8月15日には 焼け野原の、岡山陸軍病院で聞く終戦


陸軍病院の庭に全員集合して聞いた。
ワンワンようたが、
聞き取りにくかったが意味するところはよく分かった。
「日本は負けん、これからじゃ!」と勇ましいのを言うのもいたがすぐ収まった。

(勇ましい事を言う人は、それが一週間くらいはつづいたのだろうか?
2~3日だったのだろうか?
それとも一晩寝ると収まったのだろうか?)

『決起する』といっていたのは・・若い・・兵である。(将校でも下士官でもない)
終戦で「ほっと・・した」のが・・ホンネ・・大部分なので、勇ましいことをいうのは不思議でもないがその時点で既に少数意見(というくらい敗戦の状態の現実と、厭戦気分であった)であった。
いさましいのはとても一週間はつづいていない。いってみれば一晩寝ればおしまいの『決起する』であった。


2000年09月16日


・・・

8月15日 茂平では (母の話)

(その放送があることは「隣組・回覧版で知ったのか ?」)

回覧も何もありぁあせん。
「重大放送がある」と繰り返し、ラジオがしつきょうた。
家でラジオで聞いた。
もう戦争が負けるんじゃけえ、そりょを言うんじゃろう思うとった。
(茂平みたいな)田舎の人でも、「そりょう言うんじゃ」言ゆうてようた。
じゃけいわかっとった。

(放送の雑音と内容は)天皇陛下の言うことは今でもぐつぐつ言うて、何を言ようるんかようわからんが。

 

談・2000年01月30日 

・・・・
父は兵役中で母は茂平で終戦を迎えた。
・・・・


「歴史の温もり」 安岡章太郎歴史文集  講談社 2013年発行

45年前の8月15日

45年前の8月15日、私はひと月前に胸膜炎で軍隊を現役免除になり、日本橋を歩いていた。
と、後ろから追い駆けてきたきた学生が「戦争は負けました。日本は負けたんです」とドナるように言って、また駆けて行った。
負けたがどうした、私は心の中で、うそぶくような気持でつぶやいた。

しかし、今考えると、その時の私は、やはり動転していたにちがいない。
敗戦は前々から予想していたことだったが、戦争に負けた後、自分たちがどういうことをしなければならないのか、そんなことまでは考える余裕もなく、見当もつかなかったからだ。

日本は戦争責任の追及や処理が全く出来ていない、といわれる。
それはそうだろう。
大体、戦争責任という言葉を私は戦争中にほとんど聞いた覚えがない。
それは、戦争裁判、公職追放、あるいはオフリミッツといった言葉と同様、
アメリカ軍が進駐してきて初めて日常的に耳にするようになったものだ。

先日大江健三郎のつくったテレビ・ドキュメント「世界はヒロシマをおぼえているか」の中でゲストの一人、金芝河が意見を聞かれて、
自分はこの質問自体に反対だとこたえているのに、ハッとさせられた。
金氏は言うのである。
日本人はまずみずからに問うべきだ、
世界は南京虐殺をおぼえているか、
戦争で犠牲になった百万のアジア人をおぼえているか、
日本に強制連行され被爆した朝鮮人をおぼえているか、と。
私たちがヒロシマを世界に訴えようとするとき、
どこかで「世界最初の被爆国」という被害者の気負いのようなものがありはしまいか?
もしそうなら、やはりそのぶん私たちは金芝河の発言をまともに受け止めなければならないのではないか。

私は軍隊では被害者であったろう。
しかし、例えば金氏や金氏の父母の眼には、私のごとき弱兵でも軍服を着ている限り加害者の一人に見えたに違いない。
そのことを私は、おぼえておかなければならぬと思う。




・・・・

 

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8月9日に戦争が始った国④開戦後、日本人は即棄民

2022年08月11日 | 昭和20年(終戦まで)

当時・吉林市に住んでいたおば(父の妹)の話

日本人は今まで「タイタイ」、大将でおったのが。
そりゃぁみじめなもん。
戦争で負けたらもう、社宅へ向かって石は投げるし。
暴動みたいに、だーっと家の中にはいり衣類は取られるし。
天皇の玉音を聞いたら、もう日本人は全員殺される。

ロシアが明日やってくる。ロ坊主(ろぼうず)ゆうてようた。
ロシアがきたら、女性は全員出ていったらいけん。
頭は坊主にして、顔に墨を塗って。
社宅をくりぬいて、一部屋にして。
畳をあげて下に隠りょうた。
鈴をつけて、鈴が鳴ったら「女はみんな隠れろ。」
床の下に隠りょうた。
あるものは全部盗られた。
腕時計まで取られた。

談・2002・4・30
(おばは翌年、葫蘆島から帰還。その間に一子を亡くした)

 

・・・・

 

8月9日に戦争が始った国④「日ソ戦争 1945年8月」   富田武 みすず書房 2020年発行

吉林省新京の占領軍

(首都・新京の外交官の回想記)
ソ連兵の暴行がここかしこで起こり、略奪が行われた。
将校までが兵に混じって暴行を働き、略奪するのである。
ある年若い婦人はソ連兵に暴行されたために青酸カリ自殺をした。
このような不幸な人たちは、私が耳にしただけでも十数名に達する。
至るところでマンドリンをかかえたソ連兵が通行人に襲いかかり、
お金、時計、万年筆を奪うのである。
あちこちで自動小銃の音がする。
全く生きた心地がなかった。
不安、恐怖、戦慄が全市を蘞った。

この略奪部隊は、スターリンの命令によって行動する、
軍司令官の指揮を受けない独立の部隊で、監獄や強制労働所から召集された若者が多く、
また、機械技師や電気技師も多数いると、あるソ連兵は私に話してくれた。

・・


 麻山事件
8月10日、虎林線の駅はソ連機の攻撃を受け大部分が不通になった。
1.300人の開拓団は先頭・中央・後尾の三集団になって前進し、
前後をソ連軍に挟まれて攻撃を受けた。
そのうち貝沼団長の率いる中央集団は、敗残日本兵に開拓団の護衛を頼んでも断られ、万事休すと判断して12日、麻山谷で自決することを決意した。
婦女子四百数十人が自決を強いられ、死にきれないものは殺害されたというのである。
のちには
団長は自決か脱出かを各自で決めるようにと述べたが、婦人たちが「私たちを殺して下さい」と次々に訴えるのを目にして、集団自決を選んだ。
「生きのびてソ連や満人の凌辱を受けるより、みんな揃って美しく死ぬことは我々拓士(開拓団員=戦士)の正しい方法かと思う」
壮年男子は、僅か30分か40分の間に自分の妻子や同胞を銃殺し、刺殺した。
人間業ではないと思う、忌むべき軍国思想がこれを為したのではないか。

・・

開拓団には通告せず、開戦後も「関東軍がついているから生業に励め」と放送し、
なおかつ、
都市部に避難してきた彼らの列車輸送を後回しにし、ソ連軍の攻撃に晒したことは
「棄民」に他ならなかった。
関東軍首脳の責任は免れないが、兵士も開拓団も長年の軍国主義教育の結果として
「お国のために死ぬのは本望」
「敵の手にかかるよりは自決する」
という建前と心情に囚われていたことを指摘せざるをえない。

・・・・

 

「ソ連が満州に侵攻した夏」 半藤一利 文芸春秋 1999年発行

「女の子は五百円」

都市の住民はもちろんのこと、
たしかに一時期は辺境の居留民や開拓団も「優越民俗」としての生活を、
国境に近い町や村で享受していたことであろう。
それも関東軍の威力を背景にしてのことであった。
しかし関東軍の虚像は崩れ、惨憺たる敗走がはじまった。
そのとき軍は足弱なかれらをあっさりと見捨ててしまう。
開拓団は満州全土のいたるところで無防備のまま放り出され、さまよい歩かねばならなくなった。
そのかれらをソ連軍が急迫してくる。
さらに現地人が仕返しの意味も含めて匪賊のごとく襲いはじめた。

なんどもなんども暴民や武装匪賊の襲撃ですべてを奪われ、
乞食以下となった日本人の行列に、中国人や朝鮮人が
「粟を買わんか」「とうもろこしはいらんか」
と声をかけてくる。
また幼い子供を連れて歩いているものには、中国人が
「子供をくれ、子をおいてゆけ」とうるさくつきまとい、ついには
「女の子は五百円で買うよ。男の子は三百円だ。」と値段をつけてまでした。
生命を守ってくれる軍隊に逃げられ、包囲され、脱出の望みを絶たれた人びとにとって、
最期に残された自由は死だけであった。
忍耐の限界を超えると、生きていることはむしろ無意味な苦痛となっていく。

 

・・・・

 

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8月9日に戦争が始った国③拓け満蒙!行け満州へ!

2022年08月10日 | 昭和20年(終戦まで)

満州に行けばいいことがある。
労働者に仕事はいくらでもある。
農民は広い土地をもらえる。といわれて

それを実行したら、たしかに都市労働者には豊かな暮らしがあり、
農民は大規模農園を営むことが出来た。

ところが、
異国や極寒の冬にもやっと慣れたころ、戦争が始まった。
そして棄てられた。

・・・

 

「満州開拓団の真実」  小林弘忠 七つ森書店 2017年発行

満州行きを勧誘するポスターが、頻繁に全国の農村に貼られるようになったのは、
昭和13年から14年にかけてであった。
「満州に行けば必ず20町歩の地主になれる」
との心をそそる文句もあった。
そのうえ補助金がもらえるというのだ。
せいぜい6~7反歩しかない小作農家のほとんどが、
単位の違う田畑の広大さに目を見張り、いっそ花を咲かせに大陸へ旅立ちたいと、
胸を波打たせた。

関東軍の「移民方策案」
満州支配の関東軍の意図は、満州を新国家と位置づけ、入植によって
帝国日本の「生命線」を確保する。
満州移民は日本の「国防上最重要事項」であるとし、
移民は入植者であると同時に、対ソ防衛の軍事的補助要員であり、
日本帝国主義の先兵の一員である。
昭和7年試験的に移民団が募集され、集まった423人が出立している。これが第一次試験移民といわれる人たちである。
国策として正式に満蒙移民の推進がはかられたのは、2.26事件のあった昭和11年、
広田内閣の時である。

 

 

ソ連兵来る
8月9日、吉林省にある長野県からの「高社郷開拓団」の場合。
10日ぶんの食糧をもって宝清まで避難せよとの指令が出た。
団の協議は「ソ連軍と戦い、団を死守する。敗れれば自決。婦女子は最初から自決」、結論はそういうことだった。
自決用に新しくカミソリが渡された。
青酸カリは、診療所の医師が用意していたが、古くなったためか、犬が死なないことがわかったので使わないことにした。
苦しまないで、ほぼ確実に死ねるのは銃殺である。
銃は大切であった。しかし弾がなくなれば、死ぬこともできないので、弾はもっと貴重であった。
弾丸は、相手を倒すより日本人、しかも同郷人の自決を幇助する殺害の必須用具に変わっていた。
解団式が行われた。

8月15日
連合軍はマッカーサー元帥を連合国最高司令長官に任命。
マッカーサーは重慶放送を通じて
「なるべく速やかに戦闘行為を停止するため・・」と大本営に向けてメッセージを送った。
翌16日「日本軍の戦闘停止を命令する」。
15日には、トルーマンが全軍に戦闘停止命令を出し、イギリス、インドも停止を発令した。
ソ連軍は15日以降になっても戦闘を停止せず、満州では日本側も抵抗した。
満州の中心部、新京ではこの日から無政府状態となり、各所に銃声が響き、
中国人による略奪も相ついで、市民の多くは公共の建物に避難するのが精いっぱいだった。

8月20日以降
ザバイカル方面軍の先遣隊が日本軍総司令部のある新京入りした。
連日数百人単位で続々とやってきた。
通信網が遮断されたため、総司令部と部隊間の連絡手段がなくなり、これより
「停戦も武装解除も無統制のバラバラとなって、各地で混乱が起こった」と、
『満ソ殉難記』は記す。
ソ連軍が治安を維持するとの口実で、傍若無人のソ連兵による略奪、暴行が相つぎ、
とくに女性が大きな災難を被った。
ソ連軍兵の暴威、暴状はやむことがないどころか過疎度を加え、
兵隊たちが「野獣的」になった例は、枚挙にいとまない。
ソ連兵は群れをなして、都市部の日本人家庭、事務所に侵入し、
手当たり次第に金品を略奪した。
抵抗すれば射殺し、集団的婦女暴行も堂々と行われたため、
女性は頭を丸め、顔に墨を塗ったりして男性を装ったが胸をさわられて助成と分かり、集団でいたぶられた。
吉林省敦化の日満パルプ会社の社宅では、男子と女性社員が分離され、170人の婦女子社員を監禁して連日暴行。
23人の女子社員が青酸カリで自殺した。(敦化事件)

 

(つづく)

 

 

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8月9日に戦争が始った国②「満州開拓回顧誌」(芳井町)

2022年08月10日 | 昭和20年(終戦まで)

芳井開拓団は昭和19年2月入植、3月種蒔き、そして
昭和20年5月、根こそぎ動員、8月9日に戦争が始まった。

・・・・



「満州開拓回顧誌」  小谷哲雄 ぎょうせい 平成3年発行

 

開拓団の編成
団長以下5人の幹部指導員を当局に届けを出し、
同時に所定の訓練所に入所する。
茨城県内浦の満蒙開拓訓練所に入所された。
幹部は内浦の訓練所へ、
団員は芳井国民学校に集合し、芳井分村開拓団の編成をみた。
昭和19年1月末であった。

 

満州は元来、清朝発祥の地であった。
清朝が中国大陸を支配するようになってからは、異民族の流入を許さず封禁令をだしたこともあった。
しかしその後、ロシア人の東方進出が激しくなってくると、漢民族の移住を奨励するようになる。
日清戦争後、ロシア宰相ウイッテは、ロシア人60万人を北満に移住させる計画を企てた。
北京政府は5ヶ年計画で、300万人の移民を黒竜江省方面へ送る計画を立てた。
漢民族の満州奥地への進出が盛んになったのは、昭和初期であったと聞く。
漢民族につづいて、移民の多かったのは、朝鮮民族で、昭和12年頃100万人とも120万人ともいわれる。
漢鮮両民族の進出に対し、満州事変以後事情は変わり、昭和7年満州国が誕生すると、
関東軍の手により全満に治安工作がすすみ、北満の穀倉地帯が新たに移住地として開放された。
20ヶ年100万戸の移住が着々と進捗することになった。

 


入植式
幹部は内原訓練所の厳しい錬成を終え、新京を経て現地入りし、
先遣隊も昭和19年2月郷土を出発して、2月8日現地に到着幹部と合流した。
2月11日、紀元節の日、役所、現地人代表を招いて、形ばかりの入植式を挙行した。
五族協和の先兵となり安住の楽土満州国の平和の為に、第二の故郷満州に骨を埋める覚悟で、開拓の大事業に挺身しよう、と語り合ったものである。

開拓は開墾からというのが常識であったのに、私共の入植地はすべて既耕地であった。
想像したような苦労もなく原住民との折り合いもよく、平穏な生活であったが、
今にして思うと、
開拓団は農地を侵略によって入植したので、大反撃を受けたのではなかろうか。

・・・・・・・

「満州開拓団の真実」  小林弘忠 七つ森書店 2017年発行
入植地を既開墾地にすると、中国、満州人ら現地住民と摩擦を生じさせるので、
なるべく未墾地に入植させ、早急に広大な土地を確保するとされたが、
時代がすすむにつれて、既開墾地も侵害し、
中国、満州人を駆逐せざるを得ない状態となった。
最初、満州は寒冷地なので不可耕地が多く、農業に適さないとの反対論もあったのだが、
切羽詰まった国内事情では、強引ともいえる力で推進した。

・・・・・・

現地人の家屋は、寒さに耐えるようになっているので、ガラス戸も二重にできているだけに、空気も悪く家のなかにいると頭痛がするので、できるだけ外に出るよう心掛けた。
地下は相当凍結しているので、作業は難航した。
振り下ろす鍬もかちかち音をたて、掘り起しに随分苦労が多かった。
阜新市とは170キロも離れた街で、馬車で行くと途中で宿泊しなければならない。
往復することは大変であった。

借宿舎は城内にあって、満州特有の強固な土塁をめぐらし、東西南北に大門があり、
城内から約4キロの所に団の本部があり、開拓地の中央に位置し、開拓地はなだらかな丘になっている。
芳井町のように、山坂の多いところを生活の本拠とした者にとっては、
見るもの聞くもの大きな驚きであった。

 

 

春になれば本隊が着く、家族も迎える、その準備に忙しい日々であった。
開拓団の生活は主食等満拓公社から送られてきた。
味もよく主食に事欠くことはなかった。
焼酎・砂糖・衣類・煙草等、
当時内地ではないものが何でも豊富で、うれしいやら有難いやらの連続であった。
農機具が届く、馬鈴薯の種も大量に着荷する。
何から何まで合理的になっていることは、さすが国策としての満州開拓だなというのが実感であった。
服・ぼうし・巻脚絆・地下足袋の類まで一揃の配給があった。
その頃内地では手にはいらないものばかりで、勿体ないという一語につきる毎日であった。

 

現地でも20歳の徴兵検査を受け、合格者は入営させられるし、赤紙での召集もあったが、平穏な日がつづいた。
団員一同の努力は米・雑穀共増収を続け、完納出荷、光明が見えだした時、
即ち、昭和20年5月太平洋戦争は、遂に終戦間際までには団員の9割まで応召し、
老人を残すだけで、本部事務も停滞の止むなきにいたった。
遂に8月11日、第二の故郷を放棄しての避難は、悪天候つづきで、
病気・栄養失調・疲労と死亡者の続出は想像にあまりある苦難の道と言えよう。

 

(つづく)

 

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8月9日に戦争が始った国

2022年08月09日 | 昭和20年(終戦まで)

昭和20年8月9日に日本に宣戦布告したソ連は、日本でなく、満州国に攻め込んだ。
日本の参謀本部は事前に情勢の把握はしていたものの、国に余力はなく、
ソ連が侵入してくれば、されるがまましか手がなかった。
”五族協和””王道楽土”に住む日本人は、そういう美名とは真逆の状況となり、開戦と共に棄民状態になった。

木山捷平さんは当時のことを、次のように書いている。


「私」は、8月12日、日本の軍隊から現地召集を受けた。
翌朝,朝食ぬきで街頭での穴堀り作業。
なんの為に、こんな穴をほるのかとほかの新兵がきけば、敵の戦車がおし寄せて来た時、この穴の中にエンコさせて見せるのだと言うのである。
学校の玄関では、古参兵が数人、せかせかと出刃包丁を木銃にくくりつけているのが見えた。
これが翌日になって、新兵唯一の武器として、私たち老兵に配給せられたのである。

 

(芳井町「満州開拓記念碑」)

 

満州国には本土から、多の邦人が、豊かな暮らしを求めて渡り、
昭和20年8月9日の戦争開戦から、空前絶後の苦難の日々が始まった。

渡満の最大数は国策である「満州開拓団」で、
一例として後月郡芳井町を転記する。

 

「満州開拓回顧誌」  小谷哲雄 ぎょうせい 平成3年発行

 

発刊によせて  岡山県知事 長野士郎

満州事変の勃発した昭和6年の、その翌年から始められた満州開拓は、
昭和史を語るうえで忘れることができないことで、
特に太平洋戦争ぼっ発後は、国運を決する重大な国策として推進されたものです。
進取の気性に富んだ本県後月郡芳井町では、昭和19年2月、東洋のザール地方といわれる石炭の産地錦州阜新市に分村して、入植するところとなり、団員一致協力して営農に取り組まれたのである。
その後、戦況は悪化し、団員皆様方は、いまだに経験したことのない異国での敗戦や食糧の乏しい収容所生活、幾多の苦難を乗り越えて、戦後をたくましく生き抜いてこられたのである。

 

    元衆議院議員 藤井勝志


民俗協和、王道楽土建設の大理想を掲げ、日本民族の発展を目指した満州開拓は、
昭和7年から国策として強力に推進せられ、
昭和20年終戦までに、この大事業に参加した開拓民は、全国32万人を数え、
なれない大陸型の厳しい気候を克服し、戦時中の物資不足に耐えながら、未開の大地を開発して着々とその成果を挙げつつあったときに、敗戦という未曽有の悲劇に遭遇されたのである。
王道楽土建設、満州開拓による日本民族発展の大理想も、一瞬にして崩れ去り、
流浪と飢餓に苦しみ、絶えず生命の危険にさらされる苦難の生活を、異国で経験せられて、昭和21年6月、内地に帰還された。
この間多くの人々が飢餓に病魔にあるいは銃弾に倒れ、また行方不明となられ、
まさにこの世の生き地獄の毎日であったと思われる。


回顧すれば、
私の生まれ故郷芳井町では、農業の振興も狭少な耕地面積では限りがあり、
太平洋戦争下政府の要請に基いて満州開拓が計画され、芳井町を中心に、100世帯300人が錦州阜新市に入植された。
涙なくしては語れない生々しい戦後史の一ページである。
故人となられた開拓団関係の、多くの人々の御霊よ、どうか安らかに故郷の山河に眠られんことをお祈りする次第である。


(つづく)

 

 

 

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8月8日、福山の空が炎に包まれた夜

2022年08月08日 | 昭和20年(終戦まで)

祖母は跡取娘だったので、生涯茂平から出ることはなかった。
その祖母が、同じ話を何度もするのがふたつあった。
一つは、明治時代の茂平の堤防が決壊し、お宮の前まで海水で浸かったこと。
二つ目は、昭和20年の福山空襲で普段は真っ暗な茂平は、昼間のように明るくなったこと。
何度も何度も同じ話を聞いた。


・・・


義兄は福山東国民学校の生徒だったが、笠岡の篠坂に疎開し、親と離れ陶山国民学校に通学していた。
義兄は疎開生活のつらさを、ときどき話していた。
福山空襲の日は燃え上がる福山市街地を眺めながら怖さと、家の心配で震えながらすごしたそうだ。
戦争が終わり、福山からお母さんが迎えにきた。
当時、義兄は3年生だった。

 

・・・

 

「井原市史2」 
8月8日夜10時ごろ、空襲警報が鳴って、火の手、黒煙のあがる福山空襲の様を見ていた。
13日にはいよいよ空襲の標的と身に迫る危険を避けるため、ベンガラを購入して松根油を溶いて白壁を塗った。

 

・・・・

 

昭和20年8月8日焼失した、国宝・福山城天守閣。

 

 

昭和41年に再建したが、なぜか姿・形がまがい物。

今年”令和の大普請”の名目で昭和20年の姿に復元、2022年開城。

再建天守を解体したのは「耐震」が理由で、まがい物を造った責任は誰にもなし、責任論すらない。

 

・・・・


「広島県戦災史」 広島県 第一法規出版  昭和63年発行  

歴史の教えるもの

米軍は7月31日に、福山空襲を予告し避難を勧告していた。
3月の東京空襲以来、全国の各都市が空襲され、大量の人的被害をだしておきながら、
軍・警察・市の指導者は、全市民を市内からあらかじめ退出させる措置をとらなかった。
むしろ「空襲前、警察は市民に火災を防ぐため疎開してはいけない」とし
「福山では、男は絶対逃げてはならぬ、残って家を守れ」と命令されていた。

それは、戦争指導者が作為した「神州不滅」や「一億玉砕」の覚悟という非合理的スローガンが自己呪縛となり、
末端指導者をして、避難勧告に従うことは敵の策略に乗せられることではないかと疑心をいだかせ、
人命尊重を優先させず、むざむざと多数市民を死傷させたのである。
自己呪縛が戦争指導者全体から、事前に避難を命令しうるような権限を奪い去っていたのである。

・・・

 

 

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「原爆記念日」軍都・広島のこと

2022年08月06日 | 昭和20年(終戦まで)

昭和20年8月6日までに、岡山・米子・下関・宇部・高松・新居浜・松山・徳島・高知が空襲で焼失していた。
それでも、中国四国最大の都市であり、軍都でもあった広島は丸腰の丸裸であった。
一例として、徐州会戦では日本軍が来るを察して、城内に兵も民も誰もいなかった。

広島では、わかっていて何も行動せず、空襲されるのを待つような状況であったので、一層の大被害となった。

 

(撮影・2018.5.3)


毎年「あやまちはくりかえしません」と宣言しているが、
「逃げも隠れもできなかった」禁止され・許されなかった、というあやまちは、その中に含まれていない。

原爆投下は米軍で、広島市民は被害者という図式には、国家の責任転嫁が含まれている。
市民に「逃げるな」と命令していたのは国家だから。

 

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「悠久の大義」

2022年06月11日 | 昭和20年(終戦まで)

なぜ無謀な策が誕生したのか?どうして止められなかったのか?

雑誌「歴史人」 2022年6月号  
沖縄復帰50年---繰り返さないために、いま語り継ぐべきこと

「悠久の大義」

昭和19年10月25日、神風特別攻撃隊はレイテ島沖で5空母に大きな被害を与えた。
特攻隊員との約束通りに、ただちに天皇陛下に報告された。

天皇はびっくりしつつも、
「かくまでやらせねばならぬということは、まことに遺憾であるが、
しかしながら、
よくやった」と言った。
指揮官の大西瀧治郎中将としては、
「もうやめよ」という言葉を期待していたようだが、「よくやった」といわれたら、
体当たり特攻をやめるわけにはいかなくなった。
特攻はその後、普通の攻撃法となっていくのである。
・・
戦争は殺し合いだが、運がなくて戦死することと、最初から死ぬために出撃することは違う。
爆弾を命中させたら生還してよいか質問した隊員を「まかりならん」と叱るようになり、
帰ってきた特攻隊員は何回も出撃させるようになった。

・・
当時の軍人は天皇のために命を投げ出すことこそ名誉であると、厳しく教育されていた。
成算のない出撃でも、それは永遠に続く天皇への忠義の証となると、信じるように仕向ける教育を行った。
天皇への忠義が足りないと非難されるほど、不名誉であり、屈辱的なことはなかった。
我が身を滅ぼそうとも、結果は悠久の大義に生きることになる、と信じて生きてきた。

このような教育は、付け焼刃では隊員も納得しなかっただろう。
長い期間をかけて、教育勅語や軍人勅語を、暴力と共に浸透させた結果だったのである。

10代の少年が特攻隊員に養成された
歩兵ならちょっとした訓練を行うだけでも戦場に投入できるが、
パイロットとなるとそう簡単ではない。
そこで、中学4~5年生を相手に募集し始めた。

(15歳で予科練に入営したおじ=母の末弟)

 

それが甲種予科練だ。
太平洋戦争が不利になってくると大増員した。
さらに小学校高等科を対象とした制度も新設され、募集も行われた(乙種予科練)。
・・
昭和20年4月6~7日、特攻機300機が出撃

このうち、24機が体当たりした。
大半は駆逐艦で10隻を数えた、うち3隻は沈没。
この特攻と合わせるように戦艦「大和」が軽巡1,駆逐艦8隻を引き連れて出撃した。

昭和20年3~4日、201機出撃
海軍136機、陸軍65機が出撃。
昭和20年5月11日の特攻で正規空母「バンカー・ヒル」へ2機が体当たりして、大損害を与えた。
6月22日まで行われたが、
最期は飛行機も足りなくなった。そこで海軍機上作業練習機「白菊」まで動員して出撃した。
さらに「赤とんぼ」と呼ばれた練習機まで動員して出撃させた。
人権無視の時代とはいえ、
日本軍が人間の命をいかに粗末にしていたか、それを思うと愕然とする。

 

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「伏龍特攻隊」

 

軍国少年

城山三郎「生き残った者の苦しみ」 毎日新聞 2022年6月9日

「軍国少年でした」と作家、城山三郎は戦時中の自らを振り返った。
2005年夏、記者がインタビューした時のことだ。

大日本帝国は日清戦争、日露戦争、第一次政界大戦と対外戦争を繰り返し、いずれも勝利した。
「一等国」に向かう坂を上っていった。
大戦後は中国侵略を続け、満州事変を起こし、日中戦争も始まった。
その中国からの撤兵を巡りアメリカと対立し、41年12月開戦となった。


「軍国少年」は必然
日本は悪くない。
大東亜に新しい秩序を作ろうとしている。
悪いのは中国でありアメリカ、イギリスだ。
それが日本政府の一貫した主張であり、教育現場でも繰り返された。
新聞もその主張に沿う報道をした。
多数の「軍国少年」「軍国少女」が誕生するのは必然だった。
その一人として、城山少年は志願して海軍に入った。

特攻は大西瀧治郎中将が「統率の外道」と断じたように、本来はやってはならない作戦だった。
しかし、期待したほどの戦果は上がらなくなった。
それでも、特攻は終わらないどころか拡大していった。

「二度と戦争をしてはならない。
そのためには体験した人間が伝えておかないと。
それが若くして死んだ人たちの鎮魂にもなるはずです」
城山はそう話していた。

 

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