日時・2025年2月15日
全国的に有名な「西大寺はだか祭」を、初めて見物に観音院に行った。
西大寺には午後2時過ぎに着いた。
午後3時頃、「少年はだか祭り」に始まり
午後10時の会陽「宝木投下」まで約8時間を西大寺にいた。
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「日本の祭り」 菅田正昭 実業の日本社 2007年発行
西大寺会陽
西大寺観音院で祈祷した「寿」 「富」「康寧」「好徳」「終年」の 五福の護符が、大変な御利益があると評判になり、希望者が殺到した。
このため室町時代の永正7年 (1510)に、当時の住職忠阿上人が、修正会法願の日に護符を投げ与えたことにはじまる。
その後、護符が奪い合う人々によってちぎられてしまうため、紙から木の宝木(しんぎ)にかえられた。
午後10時、三番太鼓を合図に、褌姿の男たちが入場し、垢離取り場の水で禊ぎをした後、
本堂の大床で押し合い、打ち水と汗が湯気となって立ち上る。
午前零時になると人々は本堂に集まり、すべての明かりが消され御福窓から二本の宝木が投げ入れられると激しく奪い合い、
闇の中は人が人を乗りこえ、地獄さながらとなり、清水方が柄杓で水を撒いても、体温の熱気でたちまち湯気となる。
争奪戦の末に宝木を手に入れた者は「福男」と呼ばれ、その年の幸福が約束されるという。
戦前までは祭礼前に各地で予行演習があり、本番に備えたそうで、
この祭りに参加することが、一人前の男子に成長した証とされた。
会陽当日は、裸祭りのほか、少年裸祭り、会陽冬花火や女性グループによる会陽太鼓演奏があり、備前平野に春を呼ぶ。
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「日本の祭り⑤中国・四国編」 吉田明彦 理論社 2015年発行
ふんどし姿の男衆が
宝木争奪戦を繰り広げる
祭り当日の夜ふけ、合図の太鼓が鳴り響くと、
「わっしょいわっしょい」の掛け声とともに数千人におよぶ男衆が白足袋にふんどし姿で寺の境内に集まります。
そして、境内の冷水に入って身を清めたのちに、本堂に向かいます。
熱気が最高潮に高まった午後10時、境内の明かりが消されるなか、2本の宝木が投下されると、 激しいもみ合いが繰り広げら
れます。
争奪戦の末、 宝木を奪い取った者は境内を抜け、宝木仮受所に移ります。
このとき、本堂では「宝木が抜けた」という声が上がり、奪い合いは終了。
一方、宝木を奪い取った者は、仮受所で宝木が本物と認められると「福男」に認定され、
その年は福に恵まれるとされています。
本堂で投下される宝木。 お香の強いにおいがします。
宝木受所で宝木の確認が行われ、福男に認定されます。
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「西大寺会陽五〇〇年と観音院寺宝展」 (岡山市デジタルミュージアム編)
ご利益ある守護札を激しく争奪する春の行事
室町時代末期の永正年間(1504~1521年)、 新年の祈祷を行う「修正会」の際、
寺で配られる守護札にご利益があることから、希望者が殺到するようになりました。
そのため、集まった参詣者の頭上に守護札を投げたところ、奪い合いを行うようになったといわれます。
紙の守護札を奪い合うとちぎれてしまうことから、その後、 守護札は木製の宝木に代わり、
現在の行事の形に。
名称も「陽(春)に会う」という意味合いから「会陽」となりました。
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(午後10時3分、宝木は本堂からでて、地上で争奪戦がつづいた)
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観音院の境内は裸の男たちの「わっしょい わっしょい」の熱気や汗が飛び散っていた。
見て楽しかった。
「一度見る価値」はあった。
帰路の交通渋滞もまったくなく、1時間弱で笠岡の自宅に戻った。
でも夜が苦手なので見物はこれが最初で最後だろう。
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追記
これは↓今年のポスター。
初めて見物の人は、この光景をイメージして訪れると思うが、
会陽を上から見ることが出来るのは数人に限定される。
一般人は決して、見ることは不可能なので、お知らせの意味で追記した。
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