しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

赤線の女③ 

2017年01月25日 | 昭和31年~35年
本の表紙になったこともある,笠岡市の伏越地区。


(撮影2009年1月26日)




「倉敷市史」より転記する。

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大正から昭和にかけて徴兵検査を済ませたら「姫買」をする風習があった。
「赤紙」が来たら、まずは遊郭へという風習もあった。これは全国的なものといえよう。

第二次世界大戦で、客が減るばかりの娼妓たちは、例えば川西町の場合、三菱航空機水島工場に一括動員され、慣れぬ手でハンマーを握るに至った。

警視庁の「帝都に於ける売淫の研究・昭和3年」によると、遊客の支出する金額の25%が娼妓の所得であり、そのうち60%が前借金の償却に充てられ、残りが自由になる金額という。
つまり売り上げの一割が小遣である。

彼女たちが最も恐れたのは、
客が来ないことと罹病の二点であった。

順調に前借金が返済でき、年季明けに自由になる事例は極めてまれであったという。
倉敷の場合は岡山中島病院の出張所が郭内にあった。
下津井や玉島では定期的に診断し、その結果により中島病院に入院させられた。
入院中は「旅行」と称して休業した。
天満町の検診を、子供たちは松の木に登って眺めていた。

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赤線の女② 現在の倉敷市域

2017年01月25日 | 昭和31年~35年
「倉敷市史」の遊郭より転記する。

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明治10年「貸座敷並娼妓規則」が公布され、営業免許地が定められ近代に継承された。
昭和21年公娼制の廃止に伴い「特殊飲食街」となり、警察が赤線で囲ったので「赤線区域」とも呼ばれる。
昭和31年売春防止法が公布され、昭和33年4月1日から施行され、遊郭や遊里・娼妓等はすべて過去のものになった。

市内の業態

大正期に入り市域の遊郭を、倉敷・下津井・玉島に集約した。
下津井と玉島は港の歴史を誇り、倉敷の川西町は陸上交通の接点であった。
児島下津井は、
昭和5年に貸座敷10軒、娼妓72~73人。
出身地は高知、熊本、宮崎が多い。ほとんどが芸・娼妓の、いわゆる二枚鑑札をもっていた。
当時、丸亀・多度津行の汽船が出ていた。
倉敷川西町は、
最盛期は貸座敷17軒、芸妓は113人で九州人が多い。川西町は花街のみならず、職人町でもあった。傘屋や紺屋・洗濯屋・提灯屋・表具師などが混在して仕事をしていた。
玉島天満町は、
昭和5年には13軒、約50人で、熊本・鹿児島・香川の女性が多かった。


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赤線の女

2017年01月23日 | 昭和31年~35年
昭和49年、初めて日比の旧遊郭街を見た時の驚きは忘れられない。
日比の元遊郭街は、ほぼ完璧に現存していた。
その古い町並みの哀愁は、とても倉敷美観地区に比較にならなかった。

その元遊郭の一室に1年半ほど暮らした。
隣家は日比遊郭でも一番の規模で、当時は旅館業だった。
その女将さんとも、ご主人とも酒を酌み交わしたが・・・郭のこと、
男と女、遊び、お金、暮らし、・・・お女郎さんのこと、
その事を一度も話題にしなかったことが、今になっては残念だ。


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「岡山・玉野の100年」より転記する。

日比港は中世以来、海上交通と物資輸送の拠点として繁栄してきた。
しかし、宇野港が完成すると港としての地位は次第に衰えた。
遊郭は明治10年に設置が認められ、新地という。


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「福山市史Ⅳ」より転記する。

赤線よサヨウナラ、3月1日福山では解散式

赤線業者の転廃業(昭和33年・備南合同新聞)

転廃業の準備なった福山新地組合(業主38名、従業員108名)では、盛大に解散式を行う。
この日は徳永福山市長を始め、警察署長、防犯係長が出席し、組合から108名の業婦一人一人に対して千円乃至二千円の厚生資金が贈られ、また業者からも餞別が渡されることになっている。
3月中旬にはそれぞれの業者が次のような新しい職業に入ることになっている。

▽旅館20
▽バー5
▽スタンド3
▽料理1
▽小料理2
▽廃業5
他に間借り、商業、喫茶、飲食店。

業婦の方は、108名のうち
▽家に帰る54
▽落ちつく26
▽他の職を求める28
▽帰るところがない9
▽結婚17
▽内縁妻11
▽就職決定14
▽結婚できる5
となっている。

なお、鞆町の5業種12業婦では一軒が転業する以外は全部廃業し、業婦の方は1名が芸者、1名が就職し他は帰郷することになっている。


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「山陽駅伝」は城見小学校の前を走る

2017年01月14日 | 昭和31年~35年
城見小学校に在学中の時、
学校の前の国道2号線を、毎年駅伝競走のランナーが走っていた。

駅伝の選手が学校の前を走る時は、授業を止めて全校生徒が選手を応援していた。
授業が中断されるので楽しみで、その日を待っていた。
当時の国道2号線はのどかだった。
車と言えば、バスやトラックが日に何台か通るだけ。
お医者さんが午後から往診にスクーターで通ったり、馬が荷物を引いていた。
道路はもちろん未舗装。
日本の道路は舗装率3%、アメリカは舗装率97%と勉強していた。


(「写真アルバム・福山市の昭和」より借用。
(写真は新国道を走っている、大会の最終回頃。)


駅伝の名称は「山陽駅伝」、下関をスタートして神戸がゴール。
今でいう、実業団駅伝だった。
大門方面から来て笠岡方面へ走っていた。
たぶん読売新聞が主催だったような記憶があり、その社旗を振って応援していた。
出場チームは各県対抗で全都道府県が出場する大きな大会。新聞のスポーツ欄に前日の記録や順位が載るので、城見小の前を走る日はだいたい分かっていた。

当日は学校の前に、1~6年生が小旗をもって道の左右に並んで選手が来るのを待っていた。
トップからドベまでは時間差があるので、岡山県の選手が走り去ったら学校に戻っていたような気がする。

自家用車が普及しだす頃、当然のことのように国道2号線を走る山陽駅伝は消えていった。
その頃、子供の噂話では
運動が得意な人は「盈進」から声が掛かり、特待生で入れる。
マラソンが得意な人は「興譲館」から声が掛かり、特待生で入れると言われたが、なんとなく実話と思っていた。
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茂平に来る紙しばいのおじさん

2016年12月26日 | 昭和31年~35年
紙しばいは城見保育園で先生(保母さん)から何度もしてもらった。
小学生になると、漫画に移った。もはや園児が好む紙芝居にまったく興味はなかった。

・・・しかし・・・

その小学生生活も高学年になろうかという時、
夏休みに紙しばいのおじさんがやってくるようになった。

おじさんは笛か拍子木か忘れたが鳴らして周辺の子供に来たことを知らせた。
場所は観音堂の前、
自転車の荷台に木製の額で造った台を置いていた。

管理人は親にせがんで二度ほど行ったことがある、
以下は頼りない記憶である。

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おじさんの周りには子供が数人集まっていた。

そこで5円を払うと、おじさんは棒の飴玉をくれた。
それをなめながら紙芝居を見ることは、飴を手にしてない子は紙芝居を見れないことを意味した。

紙芝居の入場者は男女合わせて10人位、飴玉を手にしてない子は遠方から眺めていた。

紙芝居は一話で連続物。5~10分くらいで終わり、自転車の荷台にしまい次の興行場所に去った。おじさんが次の場所はまったく不明だった(関心もなかった)。

紙芝居は面白かった。何が面白いかと言えば、おじさんの表情が面白かった。
今でいう物まねのコロッケのように、台本を顔で読んだ。身体で表現した。

ストーリは全く覚えていないが、顔と手の動き、体をのけぞらすしぐさ・・・・今に思えば、子供相手とはいえプロの噺家だったとも感じる。

元は活動写真の弁士だったのだろうか?

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なお、
茂平の観音堂の紙芝居は昭和34・35年頃のことで2年間ほどの事と記憶している。

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最終・北川村合併騒動④-4 北川村長の手記(9)(10)(11)(12(13)

2015年11月29日 | 昭和31年~35年

「笠岡市談・全23巻」(昭和43年~平成2年)の「嵐の中たつ僕の村長時代」を転記する。


(9)

次に来るものは議員の総選挙である。
昭和34年3月8日投票、即日開票。投票率91.9%。
笠岡派9人全員当選、矢掛派7人当選・2人落選。振り分けは笠岡派60%矢掛派40%の圧倒的勝利で終わった。

笠岡合併に反対する矢掛派は、攻撃目標を村長僕一人にしぼって手を打ち出してきた。
3月28日、僕の解職に賛否を求める投票の日が4月17日と決まった。
両陣営秘術をつくしての攻防の火ぶたが切って落とされた。

(10)

昭和34年4月17日投票が行われた。
賛成862
反対917
無効50
よって、村長の解職請求は否認された。
翌日、朝日新聞は次のような記事を載せた。
県は投票が大差でないので、矢掛合併の勧告を変える気配は見られない。
県は笠岡市に「合併は県に協力して」と働きかけをしているようである。
このような県の態度に県議会筋は批判的な態度をみせている。

(11)
昭和34年6月8日、県議会にて岡山県総務部長は「知事勧告は変えぬ」との弁明を新聞紙上でみた。
7月18日の北川村議会で笠岡市への編入合併期日を昭和35年1月1日の議案が出され8:6で可決された。
すると、新聞折り込みビラで「笠岡市合併は実現しない。無だな議決をなんのためにするのか」とあった。
矢掛町は7月30日、「全町挙げて矢掛・小田・北川3ヶ町村の合併を推進する」決議をした。
8月27日、県議会で地方課長は「北川村は激しい対立があるが、小田町・矢掛町は勧告を歓迎している」
8月31日、北川村内の矢掛合併派は矢掛・小田両町の協力を得て、220人バス3台をつらねて陳情に乗り込んだ。

(12)


昭和34年9月12日、
合併問題で県審議員が5人来村した。
川上農協中央会長、中島県議、巽RSK専務、花岡岡山市議会議長、妹尾県協議会長だ。
中島「北川村が笠岡に行く場合、小田町と共に行く事をどう思うか?」
村長「小田町と共に笠岡と合併するのは好ましい。ただし小田が矢掛にいっしょにと誘われても北川はしない」
中島「北川の笠岡合併を妨げるものは何か」
村長「二つある。一つは県の矢掛合併勧告である、もう一つは矢掛・小田の連合で物心両面から北川村への内政干渉である」
確かな筋の情報に寄れば、矢掛町は「小田だけの受け入れはしない、勧告通り小田・北川同時編入合併」と高姿勢。

(13)

昭和34年11月25日、
「村内情勢緩和の為に」村長退陣論が北川村・笠岡市から出る。
村内から第二のムシロ旗、半鐘事件を避け、円滑な村民感情のため村長辞職を決意した。




管理人記・昭和35年(1960年)4月1日に北川村は笠岡市に編入合併した。
ボタンの掛け違い、タイミングのずれなどが次々に起こり、最後は村長の辞職で落着した。
村長の手記に異議・異論の関係者もいるだろうが、早い段階で最高当事者が書き残した事は非常に意義があると思う。
これだけの事件を今、語る人もない。


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北川村合併騒動④-3 北川村長の手記(6)(7)(8)

2015年11月27日 | 昭和31年~35年
「笠岡市談・全23巻」(昭和43年~平成2年)の「嵐の中たつ僕の村長時代」を転記する。



(6)

かくて村内は、議会リコール派と村長リコール派の対立、矢掛・笠岡合併の対立・混乱のドロ仕合と報道陣注目の的となった。
この時笠岡市の平本・安藤両市議によるあっせん妥協案が出された。
昭和33年9月15日、笠岡市高砂会館で「北川村長が退職すれば笠岡合併は確約できるか」念を押した。矢掛派6人は沈黙、3日間の考慮を約して散会、その後「村長が辞めても笠岡合併は賛同できない」と、かくて高砂会談は流産した。
その考慮期間中、矢掛派は「矢掛合併強硬議決」を申し合わせ、10月22日可決した。
僕は議員、リコール代表ら7人で天野県議案内で県庁を訪れ地方課長に「本日の村議会議決はリコール等村内情勢上、当分の間保留するので了承願いたい」旨申しいれた。地方課長は「妥当性に欠ける面も見受けられるが、合併保留についての承認はできない」と語った。
翌23日、矢掛町は緊急町議会を開き「昭和34年2月1日、北川村を編入合併する」満場一致で議決した。
この日、小田町は「北川村と同時に矢掛合併」を決議した。
矢掛派議員は小田・矢掛の町長・議長と出県、地方課長と質疑応答後声明を出した。「北川村の決議は適法である。村長は執行すべきである」。
これに対し笠岡合併同盟会は“北川村議員に問う”と題する長文を各戸に配った。
「議員諸君!すみやかに矢掛合併の取り消しを行え 然らずんば自ら総辞職されよ。敢えてリコールの結果を待たれる議員諸氏ではなかろう」と。

(7)

昭和33年10月29日、村選管は代筆署名の事実調査の結果、議会リコール署名簿は有効と再確認した。矢掛派はなお不服として弁護士を代理人にして岡山地裁に提起した。
「村議会解散を問う住民投票を12月21日行う」と告示した。
これを見た矢掛派は岡山地裁に議会解散賛否の投票一時停止を申請した。地裁は判定が済むまで投票停止すると返答した。
矢掛町は「矢掛町合併は必至・・」の新聞折り込みビラで村内矢掛派を援護射撃した。
僕は議員や同盟会長と14人で県会議長に「県議会で議決は保留してほしい」旨の請願書を天野・伊藤両県議の紹介で提出した。

リコール執行停止の仮処分にショックを受けた笠岡合併派は矢掛合併派のリコール運動を起こすことを決めた。12月19日、N氏宅を本部とし昼夜兼行の署名運動は29日、村選管に提出された。
こうなっては矢掛派もじっとしておられない。30日、「村内を乱した」と村長リコール運動にとりかかった。

(8)

昭和34年1月14日、矢掛派が村長の暴行2件を告発した。
村会議長ら矢掛派8人は「村議8人の解職署名簿は代筆・強要等があるから無効である」とまたまた異議を申し立てた。2月4日却下された。
村長解職運動は904人の署名を集めた。
1月31日、岡山地裁は先に執行を一時停止していたが有効であることを確認した。
1月31日、選管は村議会解散の住民投票を昭和34年2月20日とする告示をした。
2月20日、投票結果、村議会解散を決定した。

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北川村合併騒動④-2 北川村長の手記(3)(4)(5)

2015年11月27日 | 昭和31年~35年

「笠岡市談・全23巻」(昭和43年~平成2年)の「嵐の中たつ僕の村長時代」を転記する。

(3)

昭和30年3月6日の朝、笠岡市合併反対(少合併)派が北川役場に押しかけてきた。
2人でさしあった半鐘を先頭に、ムシロ旗数本を押し立てた5、60人の一隊である。
一隊は「大合併を葬れ!」「議会をつぶせ!」となだれを打って乱入した。
半鐘は僕の頭上に持ち込まれた。頭上30cm、危険千万。
連打はやむことを知らない。ムシロ旗を議員団の頭上にかぶせる。陣頭指揮をとっているのは74才の長老。窓ガラスは割れ議長や議員の手から血が流れ出した。
「村長村を売ってええことするのか」「この騒動は誰の責任か」「村長、返答せよ」など半鐘乱打、悪口雑言の限りをつくした。
警察が来て急に静かになった。酒や杓が置いてあった。
急を聞いた民衆で外庭も人出を築いている。
10時頃、小田町の議長が「小田町への了解なしに笠岡へ合併するとは情義に反するではないか」、僕は「そのことは話している」と断った。窓からは酔っぱらった人が乗り込み、僕の机に座り演説をぶった。
途中、北川村の編入合併を満場一致で可決した知らせがあった。反対派との妥協案をつくろうとしたがまとまらない。小田町長はじめ帰らず少合併派に入れ知恵している。外では大火を囲んだ人の山。深夜の2時、貧血で倒れる議員が出て議会は流会を決めた。
これが3.6事変、いわゆるムシロ旗・半鐘事件である。
検事が井笠軽鉄の一番でやってきて「現場に手をつけないでください」。

(4)

それから2週間を経過した昭和30年3月20日、「合併問題を三木知事に一任」することになった。
4月30日、任期満了による村議選があった。
その結果少合併派が伸びて大合併派7人、少合併派7人、中立2人で両派五分五分になった。
この村議会に対して倉敷地方事務所の次長は「県は一任を受けているのであるが自主的に解決してほしい」と要望した。この言は中立2人の争奪戦に拍車をかけることになった。
翌昭和31年8月7日、4者会談が県地方課長のあっせんによって開かれた。
県・笠岡市・北川村・小田町が笠岡市役所に召集され村長・議長・副議長が出席した。
小田町の町長・議長が「いちおう小田・北川の合併を行ったうえ、笠岡市へ合併する」と主張。
僕は「小田・北川は同時に笠岡へ合併」と主張。
笠岡市は「同時合併の場合、北川は受け入れる。小田は意向があれば善処する」
地方課長は「同時合併が好ましいが、二段合併が不可とは言わない」
僕は小田町の誠意を疑った、4者会談は結局不調に終わった。
翌9月2日、村民大会が開催され村内の対立は激しさを増すばかりであった。
その10日後、任期満了による村長選があった。
僕は笠岡合併期成同盟会の推薦で、笠岡合併を一枚看板にして立候補した。
1.050:857票で僕の再当選と決まった。
昭和32年2月8日、県地方課長から呼び出しがあり「小田町と北川村の合併では、規模弱小であるから断念し、笠岡市または矢掛町との合併を推進するように」と。
同年3月31日、県地方課主事が来村し県知事からの合併勧告書が手交された。
待望していたものだった。ところが開いて唖然「北川村は矢掛町と合併を行うよう」と記されているではないか。
翌4月1日、緊急村会議を招集し勧告書を朗読した。
次の日、
村長・議員ら15人が北川駅に集合、
村民240人が貸し切りバス、矢掛町合併勧告拒否の陳情に行く。紹介者は伊藤・天野県議。

笠岡市議会は「実情を無視した不当措置である」と岡山県市議長会に決議案提出し県知事の勧告を抗議してくれた。
いっぽう村内の小田合併派は、あっさりと矢掛合併に横滑りした。
その間、中立議員の2名は笠岡・矢掛となり村議会は8名8名の五角となった。
5月5日議会全員が「村長の自発的退陣を勧告する」という意向でK議員から報告された。僕は「自発的退陣はしない、不信任なら善処する」と答えた。
村長退陣できなかった責任をとってK議員が辞職し、笠岡派7人となり均衡が破れた。

(5)
知事の勧告、議員団の劣勢で、じっとしておれなくなった。
二つの具体案を得た。
一つは自治庁への陳情。
一つは村議会解散である。
伊藤県議の案内で自治省を訪ねたのは昭和33年7月19日であった。二度目の陳情であり
村内の関係住民の多数の意向に反し、県当局が矢掛町合併勧告を出したことを説明した。
局長・課長は、勧告は命令ではなく盲従すべきでない。
村議会は険悪な空気のうちに進み「笠岡市または矢掛町との合併を内定し、昭和32年10月1日に合併する」と決めた。
笠岡合併同盟は8月26日から、夜に日をついでの議会リコール運動をすすめた。
矢掛派は「合併勧告あるのみ」の声明書を新聞折り込みで村内各戸に配った。更に矢掛派議員のみでリコール成立以前に合法議決をすることが密約された。
これに対抗し9月1日、議員・リコール派・婦人会ら90人が県庁におしかけ総務部長・地方課長と対談した。その結果を新聞折り込みで公表し矢掛派の声明を反撃した。
9月8日、村議会リコールの署名簿が出された。署名人1.049人で法定の1/3をオーバーした過半数である。
この議会リコールに対し矢掛派は村長リコールを打ち出した。「県知事から指示された矢掛町との勧告を無視し、いたずらに合併を紛糾させた」というもの。
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北川村合併騒動④-1 北川村長の手記(1)(2)

2015年11月26日 | 昭和31年~35年

笠岡市図書館が保管する「笠岡市談・全23巻」(昭和43年~平成2年)の「嵐の中たつ僕の村長時代」を転記する。



(1)
昭和27年9月、新山小学校の校長を止め村長選に立候補した。
9月25日選挙で圧勝した。


(2)
僕が初めて町村合併の構想を持ち出したのは昭和28年の正月の、吉田・新山・北川・小田・中川の5ヶ町村による“中部ブロック”の構想であろう。
当時小田郡中部農業改良普及所が役場と農協の中間にあった。僕が会長をしていた、年始の会合で5ヶ町村案を出したところ「似たもの夫婦だ」「適正規模だ」「善は急げだ」と、町村長、農業委員長全員が賛成してくれた。
僕は4月30日の村議会に「5ヶ町村合併案」を出して、全会一致の賛成をみた。

ところが新山・吉田に異変が起こった。
8月29日の朝、「笠岡市合併内定したから了承願いたい」と両村長から申し出である。
村議を総動員して炎天下、麦刈り田植えもほったらかしで新山・吉田の村長・村議を戸別に訪問し口説きまわったのは、今は水のアワとなった。

残る3ヶ町村合併案を強く主張したのは小田町だった。
村議会では熱はなかったが、反対意見もなかった。
僕は中川村の動向が案ぜられるので単身村長を訪ねた。すると「結局、矢掛へまとまるべきだと考えている」と。
しかし小田町は是が非でも3ヶ町村合併をすると、町長・議長を先頭に婦人部会まで動員して中川村に押し入り、朝となく夜となく巡回し3ヶ町村合併を呼びかけた。
昭和29年2月21日、中川村長・議長が来訪し「矢掛町と合併内定した」との挨拶に接した。

小田町との合併は、せっかく合併しても規模弱小である。
昭和30年2月21日、村議会は12:4の多数決で昭和30年4月1日笠岡市へ編入合併することを決定した。
笠岡市との合併協定は成立し3月6日午前9時を期して同時に合併議決をすることになった。
僕は前夜合併派12人と役場の宿直室にジャコ寝し、一同円座して朝食をとっていると半鐘の音が聞こえる。
表に出ると煙は見えない。そこへ書記がせき込んで駆けつけてきた。
「町長さん!火事ではありません。
少合併派が役場へ押しかけてくる合図だそうです」と。
僕は宿直室の大合併派議員にこの事を告げ、矢掛警察署へ電話した。

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北川村合併騒動③笠岡市史

2015年11月26日 | 昭和31年~35年
笠岡市史によれば合併が遅れたのは北川村長の責任ともとれる記述になっている。

以下、
「笠岡市史第4巻」より転記する。


北川村は吉田・新山・中川・小田の5ヶ町村の合併を主唱し、関係町村と協議を重ねたが新山、吉田が昭和28年9月笠岡市との合併を議決10月合併した。
小田町は北川、中川の3ヶ町村の合併を唱えた。5ヶ町村の合併案が崩れた北川村も同調した。
中川村が昭和29年5月矢掛町となった。
昭和30年、大島村を合併した笠岡市は北は小田川という自然境界を市域とする大笠岡市気分が醸成された。昭和30年3月合併の議決がされた。

北川村は小田郡の中央部に位置する関係上、南の笠岡市へ合併を希望する村民と北の矢掛町へ希望する村民があった。
昭和30年2月、県の指導斡旋により大多数の村民は念願して村議会において議決するまで至ったが、なお賛否拮抗して村内は対立を続けていた。
昭和34年3月の村議会選挙後は特にこの期待は大きくなり、このときにあたり、円満合併ができるよう村長が退職し、村内の合併反対感情は大幅に緩和され、昭和35年に北川村を編入合併した。
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