しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

”赤線”の灯消える ①

2018年02月28日 | 昭和31年~35年

「流れる おかやま百年」山陽新聞社 昭和42年発刊より転記

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82年の歴史

昭和33年4月1日、政府は画期的な売春防止法を実施した。
岡山県では一足早く、この年3月15日を期して赤線の営業ストップをかけた。
赤線最後の夜、モヤが春の宵を包む岡山市中島かいわいは、タクシーがひっきりなしに行き交い、サラリーマン風の男が連れだって繰り込む。かつてない盛況。
玄関口では、火ばちに手をかざした女たちが
「寄っていきなさいよ」と声を張りあげ
「もう最後だから・・・」とつけ加える。
午後11時、ネオンのまたたきが一斉に消えた。


”禁止”が”防止”に

売春防止法は、農地改革などと同様、GHQの民主化スケジュールの一つ。
GHQ指令で22年第二国会で¥に間に合うよう法案をあげた。
接待業者のはげしい突きあげで、はかなくも流産した。
その後、
31年なんとか法案成立にこぎつけ、国際社会の仲間入りすることになった。


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寄島の塩田 「寄島風土記」

2018年02月05日 | 昭和31年~35年

「寄島風土記」昭和61年発行より転記。


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天候が相手で、やけつく夏も、凍てつく冬も、盆も正月もない。
雨さえ降らねば朝5時から晩の6時まで、1日6回のメシを食べるきつい仕事であった。

万牙(まんが)
浜子は理屈は知らないが、朝、昼、晩と太陽の方向と風向きを考えた長い間の経験で、縦、横、斜三様の引き方で砂に着いた海水濃度を高くする。
力と技術を要するので素人には引けない。

塩を撒く
長い柄の小さな木の酌で中溝の海水を塩田に撒く。
まんべんに撒くので熟練した技術を要する作業である。

沼井堀り
沼井は約4m平方の桝形でかん水をとるところ。
ろ過がすんだ砂を掘り出して沼井の肩に積む。

海水を入れる
潮の干満に気を配り堤防の大樋を抜き、中樋、小樋と抜いて濃い海水(潮の三合満ちまでは海水の濃度が薄い)を注入する。この樋の抜き差しは油断ができない。
失敗すると塩田に海水が侵入し、隣の塩田にも迷惑をかけるので上浜子が受け持っていた。


一日の作業


万牙を引く。
昼寝をする。
午後2時、浜持ち。寄子が寄板を持って、力の限り踏ん張って砂を沼井肩の線に一列に寄せる。
女、子供の仕事であるが息も絶えだえ、汗が流れる。
気が遠くなるほど塩田は広い。
夏の太陽は容赦なく照りつける。

次に入鍬がつづく。
特殊な鍬で砂を沼井の中に放り込む。
最も体力がいる作業で屈強な浜子がこれにあたる。

その後に
振り鍬が沼井の肩に積んだ散土を長い鍬の爪先にひっかけて塩田にまんべんなく撒く。

つづいて沼井踏が砂を沼井鍬で踏みならす。


灼熱の炎暑に寄せ子は入鍬に追われ、入鍬は振り鍬に追われる一連の作業は汗を拭く間もない阿修羅の地獄絵である。
寄子は大きな杓を持って沼井壺から藻垂れを沼井に汲み上げる。数多い沼井壺を次々に汲み上げる。
浜子は大きな浜たごを担いで中溝の海水を担いで沼井に注ぐ。
その頃鉢山に太陽が沈む。


従業員400人の寄島塩業は漁業と二大機関産業として貢献した。
第二次大戦中は軍需産業として重視され、幹部従業員には兵役免除の特権があった。
また戦後の食糧危機を救うにも塩は貴重な資源であった。
今では塩田の跡もない。



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寄島の塩田 「寄島町誌」

2018年02月05日 | 昭和31年~35年

「寄島町誌」昭和41年発行より転記。


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東は早崎港から西は青佐西端に至る2キロに及んだ。
二町歩(2ヘクタール)をもって1番とし6番まであり、その後昭和30年には15番まで増えた。
明治38年、一日七トン貨車20輌を30日間発送し、山陽鉄道との特約トン数に達せしめたと言われ、当時の生産量は松永・味野・山田塩田を凌駕していた。
明治38年専売法が施行され、塩業者は販売から手をひきもっぱら製塩のみ従事することとなった。


「入浜式」

満潮より低く、干潮より高い平らな地面を作り、その上に細かい砂をまき、水圧と毛細管現象によって塩田中の溝から表面に達した海水の水分を蒸発させて、塩の付着した砂を集めて塩を溶かし出す方法で、天保期には全国塩田の90%が入浜式だった。
採集したかん水は、各塩戸とも角型の釜で煮沸蒸留により採塩していた。
昭和13年寄島町片本浜に蒸気利用式丸管機を設置すると同時に、かん水はパイプで工場へ送水し一括製塩することになった。
梅雨明けから盛夏にかけて生産が急上昇する季節には、どの塩戸にも臨時の「寄せ子」をどっと雇い入れ、炎天に作業するさまは壮観でもあった。
夏季は塩田労務者、冬季は酒造りの杜氏として出稼ぎに行くような契約で、毎年就業した者もかなりあった。

昭和29年枝条架式濃縮装置をを併用する方向に進み、生産高も従来の1.8倍を製塩するようになった。


「塩業の閉鎖」

昭和30年、全国塩田に流下式の採かん方式が採られるや全国の製塩高は急激に上昇した。
必要食糧塩は年間100万トンといわれていた。
工業塩は既に国内塩の半額で200万トン輸入されていた。
加えて、時代の進歩はイオン交換膜によって海水より水分を除き濃縮かん水をつくるまでになり、ついに全国1/3の塩田が姿を消すことになった。
そうして昭和34年11月12日神島・玉島・水島とともに寄島では製塩に終止符がうたれたのである。

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寄島の話し

2018年02月05日 | 昭和31年~35年
大浦神社の節分祭で、地元の方に塩田のことを聞こうとしたが
その話はあまり成果がなかった。

2018.2.3  男性(昭和17年生まれ)の話し

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(大相撲)

相撲は三回ほど来た。その頃は全体で得なく一門で来ょうた。
千代ノ山や栃錦がきょうた。
ここへ松があった。ワシらはその木に登って上から見ょうた。お金はありゃせんのじゃけぇ。


(塩田の跡)

(同年代の女性が2名参加)
跡はもうない。
写真で見るしかできん。
作業しょうるのも見よぅた。


(三郎島)

三郎島ヘは伝馬のような船で学校へ通ようた、
上級生が「行くぞー」ゆうたら。

ワシは三郎へ畑があった。
畑は自分の家の船で行きょうた。自分は持っていなかったので借り(便乗のようす)ようた。
おもに麦を植ようた。芋も植ようた。あっこの芋はおいしいん。陽がようあたって。


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赤線の女⑩ その終焉

2017年02月12日 | 昭和31年~35年
昭和33年に廃止された赤線は、形を変えて復活したといわれるが
日本経済は大躍進時代が始まり、戦前や戦後とは違った形の売春が始まったと思う。


「地方文化の日本史10」文一総合出版より転記する

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日本に軍政を布いたアメリカは、形式的には管理売春はないことになっていた。
男女の間に、その時だけ恋愛関係が生まれ、行為ののち男は女にプレゼントする。

昭和21年12月赤線区域を指定した。
一定の家に下宿して売春と、街路で客を引くパンパンガールと区別された。

しかし、裏面では
前借でしばられた女を抱え主が監督する管理売春だった。
また、コールガール・パンパンは
ヤクザのヒモに管理され、自由な売春婦はほとんどいなかった。

戦後の玉の井は、
陰鬱さや不潔さが一掃されたといえる。
そして営業は夕刻からになり、いわばアメリカ軍によって整理整頓された買春街になったのである。
女たちも比較的自由になった。

昭和33年4月に売春防止法が施行された。
全国39.000軒の店と、売春婦120.000人がなくなった。

各地では、すぐに旅館・ヌードスタジオ・トルコ風呂等の名目で売春組織も復活した。
玉の井は、若干の私娼は残ったものの、売春街として復活しなかった。

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赤線の女⑨ 売春婦の経歴

2017年02月12日 | 昭和31年~35年
娼婦になった理由は“貧困“と切り離せられない。
しかし、
需要の(男の)調査や分析は全くなされていない。
軍との関連性等、ほんとうは女性よりも男性側調査が必要・重要であった、と思う。


「地方文化の日本史10」文一総合出版より


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売春婦の経歴
多い貧困家庭の出身

昭和4年、玉の井の売春婦の経歴を調査した。

理由
205人中
貧しい家庭を救うため・・105人
家族の病気を治すため・・45人
売春しないと食べてゆけない・・47人
家族の借金を返すため・・20人
その他

前職
650人中
飲食店の女中・・250人
農家の娘・・110人
女工・・103人
その他

前借
100円未満・・1割強
200円~400円・・いちばん多い
借金はない・・650人中78人
芸者の場合960円くらい、吉原公娼は1.220円くらいだから
私娼の前借は軽かったのである。

日中戦争がはじまってからの玉の井は、若い出征兵士が、命ある日をここですごして死地へ向かうことがしばしばあった。



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赤線の女⑧ 管理売春の仕組み(玉の井)

2017年02月08日 | 昭和31年~35年
遊郭には「籠の鳥」の歌が重なる。


あいたさ見たさにこわさを忘れ暗い夜道をただ一人
あいに来たのになぜ出てあわぬ僕の呼ぶ声わすれたか
あなたの呼ぶ声わすれはせぬが出るに出られぬ籠の鳥


「地方文化の日本史10」文一総合出版より転記する。

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玉の井の私娼の年齢は12歳から50歳くらいまでで、17歳~20歳が一番多かった。
ほとんどが貧しい家の娘で、前借金によって売られてきたのである。
東北地方で冷害・凶作があると新顔の若い娘が増えた。

前借金の値段は5年契約で400円以下だった。大卒月給の8か月分である。

管理売春は、抱え主が管理をしていたというだけではない。
私兵として土地のヤクザが管理を手伝っていた。
女が逃亡すればヤクザが手分けしてさがしだす。そして拷問にかけて恐怖心を植えつけた。

警察に逃げ込むと、「借金を踏み倒して逃げるのはよくない」といって連れ戻す役目をした。
警察とヤクザは仲間同士だったといってよい。

400円くらいの借金は、すぐに返済できそうに思えるが、そうはいかない仕組みがあった。
よほど利口で、売れっ子で、健康な女でないかぎり、借金は減らないのである。

衣服代は女の負担、市価より高く抱え主を通して売りつけられる。
入院代も自己負担。
食費も取られるが比較的高い。
その他、
チリ紙に至るまで高く売りつけられる。
それで、かせいでも借金の増える子が多かった。
そうなると住み替えということになった。

新しい店に買われていって、そこからの前借金で今までの借金を払う訳である。
きのうまで吉原にいた女が玉の井にきて、玉の井の女が新宿にいく。
そして、丈夫なあいだはしぼりとられて、使い捨てにされるのが大方の売春婦の運命だった。


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赤線の女⑦ 玉の井の銘酒屋

2017年02月08日 | 昭和31年~35年
永井荷風の「墨東奇譚」の舞台、玉の井は遊郭ではない。
戦後は赤線に指定されたが、銘酒屋街(めいしゅやがい)といわれ、曖昧屋(あいまいや)とも呼ばれた。
その意味は酒を売るのか、料理を売るのか、女を売るのか、はっきりしないからだそうだ。


「地方文化の日本史10」文一総合出版より転記する。

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銘酒屋は酒の酌をする女として、2名までの売春婦を置くことを許可されていた。
他に1名子守・女中の名義で女を置けた。
そういう小人数の売春組織だから何々楼という建物とはまるっきり違う小部屋で営業していた。
通常の建て方は二階に2~3部屋、四畳半と三畳二間があった。そこが売春婦たちの寝る所だった。
遊郭にいる売春婦は公娼で、政府の許可を得て売春していた。
これに対し、銘酒屋の売春婦は私娼である。しかし、銘酒屋の売春婦はお目こぼしだった。
抱え主がいての管理売春は、処罰されないのが原則だった。

昭和5年頃の玉の井は、
娼家500軒、1.000人くらいの売春婦がいた。
朝の10時から深夜まで客を呼んでいた。
ひやかしが一日8.000人位。
そのうち、客が3.000~4.000人。
ショートタイムは30分~1時間、50銭~2円。
泊まりは2~5円。

全体的に言って値段は吉原の半額くらいだった。
女たちは1日平均3人の客をこなしていた。
2円は大工等職人の日当だった。

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赤線の女⑤ 公娼制度廃止法案

2017年02月02日 | 昭和31年~35年
遊郭廃止は60年前で、星島先生たちの法案は100年前のこと。
100年前の法案の反対理由は目くそ鼻くそで、いくらか笑わせる。
性の事は法律でしばっても、あまり解決しない面がある。


「岡山市百年史上巻」より転記する。

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大正末期、花柳病予防案が上程されようとするころ、公娼制度廃止が大正14年2月、星島二郎ら5人を中心に衆院委員会で審議されたが否決になった。
それは全国の私娼4854人中検診の結果、有毒者が約半数の2188人あり、公娼よりも害が多いということにあった。
昭和2年2月には「公娼制度廃止法案」阻止のため、県下の貸座敷業者組合代表者が上京、新吉原同業組合での阻止の大会に参加した。




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赤線の女④ 中島病院

2017年02月02日 | 昭和31年~35年
「岡山市百年史上巻」より転記する。

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大正15年のなかば、国会で「花柳病予防法案」が論議されだした頃、県下遊郭数は9ヶ所、娼妓924人であった。
そのうち市内の東西中島遊郭について岡山東警察署の調査では、娼妓485人、花柳病患者は延べ396人、検診は103回行っており、一回平均4人弱の患者を発見している。

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