しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

”産めよ殖やせよ国のため・外伝” 「4年間一睡もできなかった」、女(ひと) 

2023年05月31日 | 昭和16年~19年

広島県甲奴郡上下町に3ヶ月ほど住んだことがある。
おばあさんが一人暮らしで、昔はご主人と二人で商売をしていたそうで、その家は街道沿いの大きな元商家だった。

おばあさんには男ばかし、4人の子がいるそうで、子育て時代の話が記憶に強く残っている。

「(昭和15年前後ごろ)
結婚して最初の子が生まれた、
翌年次男が生まれた、
その翌年三男が生まれた、
そのまた翌年四男が生まれた。
4年連続して子を産んだ。
出産と子育てで、一睡も満足にできなかった。

それを見たある人が、『世の中には、こうゆうもんがある』と衛生サックがあることを教えてくれた。
それからは、それを使い、子供も産むのを止めた」






・・・・

この話をのち母にしたら「サックのことは知っていた」。

・・・・

おばあさんの話を聞いてから、30年ほど経った。
今でも自分の周りの人や話で4年連続して出産した人は聞いたことがない。
3年連続の人もいない。
おばあさんが言っていたように子育て時代は、毎日がてんてこまいの4年間だっただろうな。
それにしてもご主人までもコンドームのことを知らなかったのも、ちょっと珍しい。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

靖國の家

2022年11月23日 | 昭和16年~19年

(嫁いらず観音)

 


井原の町歩きをしていたら表札の横に、「靖國の家」プレートのお宅があった。

以前笠岡市笠岡では「遺族の家」を2軒ほど見た記憶がある。
戦前や戦時中のものかと思っていたが、戦後(初期だと思う)にも発行された可能性があるようだ。
この時代の記録・資料は、どうしてはっきりしないのか、いつも不思議というより不満に思う。


・・・

誉の家

(Wikipedia)


特に第二次世界大戦前後の時期の日本において、その一家から出征した兵士が戦死したことを指す表現。
戦死者が出た家には、玄関などの表札と並べて「誉の家」と記した札などを掲げることが一般的に行なわれていた。
戦時中、誉の家は、周囲から尊敬を集めていたとされる。


類似した表現・表札
誉の家
名誉の家
遺族の家
勲の家

・・・

 

(井原市井原町)

 

撮影日・2022.11.18

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

兵はマラリアで死ぬ

2022年07月30日 | 昭和16年~19年

聞き書きの本を読んでいたら、父と同じ元衛生兵の話が載っていた。

父は、従軍した徐州から武漢への途中、多くの兵が戦と病気で亡くなったが、病気はほとんどがマラリアだったと話していた。

薬の不足と、「現地調達」と言う名の、略奪に近い食糧不足による栄養失調が原因での死だった。

 

本の方はビルマの野戦の話で、読んでいて涙が出た。

 

・・・・

 

「聞く、書く。3号」 聞き書き人の会 吉備人出版  2015年発行

ビルマの記憶

話し手Bさん(1912年生まれ・103才)

今から5年ほど前にな、ワシを訪ねてこの施設まで来てくれた人たちがおったんや。
会うんはその時が初めて、その人らはな、70年前の戦争で一緒に戦った仲間の息子さん達やったんやあ。
なんで来てくれたかというたら、その戦友の彼が亡くなるまでずっとワシのことを「命の恩人」やいうて家族に伝えとったらしんや。
65年間ずっとな。
その彼が亡くなったんで、息子さんたちがどうしてもいうてワシを一生懸命捜してくれたんや。
彼とは戦地で別れたまんまやった---。

 

1943年(昭和18)、ワシは3度目の召集を受け衛生兵としてビルマへ向かった。
衛生兵の一番の任務は、前線で負傷した兵士のところへ行って、後方の収容所へ下げること。
弾が飛び込んでくる中で、撃たれても倒れても、兵士は勝手に下がることはできんけんな。
上官の命令があってワシら衛生兵が行かん限り、兵士は怪我してもそのままなんよ。
収容所いうても屋根なんかない。雨が降ったら濡れたまんま。
軽傷やったらヨーチンや消毒してな、また弾が飛び交う中へ戻すんよ。
重傷者はさらに奥の野戦病院へ搬送。担架で運ぶのはしんどい。
ひどくしんどかった。

ある日、衛生部隊が本隊と合流することになってそこへ向かう途中、薬剤官だった川野さんが倒れたんや。
「熱帯熱マラリア」。
この熱帯熱いうんはマラリアのなかでも面倒なんで、致死率が高いけんな。
彼はもう一歩も歩けんようになっとった。
けど決められたとおり本隊に合流せないかんから、
彼を連れていくかどうするか部隊内で協議してな、結果彼をそのままそこに置いてゆくことになったんや。

部隊は前進。
けどワシはまだ息があった川野さんを諦めきれんでな。
彼のもとへ引き返したんや。
軍医に貰ったビタカンフル注射を持って、4本。
ほんで「川野、生きてくれ!」ゆうて懸命に看護したんよ。
一晩して少し熱が下がったけん、あとは彼を野戦病院へ連れていいった。
彼とはそこまで。

 

けどなあ。
これは当時大変なことやってんやで。
戦場で命令もなく、後方へ下がるいうんは絶対にありえんこと。
当然ワシは追及を受けた・・・・。

このとこを川野さんは、戦後家族に言い続けとったらしいやなあ、ずっと・・・。
息子さんの話では、暑いジャングルで意識がもうろうとする中、
「川野を置いてゆくぞ!」
いう声を本人がはっきり聞いとったらしい。
ここの部分は繰り返し家族に言うとったそうや。

瀕死の仲間を置いてゆかねば、自分が犠牲になるという過酷な状況。
それが戦争や。

 

 

ビルマが一番長かったけん。よう覚えとるわな。
出征する時ワシの子どもはまだ小さかったんで、ひじょうにつらかった。
ジャングルのなかをひたすら行軍。
病死が多かったんよ。
一番はマラリヤじゃ。
ワシもかかったんよ、部隊の半数近く一度はかかとった。
薬剤が不足して十分な手当てができん。
野戦病院へ搬送中死亡する人がほとんどやった。
とにかく食べる物が無い。
全く何も無い。
皆栄養失調で治るもんも治らん。
それで快復できんために置き去りもあった。
それから・・・治らん患者自ら隊を離れることは多く・・・あった。
手榴弾をな、抱えて・・・自決よ。
戦場は常に死と隣り合わせやった。

食事は瓜しか思い出せん。
基本「現地調達」。
”取って食え、取って撃て”そう教えられた。
飼い牛を殺して食べたこともある。
ビルマ語で現地の人と話もした。
ほとんど食べ物の話やったなあ。

慰安婦たちがやってきた。
ワシは彼女たちの検診担当で、性病が怖かったから、衛生隊は皆自慰をしょった。

 

敗戦後フランス軍の捕虜になった。
朝から夕方まで畑仕事。
たまに入れるドラム缶風呂が楽しみやった
仲間と話すのは、いつ帰れるのか全くわからんけど、そのことばかり。
敗戦から9ヶ月後の昭和21年5月、日本へ帰還した。

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

木堂翁の銅像出陣

2022年06月07日 | 昭和16年~19年
 
「目でみる岡山の昭和」 蓬郷巌 日本文教出版 昭和62年発行
 
金属類の非常回収
 
昭和18年5月からは徹底的な非常回収が行われ、小さな物では鉄瓶、文鎮、金ボタンも供出が要請された。
岡山県から供出された主なものは次の通り。
警鐘台約1.200基
銅像130基
金属仏像25体
梵鐘は数量不明。
 
 
『木堂翁の銅像出陣
 
一切をあげて敵米英に勝たんと迎えた19年の初めをかざり、
吉備郡真金町吉備津神社神苑、岡山県が誇る憲政の偉人元首相木堂犬養毅氏の銅像もいよいよ敵撃滅の決戦へ応召することに決定した。
この銅像は木堂顕彰会が彫塑会の泰斗朝倉文夫氏に依頼、昭和9年同所に建設し、そのまま吉備津神社へ寄付したものである。
米英の野望をくじかんとアジアの一大防砦を唱えた先覚者もいよいよ巨弾となり敵米英に出陣することになったわけだ。
 
「いやこれが犬養さんの心です。
この日の来ることを一日も早くと犬養さんは地下で願っていた違ひありません。
真金町の名物がまた一つ減ったわけですが、これを手本に一般の金属回収もぐんとすすむでせうし、わしたち老人も犬養さんに負けずに頑張らにゃあなりません」
と浜野真金町長は固く拳を握りしめてゐた。
 
 
 
(岡山市吉備津の銅像。
昭和9年建立。
昭和19年供出。
昭和28年再建)
 
 
 
なほ犬養さんの銅像と同時に応召する吉備郡内の銅像は次の三件である。
龍馬、○○大師、○○大菩薩。』
※○○は印刷荒く読めず。管理人。
 
 
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

銘仙のおしめ

2022年05月12日 | 昭和16年~19年
戦時中、”産めよ増やせよ国のため”の時代は
母子ともに栄養失調の時代でもあった。

出産祝いにもらって食べた、(漁師の隣家からの)魚がおいしかったことを母は何度も話していた。
産まれる直前まで野良仕事をしていたのは、どこの農家の嫁も同じ。

この時代に出産した母のことを思うと涙が出そうになる。
 



「勝央町史」 勝央町 山陽印刷  昭和59年発行
お産

「銘仙のおしめ」

お姑さんにお湯を沸かせてもらうように頼み、
産婦の腰を一生懸命こすりました。
細い身体が骨ばっていて、この家の生活が全部この人の腰に乗っかかっている感じです。
40歳近いご主人は、この6月召されて父母と子供5人それにお腹の胎児を残して沖縄に出征しているということでした。
当時でも助産婦は妊婦に
「栄養と休養を十分とるよう」などと、現実離れの指導をしたものです。

逼迫した食糧事情に、農家といえども米など十分に食べられるものではありません。
供出米は厳しく言い渡され、残りで家をまかなうのです。
イワシを買うにしても一人半匹しか買えません。
あとは大根や葉っぱを煮て食べるだけです。
この家も例にもれず、子供たちの残したイワシの骨を金網の上で焼き醤油をつけて妊婦は食べていました。
美味しいものは親に、甘い栄養のあるものは子供たちに、まずしくて残ったものがこの母親の食べものでした。

力いっぱいの三回くらいの陣痛で分娩しました。
「また男の子で元気ですよ」と、告げると再びお湯の用意に行かれました。
産後の処置をすませ腹帯を締めることにします。
探していると「そこに帯芯があるでしょう。それをして下さい」。
なるほど、衣料切符で買うといっても、その分はすべて子供たちの物でしょう。
この帯芯はきっとお嫁に来るとき、タンスに入れてきたものでしょう。

「おしめはここにあります」
見ると、黒と藍色の棒縞で、銘仙の着物を解いておしめに縫ってあります。
この銘仙もお嫁入りの時、持ってきた一枚に違いありません。
木綿もなくなったので、やむなくこれでおしめを作ったのでしょう。
これがこの時代の母として最高のお産の準備だったのです。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「少女たちの戦争」 にがく、酸い青春

2022年05月06日 | 昭和16年~19年
(昭和中期では)
笠岡東中や大島中地区の人が、笠高・笠商・淳和に通学する時、
笠岡工業生と対面する。
ほぼ決まった時間に同じ場所で高校生同士が対面する。
女学生はそこで工業生に恋心を持つことがある。
その一瞬が、毎朝の喜びとトキめきで、
吉田拓郎風にいえば♪ あゝそれが青春、の時を過ごす。
その一瞬以上の恋はなかった(と思うが、違うかも)。


(昭和・戦時中では)↓
人命が軽すぎた時代の青春。



にがく、酸い青春  新川和江

「少女たちの戦争」  中央公論新社  2021年発行


旧制の女学校の一年生の晩春の頃だったと思う。
水戸の聯隊に入営していた兄に、月に一、二度、
ぼた餅やちらしずしを重箱に詰め、母と一緒に面会に行くのである。

水戸から聯隊行きのバスに乗るのだが、とある停留所を通過する時、
長身の学生が路上に立っているのを見た。
高等学校も高学年の学生であるらしかった。
かれはそのバスには乗らなかったが、発車したバスの窓から見ている私と、目が合った。
一瞬のことだったけど、かつて体験したことのないときめきが、私の胸に生じた。

兄と面会し、帰ろうとしたとき、私の足が、思わず釘付けになった。
巨きな桜の木の下に、あの学生が立っていたのだ。
母に促され、その前を通り過ぎる時、
二度と会えないだろうそのひとの、学生服の胸ポケットに縫いつけられた、
白い小布の名札を見た「〇〇」と姓だけが読みとれた。
せめて名前だけでも知りたいと、いっしょけんめいだったのだ。
家に帰ると、春だというのに、火鉢を抱えこんで部屋に閉じ籠ってしまった。

・・・

そのひとも何処かで、静かな老年を迎えているのであろう。
それとも、学徒出陣で、南の空に散華したか。

私の通う女学校の教室が七つもつぶされ、
旋盤やターレット、ミーリングといった機械が運び込まれて、兵器工場と化するも、それから間もなくのことだった。
敵の航空母艦に突っ込んで行く特攻機の、心臓部に取り付ける気化器という部品だった。
そのひとの死に私は、加担していたのかも知れなかった。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「少女たちの戦争」めぐり来る八月

2022年05月06日 | 昭和16年~19年
旧制女学校の、工場への動員は”軍服”と”兵器”に分かれるが、
兵器に派遣された人たちは戦後も、何年かは口を閉ざしている。
機密の呪縛や、造った物の使途への自責の念がつづいたようだ。





めぐり来る八月 津村節子

「少女たちの戦争」  中央公論新社  2021年発行


女学校に入学した年に太平洋戦争が始まり、
旅行と言えるのは、三年生の夏の赤城山登山で、
目的は心身の鍛錬である。
体操服にもんぺをはき、杖にすがって、あえぎながらただ歩き、ただ登る。
それでも山頂で写した写真は、日焼けした顔に白い歯をみせてみな笑っている。


まだその時には、戦争に負けるなどとは思ってもいなかった。
私たちの目標は、心身を鍛え、銃後の守りを固め、東洋平和のためのいくさに勝つことだけだった。
軍国思想の教育が,真っ白な頭の中にたたき込まれていて、
反戦思想など芽生える隙もなかった。
列強の侵略からアジアを解放し、大東亜共栄圏を築く聖戦だ、と教え込まれていた。
これまでに負けたことのない神国日本は、神風が吹いて必ず勝つ、と大人たちは言っていた。


昭和19年5月16日に、学校工場化が通達された。
東京都立第五高等女学校では、その年の8月15日から、
5年生は中島飛行機、
4年生は立川飛行機と北辰電機へ動員された。
勤務時間は8時から6時まで、休日は一月一度だけだった。
昼食は高粱(こーりゃん)めしか、虫のついたにおいのする古米。
おかずは大根葉の煮物か、イモやカボチャの煮物。
軍需工場だからまだましだったらしい。


各班が一部分をやっているので、一体何を造っているのか誰にもわからなかった。
部屋の入口には「軍機保護法により許可なく立入禁止」の札が出ていた。
自分たちの造っている物は何か教えて欲しい、
それがわかれば張り合いが出て、もっと頑張れる、
とある日みなで班長に迫った。
とうとう特殊潜航艇用の羅針儀を造っているのを聞き出した。
自分たちの作っている羅針儀を装備した人間魚雷で、若者たちが死んでいく。
無論親にも秘密を守り、戦後だいぶたってから話した。

神にすがる思いだった神風は吹かなかった。
私たちが造っていた羅針儀を積んだ特殊潜航艇に乗って、
若者たちが自爆して行ったのである。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「少女たちの戦争」 子供の愛国心  

2022年05月05日 | 昭和16年~19年
為政者とは別として、また言われなくても、
国を愛する、思う気持ちはだれにでもある、という話し。





「少女たちの戦争」  中央公論新社  2021年発行

子供の愛国心   有吉佐和子


紀元二千六百年(1940年)を、私はジャバ(ジャワ島)にある日本人学校で迎えた。
前々から練習していたので、紀元節の当日には「紀元は二千六百年」と勢いよく奉祝歌を合唱することができた。
日華事変が起こったばかり、大日本帝国は軍国主義的色彩を帯びて世界に冠たる日を夢みていた頃のことである。

二百人余りの生徒たちは皆日本人で、先生たちももちろん日本人である。
紀元節の二月十一日も灼熱の太陽が輝き、校長先生は壇上から校庭に居並んだ全校生徒に訓示をしていた。
「皆さんは、大日本帝国の国民であることに誇りをもっていなければならない。
日本人は世界第一級の国民なのだ。
日本は一等国なのだ。
皆さんは、それに恥じることのない立派な日本人になる義務を持っている」
光輝ある二千六百年の歴史を講義したあとで、校長先生はすっかり興奮していた。
先生はツバを飛ばしながら,一等国民である私たちを激励したのであった。

しかし、そのとき全校生徒の示した反応が私にはそれから十数年後の今もって忘れられない。
彼らは、奇妙な顔をして、校長先生の顔を眺めていた。
それは詰まらない芝居の中で俳優一人がシャリンになって大熱演しているのを見ている観客とよく似ていた。
当時オランダの植民地だったジャバでは、白人は総てに優位だったし、経済的には華僑をしのぐ日本人が決して多くなかったのである。
全校生徒の頭の上を、校長先生の訓辞は白々しく流れていった。

・・・・

私たちは、日本から最近やって来た子供を囲んで、何やかや日本の話を聞き出そうとした。
日本をたつ日が雪だったなどと聞こうものなら、私たちは羨ましくて羨ましくて、抱きつかねば我慢がならなかった。
忠君愛国の、上半分を忘れて国を愛することは出来ていた。

春は花が咲き、
秋は虫が鳴く、
冬は雪が降るといった、
四季の変化や折々の些細なことに、私たちの国を想う念はかきたてられた。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「少女たちの戦争」 スルメ

2022年05月05日 | 昭和16年~19年
黒柳トットちゃんは、スルメが欲しくて、旗をふったことをくやんだと書いている。「私だって、戦争に加担したんじゃないか」と。




 スルメ   黒柳徹子

「少女たちの戦争」  中央公論新社  2021年発行

生まれて初めてスルメを食べたのは小学校の低学年、
もうそのころは、だんだん戦争がひどくなり若い男の人は出征していく時代だった。
駅が賑やかだったのは、千人針を手にした女の人も多かったけど、出征兵士を送るグループがいたことだった。


駅の改札口の所に、出征する兵隊さんと、その家族が並ぶと、
隣組の人たちとか、かっぽう前かけに、「在郷婦人会」というようなタスキをかけた女の人たちが、ぐるりと、とりまき「○○君、万歳!」と叫んで、手をあげた。
兵隊さんや家族は「ありがとうございます」と、おじぎをし、
兵隊さんは「行ってまいります!」と敬礼をし、
「万歳!万歳!」の声に送られて、駅から出征していった。
スルメが、ふるまわれたのは、そういう時だった。


焼いて細く、さいたスルメを一本手渡してくれた。
もう長いこと、お菓子など、甘いものが何もない時代だったから、おやつを食べたことはなかった。
だから、スルメをもらって食べた時のおいしさは、いいあらわせない幸せだった。
かめばかむほど味が出るスルメを、そのとき、私は初めて食べて、こんなおいしいものがこの世にあるだろうか?とさえ思った。


それから私は、学校の帰りに走って行っては、人が集まっていないか探し、
集まっていると、旗を手にして「スルメ下さい」といって、ほんとに細くさいたスルメを一本もらった。
ああおいしい。
みんなが万歳!万歳!といっているそばで、スルメをもらう事に熱心だった。
でもそのうち、もっと物がなくなり、スルメも出なくなった。
そして空襲がはじまった・・・・。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

白い脚の記憶

2022年03月14日 | 昭和16年~19年
白い脚の記憶

「歴史の温もり」 安岡章太郎歴史文集  講談社 2013年発行

戦時中、外地に従軍していた慰安婦には軍が関与していた、
とそんなことが最近になって言い出されたのは何なのか私は不思議な心持ちになる。
だいたい軍の関与なしに従軍慰安婦なるものが存在するわけは有り得ないではないか------。

私が軍隊で行っていたのは、旧満州のソ連国境に近い孫呉だが、
そこでも師団司令部の近くに慰安所があって、営門に「満州第何百何十何部隊」とした大きな標札が出ており、誰の眼にもそれが軍の関与する施設であることは明らかだった。
もっとも、私たち初年兵は演習のないときは、内務班に居残って、古兵の下着の洗濯や靴磨きなんかにコキ使われるだけだった。





土堤のうえを吹き抜ける川風は、サラリとして快い。
私たちは草原に腰を下ろして、爽涼の気分を満喫していた。
すると班長のE軍曹が、
「見ろよ、慰安所の姐さんたちはお茶っぴきらしいぜ」、
ふだんマジメなE軍曹がこんな言葉を口にするとは、私は意外だったが、
言われてみるとなるほど、
川の浅瀬のところで若い女たちが五、六人、水をはね上げて駆け廻っている。
しかし、その姿は私の考えていた「慰安婦」とは一致し難く、ただの娘さんとしか思えなかった。
彼女らは、どうやら小魚を浅瀬の洲の中に追い込もうとしているらしく、
なかで大柄な二、三人が水の中で手拭を拡げながらこっちの方へやってくる。
大きな麦藁帽子に隠れて顔はよく見えなかったが、たくし上げたスカートから覗く脚は、まぶしいくらい白かった。
--女の子の脚とはあんなにもまっ白いものだったのだろうか。
私は、そんなことを口の中でつぶやきながら、しばし茫然となっていた。

部隊が南方へ出発したのは、それから二週間ほど後であった。
上海経由、フィリピンに向かった第一師団が、
火砲弾薬の劣勢にも拘わらず、よく戦ってアメリカ軍を苦しめ、みずからはほとんど全滅するまで力闘したことは戦誌のしるすとおりである。


・・・・・・


従軍慰安婦

「天声人語」 辰濃和男  1985・9・19

特要隊と呼ばれる慰安婦だった城田さん(仮名)は、私は女の地獄を見たと訴える。
六十をすぎた城田さんに会った。
話はパラオ諸島での特要隊のことになった。
「台湾の娘さんがカエリタイカエリタイといっていた。
朝鮮半島の娘さんも、カエリタイヨオッカサンといっていた。
何人もの仲間が爆撃で死んだ」
日本の女性を含め、彼女たちは軍需物資並みに扱われた。
軍馬と共に船底に押し込まれて運ばれることもあった。
軍隊の暗部を今さら、という人もいるだろう。
だが、軍需物資として消耗品品のように捨てられた女性たちの存在はやはり、
戦争史に刻まれねばならぬ。



・・・・・・

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする