しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

乳当

2022年03月11日 | 昭和16年~19年
中学校の3年生,学校の運動会で、
クラスメートの女子が100m走で先頭を走っていた、が、その子は乳房が大きくて左右に揺れていた。
大きくて気の毒じゃなあ、と思った。
我われの同級生の女子は、いつごろブラジャーを知って、いつごろから使用したのだろう。

・・・・・




乳当

「今は昔のこんなこと」  佐藤愛子 文春文庫  2007年発行

乳当

私が女学校の五年(十七歳)の時、教室で体操着に着替えていると、
隣で着替えていた親友のM子がヒソヒソ声でいいに来た。
「ちょっと、ちょっと、見てごらん。Kさんチチアテしてはる・・・・」
その時初めて私はチチアテなるものがあることを知ったのである。
私には四歳上の姉がいたにもかかわらず、我が家にはそんなシロモノはなかったのだ。
クラスにはKさんのようにチチアテを常用している人は何人かはいたのかもしれないが、
おチチの大きさなんか誰も関心を持たなかったからよくわからない。
学校の制服は上質のサージで全体たっぷりブカブカに作られていた。
今考えると胸がどんな形になっているのか、わからないように、という学校側の配慮だったのかもしれない。

しかし生徒の生徒の間ではおチチの大きさなど、誰も問題にしていなかった。
胸はペタンと「真直」というのが颯爽としてよかったのだ。
当時は世間一般にも、胸の大きいのは動物的で野卑なものという通念があった。
品性知性が備わり、精神性が高い女性はおチチが大きくならないものだとされていた。






・・・・・

(姉の話)
 2020.5.3 
・・・
ブラジャーは、
祖母も母も無かった。
お乳がようけい出るときは困りょうた。こぼれたり、肌につきょうた。

・・・
(姉の話)
2002.1.5

高校時代

体操はブルマー。
太い脚でしょうたら上から笠商の男がぴーぴーと口を鳴らしょうた。
下着はスリップ、しみーず。
ブラジャーはしてる人としない人がいた。
ブラジャーはするしないを気にしてなかった。
町の人は「こんなの知らんのん」いわれた。町の人は店にいくことがあるから。見ることがあるから知ってる。
(自分は)どうするもんか、どうやってつけるるんか、・・知ったのは20才くらい。


・・・・・

わが長女の着用は、「ずいぶん早いな」と思った。中学生になるか、ならぬかの頃だったような記憶がする。

・・・・・


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野獣民族アメリカ  ~雑誌「主婦の友」~

2022年03月09日 | 昭和16年~19年
「ニッポンの主婦100年の食卓」  主婦の友社  2017年発行

・・・

昭和18年9月号口絵
少年飛行兵となったわが子を、誇らしい気持ちで見送る母。
心配や恐怖などはみじんも描かれない。


・・・

昭和19年、作家の大佛次郎の著書『敗戦日記』に、『主婦之友』についての記述があります。
「各頁毎に「アメリカ人を生かしておくな」「米兵をぶち殺せ」と大きな活字で入れてある。
我が国第一発行のいい女の雑誌が、これで恥ずかしくないのか」
メディアはみなそうだったとはいえ、
狂気の時代の狂気のアジテーション。
戦後は手のひらを返したような民主主義的な記事。

阿古さんはこう話します。
「当時の主婦は夫しだい、時代しだいで変わらざるをえませんでした。
いかに現実を受け入れ、適応できるかも主婦に必要な能力の一つでした」

・・・・・

管理人記・
阿古さんの言葉を借りての言い逃れは見苦しい。
戦時の国会でさえ「翼賛会」推薦を得ない議員がいたし、その人たちが戦後をリードした。

・・・・・

「菊と刀」 ルース・ベネディクト 社会思想社 昭和42年発行

多くの日本人は何事によらずあなたまかせの態度を取ることが目的達成の最も安全な道であると考えている。
こういう考えから、
何をしてみたところでどうせ駄目なんだからしばらく足踏みして形勢を観望する方がまし、というまことに安易なことである。無気力は広がってゆく。

しかしながら日本人は決して無気力を楽しまない。
日本人の恒久不変の目標は名誉である。
日本はその歴史上数々の場合名声を博してきた。


・・・・・・





これが敵だ!
野獣民族アメリカ

「時間だよ、お前時間だよ」
豚のようにきたならしく肥満した身体をゆすってアメリカ女が寝台の傍に立ち、
その子供を揺り起こす。
牝豚はぶるぶる身体を震わせて、金切声でかう叫ぶ。
「キル・ジャップ!」(日本人を殺せ)
とたんに子豚ははね起きる。

重慶、桂林、昆明などの敵飛行場に、みよ、アメリカ娘どもが、
油にまみれて飛行機の整備に一心不乱だ。
憎々しげに侮蔑をこめてほざくその掛声を聞け。
「キル・ジャップ!」「キル・ジャップ」
しかし、奴らの整備した機は、故障・・・・。



・・・・・


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御真影と空襲

2022年02月11日 | 昭和16年~19年
かつて日本では、人命よりも写真の方が、比較にならないほど大切な時代があった。

・・・・・・

空襲下の御真影(ごしんえい)・深柢国民学校

空襲下の学校で当時、最も憂慮されたのは、各学校に奉安してあるご真影の安否であった。
県では、この日のあることを予想して、6月24日付けの岡山県内政部長名で、非常の場合には市内中学校は閑谷中学校へ、岡山市内の国民学校は御津郡屋上国民学校へ奉還するよう指示していた。
しかし準備中に空襲を受け、各学校宿直教員が、猛火の中をそれぞれ近郊の安全な学校へ奉還した。

空襲時の悲壮な状況を、市の中心部にあって最も災害のひどかった深柢(しんけい)国民学校についてみる。
6月28日、空襲は熾烈になりつつあった。翌29日未明の空襲、数発の焼夷弾で全校舎は一瞬炎に包まれ、運動場も油脂の飛沫で一面火の海と化していた。
学校の御真影は当日の宿直員井上訓導がガッシリ背負った。
勅語謄本と持ちにくい市役所の御真影箱は小堀・近藤両訓導が交替で持つことにした。
防空壕からいっせいに飛び出して西門に走った。
西も東も燃えている。南だ、4人一丸になって駈けた。
前方の見通しがきかない。煙の中を眼をつむって駈けた。
防火用の水で喉をうるおした。前も横も焼夷弾が落ちている。
道路べりに腰を落としてすすり泣く娘、息絶えた老人にすがって泣く家族、幼児を抱いて避難する婦人。
ふっと家族を思った。空襲は止んだ。

「岡山県教育史 続編」


・・・・・・

引野国民学校
福山市「引野町誌」

これは「引野町誌」に長くその心根(こころね)を書き残さねばならぬと思われることがある。
高等科1年生であったF君とS君は警戒警報が発せられると学校へ向けて一目散に走り出していた。
いざという時のために御真影奉安殿の防護を命ぜられていたからである。
家から500mも駆けだしたところ突然閃光がして大地が照らしだされ、次の瞬間立ち昇る真紅の火焔、「宇山がやられたぞ」という間もなく「グワッ、ザーザー」という音がして無数の火焔が降り注いできた。
思わず身を伏せ、一瞬気を失ったがまた駆け出し、燃え上がっている無数の焼夷弾の火柱を見ながら学校を目指して走ったが、学校は既に火の海であった。
後日分かったことであるが、校舎から離れた場所にあった奉安殿は被災を免れ、御真影は4月4日に竹尋国民学校に疎開されていたという。



・・・・・



・・・・・


岡山空襲と御真影

岡山空襲と「逃げるな火を消せ」
岡山空襲による被害があまりに大きかったことで、防空訓練ではB29の空襲を防ぎきれないことが実証された。
空襲の現実に即した防空対策が必要となり、
岡山市では1945年7月4日に竹内市長名で市民に具体策が示された。
1・家庭物資は必需品を残し市街地外へ移転せしめること。
2・各家庭防空要員(男女)は必ず居残り、老幼者はできるだけ市街地外へ転出すること。
3・防空用水は直ちに3倍に増量、バケツ何でも水を入れる物を用意すること。
4・各家庭で物入壕を至急に掘り、大火事となり施すに手段なき場合の必需品を入れて土を被せて置くこと。
5・町内会・隣組では防空監視哨をつくり、監視員を置き、敵機襲来の状況を正確に伝達し、避難誘導に務めること。
6・初期防火に敢闘、特にふきんに広場のある場合は徹底的に防火に務める尾こと。
また、
灯火管制を怠った者に対する警防団員や隣組員の注意は厳しくなり、警察官も目を光らせ一人の不心得者もいないように看視した。
暑くても薄着無用、
ゲートルは水兵式ものがよい、
防空頭巾に汗止めを、
飛行機から地上を眺めると白色のものが一番目にはいるので白い衣料は危ない。
白または白色に近い壁・屋根・土塀などは都市・山間部を問わず早急に対空迷彩を実施するよう呼びかけられた。

迷彩にはコールタールがよいが入手困難なので松根油採取時の廃澤・煤・松炭などを布海苔に混ぜて塗れば相当の効果があるとされた。
いれがない場合は泥土を塗り、絶対に小型機の目標にならないよう指示され、県下のすみずみまで迷彩が督励された。

軍部は焦土となった岡山市の道路を利用して本土決戦のため軍用機の発着場を計画した。
瓦町から大雲寺町に至る道路の北側を拡張して滑走路とし、
別に京橋を戦闘機の不時着陸場にする計画であった。
7月1日から突貫作業が行われた。
このとき、
京橋の南側の石の欄干は柱頭をもがれてしまった。

「岡山県史 近代ⅲ」


・・・・・

戦艦大和・死闘約二時間

伊藤長官、有賀艦長、茂木航海長、花田掌航海長らが艦と運命をともにした。
第九分隊長服部大尉は、御真影を捧持(ほうじ)して私室に入り、
なかから鍵をかけて写真に殉じた

「太平洋全史」  亀井宏  講談社 2009年発行


・・・・・


戦後の御真影
・・・

「岡山県史」
終戦後、天皇の巡幸に関し
天皇の巡幸が小学校であれば、天皇到着以前に次の物を必ず撤去するよう通達が出た。
二宮金次郎像
和気清麻呂像
奉安殿
忠魂碑
御真影
原型をとどめないように撤去すること。


・・・

「笠岡小学校百年誌」
 笠岡小学校編 昭和48年発行
昭和21年1月11日 御真影を地方事務所へ奉還

・・・

「金光学園百年のあゆみ」
金光学園 
終戦直後の指令・金光中学校
1月12日、両陛下の御真影全部を奉還することになって、都窪浅口地方事務所へお移し申し上げた。

・・・

海軍航空隊
福山市大門町「ふる里のあゆみ」東谷町内会公民館 昭和52年発行
8月15日重大放送あり、終戦となりたことのみ判明す。

松島飛行長は隊内にありし御真影、軍人勅諭其の他貴重な書類全部を、下堀宅内庭の西北すみにて焼棄せりしという。

・・・

吉田村小学校沿革史
昭和21年1月1日 奉安殿御聖影奉還式。
昭和21年1月11日 御真影奉還
昭和21年6月1日 勅語謄本返却

奉安殿・御真影・忠霊塔・忠魂碑・二宮金次郎像・和気清麻呂などの胸像撤去も実に厳しく行われた。
撤去の程度は、置地の形跡を留めない状態になること。

・・・

笠岡市史4巻
御真影は、
「昭和21年1月11日に城見国民学校他4校が御真影を地方事務所に奉還した」、
奉安殿では、
「笠岡女子国民学校が21年8月27日に奉安殿と学校神社、新山国民学校は21年10月10日撤去。」
教育勅語は
「笠岡東小が昭和23年8月24日返還」となっている。


・・・・・



今日は「建国記念日」ではなくて、
「建国記念の日」
”の”の字がはいる。

昭和42年に制定されたが、当時は
紀元節の復活ということで、国会では保革の政党が争った。
しかし、
国民は賛成・反対でもなく、無関心派が多かったような記憶がする。
たぶん、学生もサラリーマンも”祝日=休日”が増えるので、内心喜んでいたのだろう。



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四大節のうちの「紀元節」

2022年02月11日 | 昭和16年~19年
義母の話
談・2022.2.6
(義母は昭和5年12月生まれ。後月郡芳井町にある分校と本校に通った。
分校には御真影も教育勅語もなかった、ようだ)

紀元節の日は、分校でなく本校に行っていた。
3時間かけて(遊びながら儀式が始まる時間までに)本校に行っていた。
その日は1時間くらいで終わり、終わるとすぐ家に帰っていた。

問・昭和21年の紀元節はあったのだろうか?
学校に行っとる間は、紀元節はあったような気がする。

・・・・

父母の話
談・2000.6.10

父・教育勅語は式典の日に全員で読んでいた。
母・読むんじゃあのうて、覚えささらりょうた。

(これは学校の違いでなく、父と母のちょとした時代差だと思える)


・・・・・

「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫  福武書店 1991年発行

式のために登校した四大節

元旦・紀元節・天長節・明治節が四大節。
国民全員が仕事を休んで祝意を表す日だった。


各学校は登校して祝賀の式をあげ、これを祝った。
授業はなく午前中に帰宅したが、家は祝日とは関係なく、いつもの農作業が待っていた。

式は10時ごろから始まるので、こういう日はたっぷり遊んでから集団登校した。
四大節には共通した式次第があった。
「君が代」の国歌はなぜか必ず二回つづけて斉唱。
御真影の奉拝、
勅語の奉読、
の三つとも厳かに行なわれた。

式場には正面には臨時の仮御殿が設けられ、
奉安殿から移した御真影が安置してあった。
両陛下の写真は、拝礼の間は扉が開いていたので、薄絹のベールを通して拝むことができた。
勅語の奉読が終わり、みんなやれやれの気持ちでほっと息つく間もなく、
校長の長い長い話が始まる。

紀元節

一年でも最も寒さの厳しい頃であった。
校長から神武天皇の話を聞いた。
こういう話は種が一つだから、毎年同じ話の繰り返しになり、
そのうえ話下手ときたからちっとも面白くはなかった、
天皇の日本建国については、大いなる誇りをもつようになった。
天皇の東征についても、本当にあった話として受けとめた。






教育勅語




「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫  福武書店 1991年発行

学校では校長以下全員が、この勅語の扱いについては丁重を極めた。
子ども個人は、その内容を考えるようなことはなく、感動もなければ疑問も感じなかった。ただすらすらと暗誦できることの方が先決だった。

フロックコートに身を正した校長が壇上にすすむと、
タイミングよく次席が白手袋の略礼装で,勅語の納まった白桐の細長い箱を、
うやうやしく三宝にのせて式場にはいってきて、校長の前の卓上に静かに置いて退く。
校長はこれに最敬礼し、やおら桐箱のなかから白絹に包まれた勅語の謄本を取り出し、
会場に向かって捧げ持つと「最敬礼」との号令がかかり、参加者一同が最敬礼でかしこまる。

奉読の間,咳一つするにも気がひけたが、青はな垂らしの子供たちが、いちばん苦手とするのがこの時で、
垂れ下がる鼻水を吸い上げる音がだんだん激しくなるころ「ギョメイギョジ」で奉読が終わる。

勅語を無事読み上げた校長は、緊張から解放された安堵の表情に変わり、白絹を巻く手元のふるえはもうなかった。
勅語の奉読については、どこの校長も独特のくせ節回しに近いものを持っていて、
いともおごそかに恰好をつけて奉読していたが、万一、
公式の場で読み違えるようなことがあったら、それはもう確実に進退伺いの必要があった。



・・・・・

「福山市史・下巻」

学校行事の変化

昭和初年までの学校行事は、
入学・卒業式のほか祝祭日・諸記念日(陸海軍記念日など)などが中心であったが、
その後漸次軍国主義的傾向が強まり、柳条溝事件前後からは戦時色あふれる行事がふえている。
まず昭和4年には、
紀元節が第一回の建国祭として祝われ、いままで以上の意味をもたされることになり、
「八紘一宇」のスローガンのもと盛大な祝典が挙げられ、軍国主義教育の出発点となった。
翌5年には教育勅語渙発40年記念式が行われ、
昭和6年には新しい「御真影」が下賜され、各学校でその奉戴式がいっせいに挙行された。
それにともなって、奉安殿の新・改築や国旗掲揚台の新設が行われた学校も少なくない。
いずれも軍国主義教育のシンボルとされたが、
とりわけ「御真影」は重視され、校舎や学籍簿、さらには教員・生徒の命よりも大切に扱われた。

昭和20年の空襲で「奉安殿と渡廊下を残して全焼した」深津国民学校では、
「奉安殿に保管中の教育勅語詔書類は宿直教官の護衛により安全に待避された」と特筆されている。


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「沈没」で死ぬ ~戦場の死~

2022年02月09日 | 昭和16年~19年
「海没」死とは、艦船の沈没による死者のことをいう。
とくに、徴用した貨物船を改装した輸送船の場合、
対空・対潜装備をほとんど欠いていたことに加え、
船倉を改造した狭い居住空間に多数の兵士を文字通り押し込めていたため、
雷撃などを受けて沈没する際には、一度に多数の犠牲者を出すことになった。
海陸軍、軍属の総計358.000名にも達しているという。


・・・

ドイツのUボートの脅威にイギリスやアメリカは護衛空母を建造し,Uボートの活動を封じ込めることに成功した。
「アジア・太平洋戦争」 吉田・森共著  吉川弘文館 2007年発行


・・・・・



・・・・・

ダンピール海峡の悲劇

日本軍は東部ニューギニアに増援部隊を派遣し防御要地として固めることにした。
昭和18年3月3日、第5師団の輸送船が米豪軍機120機の襲撃を受けて全滅するという、「ダンピール海峡の悲劇」が起こった。
事態が緊迫するなか、山本五十六連合艦隊司令長官は自らラバウルに向かい、作戦指導することにした。
4月18日、山本はブーゲンビル視察に赴くが、米軍の待ち伏せで撃墜された。

米軍の「蛙飛び作戦」
米軍は、制圧した飛行場からの飛行機進出距離いっぱいの場所に次の狙いを定めて制空権を奪い、また次に進む。
その途中飛び越した日本軍の部隊はいちいち制圧する手間を省き、補給を絶って放置しておいたのである。

日本軍がニューギニアに投入した兵力は16万とも18万ともいわれるが、
その9割が死亡するという悲惨な戦場になった。
日本はここで国力を使い果たし、以後の戦いではなすすべもなく敗れていく。



・・・・・

「太平洋戦争全史」  亀井宏  講談社 2009年発行

昭和20年9月4日、時の東久邇宮稔彦首相は、
敗戦の最大原因は、船舶が極度に損耗したこと、と要約し述べている。
日本が船舶の護衛(シーレーンの保護)を軽視していたことは、現在では定説になっている。
いわゆる総力戦に対する認識が浅くて、戦争とは出先のチャンバラ(艦隊決戦)で決着がつくものだと思い込んでいた。

米軍は、海上交通網の破壊こそが、日本屈服の有効な手段であると確信した。  


・・・・・

ねずみ輸送(米軍名・トーキョーエクスプレス)

一木支隊の先遣隊が全滅後、日本軍の兵士の輸送や物資の補給は著しく難易度が上る。
日本軍が船で島に近づこうとしても、島から半径280kmが敵機の行動範囲内になっている
輸送船が島に着く前に沈められてしまう。
海軍の面々は頭をひねった。それが、「ねずみ輸送」だ。
闇夜に、人に気づかれることなく、素早く動き回るねずみのごとき輸送方法。
軍艦のなかで最もスピードのある駆逐艦を使って秘密裏に輸送を行おうというのだ。

8月24日朝、第一回のねずみ輸送が行われた。
駆逐艦4隻、日本海軍の拠点だったトラック島を出発した。
ところが、なんと初回でつまずいてしまう。
アメリカ海兵隊の艦上爆撃機に発見され、28日午後およそ20機から猛攻を受ける。
兵士、砲、弾薬が海の底へ沈み、完全な失敗に終わった。

「ガダルカナル悲劇の指揮官」 NHK取材班 NHK出版  2020年発行


・・・・・・

昭和18年6月ごろから米軍は新型の電池式魚雷を採用しはじめた。
この効果はたたちに現われた。
民間商船、陸海軍の喪失量が急増した。
タンカーの喪失で石油が激減、国力の崩壊は時間の問題といえた。

・・・・・・


海上護衛総司令部

海上交通の護衛と対潜水艦作戦を統括指揮する司令部。
昭和18年11月15日設置。司令長官は及川古志郎大将。
米軍の攻撃によって喪失する船舶は急増の一途をたどり、
資源輸送に大きな支障をきたした。
これに対処するため設置されたが、
配属された艦船はわずか30数隻に過ぎず、
増え続ける米潜水艦の攻撃の前では、全くその任を果たせなかった。

「昭和二万日の全記録6」  講談社 平成2年発行


・・・・・

名投手沢村の戦死

昭和19年12月2日、日本プロ野球史上最高の快速球投手といわれた元巨人軍の沢村栄治が、応召で南方へ向かう途中、
米軍の潜水艦による攻撃を受け、輸送船もろとも東シナ海の海中に沈んだ。
27歳だった。
沢村は二度の応召で肩を痛め、マラリアの発病にも悩まされた。
昭和19年三度目の応召を受け戦死したのである。

「昭和二万日の全記録6」  講談社 平成2年発行




・・・・・・




対馬丸事件
(Wikipedia)

事件に至るまで
1944年(昭和19年)7月、サイパンの戦いが終結し、
これを受けて政府は、沖縄県知事宛てて『本土決戦に備え、非戦闘員である老人や婦女、児童計10万人を本土または台湾への疎開をさせよ』との命令を通達した。
一方で、沖縄本島などへ展開させる兵員や軍需物資の輸送も同時に行う事となり、往路は軍事輸送、復路は疎開輸送に任じる事となった。


8月21日18時35分、対馬丸と暁空丸、和浦丸で構成されたナモ103船団は台風接近による激しい風雨の中、蓮と宇治の護衛を受けて長崎へ向けて那覇を出港する。
対馬丸には民間人および那覇国民学校の児童と介添者を合わせた1,661名、上海から転送中の乾繭1,775梱とゴマ1,000梱を乗せていた。
また、当時の乗組員は86名であった。他の2隻も疎開者を乗せていた。
8月22日、22時10分米軍潜水艦から魚雷を受ける。
西沢船長は「総員退船」を令し、脱出した者の中にも舷側が高すぎたため、恐怖から海に飛び降りることができなかった者が大勢いた。

暁空丸、和浦丸と護衛の蓮、宇治は全速力で姿を消していった。
犠牲者の遺体の多くは奄美大島・大島郡宇検村などに流れ着いたため、現地には慰霊碑が建立されている。
生存者の多くは、トカラ列島の無人島に漂着したり、漁船に救出された。最も長い人は10日間の漂流を強いられた。
最終的に乗員・乗客合わせて1,484名が死亡した。一方で、生き残った児童はわずかに59名だった。

事件前後から終戦まで
対馬丸が撃沈された事件については緘口令が布かれたが、疎開先から来るはずの手紙がない事などから、たちまち皆の知るところとなった。


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「飢え」で死ぬ ~戦場の死~

2022年02月08日 | 昭和16年~19年
ガダルカナル

昭和17年12月31日、大本営はガダルカナル島奪回を断念した。
戦闘における死者2万人、一説にはそのうち1万5千人は餓死であった。
日本軍の敗因は、それ以前に、
この島に進出すること自体が作戦線を伸ばし過ぎて補給・輸送を困難にするという点が見落とされていた。
制空権を喪失し、輸送を妨害され兵力はもとより装備も食料も送り込めない状態にされてしまった。

ポートモレスビー(東部ニューギニア)の攻略
昭和17年3月日本軍は東部ニューギニアに進出し、陸路でポートモレスビーを攻略することになった。
これは無謀に過ぎる作戦だった。
陸路はほとんどジャングルに覆われ、越えようとする山系は標高2.000mにおよんでいた。
8月18日南海支隊8.000人が、ブナに上陸。
行軍は苦難を極め、補給も不足がちで、病人や死者が続出する。
9月16日ポートモレスビーまで50キロの地点に迫るが、補給困難とみて、23日撤退を命令した。
ふたたびジャングルと高峰を戻り、11月にブナに帰り着いた者はわずか300人であった。

米軍の「蛙飛び作戦」
米軍は、制圧した飛行場からの飛行機進出距離いっぱいの場所に次の狙いを定めて制空権を奪い、また次に進む。
その途中飛び越した日本軍の部隊はいちいち制圧する手間を省き、補給を絶って放置しておいたのである。

日本軍がニューギニアに投入した兵力は16万とも18万ともいわれるが、
その9割が死亡するという悲惨な戦場になった。
日本はここで国力を使い果たし、以後の戦いではなすすべもなく敗れていく。


・・・・・

「日本食物史」 江原・石川・東四柳共著 吉川弘文館  2009年発行


『餓死した英霊たち』


ブーゲンビル島の作戦失敗で、何とか行き帰った兵士たちは、
体力が消耗しているのに食べるものは何もなかった。
そこで、銃を捨て、鍬をとって、荒れ果てた耕地や密林の開墾につとめた。
その間、補給された食料は、4月に米100g、5月に60g、6月以降は皆無で、
他は一切現地物資を利用するしかなかったという。
兵士たちの中には、住民がわずかに所有している食物を、半ば強制的に取り上げるものも出てきた。
そして、
「木の芽、草の根、食べられるものはすべて食した。
海の魚をとりたくても敵機が絶えず哨戒するし、爆薬は将来の作戦を考えればこんなことに供用はできなかった。
小川の魚はすぐにとりつくされた。蛋白質の給源は「トカゲ」であり、蛇であり、鼠、「バッタ」の類に及ばざるを得なかった。
調味料として,塩を夜間、海水を煮て作った。」

無謀な作戦と食糧補給がなかったことで、実に多くの兵士を餓死や栄養失調に陥らせた大平洋戦争。
ガダルカナル島は餓島と呼ばれた。
本土の食生活も悲惨だったが、前線の兵士たちにとって、戦場は飢餓地獄さながらであり、大本営と作戦責任者の罪は大きい。

・・・・

「太平洋戦争」 世界文化社 昭和42年発行

ガダルカナル島

昭和17年12月、ガ島の米軍は5万人を投入。
飛行場は3つに増えた。
野外映画劇場も設けられ、日本軍の目の前で海水浴を楽しみながら、夜の”東京急行”(輸送船)攻撃を待つ有様となった。
これにたいして日本軍は、
飢え、マラリア、赤痢に倒れ、第17軍参謀長の高崎少将は悲電を大本営に送った。
ーーー
今や打つ続く糧秣の不足、ことに12月2日以後わずかに木の芽、ヤシの実、川草のみによる生活は、第一線の大部をして戦闘を不能に陥らしめ、
歩行さえ困難なるもの多く、一斥候の派遣も至難となれり
ーーー
この電報は、むしろ控えめでさえあった。
大本営の撤去命令を伝達に行った参謀中佐は、
骸骨の如く衰え死体もろくに埋葬されないガ島の惨状に
「地獄とはこういう場所か」と、嘆いた。

撤去は昭和18年2月3日~7日にかけて無事駆逐艦20隻で終了したが、
投入兵力33.600人、うち
戦死者8.200人、
戦病死11.000人。
戦病死のほとんどは補給不足にもとずく栄養失調または熱帯性病気によるものだった。



(山中に残された日本軍の水筒)

・・・・

硫黄島

水や燃料を蓄えた500本を超えるドラム缶が運び込まれ、
水も、燃料も、そして食料も、最も豊富に備蓄されている地下壕が南方空だった。
兵士が3ヶ月間自給できると、兵士たちの間でも噂されていた。
が、蓄えはたちまち底をついた。
地下壕の奥に堆く積み上げられていたのは、戦死した兵士の亡骸だった。
さらに、力尽きて死んでいく負傷兵も、増え続けた。
高温で、むせ返るような壕の中で、死体の山は強烈な腐敗臭を発していた。
生き残った兵士は、泥水をすすり、ウジ虫を口に入れてしのぐ日が続いた。
「泥水にウジがわいていたら、ありがたかったですよ。
毒物もはいってない。
それに、泥水をウジごと一緒に飲んじゃえば、食料も同時に腹に入れることになるわけですから」
食料は、自分たちで調達するしかなかった。
爆弾で吹っ飛ばされたパパイヤの木の根っこを見つけ、まようことなくかじりついて胃に収めた。しかし、すぐに木の根すら見当たらなくなった。
「炭を食べたんです。
炭が食べられるとか、食べられないとか、そういうことを考える前に食べるんです。
ほかにないんですから。
本当に今でも涙が出てきます。」

「硫黄島玉砕戦」  NHK取材班 NHK出版  2007年発行




・・・・・


インパール



佐藤師団長が去った翌日、
牟田口司令官は将校全員を集めて声涙共にくだる誹謗をした。

「佐藤師団長は、軍令に背きコヒマ戦線を放棄した。
食うものがないから戦争はできんといって退却した。
これが皇軍か。
皇軍は食う物がなくても戦をしなくてはならんのだ。
食う物がない、兵器がない、弾丸がないなどとは戦いを放棄する理由にならん。
弾丸がなければ銃剣があるじゃないか。
銃剣がなくなれば腕で行くんじゃ。
腕がなくなったら足で蹴れ。
足もやられたら口で噛みつけ。
日本男子には大和魂があるということを忘れるな。
日本は神州である。
神州は不滅である。
毛唐の奴バラに負けるものか」

哀れは、インパール作戦に散った将兵である。
第31師団 戦病死11.500名
第15師団 戦病死12.300名
第33師団 戦病死12.500名。

「昭和史7太平洋戦争後期」 研秀出版 平成7年発行


・・・

「白骨街道」の地獄図

インパール作戦では、約10万人がインパールに進行し、うち、
約3万人の兵士が死んだといわれている。
その死亡率の高さは驚異的である。
とりわけ悲惨なのは、
犠牲者の多くが戦闘で死んだのではなく、栄養失調、マラリア、赤痢などで体力を消耗し、退却途中に倒れたことである。
とくにチンドウィン川の川西方のカボウ谷地は日本兵の死体で埋め尽くされ、
「白骨街道」と呼ばれた。

「雨露を避けるために、樹間に天幕を張って、数名の兵が寝込んでいるので、様子を窺ってみると、その内の半数は既に息絶えて死んでいるのである。
後の半数は死んだ兵と肩を並べて生きているものの、既に歩む気力はもろろん、もの言う元気もなく、そのまま息絶えるのを待っているかのように見えるのである」
「死体はポツンと、ただ一体だけ横たわっているようなことはなく、
一体の死体があるところには数十の死体がつづいていた。」
雨期最盛期の、最も凄惨な敗走を強いられた部隊の記録は残っていない。
それは戦闘部隊のほとんどが死んでしまったからではないかと推測している。

「昭和二万日の全記録6」  講談社 平成2年発行



・・・・・




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「玉砕戦」で死ぬ ~戦場の死~

2022年02月07日 | 昭和16年~19年


硫黄島
「硫黄島玉砕戦」  

日本兵が投降したがらない理由は、
「敵国の捕虜になった兵隊は”国賊”扱いされて、戸籍謄本なんかも赤くバッテンが書かれてしまう、そういう教育を受けていた」
国を裏切ったも同然で故郷の血縁者までもが”売国奴”の非難を浴びることになると、兵士は固く信じ込んでいた。
「後ろから銃で撃った人間がいたんですよ」、
味方の銃弾を背後から受けて命を落とす、彼らもまた記録のうえでは硫黄島で”玉砕”した戦没者になる。

・・・
「硫黄島玉砕戦」 

「仲間が戦死すれば、最初のうちは、ちゃんと火葬にして供養してやりたいとも思いましたけど、焼いて煙なんか出したら、敵に見つかるだけですからね。
死体は邪魔にならないように積み上げておくだけ。
そして、積み上げる前には、死んだ兵隊の持物をみんなあさっていました。」
陰鬱な地下壕の生活は、いつしか兵士たちに自分が”人”であることを忘れさせていた。
「もう、”畜生”です。
日本の兵隊が死んだからって、頭の中には『何かモノを持っていないか』という考えが先にくるんです』
日本軍は、戦う相手や敵を、「鬼畜」であると教え込んだ。
しかし、硫黄島からの生還者たちは、極限の戦場を生き抜いた己の生きざまを表す言葉として口にする。

・・・

お母さん

死んでいく瞬間に、最後の一言を発する人も少なくなかった。
多くの兵が申し合わせたように、「おっかさん」という言葉を残して死んだという。
「私が見た中では『天皇陛下万歳』と言って死んだ兵隊は、あまりいませんでしたし、
最後に『お父さん』と言った兵隊も、一人もいなかった」
「水」といって死んでいく兵士も、数えきれないほどたくさんいた。
手が届く最後の願いともいえたが、しかし、その願いが聞き入れられることは、ほとんどなかった。

・・・
「殺してくれ」

「あれだけの酷い火傷を負って、医療設備も何もないんですから。
見ている方は、放っておいても三日もすれば死んでしまうと思います。
そういう瀕死の兵が、わあわあ騒いだり、大きな悲鳴をあげたりすれば、
『うるさいから殺しちゃおうか』って、反射的に銃を向けることもあった。」
銃で撃って命を絶つ-------。
それを望んだのは、じつは多くの負傷兵自身であった。
兵士に耐え難い苦痛を与え、生き抜く気力を奪っていった。
「名前も階級もわからない。
陸軍か海軍かもわからない。
全身に火傷を負った見知らぬ兵隊が『殺してくれ、殺してくれ』言うて訴えたんです。
何を尋ねても、とにかく『殺してくれ』」
「もう、どうしていいのかわからなくなります。
でも、結局は、苦しませるよりは死なせてあげようという気持ちになるんです」

「硫黄島玉砕戦」  NHK取材班 NHK出版  2007年発行



・・・・・


アッツ島の玉砕

昭和18年5月30日、大本営は「海征かば」の曲とともに山崎保代部隊長に率いられた二千数百名の陸海軍守備隊が「玉砕」したことを発表した。
国民は「全滅」でなく「玉砕」の道を歩んだ守備隊を武士道の鑑であり、
捕虜となることを潔しとしない軍人精神の発露であると賛美した。

「日本の歴史14」 研秀出版 1973年発行



・・・・・


初の玉砕、アッツ

昭和18年5月11日米軍が上陸。
日本守備隊2379名は、5月末まで陣地を死守。
砲弾や弾薬を使い果たして、
5月29日未明生き残りの約1.000名が総攻撃を敢行。
捕虜29名の他は全員散華した。

・・

ギルバード諸島

昭和18年11月20日、米軍は中部太平洋ギルバード諸島に進攻してきた。
孤立無援のタワラ守備隊(海軍陸戦隊ほか4.800名)は猛烈な爆撃と艦砲射撃を受けたのち、全員壮烈な玉砕をとげた。
タワラ戦のあと、生き残った日本守備兵は”生きて虜囚の辱めを受けない”ため、小銃を頭部に当て、足の親指で引金を引いて自決した。



・・

サイパン玉砕

マリアナ諸島の戦略的重要性はいうまでもない。
一たび日本がこれを失うことになれば防衛内線はたちまち破綻を生じ、
国防上の生命線が脅威をうけることは明白であった。
米軍兵力は、
空母15,戦艦7,巡洋艦13,駆逐艦58,潜水艦13,計107隻の他、
護衛空母14,旧式戦艦7など計551隻の遠征部隊を加え、合計658隻であった。
上陸軍は78.000名がサイパンとテニアンに、56.000名がグァムに向けられた。
サイパン守備の日本軍は、合計32.000名(陸軍24.000名、海軍6.700名ほか)で、
海軍は南雲中将、陸軍は斎藤中将が指揮であった。
6月15日サイパンに上陸した米軍は、6月27日タポチョー山を占領し、
日本軍は11日間に戦闘員の約8割を失った。
木の根をかじり、かたつむりを食べて抗戦し、
7月6朝、斎藤将軍は南雲中将とともに自決。
7月7日,約3.0000名の日本軍はバンザイ突撃をして死地に身を投じた。
7月9日、マルビ岬にはまだ多数の男女市民がいた。
市民たちは黙々と断崖から身を投げた。
ある父親は3人の子供をかかえながら身を投じ、
女たちは手をとりあって崖から海中へ身を躍らせていった。
日本軍ほとんど全員玉砕し、捕虜は1.800名たらずだった。



・・

テニアン

昭和19年7月24日、米海兵隊が4万名が上陸。
日本守備隊8.000名は玉砕した。

・・


グアム

陸軍13.000名、海軍7.000名が13日間の砲撃に堪えたが、
反撃する備砲は大半が使えなくなっていた。
8月10日、日本守備隊はほとんど玉砕した。

・・

ペリリュー島の奮戦

昭和19年9月15日連合軍は上陸。
日本軍は夜間斬込作戦で対抗した。
連合軍は鉄条網と、日没とともに照明弾を打ち上げ真昼のようにし、
少しでもあやしいものを見つけると機関銃射撃を集中した。
抗戦70日、
生ある限りジャングルにひそんで最後まで闘い、
「通信断絶のため本日をもって以降連絡期し難きも、御了承を乞ふ。
日本の皆さんさようなら」。
戦後の昭和22年34名が収容された。


・・

メレヨン島

全く孤立無援ととなったメレヨン守備隊は、
現地自活のため農耕と漁労を続けた。
しかしサンゴ礁の土壌と不備な漁具では、兵士たちの生命を保持する食糧を得ることはできず、ついに全島ネズミ、トカゲ類も貴重な栄養源となった。
さらにアメーバ赤痢など風土病がまん延し、総員6.800名のうち5.200名が悲劇の島の土となった。

「昭和史7太平洋戦争後期」 研秀出版 平成7年発行


・・・・・



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「捕虜」が死ぬ ~戦場の死~

2022年02月06日 | 昭和16年~19年
・・・・・

「バターン 遠い道のりのさきに」 
  
1942年4月9日まで、私たちはバターンとコレヒドールを守るために戦かった。
日本軍は55日間でフィリピン諸島を手に入れる計画だった。
しかし148日間、つまり予想された期間の3倍近くも持ちこたえた。
アメリカ合衆国の歴史始まっていらい、全軍が降伏する羽目になったのはこれが最初である。

日本軍は25.000~35.000の兵がバターンにいるものと推定していた。
降伏当時のバターンには105.000人の米比の兵・市民がいた。
日本軍が見積もっていたよりはるかに大きな数である。

日本軍のある一隊が歩けと命令したかと思うと、べつの一隊が待てと言った。
これらの命令はすべて日本語で発せられ、たちどころに反応しないと、私たちは殴られ、ツバを吐かれ、突き飛ばされ、ある場合には撃たれた。

私たちバターンの兵士は、収容所に到着したころには半死半生だった。
ほとんど2つか3つの健康上の問題を持っていた。
マラリア・赤痢・栄養失調・飢え・脱水症・肺炎・脚気・ジフテリア等である。
わたしたち、ほとんどすべては人間の通常の耐久力をこえて叩かれいたぶられていた。

死の行進はじまる
4月10日の朝、日本軍は私たちを歩かせた。
早く歩かせようと大声を張りあげ、銃剣でこづいた。
最初の一マイルで、私たちは行進でなく、ただ歩いており、よろめく群れだった。
日本軍は道端で拾った棒切れで私たちをたたきはじめた。
生きたければ、行軍の途中で休むことはできないのだ。
便意をもよおしたらどうするか?
生きるためにはズボンをはいたまま排尿するしかなかった。

3日目になると、食糧も水もなしに行進がもとで、過去にいっぱい飲み食いしたものを空想するようになった。
バターン周辺には井戸がたくさんあったが、日本軍は捕虜に水を与えることについて決まりがなかった。
捕虜が水を求めて井戸に走った。
見張りは突然自分の銃剣を首と背中にぶすりとやった。
そのアメリカ人捕虜は崩れ落ち、自分の身に何が起こったかわからないうちに死んだのだった。
私たちは誰もが恐怖でいっぱいになった。

私たちは毎日、朝の6時半から夜の8時か9時まで歩いた。
私たちはカタツムリのように遅くトボトボと歩くことしかできなかった。
連中は私たちをどこに連れて行くのだろう。永遠につづくのか。

「バターン 遠い道のりのさきに」 レスター・テニー 梨の木舎  2003年発行


・・・・・


「生きている兵隊」  石川達三  1938年紀元節

敵の部隊は大きなものではなかったが、南京が近くなるとさすがにその抗戦にも必死の色が感じられるのであった。
かういふ追撃戦ではどこの部隊でも捕虜の始末に困るのであった。
自分たちがこれから必死な戦闘にかかるといふのに警備をしながら捕虜を連れて歩くわけにはいかない。
最も簡単に処置をつける方法は殺すことである。
しかし一旦つれてくると殺すにも骨が折れてならない。
「捕虜は捕まえたらその場で殺せ」
それは特に命令といふわけではなかったが、大体さういふ方針が上部から示された。

笠原伍長はかういふ場合にあって、やはり勇敢にそれを実行した。
彼は数珠つなぎした十三人を片はしから順々に斬って行った。


・・・・・


(捕虜の食事)

「クワイ河に虹をかけた男」

「家畜のように貨車に詰め込まれました。
太陽の熱で貨車はこげつくオープンとなって出発していった。
私はまだ赤痢患者だった。
この厄介な病気は日によっては50回くらい便所通いが必要であり、
私と同じような患者が同じ貨車に10人ほどいた。
この用便のためバケツが一個、食事用にもう一個のバケツ。
衣類の状態はご想像におまかせする。」

「”今からは、病人はいないのだっ、全員健康体である。
日本の天皇陛下のために働くのだ”
我々は夜通し行進させられた。
お天気具合によっては浴びるような雨、またすぐ焼けつくような暑さに変わる山腹の径を呪いながら進んだ。」
「一日2食。本質的にビタミンとカロリーが欠けていた。
食事の他に活力源はない。
恐るべき重労働が強要され捕虜の生命を奪い始めていた。
ありとあらゆるすべての疫病が流行し、
非常識な長時間労働がジャングルの樹木の伐採や路盤整備に課せられ、
捕虜はその場で死んでいった。」

1943年、この年はコレラが大発生した。
「コレラと赤痢の患者で超満員、
激しい苦痛にのたうちまわっていた。
有色・白色の人種を問わず、同じ小屋に横たわり、ぼろをまとい、または素裸で、
自制心もなく嘔吐し、排泄物をあたりいちめん撒き散らしたままだった。
歩ける捕虜が選ばれ、
夜のうちに死んだ者を運び出した。
死臭がたちこめ吐き気を催した。
描写することもできないほどの凄まじい情景だった。」

「3年半にも及ぶ屈辱と飢餓の日々でした。
我々にはろくに薬も与えられませんでした。
国際赤十字から送られた薬は、戦争が終わってみると、
なんと倉庫の中からいっぱい見つかったのです。
悲しい光景でした。
薬さえあれば、数え切れないほどの仲間の命を救うことができたのに・・・。
食糧も同じことでした。
国際赤十字からの食糧が届かなかったんです。なぜんんだ?というしかありません。
捕虜を死ぬまで働かせるのが、日本の意図だったのではないでしょうか。
私はそう確信しています。
なぜなら、天皇陛下のために命を捧げるのことができたのは名誉なことだと、
とても信じがたいことです。」

「クワイ河に虹をかけた男」 満田康弘  梨の木舎  2011年発行




・・・・・

大岡昇平は”文明国”の捕虜になった。
・・・・・

「俘虜記」 大岡昇平  講談社文庫 昭和46年発行

生きている俘虜
私がここでいう俘虜とは、終戦の大勅によって矛を捨てた兵士ではない。
彼等は単に被抑留者である。
俘虜とは日本が戦っていた間に、降服、或いは戦闘力を失うことによって、敵に捕らえられた者を指すべきである。

昭和20年3月中旬私がレイテ島の俘虜収容所に入った時、そこには約700の陸海将兵が収容されていた。
私は昭和19年3月応召、20年1月25日ルソン島南部のミンドロ島の山中で捕らえられた36歳の補充兵である。
私の応召前の職業は神戸の或る造船所の事務員であり、戦う日本の建艦状況を見て、祖国の敗北と自己の死を確信して比島へ来た。
そして奇妙な偶然によって文明国の俘虜となり、新しい境遇、殊に俘虜という新型の日本人の間に生きる運命に茫然としていた。
食事は、収縮した胃には入りきらない。味は落ちるが、わが隣人は喜んで私の食べ残しを食べた。
日は6時ころに暮れた。
俘虜はあらゆる遊びごとに耽るのであった。
相撲、縄跳び、毬投げ、室内ではトランプ、麻雀などが行われる。
外に欲望を遂げる手段を持たない俘虜にとっては食事は最大の楽しみである。
カロリーは十分である。
その証拠に俘虜はどんどん肥っている。


・・・・





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「特攻」で死ぬ ~戦場の死~

2022年02月05日 | 昭和16年~19年
レイテ決戦

レイテ決戦は、軍事的に日本の敗北を決定づけた戦闘であった。
特攻をやるほかはないという状態は、既に戦争に敗れているということにほかならない。
不幸なことに敗北はあり得るという思想がなかった当時の軍に、これは必然のなりゆきということになるのであろう。

いったん特攻が採用されてしまうと、
あとは作戦も何もあったものではなくなる。
攻撃目標は、何百という敵艦戦がレイテ周辺を遊弋しているのだ。
飛行機が着けば、
「それ行け!」
というだけが航空軍の仕事となった。

富永司令官はじめ参謀たちが、この時期もうどうにもならなくなっていることを知らなかったはずはない。
圧倒的な敵の戦力に立向かう特攻が、ほぼ無駄死であることを知らなかったはずはない。
2ヶ月足らずの間に、四航軍だけで62回にわたって特攻出撃が命じられている。

せいぜい5~6機の編隊で出撃して行く特攻が、実際にはいくばくの戦果をあげていないことを、彼らは知っていたのである。

少年航空兵でも、特攻隊員であればマニラの軍司令部へ申告に来る。
参謀を従えた軍司令官の謁見を受け、「頼むぞ」という激励の言葉が授けられた。

「太平洋戦争」 世界文化社 昭和42年発行


・・・・・

神風特別攻撃隊

太平洋戦局を決定したマリアナ諸島ののち、アメリカ軍は進撃の手をゆるめずフィリピンのレイテ湾に上陸を開始した。
ろうばいした大本営は「捷」号作戦に出た。
日本艦隊が比島沖にさしかかったとき、アメリカ機動部隊と激戦、
世界最大の超弩級戦艦の武蔵をはじめ戦艦3隻、空母4隻、巡洋艦9隻、駆逐艦9隻は撃沈され、ここに連合艦隊は太平洋のもくずと消えた。
つぎつぎと悲報の入る比島沖海戦に焦慮した第一航空艦隊司令長官大西滝次郎中将は、ついに10月25日、特攻攻撃を命じた。

大本営はこの戦法を日本武士道の「玉砕」の精神とむすびつけ、
「神風特別攻撃隊」と称揚して、
これ以後兵力の不足を補う基本戦術として採用した。
アメリカ側は、この狂気のような行為を「自殺飛行機」と呼び、
対空砲火の弾薬と洋上遠く戦闘機を派遣して早期に撃墜するという方法で、
被害を最小限にくいとめるようになった。

「日本史5」 藤井松一 現代教養文庫 昭和42年発行


・・・・・



(鹿児島県串良平和公園)

・・・・・

「雲の墓標」  阿川弘之 新潮文庫  昭和33年発行




3月22日

「桜花」の部隊は鹿屋に移動し、きょう鹿屋から、南方360浬の敵機動部隊に攻撃をかけているそうだ。
「桜花」搭乗員の兵隊のあいだには、なにか陰気な空気がただよっていたが、
これをひっさげて行く陸攻部隊の勇猛さは、ちょっと類のないもので、
いくら覚悟をかたくしても、彼らの真似はできないと思うことがある。
親飛行機の陸攻の損耗は相当に激しく、大抵半分は落とされ、「桜花」を放ってどうやら生きのこったのが半数ぐらい、弾痕だらけになってかえって来る。
それが昼飯を食うと、あたらしい「桜花」を抱いてまた出かけて行く。
数時間して、一層弾痕だらけのすがたで、二機か三機になってかえって来る。
夕方ちかく、また出て行く。そうして全部いなくなるのだ。
出たら完全に出たっきりの「桜花」と、それを連れて行く陸攻と、気持ちのうえでどちらが楽でどちらがつらいか、はっきりいえない。
敵は「桜花」に「BAKA」というコードネームをつけているそうだ。


3月24日

0530総員起こし。敵沖縄に来襲。ついにわれらにも特攻出撃の時がちかづいて来た。
4時から講堂で司令の訓辞。
国難とか大義とか、もう沢山だ。
言われなくても自分たちはするだけのことはする。
海兵出の偵察学生に過度の飛行をゆるし、油をあたえ、帰省もみとめ、
われわれを今日の苦境におとしいれたのは誰の責任か。
せめてわれわれを百時間乗せてくれていたら、いつ出撃と決まっても、どれほど不安がすくなかったことだろう。
未熟なまま自分たちは甘んじて行くが、決して海軍という軍閥のためにつくす気はないのだ。

4月3日

今夜7時半過ぎ、T中尉が、コッツ、コッツと半長靴の音をさして、ぶらりと温習中のデッキへはいってきた。
見れば手に小さな紙片を持っている。
途端に自分は頭がカアッとなって来た。第二回特別攻撃隊員の発表である。
舎内は水を打ったようになってしまった。
T中尉はさりげなく名前を読みあげる。
「幾島少尉、白崎少尉、古市少尉、坂井少尉。」
「・・・・・」
「以上四名、明朝七時出発するから、用意しておけ。」
選に洩れた者の息を吐く音がした。
自分はすぐに坂井の顔を見た。ならんで白崎の顔も見えた。
坂井は、電気にかかったように顔、上半身硬直していた。
さすがに相撲部の猛者の白崎も、顔面朱をそそぎ、こちんこちんになっている。
特別外泊がゆるされる。
これには、女を買ってきてもいいという含みがある。
しかし平素其の方面で相当発展していた者も,此の日は出なかった。
ただちに祝盃の用意をする。
指名された者は全部艦爆。隊長は土屋中尉とのこと。
坂井は動揺して、しばらく普通でなく、其の様子が正視できなかったが、
一時間ほどするうちに、みなも坂井も、次第に硬直状態が解けてきた。
酒を飲みながら辞世をかんがえる者、遺書を書きはじめる者、荷物の整理をする者。
十一時過ぎ寝に就く。飛行服のまま眠る。
指名された者、みないびきをかいて、よく眠る。


・・・・・

殺到する特攻機

あとからあとから尽きることなく姿を現した特攻機は、
たいてい撃ち出されたVT信管に触れて、目標の上空に達するまでに
空中で四散した。

「太平洋戦争全史」  亀井宏  講談社 2009年発行


・・・・・



(鹿児島県鹿屋慰霊塔)



・・・・・

富永中将

「予もまた諸子に続く」と励ます富永中将の言葉をかみしめながら、幾百の若者たちが雲流るる果てに飛び立って還らなかった。

昭和20年1月16日ルソン山中から陸軍機が飛び立った。
搭乗者は富永中将で、台湾視察の名目で無断で台湾転出を実行した。
富永中将は、レイテ戦がはじまると、海軍のあとを追って400機もの陸軍の特攻機を発進させた責任者だった。
「昭和史7太平洋戦争後期」 研秀出版 平成7年発行


・・・・・

海上特攻

米軍が沖縄本島の飛行場使用を開始する前に、連合艦隊の作戦は「菊水」一号作戦と呼称された。
豊田長官は、作戦の一環として残存の水上部隊主力である戦艦大和以下、巡洋艦矢矧および駆逐艦8隻をもって海上特攻隊を編成し、沖縄米軍泊地に突入させる決心をした。

「・・・・茲に海上特攻隊を編成し、壮烈無比の突入作戦を命じたるは、
帝国海軍海上部隊の伝統を発揚するとともに其の栄光を後世に伝えんとするに外ならず、
各隊は其の特攻隊たると否とを問わず愈々殊死奮戦敵艦隊を此の処に殲滅を以って
皇国無窮の礎を確立すべし」


勝敗はすでに念頭になく、後世に帝国海軍の栄光を伝えるためにのみ最後の一戦を挑もうというのである。
大和乗組総員 3.332名。

4月7日
正午過ぎ警戒警報が発せられた。
12時15分、ほとんどの者が食べかけた握り飯を放り出して戦闘配置についた。
レーダーがおびただしい数の黒点をとらえていた。
雲が厚く肉眼で発見できない。
気がついたときには、米機の第一陣は舷側に迫っていた。
大和は必至の回避運動を開始した。
水柱が高くあがり、おびただしい硝煙が流れた。
周囲は、あらゆる騒音に満たされ。
懸命に応戦する高角砲に機銃。
しかし雲が厚く低いうえに、急激な転蛇によって艦が振動し傾斜するために、照準が定まらない。

大和は刻刻左に傾斜し始めた。
操舵室に浸水して舵が利かなくなり、大和は大きく輪を描いて際限のない左旋回を始めた。
「総員最上甲板」有賀艦長の声がマイクを通して伝えられた。
海中へ飛び込むことができたのは、500~600人ではなかったかと思われる。
しかし、実際の生存者は269名に過ぎなかった。

沈没時刻は14時23分、
駆逐艦2隻が無傷で、洋上に漂流する人員を救助した。
全体の戦死者は4.037名という記録が残っている。


「太平洋戦争全史」  亀井宏  講談社 2009年発行

・・・・





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台湾沖航空戦⑥レイテ島~硫黄島~沖縄~終戦

2022年01月22日 | 昭和16年~19年
レイテ島


1944年10月20日、米軍はフィリピンのレイテ島に上陸した。
兵力の集中しているルソン島での決戦を求めた現地軍の反対を押し切り、
大本営陸軍部は、レイテ島での決戦に踏み切った。



(「幻の大戦果 大本営発表の真相」  辻泰明  NHK出版)


これより前の10月9日~14日の台湾沖航空戦で空母11隻、戦艦2隻を撃沈と発表したことが頭にあり、ここで叩いて一勝を挙げたいと考えたのである。
実際の戦果は重巡洋艦2隻大破のみにすぎなかったが、海軍は自己の面子を守るため、この事実を国民はもちろん首相、陸軍にも教えなかった。

この海戦で連合艦隊はもはや海上戦力としての体をなさなくなった。
もはや通常の航空攻撃では戦果が挙がらないと判断した海軍は、飛行機に爆弾を積んでの体当たり、神風特別攻撃隊を出撃させた。



(「幻の大戦果 大本営発表の真相」  辻泰明  NHK出版)

しかし逃げ回る敵艦戦に飛行機で体当たりするには高度な操縦技術が必要であるにもかかわらず、技量未熟者を多数特攻隊員としたため、命中率は必ずしも高くなかった。
よしんば命中したとしても、特攻機搭載の爆弾では十分な破壊力が得られなかった。
事実戦艦や正規空母などの大型艦はついに一隻も沈めることができなかった。
志願制を建前としていた特攻隊であったが、事実上強制されて出撃していった隊員も多く、彼らの士気は低下していった。
1944年内にレイテ島の組織的な抵抗は終息した。

翌1945年1月戦場はルソン島移り、山下奉文大将率いる陸軍部隊はマニラ市を撤退し山中にこもった。
海軍部隊2万は同市死守を叫んで米軍と市街戦を展開、多数の市民をまきこんで全滅した。
陸軍部隊は大損害を被りつつも、長期持久戦を守って日本降伏までゲリラ戦をつづけた。

1945年2月19日、米軍は硫黄島に上陸。3月25日までに日本軍全滅。

4月1日、米軍は沖縄に上陸。軍民あわせて17万近くの命を奪った。6月23日、牛島満司令官が自決して組織的な戦闘は終結した。

5月4日、ビルマのラングーンが英軍により陥落。
同月、ドイツが降伏。

8月9日、ソ連軍157万人が中立条約を無視して満州へ侵攻してきた。
事ここにいたってようやく日本政府は降伏を決意。

もはや厭戦気分はおおいがたく蔓延していたのである。
日中戦争から太平洋戦争にかけて日本人死者は、
軍人・軍属約230万人、民間人80万、計310万人にのぼった。
戦場となったアジア各国の死者は、役2.000万人との推計がある。


「日本軍事史」 吉川弘文館 2006年発行



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「大津野の歩み」

昭和20年7月14日 福山歩兵41連隊レイテ島にて玉砕

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・・・・台湾沖航空戦・終わり・・・・


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