しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

学校の工場化②淳和高等女学校と金光中学校

2020年12月02日 | 昭和16年~19年
淳和女子---激動を生きる・安田工業80年記念誌」安田工業(株) 平成21年発行 


地元の淳和高等女学校に対して、同校の工場化と報国隊の動員を依頼。
その開始式典の挨拶に、

「戦局愈々急迫化し、敵機の本土空襲もしばしばなる状況と相成りました。
今回、当校学徒の受け入れと学校工場化の御承知を賜り、ただ今から当校校舎は兵器生産の工場と変わる訳であります。
学徒諸君は産業戦士として出陣され、邦家のため、まことに御同慶に堪えざるところであります。」

この式典終了の日から、早速、安田工業の手によって基礎教育が行われた。


・・・・

金光中学--「金光学園百年のあゆみ」 金光学園 平成6年発行


戦争末期の学校状態

昭和19年、本校では
第一学期中に
5学年が乙島の飛行機工場に
4学年が兵庫県の播磨造船所に
3学年が乙島工場に出動した。
2学年・1学年も挙げて農家の手伝いや開墾作業に奉仕した。

工場出動については、負傷者を出したり、死者を出す学校もあり、空襲の危険にもたえずさらされていた。

水島空襲の後、
乙島工場の一部を学校工場として大谷へ移すことになり、後に学園建設の工事場になったあの場所を、取り片付け改造を加え、
機械の据え付けも終り、さあ始めようという時に、終戦となったのである。


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学校の工場化

2020年11月29日 | 昭和16年~19年
学校の工場化・笠岡市

笠岡市史 第三巻 平成8年発行 

昭和19年2月25日、政府は「決戦非常措置要綱」を決定する中で、学徒動員体制の急速な整備確立を期するため、
学校校舎の工場転用を強く打ち出している。
2月26日合同新聞には、
「学徒は工場に出向くことなく、学校内に於いて軍需生産に従事せしめ得るようにし、たとえば、
女子校などでは雨天体操場に軍被服廠のミシンを移して、軍関係の被服製造にあたる」

笠岡市域では笠岡工業学校と笠岡淳和高等女学校の二校で実施されている。
『笠工50年史』から引用してみると、
昭和18年10月に「教育に関する戦時非常措置方策」が決定され、軍国主義国家の要請によって、
全国の大部分の商業学校とともに、笠岡商業学校も工業学校に転換した。
しかし工業教育としての施設や設備・教材や教職員は皆無の状態であり、
更に物資不足とも相まって教育推進の困難は想像を絶するものがあった。
施設・設備の充実と実習を可能にしていくためには「学校工場化」にふみきらざるを得なかった。
昭和20年呉海軍工廠造機部を誘致して学校工場化の契約を完了した。
武道場の床をはがして鋳物工場を造った。
教室は機械工場に、講堂は仕上げ組み立て工場になった。




学校の工場化・福山市


広島県史 近代2 

福山高等女学校は昭和19年7月より、事実上、陸軍被服廠の下請工場と化した。
同校の校内にはミシンなどの機械が設置され、生徒は被服廠員となって、ボタン付け、穴かがり、まつりなど
軍服仕上げ作業を行うことになったのである。
この作業もはじめは上級の生徒だけで行っていたが、だんだんと下級生を含めていった。
教室の工場化は拡がっていった。
昭和20年になると事態はいっそう深刻化し、授業が停止されることになった。
同年3月政府は「決戦教育措置」を決定し、
「国民学校初等科を除き学校に於ける授業は昭和20年4月1日より昭和21年3月31日まで原則として停止する」ことになった。





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戦没者慰霊施設②忠霊塔・招魂社

2020年11月07日 | 昭和16年~19年
「続・しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行

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戦没者慰霊施設②忠霊塔・招魂社


忠霊塔


(忠霊塔・笠岡市北木島町諏訪神社。
建立は「皇紀2600年」、揮毫は、「陸軍大将 男爵 本庄繁」
角柱状でなく円形)

忠霊塔は、1939年(昭和14)に設立された大日本忠霊顕彰会が、一市町村一基の忠霊塔を全国に建設する運動を展開するなかで広まった。
同会は「一日戦死」をスローガンに掲げ、国民の寄付金を募り、忠霊塔の建設費に当てた。
忠霊塔の形式は、規模の大小にかかわらず箱型の基壇上に角柱状の塔身を載せ、塔身に「忠霊塔」の文字を表したものである。
また、基壇の内部には納骨施設を持ち、遺骨や戦没者名簿などを安置する。
忠魂碑と墓碑の性格を併せ持った施設の必要性を説く陸軍の意向があった。
慰霊祭は地元の慣習に任せるとし、仏教的な儀礼を排除しなかったため、神社界の強い反発を招いた。
遺骨と霊魂を併せ祀る忠霊塔は、霊魂を遺骨から切り離して祀る護国神社や靖国神社とは異質の霊魂観に支えられており、
神社界の反発には根強いものがあった。



招魂社


(笠岡の招魂社)

招魂社は1869年(明治2)に東京招魂社が創建された。神社である。
1874年に内務省が官費で維持する方針を出したことによって制度的に確立した。
1934年(昭和9)内務省は招魂社を一府県一社とする方針を各府県に示し、それを1939年に制度化した。
1939年さらに、招魂社を護国神社と改称することを命じ、護国神社制度が発足をみた。
大日本忠霊顕彰会が設置され、忠霊塔の建設が本格化するのもこの年のことであり、
日中戦争の膠着状態のなかで国民を戦争協力に掻き立てるべく戦没者慰霊施設の整備が画策されたものと考えられる。
靖国神社は1879年に東京招魂社が改称されたもので、各地の招魂社・護国神社の頂点に立つ存在となった。



忠魂堂
神道的な慰霊施設に対し、仏教の立場から戦没者を供養した施設として忠魂堂の存在が知られる。
忠魂堂は遺骨や遺品を納める施設を持つもので、日清戦争のころ誕生した。


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戦没者慰霊施設①忠魂碑

2020年11月06日 | 昭和16年~19年
「続・しらべる戦争遺跡の事典」 柏書房 2003年発行

・・・・・・・・・・・・・・


戦没者慰霊施設①忠魂碑

戦没者慰霊施設には、忠魂碑などの戦没者慰霊碑、
納骨が可能な忠霊塔、
戦没者の霊を祀る神社である招魂社・護国神社・靖国神社、
仏教的な方法で霊を供養する忠魂堂などがある。



戦没者慰霊碑

出現したのは個人碑であった。
戦没者個人碑で、日露戦争では未曽有の戦没者が出たため内務省は個人碑建設を規制するよう各道府県へ通達した。
膨大な数の戦没者個人碑が建設され、異様な光景が出現し、厭戦気分が広まることを危惧したものであった。

1906年、神社境内に「招魂碑、忠魂碑、弔魂碑、忠死者碑と称するものの如き墓碑に紛らわしもの」の建設を許可してはならないとし、
碑はなるべく一ヶ所にまとめて建設するよう指示した。
その結果個人碑の造立は下火となり、「一市町村一碑」の戦没者慰霊塔の建設が推進され、多数の戦没者を合祀した忠魂碑が一般化した。






忠魂碑
 


(笠岡市神島 2020115撮影)

忠魂碑は、台石や基壇の上に大きな板状の石碑を据え、表面に「忠魂碑」「表忠碑」「彰忠碑」「誠忠碑」などと大書きし、その脇に題号揮毫者名を刻み、
裏面に多数の戦没者の姓名・官位・死亡年月日、造立者名、造立意趣などを刻むものが多い。

揮毫者は乃木希典をはじめとする元帥や大将など軍の最高幹部、造立者は尚武会や在郷軍人会が多く、
軍部とそれを支える在地組織が造立に深くかかわったことが知られる。
高さは2メートルを越えるものが主体で、5メートルに達するような巨大なものも稀ではない。
下から仰ぎ見るような位置にあることが特色である。
威圧感をもつ石碑が希求されていた。

しかも造立場所は、社寺の境内のほか、役場や学校など公共施設の付近が多く、戦没者個人碑にはなかった公共性が付与されている。
1930年代になると、学校教育のなかで忠魂碑への参拝などが行われ、忠魂碑が軍国主義教育の教材に供されうようになる。

1945年にGHQの指令により軍国主義的性格をもつものとして撤去されることになる。
大部分は地中に埋められた。
1951年のサンフランシスコ平和条約後に再度掘り出され、再建されたものが多い。
戦後新たに建設された忠魂碑の存在も少なからず知らており、忠魂碑の持つ複雑な性格をうかがうことができる。

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朝鮮の兵站基地化

2020年10月01日 | 昭和16年~19年
「満州事変から日中全面戦争へ」 伊香俊哉著 吉川弘文館 2007年発行


朝鮮の兵站基地化


朝鮮では、1937年以降、羊毛や綿花といった軍需品の生産がいっそう強化され、
米穀増産方針も復活された。
39年には内地への米穀供出量を確保するため朝鮮人には雑穀混食が強制された。

鉱物資源の収奪も強化され、金・鉄・石炭・黒鉛などあらゆる鉱物資源の採掘を拡大していった。
日本の兵站基地としての性格を強めていった。

兵站基地化を支えたのはファッショ的人民支配と皇民化政策であった。

朝鮮では1938年7月に国民精神総動員朝鮮連盟が発足され、朝鮮人は戦争協力に動員される一方、皇民化政策の下でその民族性を抹殺されていった。
一面(一村)一神社の設置が推進され、1938年頃には神社は2.300と31年のほぼ10倍の数に達した。

1937年には、天皇への忠誠を誓う誓詞の斉唱が強制され、
1938年3月には、朝鮮語は必修科目から外された。
1939年11月、日本的な氏名を名乗らせる「創氏改名」が実施されていった。

志願兵
1938年に陸軍の志願兵制度が導入され、43年に海軍の志願制度が導入された。



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亀島山地下工場ほか

2020年09月11日 | 昭和16年~19年
防空壕は各戸に一ヶ所設けられた割には遺構がない。
どこの家の防空壕も、よほどちゃちなものだったのだろう。

・・・・・・・・・・・・・

「新編倉敷市史 6近代」

昭和18年春、
県下4市7町で屋外灯の点灯時間が制限されるようになった。
屋内の電灯は黒い覆いをかけたり窓を覆うなどしして光が外へ漏れないようにした。
その灯火管制を少年団・警防団・隣組などが監視した。


防空壕

日本各地で空襲を受けるようになると、防空壕も造らねばならなくなった。
各戸で自宅の庭に造るのは当然で、町内会や隣組や公共団体は人の出入りの多い場所などに横穴式防空壕の築造が半ば強制された

倉敷市は内務省や県などからの通達を受けて、合計11万円余りをかけ、横穴式防空壕10ヶ所・トンネル利用の防空棒1ヶ所、簡易貯水槽10ヶ所などを設けることにした。

そして市民は、白壁の家を煤などで黒く塗って目立たなくしバケツリレーの訓練に度々参加させられた。
元気な男性は戦場に駆り出され、残る女性や老人らが訓練の中心だった。

身長より少し長い竹の先端を斜めに切った竹槍で敵を突き刺す訓練も繰り返された。
標的に藁人形を置き、ルーズベルト大統領らの絵を張って、敵愾心をあおられることもあった。


予科練試験

昭和18年8月1日、中等学校の高学年を対象に募集した甲種飛行予科練習生の募集試験が倉敷商業で行われ、中学生208人が受験した。
翌年秋からはもっと若い14歳以上の少年を少年航空兵として募集、あるいは17~18歳の若者を郷土防衛戦士として兵籍に入れる措置もとられた。




亀島山地下工場




(2008.11.1 倉敷市連島町・亀島山  👆👇)




1945年2月「工場緊急疎開法」が成立に伴い、航空機産業を優先的に地下、半地下工場へ疎開させることを決定した。
これに伴い作られたたのが浅口郡連島町の亀島山にある地下工場であった。

「工場の疎開は、友人との対話をはじめ家人や知己」に漏らしている向きがあるので、”断じて漏らすな疎開の様子”その他大小とりどりの防諜ポスター・ビラを各工場、食堂、寮、道路に貼りだして全従業員の口を誡めることになった」
基本的には秘密裏に実施された工場疎開であったので、住民に公になることはなかった。
昭和21年8月に合同新聞に初めて大まかな地図と写真が掲載された。



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”ぜいたくは敵だ”

2020年09月11日 | 昭和16年~19年
「新編倉敷市史 6近代」



パーマネント規制
倉敷署は、街頭で”パーマネント狩り”を実施。
倉敷理髪業組合も倉敷署で次の申し合わせをした。
①男子は丸刈り、角刈り、スポーツ刈りで、油類はつけない。
②女子の髪型は県連合指定の時局型七種のどれかとする。
さらに倉敷市では、
男は日傘やマフラーを使用しない。
女は毛皮の襟巻、高級ハンドバック、夏手袋を廃絶し、ジャズのレコードは使用しない--などを
申し合わせた。

政府は「ぜいたくは敵だ」の標語の下、警察などを動員して国民の不満や不安を抑え込んでいった。


昭和18年になると、
”敵性レコード”の一覧表を作成し、それに載るレコード演奏を禁止する一方、大政翼賛会は「海ゆかば」「愛国行進曲」など74遍を「国民の歌曲」に選定し、
国民歌唱運動を始めた。
倉敷市平和町の女子青年団がハリウッド俳優など、敵国人のブロマイドを回収・焼却する運動を始めると、
今の井原市大江地区にも波及した。
倉敷市川西町の遊郭で始まったイギリスやアメリカの人形の回収・焼却は、他地区の接客業にも拡大していった。


昭和19年各地が爆撃を受けた。
空襲の被害を語るのはデマと禁じられた。
警察はメガホン片手に毎日「デマにおびえないように」と訴えて歩いた。
事実を語る自由さえ失っていった。




農業の統制下

岡山県は昭和16年4月、農産物作付制限規制を交付して、果樹・桑・庭木などの新植を抑え、翌年からはスイカ・レンコン・ハッカ・除虫菊・ホオズキなどの作付けも制限した。
この作付けの制限は昭和18年いっそう強められ、農家は米麦中心の農業しかできなくなったのである。

農作業の仕方も統制された。
共同作業統制規制で管理・作業の共同化を進めた。
石油発動機から噴射機まで、使用方法を統制した。

農家は、
米・麦や芋類などの食糧はもちろん、軍用の梅漬けや馬の飼料まで、供出の増加を求めた。
食糧増産に追われながら、深刻な肥料不足にも対処しなければならなかった。



昭和14年12月、白米食が禁止された。
麦で代用。
うどん・そばも代用食励行された。
次第に、
コウリャンなどの雑穀・ジャガイモ・サツマイモ・脱脂大豆などが主食の4割を占めるようになった。


電灯
昭和16年、一戸一灯。
昭和17年、「夜10時以後絶対消灯厳守」、アイロンや電熱器は使用を自粛。映画館と劇場は週一回休日。



金属類がなくなる

昭和14年、各役場の鉄門・鉄柵がが姿を消した。
昭和16年、鉄と銅の第二次回収。寺院の梵鐘、鉄や銅製の釣り灯篭。学校の国旗掲揚台・鉄柵・二宮金次郎や楠木正成の銅像。
酒津配水池の鉄製吊り橋も取り外した。やがて郵便ポストも鉄製のものは回収され、木製や陶製に変えられた。
昭和18年、学童や警察官らの制服のボタン・食器類・鉄道の有休レール・自動車・橋梁・警鐘台・戸のレール・・・・と金属類の根こそぎ回収となった。



野生植物の繊維資源

昭和19年夏から野生植物を繊維資源として採集した。
クワやフジやアベマキの樹皮・野生チョマ(カラムシ)や竹の皮・ススキの穂・イ草の屑など。
フジやススキは目標の6倍集まった。
ススキの穂は航空用胴衣に入れるために特に学童が採取に励んだという。



戦争へ駆り立てられる

昭和13年「国家総動員法」を施行した政府は、国民を戦争へ動員する”総動員体制”を整えていった。
産業の面では軍需産業一辺倒。
中小商店を始めとする中小企業は閉じて、浮いた労働力を軍需産業へ振り向ける政策を押し進めた。
この企業整備で県下の小売店は8946店が廃業。
昭和18年9月、14~40歳の男子が
事務補助・車掌・販売店員・出改札係・理美容師など17の職種で働くのを禁止する。
昭和19年8月、「女子挺身勤労令」を公布した。
働かない若い女性に就職令を出し、それでも従わないと罪にする。若い女性は否応なく挺身隊員となって働かされることになった。


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風船爆弾の矢掛小田工場・・・その4

2020年09月03日 | 昭和16年~19年
「風船爆弾」吉野興一著 朝日新聞社 2000年発行



気球兵器の裏面
「ふ号」は、爆弾投下後は自爆して「消える」はずだった。
可燃性の素材ででき、器材もマグネシウム合金を使う試みもあった。

「ふ号」と生物兵器
細菌・害虫などは処女地へ行くと外敵がいないため予想外の繁殖を来すことがある。
研究も行われていたが、攻撃の企画が確立されたとき、使用してはならいないと上から達せられた。
研究は進められた事実はある。

常石敬一は「登戸研究所が、牛に死をもたらすウイルスを風船爆弾に積み込む研究していた」と書く。



アメリカ側の被害

モンタナ、ワイオミング、オレゴン、アラスカ、カナダなどで巨大な紙風船が発見され始めた。
これらの情報は、軍や警察、FBIにも届けられていた。
「ふ号」はアメリカに到着していたのである。

1945年1月4日、決定的な報告が届く。
オレゴン州で気球の焼夷弾が炸裂したのが目撃された。
おなじ日、カリフォルニアで金属装置をつけた紙気球が完全なかたちで捕獲された。
この物体が日本軍による無差別攻撃兵器であることはもはや間違いなかった。
米軍は紙気球の情報を一本化するのを決めた。

もっとも警戒されたのは、日本軍が生物・化学(バイオ・ケミカルいわゆるBC)兵器を使用することである。
すでにルーズベルト大統領が、1942年BC兵器の先制不使用の声明を出していた。
アメリカ側の抱いていた危惧は的を得ていた。
陸軍省は、家畜や農業作物の病気が発生するのを監視する大量のスタッフを西部各州に配置した。

火災の早期発見のため、空軍機とパイロットを各地に配置した。
飛んでくる気球の発見にも全力を挙げた。

200基のレーダーと高射砲を緊急に配備させた。
これは徒労に終わった。
和紙とコンニャクでできた「ふ号」はレーダーには映らないのである。


到着した「ふ号」の数
アメリカ軍が把握した報告例は345例であったとし、戦後361個としている。




「ふ号」の調査
紙と紙の接着剤がどのような素材かわからなかった。こんにゃく芋はアメリカになかった。
東洋の神秘と思えた。


放球場所
偵察機の写真が徹底的な分析が行われた。
砂が海砂、微小な化石分析で一宮基地が判明。
スラグが含まれていることから大津基地が判明。


オレゴンの悲劇
爆弾に手を触れ、牧師家族(夫人・妊婦と子供5人)の6人または7人が亡くなった。
第二次大戦で外国軍による攻撃で、市民が亡くなった唯一の例となった。


気球攻撃の中止
約6.000といわれる気球が残っていたが、水素の供給が間に合わない。
アメリカから被害状況が伝わらない。
東京空襲で大量の未完の「ふ号」がすべて焼けた。
偏西風の弱まる時期になった。

4月になっても大津基地からは水素ガス装置があるので放球していた。
4月10日ごろの気球が最後になった。



終戦

玉音放送の直前、陸軍省から極秘の指示が出されていた。

「方針
敵に証拠を得らるる事を不利とする特殊研究は全て証拠を隠滅する如く至急処置す。
実施要領
ふ号、および登戸関係は・・」
全体を見て、生物兵器関係の証拠を隠すことで一貫している。
この指示が伝達されるやいなや、関係者はいっせいに書類の焼却を始め、きれいさっぱりと焼却してしまった。
おかげで今日まで「ふ号」関係の命令書や受領書はむろんのこと、原料の調達や物源を示すデータなどがほとんど存在していない。



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風船爆弾の矢掛小田工場・・・その3

2020年09月03日 | 昭和16年~19年
「風船爆弾」吉野紘一著 朝日新聞社 2000年発行




風船爆弾




無音でアメリカ大陸のあちこちに連続的山火事を起こさせ、敵に十分な恐怖感を抱かせる。
少なくとも、最低でも30kgを超える爆弾または焼夷弾を吊るして放球する必要があると考えられた。

高度維持装置や砂袋などの重量も合わせて200kg近い重量を、高度10.000m帯の偏西風に乗せるための浮力が逆算された。
結局、気球の直径は10mと決まった。

気球には水素ガスを充填した。

高度10.000mの標準大気は約260ヘクトパスカルで、風船に充填する水素ガスに自由な膨張を許すならば地上にくらべで約4倍の体積に膨らむことを意味していた。

もしも水素ガスを満杯にして放球したならば、気球はたちどころに上空で破裂することになる。
かといって、気球の内部の膨張をおそれるあまり水素ガスの量をすくなくすると浮力が落ちて、低層の地上風にあおられて爆弾や焼夷弾が基地の建物や周辺の山などに激突して危険なのである。

結局「排気ガスバルブ」を気球の下部にとりつけることにした。


気球に使われた和紙の原料は100%楮(こうぞ)である。
水素ガスの膨張に耐える耐圧強度に優れている。
手すき和紙の工程は手の込んだ作業の連続だ。
毎年晩秋から冬にかけて、楮の生木を伐採し、
煮え立つ大釜の上で蒸したあと、表皮を手作業ではがす。
これを天日乾燥する。「黒皮」という。
黒皮を流水にひたしながら、足踏み作業と包丁を使って丁寧に表面の黒皮部分を除去する。
これを何度も水洗いし、再び天日で乾燥させると「白皮」になる。
白皮を水に浸したあと、長時間大鍋で煮沸する。
煮沸の完了後は川の浅瀬や人工プールなどの「晒し場」に楮を出して二昼夜ほどさらす。
晒し場から取り出した楮を、水分を残した状態で木製の棒でとんとんと叩く。この作業を叩解と呼ぶ。
これでようやく楮が紙すきの原料の状態になる。


気球紙づくりでは、この叩解にたっぷりと時間をかけることを軍からやかましく指導されている。


こんにゃく糊は97%水でできている。
二枚の楮和紙に水の分子を敷きつめた状態は、水素ガスを通さないのである。
しかも何層にも重ねて貼り合わせてある。
ただし、貼り合わせの作業中に空気が混入してはいけなかった。



10m気球の生産態勢

姿を消したこんにゃく

和紙産地で、死に物狂いの気球和紙生産が本格化してきた。
こんにゃく粉も、にわかに生産量が増えるものではない。

生産地はもとよりすでに粉末に加工されたこんにゃく粉もすべて差し押さえられた。
こんにゃく問屋は手もちの、こんにゃく粉をすべて陸軍に供出した。
民需用はいっさい考慮の外である。

こんにゃく問屋組合の勤労奉仕隊員の話
「昭和19年の4月か5月にかけてでした。
東宝劇場、有楽座、日劇、国技館などに大量のこんにゃく粉を届けました。
それと、日劇の窓という窓を、防諜用だといって刷毛で塗ったものです。
日劇は完全に外部と遮断されて、作業場として使われました」。


基地の決定

風船爆弾の攻撃時期は、偏西風の風速が高まるシーズン、つまりは晩秋から冬にかけての時期しか考えられなかった。
和紙気球も70時間を超える飛翔は不可能だろうと思われた。
晩秋から冬となると、ロッキー山脈はもちろん大森林地帯も雪で覆われ、当初陸軍が想定していた山火事を連鎖反応的に起こして、
敵国民がパニック状態に陥るといった図は想像しにくかった。
しかし、もはや選択の余地はなかった。

放球直後に地上風の影響を受けにくい。
防諜の配慮が加えられた。
一・福島県勿来
二・茨城県大津
三・千葉県一宮

一宮と勿来は海岸に向かって線路が建設された。

土地接収
基地予定地の地権者は陸軍将校の「10日以内に家と土地を軍に明け渡す」よう通告した。
うむをいわせぬ命令である。


水素
大津基地には水素発生装置が配置されていた。
勿来と一宮は毎日、昭和電工などから運ばれた。
東京の空襲激化後ボンベの輸送はままならなくなった。

「ふ号」の放球数

1944年11月 700
1944年12月 1200
1945年1月 2000
1945年2月 2500
1945年3月 2500
1945年4月 400
という。

函館に一つ、
秋田県に二るの気球が迷って着地したため、憲兵が回収にまわった。

放球基地の近くを通過する列車はブラインドを下げるよう憲兵に命じられた。
住民には公然の秘密だったが、しゃべれば憲兵の厳しい検索があるためだれもが口を閉ざして生活した。

この時代、アメリカ軍でさえ本確的な高層気象の観測はおこなっていなかった。
したがって、「ふ号」に伴う高層気象観測をおこなっていた日本の陸軍気象部は、当時としては最高水準の貴重なデータを残していたはずなのだが、
敗戦とともにすべての書類を焼却してしまい、まったく現存していない。

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日中戦争と四十一連隊

2020年09月03日 | 昭和16年~19年
「福山市史 下巻」福山市史編纂会 昭和58年発行


歩兵41連隊跡地

(2016.5.15 福山ばら祭り)






日中戦争と四十一連隊

昭和12年(1937)7月7日、いわゆる日中戦争が始まった。
7月27日第二次動員が第五師団にも下令され、これにともない四十一連隊(連隊長・山田鉄二郎大佐)も応召することになった。
31日夕刻、福山駅から出発していった。
山田部隊3.000人は12月上旬から南京総攻撃(いわゆる大虐殺事件はこのとき起こった)に参加して中国軍に大損害を与えた。
このころの山田部隊は進撃の素早さから「快足部隊」の異名をとったといわれる。

南京で正月を迎え、4月から徐州会戦に向かった。
5月19日徐州占領した。

こののち日中戦争は泥沼化したが、食糧難、武器不足、病気、中国軍ゲリラに悩まされながら、
軍の作戦が北進論から南進論に転換しマレー作戦に投入される17年ごろまで、
まったく勝つ見込みもないまま中国各地を転戦されられた。

福山では四十一連隊勝利の報がもたらされるたびに、小中学生を中心とする旗行列が盛大に行われた。
夜に入ると大人たちによって提灯行列が行われた。

戦死者は「男子の本懐、聖戦の死」「護国の人柱」「壮烈・名誉の戦死」などと言われ、
しかも遺族は「本人も満足でせう」、「肩身が広い」、「家門の名誉」などと、
夫や息子の戦死について語らされるようになった。

遺族への「配慮」
市民の戦闘意欲を盛り上げるために、戦死者や遺族は外見上きわめて丁重に扱われた。
その一つに市町村葬がある。
市町村長を葬儀委員長に、吏員・教員が委員となり、
陸軍大臣・師団長・知事(すべて代理)をはじめ多数の「名士」の来賓のもと葬儀は市町村をあげて「盛大」に営まれ、
小学生も参列した。

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地方事務所の設置

昭和17年7月1日、政府の意図を地方によりいっそう徹底させ、かつ行政を敏速に処理するために、
地方官管制の一部改正によって、県の補助行政機関として、県下12か所に地方事務所が設置された。
かつての郡役所以上に大きな権限をもち、戦時体制下の統制強化に大きな役割を果たした。
翌18年には、市制・町村制の全面的な改正によって部落会・町村会を法制化して末端の行政体にし、市町村長に指示権を与えこれを監督官庁が上から統制するすることにした。
その結果、市長村は自治権をいちじるしく制限され、中央の強い統制下におかれることになった。


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