場所・愛知県豊橋市 豊橋公園
訪問日・2014.10.10
豊橋には一時師団も置かれたが、明治の初めから聯隊区が終戦まで置かれていた。
兵営は、現在の豊橋公園や学校がある場所。
(Wikipedia)
1894年(明治27年)日清戦争に従軍。翌1895年(明治28年)6月27日に凱旋した.
1904年(明治37年) 日露戦争に従軍
1928年(昭和3年)5月 済南事件に出動、天津に駐屯
1933年(昭和8年)2月 熱河作戦に参加
1937年(昭和12年)8月 動員下令、上海から上陸し南京攻略戦に参加
1938年(昭和13年) 漢口作戦などに参加
1939年(昭和14年) 贛湘作戦などに参加
1940年(昭和15年) 宜昌作戦、長沙作戦、漢水作戦に参加
1942年(昭和17年)7月 第3師団から第29師団に所属変更し、奉天省海城に駐屯
兵営の門。
昭和3年の「済南事変」の碑であったが上塗りをして隠している。
なぜ隠したのだろうな?
18聯隊は昭和19年に南洋出兵。
テニアン、サイパン、グアムを敗走、玉砕。
軍旗を自ら焼く行為が、その後に起きるであろうこと、悲惨すぎる。
昭和19年2月・ 動員下令
3月・ テニアン島進駐を命じられる。
移動中、沖大東島南方200kmの海上でアメリカ海軍の潜水艦トラウトの魚雷攻撃により輸送船崎戸丸が沈没。
門間連隊長以下1,657名死亡、570名重傷の大損害を被るが、約1800名がサイパン島に上陸し、再編成を行う
5月 ・ グアム島へ移駐
7月21日・ アメリカ軍上陸開始(グアムの戦い)、連隊主力はマンガン山にあったが、各中隊は上陸地点の要所に配置され激戦を繰り広げる
7月25日・ 師団長の許可を得て軍旗奉焼、その後の夜間戦闘で連隊長以下の大部分が戦死
日中戦争後、豊橋には18聯隊につづいて
118聯隊と229聯隊が編成された。
これは歩兵229連隊の記念碑。昭和18年ニューギニア・ガダルカナルへ上陸等の碑文。
229聯隊のことは、漫画家水木しげるの「総員玉砕せよ」に描かれている。
水木さんは片腕を落としたが、「役立たず兵」となったのが命を落とさない結果になった。
豊橋の18聯隊・118聯隊・229聯隊とも悲劇的な最後を迎えているのが同じだ。