しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

香登一里塚

2022年12月29日 | 【史跡】を訪ねる

場所・岡山県備前市香登「大内神社」境内

 


一里塚は4キロごと道の左右にあったが、
その大半が壊されていて、道べりに石碑が一本「一里塚跡」と建つのが大方である。
壊された時代も、理由も、事情も
古い時代の事でもないのに資料が残されていない。
一里塚は、軽んじられていたのだろう。
壊した石を、住宅や段々畑や河川の石積に転用したように思う。

 

 

香登一里塚


    市指定文化財 昭和四十六年十月六日指定
一里塚は、江戸時代に街道の一里(約四キロ)ごとに造られた塚で、
榎や松などが植えられていた。
香登一里塚は、近世山陽道の道沿いに南北一対造られたもので、
北塚は、当神社の境内に往時の姿をしのばせている。
北塚は、南北長七メートル、東西幅五メートル、南側の高さ一・八メートルで、
周囲は石積みで囲まれている。
市内に一里塚で当時の面影が残っているのは、この北塚だけである。
街道の南側にあった南塚は、明治二十年(一八八七)頃、
塚石を使用して「用心井戸」にしてしまった。
その井戸はあるが、
一里塚の面影は全く残っていない。
    備前市教育委員会

 

訪問日・2022年12月

 

 

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第六高等学校 (旧制)跡地

2022年12月28日 | 【史跡】を訪ねる

場所・岡山県岡山市中区古京町・岡山県立岡山朝日高校


「六高」跡地に訪問したいと思っていたが、なかなか機会がなかった。
初めての訪問だったが、学校を巡らせた石積は見応えがあった。

 

 

 

第六高等学校 (旧制)
(Wikipedia)


第六高等学校
(六高)
創立 1900年3月29日
所在地 岡山県岡山市古京町
初代校長 酒井佐保
廃止 1950年3月
後身校 岡山大学
 旧制第六高等学校(きゅうせいだいろくこうとうがっこう)は、1900年(明治33年)3月に岡山県岡山市に設立された官立旧制高等学校。略称は「六高」(ろっこう)。

概要
1886年 - 87年の高等中学校7校(うち5校がナンバースクール)の設立後、高等学校令に基づき新規に設立された旧制高校としては最初のものである。
文科・理科からなる修業年限3年の高等科を設置し、卒業生の進学先は東京・京都の両帝大にほぼ二分されていた。
運動部の活動が特に盛んな高校として知られ、インターハイ(旧制)ではほとんどの部が全国優勝を勝ち取っている。
実践を重んずる校風があり、政財界や法曹界に数多くの人材を輩出している反面、
文芸方面への進出は極端に少ない。
新制岡山大学の前身校の一つで法文学部・理学部・教養部の構成母体となった。


現在、かつての六高校地は岡山県立岡山朝日高等学校に継承されており、当時の建造物のうち書庫(画像参照)・柔道場・校門が現存し、校内には六高記念館が設置されている。

 

 

 

訪問日・2022年12月20日

 

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”お福の方”五輪塔

2022年12月28日 | 【史跡】を訪ねる

場所・岡山市中区徳吉町


お福の方というのは、五大老・宇喜多秀家の生母である。

女性の戦国時代を代表する有名人・お市の方と、その人生が似ているが、
たぶん、容姿も似ていて美人だったのだろう。

 

お福の方は、
最初の結婚は、真庭高田城主の三浦氏であったが敗死した。
二度目は、備前岡山藩主の宇喜多直家で、正妻。
三度目は、太閤秀吉で、側室の一人。

 

たいそう立派な五輪の塔で、それが女性であり、それが宇喜多であるというのも貴重なお墓だ。

 

 


お福の方(お鮮)供養塔
宇喜多秀家の生母、宇喜多直家の正室

「お鮮さまのお墓を見れば、さても結構なお墓でござる」と
昔から岡山で歌い継がれてきた手鞠歌にある「お鮮」とは
岡山のクレオパトラといわれた宇喜多秀家の生母「お福」
のことです。

 

訪問日・2022年12月20日

 

 

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萩反射炉

2022年12月28日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山口県萩市椿東 

 

反射炉は小高い丘の上にあり、海が見え、すぐ隣を山陰本線が通る場所にあった。

 

 

当時の大砲は砲身が青銅で着弾距離が短く、実用に適しなかった。
そこで安政五年、これを鋼鉄製にするために、萩の上ノ原に反射炉を設け、
強度の火力を用いて大砲の鋳造をおこなった。
このときの反射炉の一基が現存し、史跡に指定されている。

「山口県の歴史」 三坂圭治 山川出版社 昭和46年発行

 

 

リーフレット「世界遺産 明治日本の産業革命遺産 萩反射炉」


萩藩では、ペリー来航後の安政年間に反射炉の導入が試みられました。

萩藩は西洋学問所を開設し、翌年、造船所を設立して

洋式軍艦の丙辰丸を建造するなど、軍備の拡充に努め、

同時に軍事力強化の一環として、反射炉の導入にも取り組みました。


現在残っている遺構は、反射炉の煙突にあたる部分です。

高さ10.5メートルの安山岩積み(上方一部煉瓦積み)の煙突は、

基底部が前面5.45メートル、側面3.8メートルあり、

上に向かって幅を狭める長方形で、

下方に2つのアーチ型の煙道孔が開いています。

2本の独立した煙突となっています。

 

反射炉の構造

炉を1200度以上の高温に保つ必要があるため、

高い煙突を利用して空気を大量に取り込みました。

こうして鉄Feに含まれた炭素Cと空気中の酸素O2を結合させ、

二酸化炭素CO2を排出すると、必然的に鉄の炭素含有量が減っていきます。

つまり、反射炉の利点は、衝撃にもろい鉄を柔軟でねばりのある鉄へ変えるところにあります。


萩藩は、最終的には技術面、費用面の限界から本式の反射炉の建設を断念しました。

しかし、今に残る萩反射炉は、

自力で西洋技術を取り入れようとした、産業化初期の段階の取り組みの様子を物語っています。

 

 

訪問日・2022年12月19日

 

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「萩城下町」「”重伝建”堀内」合わせて40分観光・・・その②「”重伝建”堀内」

2022年12月27日 | 【史跡】を訪ねる

・・・

その②「”重伝建”堀内」

・・・

萩城の外堀。

 

写真の左側が萩城三の丸であり、”重伝建"堀内地区。

 

 

 

 

北の総門

高さ7メートル、日本最大級の高麗門
北の総門は、藩政時代に、城下町から萩城三の丸に入るために設けられた「大手三つの門(北の総門、中の総門、平安古の総門)」のひとつです。

かつては、昼間は門番が常駐して人の出入りを監視しており、夜(暮れ六ツ(酉の刻)から明け六ツ(卯の刻)まで)は門が閉じられて、鑑札を持った者しか入れませんでした。

萩市観光協会公式サイト

 

 

 

 

萩博物館前、

田中義一大将の銅像は、それはそれはたいそうな台座の上に建つ。

 

・・・・・・・・

今日、堀内とよばれ、家老の周布・益田家をはじめ、
上級武士の屋敷が残っているところは、むかしの三の丸跡である。

この堀内の外側に城下町がひろがっている。
高杉晋作・木戸孝允ら中級武士の住宅は堀内の外側にあり、
いまも保存されているが、
城から外へ向かうにつれ、順に下級武士の住まいとなっていたことが知られる。

「日本の城下町」  ぎょうせい 1981年発行

・・・・・・・・

 

 

益田家

萩市観光協会公式サイト

旧益田家物見矢倉

北の総門の見張り台も兼ねた武器を収納した矢倉
高さ1.8mの石塁の上に立つ、長さ11m、奥行約5mの堅固な単層の建物。
武器を収納する倉を矢倉といい、
天井が高く見張り台も兼ねたものは物見矢倉と呼ばれていました。
北の総門からの人の出入りを見張る“隠密対策”としての機能があり、
平安古の総門には児玉家、中の総門には大野毛利家の隅矢倉があります。

毛利輝元は、永代家老として益田氏を優遇したといわれます。
幕末の当主 親施(ちかのぶ)は、13代藩主 毛利敬親を助け藩政改革を行いましたが、元治元年(1864)、禁門の変の責任者として切腹させられました。

 

 

 

 

繁沢家


萩市観光協会公式サイト

旧繁沢家長屋門
長さ35m、張り出した格子が続く長屋門


繁沢家は、阿川毛利家(7391石余)の分家で萩藩寄組(1094石余)に属し、
給領地を大津郡三隅村(現在の長門市)と阿武郡小川村(現在の萩市)などに持っていました。

建物は、桟瓦葺切妻造、桁行35.5m、梁間4.9m、中央から左寄りに門をあけています。

 

 

 

 

周布家長屋門

 

・・・・・

鍵曲(かいまがり)にも行きたかったが、時間不足で行けなかった。

・・・・・

武家屋敷や商家は入場料が100円で統一されている。

今回は、時間不足で入れなかった。

・・・・・

 

場所・山口県萩市”重伝建”堀内地区

旅行日・2022.12.19

 

 

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「萩城下町」「”重伝建”堀内」合わせて40分観光・・・その①「萩城下町」

2022年12月27日 | 【史跡】を訪ねる

岡山駅発の日帰り旅行で山口県に行った。


ツアー名称は【俵山温泉ご入浴と元乃隅神社・萩城下町散策 山口日帰り】で、
行程表は、萩城下町散策は・・・わずか・・・40分。


バスの駐車場所もわからないが、たぶん中央公園であろう、という前提で散策計画を立てた。
バスからおりて、分刻みで史跡を見てまわった。計画はほぼ達成した。

 

・・・

その①「萩城下町」

・・・

 

江戸屋横丁

この通りには旧宅が並ぶ。

木戸孝允の旧宅もあり。

 

 

 

 

御成道

 

真正面に田中義一大将銅像が聳え立っている。

通りの左右に、菊屋他の古い商家が並ぶ。

 

 

青木研蔵旧宅。

 

 

 

 

伊勢屋横丁

 

 

 

伊勢屋横丁と菊屋横丁の間に「高杉晋作」が建つ。

 

 

 

 

菊屋横丁

写真の左が「菊屋」。

 

 

 

萩中央公園

 

山県有朋。

奇兵隊から、陸軍元帥大将となり、大正時代に「宮中某重大事件」で失脚。

長州閥の最大実力者として、長く政治・軍に君臨。

銅像は陸軍大臣官邸に建っていたが、供出からまぬがれ、GHQの追放からもすり抜け、

まわりまわって生誕地萩市のど真ん中に残る。

昭和4年北村西望(のちに文化勲章受章)の作品。

 

 

 

訪問日・2022.12.19

 

 

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教育勅語

2022年12月07日 | 【史跡】を訪ねる

例え学校が事故や災害で、焼けようが、倒れようが、津波に遭おうが、
校長先生にとっては、生徒の生命を守ることよりも大切なものがあった。
それが、「教育勅語」と「御真影」。


日本には、
逃げまどう児童生徒は放っても、二枚の紙だけは護らねばならない学校時代があった。

 

 

 

 
・・・・


城見国民学校・Fさんの話
談・2022年7月5日

式の時は、校長先生はモーニング姿で、白い手袋で、奉安殿からの教育勅語を受け取っていました。
校長先生はその時は、極度に緊張し、手が震えていました。

 

・・・・

 

「太平洋戦争下の学校生活」  岡野薫子 平凡社 2000年発行

「天長節」

今日のよき日は 大君の
うまれたまひし よき日なり

式の当日、校庭の一角に建てられた奉安殿の扉がひらかれる。
奉安殿というのは、天皇、皇后両陛下の写真と教育勅語がしまってある小さな蔵で、
建物自体、神社のつくりになっている。

その奉安殿から式場まで、勅語を運んでくるのは、教頭先生の役目だった。
教頭先生は、紫のふくさに覆われた教育勅語の箱を黒い漆塗りの盆にのせ、それを頭上高くかかげながら、
しずしずと運動場を横切って講堂まで歩いてくる。
やがて「最敬礼!」
号令がかかって、私たちは頭を深く下げる。
静かに「直れ」の号令がかかり、やっと頭をあげる。

フロックコートの礼装で絹の白手袋をはめた校長先生は、おもむろに紫のふくさをひろげ、
箱から教育勅語をとりだすと、巻物の紐をといてひろげ、押しいただく。
この時、私たちはまた、頭を下げる。
勅語を読み終わるまで、そのままの姿勢でいなくてはならない。
やがて、
「朕惟フニ、・・・・」
と、重々しい奉読の声が聞こえてくる。--というよりは、頭の上におりてくる。
何しろ、神主が祝詞をあげるときのような荘重な節回しで読まれるので、
子どもにとっては、耐え難く長い時間に思われた。
やっと終わって、元の姿勢に戻る時、あちこちから鼻水をすすりあげる音がおこる。
まわりはほっとした空気につつまれる。

新校長は、緊張のあまり手がふるえ、声がうわずる。
明治天皇のお言葉を代読することになるわけで、緊張するのも無理はなかった。
やがて、意味はわからぬまま、部分部分を暗記するようになった。


・・・・

 

教育勅語

「尋常小学校ものがたり」  竹内途夫  福武書店 1991年発行

学校では校長以下全員が、この勅語の扱いについては丁重を極めた。
子ども個人は、その内容を考えるようなことはなく、感動もなければ疑問も感じなかった。ただすらすらと暗誦できることの方が先決だった。

フロックコートに身を正した校長が壇上にすすむと、
タイミングよく次席が白手袋の略礼装で,勅語の納まった白桐の細長い箱を、
うやうやしく三宝にのせて式場にはいってきて、校長の前の卓上に静かに置いて退く。
校長はこれに最敬礼し、やおら桐箱のなかから白絹に包まれた勅語の謄本を取り出し、
会場に向かって捧げ持つと「最敬礼」との号令がかかり、参加者一同が最敬礼でかしこまる。

奉読の間,咳一つするにも気がひけたが、青はな垂らしの子供たちが、いちばん苦手とするのがこの時で、
垂れ下がる鼻水を吸い上げる音がだんだん激しくなるころ「ギョメイギョジ」で奉読が終わる。

勅語を無事読み上げた校長は、緊張から解放された安堵の表情に変わり、白絹を巻く手元のふるえはもうなかった。
勅語の奉読については、どこの校長も独特のくせ節回しに近いものを持っていて、
いともおごそかに恰好をつけて奉読していたが、万一、
公式の場で読み違えるようなことがあったら、それはもう確実に進退伺いの必要があった。

 

・・・・・

「福山市史・下巻」

学校行事の変化

昭和初年までの学校行事は、
入学・卒業式のほか祝祭日・諸記念日(陸海軍記念日など)などが中心であったが、
その後漸次軍国主義的傾向が強まり、柳条溝事件前後からは戦時色あふれる行事がふえている。
まず昭和4年には、
紀元節が第一回の建国祭として祝われ、いままで以上の意味をもたされることになり、
「八紘一宇」のスローガンのもと盛大な祝典が挙げられ、軍国主義教育の出発点となった。
翌5年には教育勅語渙発40年記念式が行われ、
昭和6年には新しい「御真影」が下賜され、各学校でその奉戴式がいっせいに挙行された。
それにともなって、奉安殿の新・改築や国旗掲揚台の新設が行われた学校も少なくない。
いずれも軍国主義教育のシンボルとされたが、
とりわけ「御真影」は重視され、校舎や学籍簿、さらには教員・生徒の命よりも大切に扱われた。

昭和20年の空襲で「奉安殿と渡廊下を残して全焼した」深津国民学校では、
「奉安殿に保管中の教育勅語詔書類は宿直教官の護衛により安全に待避された」と特筆されている。

 

・・・・

 

笠岡市史4巻


御真影は、
「昭和21年1月11日に城見国民学校他4校が御真影を地方事務所に奉還した」、
教育勅語は
「笠岡東小が昭和23年8月24日返還」となっている。

 

・・・・

場所・岡山県備前市香登

撮影日・2022.12.2

 

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お伊勢参りの絵馬

2022年12月07日 | 【史跡】を訪ねる

紀元二千六百年の祝賀行事で、茂平八幡神社には”聖地参拝”という伊勢神宮にお参りした記念写真が奉納されている。
戦時中は「お伊勢参り」ではなく「聖地参拝」と呼ばれていたようだ。

 

・・・


里庄町の高岡神社にはお伊勢参りの絵馬が奉納されている。

里庄町の現地説明文を写す。

里庄町指定文化財
絵馬伊勢参詣図一面

高岡神社に奉納された絵馬(85cm*184cm)で、
伊勢参詣の旅の様子が描かれています。
その絵柄から江戸時代末期から明治時代の頃と思われます。
13人の男女が描かれ、右下には奉納者の名前等が記されています。

伊勢参詣は「おかげ参り」などと呼ばれ、江戸時代末期から明治30年代にかけて特に大流行しました。
伊勢の参詣から戻ると、旅先などで購入した絵馬を地元の神社に奉納し、旅を無事に終えたことを報告しました。
この絵馬が残されていることは、当時の社会風俗を物語るうえで貴重なものといえるでしょう。


平成14年2月20日指定 里庄町教育委員会

 

岡山県浅口郡里庄町里見・高岡神社

撮影日・2022.12.3

 

・・・・・・・・・・・・・・・・

 

時代によって変わる「伊勢参り」

・・・・

江戸時代・元禄

 

ケンペル「江戸参府旅行日記」   訳者・斎藤信  東洋文庫  昭和52年発行

伊勢参りの人たち
1691年(元禄4)

 

一年中行われるが、特に春が盛んで、街道はこのころ旅行者でいっぱいになる。
老若・貴賤を問わず男女の別もない。

自分たちの食べ物や路銀を道中で物乞いして手にする多くの伊勢参りの人。
参府旅行をする者にとっては少なからず不愉快である。
なぜなら、ひっきりなしに近づいてきて、
「旦那様、お伊勢参りの者に路銭を一文お恵み下さい」と言葉をかけるからである。

江戸の町や奥州の住民には、許可を受けずに伊勢参りの旅に出る風習がある。
そればかりでなく、非行を犯して両親のところから逃亡して伊勢に向かい、赦免の免罪符をもらってくる。
そのため、銭がなく野宿したり、時には路傍で病み死んだ人を見ることもある。

 

・・・・・

江戸時代後期


「江戸の旅とお伊勢参り」  泉洋社  2017年発行

千三百年以上もの歴史を持つ伊勢神宮への参拝は、
江戸時代に熱狂的な支持を得た。
商家の小僧から、京の遊女、村の農民まで、
全国から数百万人規模が伊勢を目指して歩いた。

しかも「おかげ参り」という名さえあれば、
突然の旅立ちも行方不明の無礼も放免。
道中では路銀がなくても誰もが喜捨の「おもてなし」を受け、
伊勢滞在に身をゆだねることができた。

なかでも最大規模だったのは、文政13年(1830)の四百万人。
当時のおかげ参りの熱狂ぶりがうかがえる。
しかもその多くが着のみ着のままの無一文。
おかげ参りのトレードマークだった柄杓を差し出せば、
お金や食べ物の無料提供は当たり前、
宿さえ無料で泊れたというのだから、
参拝者だけでなく日本全国が、まるで熱に浮かされたように、
伊勢神宮に焦がれついていたのだろう。

・・・・・・

大正~昭和

父の話・2004.7.4

お伊勢参り
じいちやん(管理人の祖父)が若い時分はいっぺんは参らにゃあようた。
ワシの時にゃあ小田郡から参るんで、各地区から集まって団体で行きょうた。
名古屋から参り紀伊半島をまわり大阪へ出ようた。

 

・・・・・

 

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羽黒山・三神合祭殿

2022年07月29日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県鶴岡市羽黒町手向        出羽神社(三神合祭殿)   

 

三神合祭殿は赤い鳥居から入ると、すぐに巨大な鐘楼と釣鐘と撞木が目に飛び込む。

こんな大きな「お寺の鐘」は見たことがない。が、

ここはお寺でなく神社。

境内のいたるところに神と仏が残る三神合祭殿だった。

 

 

(羽黒町観光協会)

出羽三山神社・三神合祭殿


羽黒山頂の中心に建つのが羽黒山、月山、湯殿山の三神をあわせて祀る三神合祭殿です。
周囲には自然の地形に応じて建物が配される山岳寺院特有の景観が広がります。
現在の社殿は江戸時代の文政元年(1818)の再建ですが、
山伏が滞在する長床(ながとこ)など中世にさかのぼる構造を残した貴重な茅葺木造建築物です。
平成12年国の重要文化財に指定されました。


・・・

 

(鐘楼と大鐘=国の重文)

 

(羽黒町観光協会)

羽黒山の神仏分離


維新政府は神仏混淆を禁止し、寺院と神社を分離するように命じる神仏判然令を出しました。
神仏習合のお山であった出羽三山もその例にもれず、神仏判然令が伝えられると、
羽黒山は出羽神社と改められました(現在の出羽三山神社)。

神仏習合の廃止、神体に仏像の使用禁止、神社から仏教的要素の払拭、
というコンセプトから、仏像・仏具の破壊、経文を焼く、寺院の廃合、
僧侶の神職への転向などを急激に実施したため、お山は大混乱となりました。

神道化していった羽黒山ですが、手向の300余りの宿坊のうち、
正善院と金剛樹院は仏教寺院として残りました。
こうして羽黒山の聖地は神社と寺の双方に分けられ、羽黒修験の
「秋の峰」も神道側と仏教側それぞれで実地されることになり、現在に至っています。

・・・

 

 

山形県公式観光サイト「やまがたへの旅」

三神合祭殿
さんじんごうさいでん
日本一の茅葺屋根、出羽三山の神々を祀る


月山・羽黒山・湯殿山の三神を合祭した日本随一の大社殿。
厚さ2.1mの萱葺の屋根、総漆塗の内部など、その全てに迫力があって見ごたえ十分。
本殿は度重なる火災にあったが、現在の社殿は文政元年(1818年)に再建したもの。
前方の鏡池は、神秘の御池として古来より多くの信仰を集め、羽黒信仰の中心でもあった。

 

訪問日・2022年7月10日

 

 

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羽黒山五重塔  

2022年07月29日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県鶴岡市羽黒町手向   国宝・羽黒山五重塔  

 

羽黒山五重塔に行くには、鳥居をくぐり、髄神門をはいり、石段を降り、杉木立の参道を歩く。

途中滝があり、千年杉があり、夏でも汗のでない涼しさがあった。

 

 


「山形県の歴史」山川出版 昭和45年発行

出羽三山

出羽三山とは羽黒山・月山・湯殿山をいい、これら三山は一体のものとして信仰されてきた。
月山・湯殿山は奥宮といい、羽黒山に三神合祭殿を設けて本社としている。

羽黒山には、古くから行者がいたらしい。
貞元2年(977)に都で、ずきんをかぶり、108摩尼珠を手にした行者たちが、はげしく法螺をふきならしてあるき「われわれは役行者の徒である」といったという。
この行者たちは羽黒山伏であろう。
平安後期から鎌倉時代、羽黒修験は全盛期をほこった。

 


山形県公式観光サイト「やまがたへの旅」

羽黒山

羽黒山・湯殿山・月山の出羽三山は、全国有数の修験の山として知られています。
参道には国宝五重塔があり、2,446段の石段と杉並木が続き、神聖な雰囲気を漂わせています。

 

 

 

訪問日・2022年7月10日

 

 

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