しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

山居倉庫

2022年07月28日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県酒田市山居町

 

さすがに酒田市のシンボル・山居倉庫は、存在感がすごい。

川に面し、国道に面し、ケヤキに面し、巨大な倉庫が12棟並ぶ。

一部が資料館と土産・物産展になっているが、中心部は現役の倉庫。

現役の近代遺産で、なおかつ”美しい”のがいい。

 

 

酒田市役所”酒田さんぽ”Web

湊町・酒田のシンボル「山居倉庫」

米どころ庄内のシンボル山居倉庫。1893(明治26)年に建てられた米保管倉庫です。
米の積出港として賑わった酒田の歴史を今に伝え、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなりました。
白壁、土蔵づくり9棟からなる倉庫の米の収容能力は10,800トン(18万俵)。
夏の高温防止のために背後にケヤキ並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫として、
現在も現役の農業倉庫です。

敷地内には酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」、庄内米歴史資料館が併設され観光客で賑わっています。
樹齢150年以上のケヤキ35本の連なるケヤキ並木の色合いは、季節とともに変わり見る人を魅了します。
2021(令和3)年3月26日、国指定史跡に認定されました。

・・・・

(山形県HP)

日本一の米「山居米」の巨大倉庫 山居倉庫(酒田市)

『山居倉庫』は、米の揚げ下ろしで雨風に当たらない構造や、倉庫内の工夫を凝らした空調管理、
入庫米の厳しい選別審査などで、中央市場でも日本一と評される「山居米」を生み出した。

現在の近代的な倉庫の保管機能と比較しても、決して遜色の無い山居倉庫は、庄内米の改良と声価向上を果たし、農村経済の振興に貢献した。

 

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山形県公式観光サイト「やまがたへの旅」

山居倉庫
さんきょそうこ
湊町・酒田のシンボル「山居倉庫」


米どころ庄内のシンボル山居倉庫。1893(明治26)年に建てられた米保管倉庫です。

米の積出港として賑わった酒田の歴史を今に伝え、NHK朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなりました。
白壁、土蔵づくり9棟からなる倉庫の米の収容能力は10,800トン(18万俵)。

夏の高温防止のために背後にケヤキ並木を配し、内部の湿気防止には二重屋根にするなど、
自然を利用した先人の知恵が生かされた低温倉庫として、現在も現役の農業倉庫です。

敷地内には酒田市観光物産館「酒田夢の倶楽」、庄内米歴史資料館が併設され観光客で賑わっています。

樹齢150年以上のケヤキ35本の連なるケヤキ並木の色合いは、季節とともに変わり見る人を魅了します。
2021(令和3)年3月26日、国指定史跡に認定されました。

 

 

 

訪問日・2022年7月11日

 

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喜多院

2022年07月28日 | 【史跡】を訪ねる

場所・埼玉県川越市小仙波町

 

雨の中、喜多院 を訪れた。

川越では最後の見学地だったのと、疲れもあり、休憩所で雨宿りでおわってしまった。

残念。


公益社団法人 小江戸川越観光協会

きたいん
喜多院


天台宗川越大師喜多院は、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願寺であり、
本尊である阿弥陀如来をはじめ、不動明王や毘沙門天等などを祀り、『無量寿寺』と名付けられました。

慶長17年(1612)、徳川家康が天海大僧正に喜多院の再興を命じて多くの堂塔伽藍が建造されましたが、
寛永15年(1638)1月に起きた川越大火により、現存する山門を除き、堂宇はすべて焼失してしまいました。

そこで同年11月、3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)より客殿、書院等を移築しました。

客殿や書院には「家光誕生の間」「春日局化粧の間」と伝えられている部屋があり、これらは、慈眼堂・山門などとともに重要文化財に指定されています。
境内の一角には、川越北田島の僧・志誠(しじょう)の発願により天明2年(1782)から文政8年(1825)の約50年間にわたり建立された
、日本三大羅漢の一つに数えられる「五百羅漢」が祀られています。

 

 

訪問日・2022年7月13日

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富岡八幡宮

2022年07月28日 | 【史跡】を訪ねる

場所・東京都江東区富岡  富岡八幡宮(深川八幡宮) 

 

門前仲町駅から下町の趣を感じながら「富岡八幡宮」に行った。

神社は杜に囲まれていた。

相撲に関する記念碑を楽しみにしていたが、それも楽しめた。

 

 

「東京都の歴史散歩(上)」  山川出版社 1977年発行


富岡八幡宮(深川八幡)

富岡八幡は神田明神・赤坂山王さん・浅草三社さまとともに江戸っ子の祭礼で有名。
辰巳の花街や木場の繁栄を背景に芝居や小説、小唄など庶民文芸にしたしまれてきた。
江戸中期、この境内で勧進相撲が行われていた。
祭礼の盛大さは、そのにぎわいで文化4年の永代橋落下事件をひきおこしたくらいである。
力士碑の裏手にある八幡橋は都内最古の鉄橋(重文)である。

富岡八幡宮の東の木場2~5丁目はもと、木場のあったところ。
”火事と喧嘩は江戸の華”で、たびたびの火災のあと普請工事が木場の繁栄をもたらした。

 

 


「街道をゆく・本所深川」 

 司馬遼太郎 朝日新聞社 1992年発行


江戸と深川をむすぶ大橋や永代橋がかけられて、深川が孤島でなくなったのは綱吉の代であった。
大相撲も深川を栄えさせた。
当時、大相撲は『勧進相撲』のかたちをとっていた。
この勧進相撲が深川の富岡八幡宮にのみゆるされていたのである。
大相撲は、この八幡宮の境内から出発したといっていい。
勧進とは、寺社への寄進のことである。
建立やら修理の入費のためにひろく大衆から銭を募ることをいう。
このため、表むきは八幡宮の主催になり、監督官庁も寺社奉行だった。

富岡八幡宮の境内に入ると、社殿を過ぎてさらに奥に入ると、大相撲にちなんださまざまな碑があって、いちいちを見ているだけで楽しめる。


富岡八幡宮祭礼

富岡八幡宮の祭礼は江戸文化が熱するとともにさかんになり、
当日、江戸の市中から永代橋をわたって祭礼見物にゆく人の波はひきもきらなかった。
このため永代橋が落ちたこともある。
この大事故は文化4年(1807)8月、千五百人余もの死傷者がでたという。
「この橋勝れて高く」とあるように、江戸第一の橋といってよく、西の空に富士が見え、北には筑波山が見えたという。

この惨事は蜀山人大田南畝の在世中のことで、狂歌が残っている。
「永代とかけたる橋は落ちにけり きょうは祭礼 明日は葬礼」

 

 

 

訪問日・2022年7月13日

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海向寺

2022年07月27日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県酒田市日吉町      

 


生入定(いきにゅうじょう)した”即身仏”が二体保管されている海向寺。
住民の苦しみを救うため、生きたままミイラに似た身体になり、仏になった僧。
今も庄内地方で尊崇を受けている。

 

 


「歴史と文学の廻廊1」 尾崎秀樹  ぎょうせい  平成4年発行 

即身仏

出羽三山の行者のなかには、仙人沢・荒沢などで、千、三千、五千日に及ぶ山籠修行を行い、
生涯を通して五穀、十穀を断ち、山草か木の実しか食べない木食の行を続け、
修行を助けてくれた人々の苦悩や罪障をわが身に引き受け、死期が近づくと、
生きながら塚に入り、念仏を唱えながら死を待つ者がいた。

行者にゆかりのある者は、塚の中からわずかに聞こえてくる念仏で、行がつづいていることを確かめたという。
こうして死に至った行者はミイラとなり、即身仏(そくしんぶつ)として人々の篤い尊崇を受けたのである。

 

 

酒田市役所”酒田さんぽ”Web


即身仏とは・・・?

江戸時代初期以降、飢饉や病に苦しむ人々がたくさんいました。
そのような人々の苦しみや悩みを代行して救うために修行に挑み、自らの体を捧げて仏となられた方を即身仏といいます。
即身仏になろうと決めたら途中で投げ出すことは許されず、修行に耐え抜いた者のみが即身仏になることができました。

即身仏となられた現在でも、人々の苦しみを沈めるために祈ってくださっていることでしょう。
明治時代に法律が変わり、いくつかの法に違反してしまうため、現在では自ら望んでも即身仏になることはできません。
大変貴重な仏様なのです。


即身仏になるための修行とは、どんな修行だっだの?

即身仏になるための修行は、大きく分けて「木食修行(もくじきしゅぎょう)」「土中入定(どちゅうにゅうじょう)」の2つです。
「木食修行」は、山に籠り、1,000日~5,000日かけて米・麦・豆・ヒエ・粟などの五穀・十穀を絶ち、
山に育つ木の実や山草だけで過ごして肉体の脂肪分を落とし、生きている間から即身仏に近い状態に体をつくりあげていく修行です。
「土中入定」は、命の限界が近づいたと自ら悟ると、深さ約3mのたて穴(入定塚)の石室の中に籠ります。
その中では断食を行い、鈴を鳴らし、お経を読み続ける最後の修行です。
死後3年3ヶ月後に掘り起こされ、若干の手当をしてから乾燥させ即身仏として安置されます。


即身仏ってミイラとは違うの?

即身仏ってミイラでしょう?というご質問をよくいただきますが、実は全く異なります。
一般的にミイラは死後、身体の腐敗を防ぐために人工的に臓器を取り除いて防腐処理を行い、乾燥させ、布でくるんで棺に収められます。
人工的に加工されていること、布でくるむことが大きな違いですが、即身仏になるために難行苦行と言われる修行に耐え抜かれたことがミイラとの最も大きな違いです。

 

即身仏が安置されている寺院: 海向寺

海向寺には、忠海上人円明海上人の2体の即身仏が安置されています。複数の即身仏を安置しているのは全国で唯一、ここだけです。

忠海上人は、元禄10(1697)年、山形県鶴岡市鳥居町の庄内藩の武家 富樫条右衛門家で生まれました。
中興初代住職として、延喜3(1746)年に海向寺の中興を成し遂げました。
50歳になると、人々の苦しみを救い、願いを叶えるために自ら木食行者となって即身仏になることを決意され、難行苦行の道へ進まれました。
宝暦5(1755)年2月21日、58歳で土中入定し、即身仏となられました。

円明海上人は、明和4(1767)年、山形県東田川郡栄村家根合(現山形県東田川郡庄内町家根合)の佐藤六兵衛家に生まれました。
海向寺九世住職を経て、50歳で即身仏になることを決意されました。
湯殿山仙人沢に籠り、五穀断ち・十穀断ちの難行苦行に耐え、文政5(1822)年5月8日、55歳で土中入定し、即身仏となられました。

・・・

 

 

訪問日・2022年7月11日

 

 

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蚶満寺

2022年07月27日 | 【史跡】を訪ねる

場所・秋田県にかほ市象潟町象潟島

 

高校生の時、古文の教科書で”象潟”を知り、地図を見ればはるかに離れた秋田県の秋田市からも遠い場所だった。
その象潟に初めて地を踏むと感慨を覚えた。
かつての九十九もの島々は、今も浮島のように、
緑の田園の中に松林の小山として残されていた。

 


「秋田県の歴史」  今村義孝  山川出版社  昭和44発行

象潟の景色は古くから世に知られていたようである。
鎌倉時代の歌人西行法師も遊歴の途中に立ち寄っている。
室町時代の著名な連歌師梵灯庵もまた象潟を訪れ、蚶満寺(かんまんじ)に古歌をしるした。
象潟を東の松島の風景と対比するのは松尾芭蕉の「奥の細道」をまつまでもなくさらに古かったわけである。
芭蕉によって象潟の声価がさらにたかまった。
その後も文人墨客のこの地を訪れるものは多かった。
それゆえ、六郷氏も島守をおき島内・潟端の新田開発を禁止するなど、
その維持管理につとめた。
しかし文化元年(1804)滄海桑田の変がおこった。
象潟は陸地となり、
その面影は本荘藩の画工狩野永昌の画いた「象潟図屏風」に見られるだけとなった。

 

文化の大地震と蚶満寺

(Wikipedia)

象潟は「九十九島、八十八潟」、あるいは「東の松島、西の象潟」と呼ばれたように、かつては松島同様無数の小島が浮かぶ入り江だったが、
文化元年(1804年)の大地震(象潟地震)で干潟に変わった。
陸地化した土地問題で本荘藩と紛争となったが、二十四世全栄覚林(生年不詳-1822年、仙北郡角館生まれ)は、命がけで九十九島の保存を主張した。

象潟地震後の潟跡の開田を実施する本荘藩の政策に対し、
覚林は蚶満寺を閑院宮家の祈願所とし、朝廷の権威を背景として開発反対の運動を展開、文化9年(1812年)には同家祈願所に列せられている。
覚林は文政元年(1818年)江戸で捕らえられ、1822年、本荘の獄で死去した。

 

 

訪問日・2022年7月11日

 

 

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千住大橋

2022年07月26日 | 【史跡】を訪ねる

場所・東京都足立区~荒川区  千住大橋        

 

千住大橋には「千住大橋駅」から行った。
橋の袂には、多くの記念碑があり、
橋の下におりると絵図による説明板などがあり、
さすがに古くからある千住大橋は今も大切にされていることを感じた。

橋を渡ると(足立区→荒川区)、大きな素戔嗚神社があり、
南千住駅前には芭蕉の出立の像が建っていた。

 

 


「街道をゆく・本所深川」  司馬遼太郎 朝日新聞社 1992年発行

千住大橋

千住大橋がみえてきた。

隅田川がまがっている両岸の低地を千住という。
江戸から奥州(あるいは日光や水戸)へゆく最初の宿があったところである。

江戸時代、幕府は隅田川に五橋を架けた。
千住大橋、吾妻橋、両国橋、新大橋、永代橋。

千住大橋は江戸時代を通じ、幾度か架け替えられたが、洪水で流出すということは一度もなかったといわれる。
家康が架けた千住大橋は、架けられてから二百七十四年後の慶応四年四月十一日、
最期の将軍慶喜がこの橋をわたって退隠の地である水戸にむかったとき、江戸がおわった。



千住大橋

(Wikipedia)

橋の歴史


最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。

「大橋」とよばれ、渡しを経由していた佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋が、この橋に移った。
江戸幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋を認めなかったが、後に明暦の大火等もあり交通上、安全上のため
両国橋等が完成してから「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれていたようである。

千住大橋は何度も改架、改修が行われ、計6回に及ぶ。
なお、明和の架け替えの際に、ほぼ現在の位置に架け替えられた。
最初の架橋から明治18年(1885年)7月1日の台風による洪水まで、流出が一度も無く江戸時代の300年近くを生き抜いた名橋と言われる。
明治18年の流出の際、下流の橋を守るために多くの水防夫が活躍した。

その後、明治19年(1886年)に 二重の太鼓橋様式の木橋として再架橋され、関東大震災後の震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)に現在の鉄橋が架橋された。
タイドアーチ橋としては日本最古のものである。昭和48年に交通量増大のために、下流側にぴったり接して新橋が架橋された。

 


訪問日・2022年7月13日  

 

 

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旧酒田灯台

2022年07月26日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県酒田市日吉町  日和山公園

広い日和山公園に白亜の灯台が目立つ。
六角形の木造建築。
明治28年建造物だから、鉄道以前で、
酒田港には多くの北前船などで賑わっていた時代に造られたもの。

 

 


「日本近代建築大全・東日本篇」 米山勇 

旧酒田灯台

日本最古の木造灯台の一つ
明治27年に起きた庄内地震の翌年建てられたのが、この木造六角の洋式灯台である。
内部は2階。
その上が展望台となっている。
灯台は、大正2年、対岸に移された後、大浜、ついで現在地の日和山公園内に移築された。
モダンな外観の旧酒田灯台。
明かりは灯されないが、港町酒田のシンボルとして町を見守っている。

 

 

 


訪問日・2022年7月11日

 

 

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湯殿山本宮      

2022年07月25日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県鶴岡市仙人沢  湯殿山本宮          
 

「語るなかれ 聞くなかれ」の湯殿山本宮にお参りした。        
ご神体は世にも不思議な思いがした。

 

 

羽黒町観光協会

湯殿山

古は本地仏として永遠の生命の象徴である大日如来(だいにちにょらい)と全てのものを産み出す山の神(大山祗命・おおやまづみ)が垂迹(すいじゃく)神として祀られたことから、
「未来の世を表す山」といわれる。

野性味あふれる自然が広がる湯殿山(標高1,500m)は、月山に連なり、湯殿山神社はその中腹の渓流のほとりに鎮座している。
古来、出羽三山の奥の院とされ、修行した山伏が即身成仏する場所とされ、今もなお山伏が修行をする「行場(ぎょうば)」でもある。

湯殿山神社の御神体は、熱湯の湧き出る茶褐色の巨大な霊巌である。
「語るなかれ、聞くなかれ」といわれ、神秘のヴェールに包まれてきた。
自然崇拝の原型を今に留めている。

 


「山形県の歴史」  誉田・横山共著  山川出版社  昭和45年発行

湯殿山神も”山の神”で、輝石安山岩塊を含む泥流の一堆頂から温泉が湧出し、
堆面をつたわって流れており、これがご神体とされる。
湯殿山は農業と関係が深く、土民の信仰をあつめていた。

 

山形県公式観光サイト「やまがたへの旅」

湯殿山神社
出羽三山の奥の院 神秘が息づく行の山

「語るなかれ」「聞くなかれ」修験道の霊地・湯殿山は、標高1,504m、月山南西山腹に連なる なだらかな稜線の山。

出羽三山の奥宮とされる湯殿山神社本宮は、写真撮影禁止、参拝は土足厳禁という厳しい戒めで知られる神社。

湯殿山神社には社殿がなく、ご神体は熱湯の湧き出る茶褐色の巨大な霊巌です。

江戸時代には、西の伊勢参りに対して、東の奥参りと称して、両方をお参りすることが「人生儀礼」の一つとされ全国からの参拝者で賑わいました。

 


 語られぬ 湯殿にぬらす 袂(たもと)かな  芭蕉

 

 

 

 


訪問日・2022年7月12日

 

 

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 旧鐙屋(きゅうあぶみや)

2022年07月25日 | 【史跡】を訪ねる

場所・ 山形県酒田市中町            

井原西鶴の『日本永代蔵』に登場するほど、酒田では別格の大商人。
酒田市が”史跡”改修工事中で、工事幕で覆われていた。

 


酒田市役所”酒田さんぽ”Web

旧鐙屋
酒田を代表する廻船問屋

今も昔も本間家旧本邸や鐙屋がある通りは「本町通り」と言われ、酒田の中心でした。
本間家とともに酒田三十六人衆のひとりとして酒田の発展につくした豪商 池田惣左衛門(屋号:鐙屋“あぶみや”)。
江戸時代には本町通りに何軒もの廻船問屋が連なっていましたが、その中でも鐙屋は別格。
井原西鶴の『日本永代蔵』に「北の国一番の米の買入、惣左衛門という名をしらざるはなし」と紹介されるほどでした。

 

 

「山形県の歴史」山川出版 昭和45年発行

鐙屋(あぶみや)

酒田豪商の一人である鐙屋の繁栄については、
井原西鶴がその著「日本永代蔵」につぎのようにかいている。

『世に船ほど重宝なる物はなし。
酒田の町に鐙屋といへる大問屋住みけるが、
昔はわづかなる人宿せしに、其身才覚にて近年次第に家栄え、
諸国の客を引請け、北の国一番の米の買い入れ、惣佐衛門といふ名をしらざるはなし。
表口30間、裏行65間を家蔵に立つづけ、台所の有様目を覚ましける。
米味噌出し入れの役人云々。』

酒田は、問屋商人の発達と共に、町全体の人口も急激に増加した。

 

 

訪問日・2022年7月11日

 

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本間家旧本邸

2022年07月25日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県酒田市二番町    

 

「本間様には及びもせぬが せめてなりたや殿様に」で知られる、
庄内藩の本間家。
多くの地主が明治以降に土地を増やしたのと違い、本間家は増やしていないそうだ。
本間家三代目の光丘が隆盛を築き、その時代に日本海の庄内砂丘に植林した功績が今も住民に感謝されているようだ。

 

 

酒田市役所”酒田さんぽ”Web

本間家旧本邸
武家造りと商家造りが1つになった珍しい建築様式

1768(明和5)年、本間家3代光丘が藩主酒井家のため、幕府巡見使用宿舎として建造したお屋敷で、
書院造りの武家屋敷と本間家が生活した商家造りが一体となった全国的にも珍しい建物です。

その後拝領し、本間家代々の本邸として使用されてからも、武家造りの建物は特別な時にしか出入りできない場所でした。
商人が幕府巡見使を迎える藩のためにこのようなお屋敷を建造して献上するのは珍しいこと。
本間家の繁栄ぶりをうかがい知ることができます。

※幕府巡見使…将軍の代替りごとに特派された役人
※書院造り…平安時代の公家住宅の寝殿造りを基とし、近世初頭に確立をみた武家住宅

 

「山形県の歴史」山川出版 昭和45年発行

本間光丘の登用

本間家は明治2年に、小作米31.000俵をもって、日本一の大地主といわれた。
光丘(1732~1801)は本間家の3代目にあたり、
それ以前は酒田の一問屋商人として、資力をのばしつつあったが、地主としては光丘の代にはじまっている。
光丘は明和4年(1767)庄内藩の藩政に参与することになった。

 

地主王国

地主の系譜はいくつかの類型にわけられるが、日本一の大地主として有名な、酒田の本間家の発達過程をみることにしよう。
同家は元禄頃、商業と海運業をいとなみ、18世紀中ごろの庄内藩財政窮乏には酒田36人衆中、最高の合力金をだしている。

近代地主の基盤ができたのは、三代光丘の時代で、一代で一万俵以上集積した。
その後、幕末まで庄内から秋田まで三万俵の年貢米を収納するに至っている。

本県全体としては明治20年代から30年代において大地主の成長が決定的であった。
大地主の系譜は江戸時代に土台を築いたものが極めて多い。

日本一の大地主として有名な、酒田の本間家は幕末には庄内一円から秋田にわたり、31.000俵の年貢米を収納するにいたっている。
明治以後は土地購入は消極的になり、近代地主とことなる。


酒田市役所”酒田さんぽ”Web

山王森


本間家の植林の功績を伝える。

風砂の被害に悩まされていた人々のために私財を投じて2kmもの距離に松を植林した本間光丘。

 

 

訪問日・2022年7月11日

 

 

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