しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ニコライ堂   

2022年07月23日 | 【史跡】を訪ねる

場所・東京都千代田区神田駿河台 

 

初めて、近くでニコライ堂を見た。
高層ビルに挟まれ、更にも高層ビルが建築中の神田駿河台のニコライ堂だった。

 

 

「日本近代建築大全・東日本篇」 米山勇 講談社 2010年発行

日本ハリストス正教会教団復活大聖堂(ニコライ堂)

わが国では珍しいビザンチン洋式の教会堂。
ニコライは文久元年(1861)にロシアから来日。
最初は函館、明治5年に東京に居を移す。
駿河台を布教の拠点と定め、大聖堂を建設することにした。
明治24年に完成。
ところが、関東大震災で大きな被害を受けた。
昭和4年に復旧工事を完了したのが、おおむね現在のニコライ堂の姿である。

 

 

「大江戸発見散歩」   松本こーせい  アーク出版  2002年発行

ニコライ堂

聖橋の向うにニコライ堂のドームが姿をのぞかせている。
聖橋は、
関東大震災復興事業の一環として昭和2年に架けられた。
聖堂とニコライ堂の二つの聖堂を結ぶことから聖橋と命名された。
ニコライ堂のある駿河台は、本郷台地の南端部だ。
御茶の水のランドマークだったが、周りをビルに囲まれてすっかり目立たなくなった。

御茶の水は、
将軍家御用の水になったために、その地名がついた。
神田川は、
空堀だったが、神田上水の余水をこの谷に流して、東京湾から舟を入れる工事を伊達綱宗に命じて神田川が誕生した。

 

 

訪問日・2022年7月10日

 

 

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北前船

2022年07月23日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県酒田市南新町  日和山公園 

 

北前船は瀬戸内海では、最初沿岸沿いに航海し、後に「沖乗り」と呼ばれる航路を通った。

しかし、東西からの潮の満ち引きに、最適な条件を持ちながら笠岡や白石島に、北前船が寄港することはなかった。

現代でもそうだが、港間の競争は、江戸時代もそうとう激しいものがあったように思える。

 

「瀬戸内諸島と海の道」編者・山口撤 吉川弘文館 2001年発行

西廻り航路の発達

「沖乗り」をおこなうようになった背景には海上輸送量の飛躍的増大があった。
幕府や大名の財政は、年貢米を大坂や江戸に運んで売却することで成り立っていた。
酒田から下関をまわって大坂・江戸を結ぶ西廻り航路が整備され、これ以後
西国だけでなく東北・北陸地域からも続々と年貢米を積んだ廻船が瀬戸内海にやってくるようになる。
やがて年貢米だけでなく各地のさまざまな特産品も大坂に集まり、大坂から桧垣廻船や樽廻船で江戸に回送されるという構造ができあがっていく。
塩飽の廻船は幕府御用船として寛文から元禄にかけて栄えた、のち特権的地位を失った。
年貢米に代表される領主的流通が中心とされるが、後期には広範な商品生産の展開を背景とした商品流通のうねりが押し寄せてくる。
たとえば、畿内・瀬戸内地域にひろがる綿作地帯では大量の魚肥を必要とし、従来の干鰯(ほしか)のほかに北海道産ニシンの〆粕(しめかす)などが求められた。

初夏、あるいは秋に蝦夷地の産物を積んで西廻り航路を瀬戸内海にやってきた北前船は、船頭の裁量で積み荷の米・ニシン・数の子・〆粕・昆布などを各地で売却し、大坂でひと冬越したのち翌年春には、大坂周辺あるいは瀬戸内各地の塩・砂糖・紙・木綿・古手・甘藷などの産物を積んで北国に向かう。
また大坂・瀬戸内各所の廻船も北国・蝦夷地とを結ぶ交易に進出していく。
九州・中四国と大坂を結ぶ廻船もいっそう盛んに往来した。

 

 


酒田市役所”酒田さんぽ”Web

「北前船」を見に行こう

北前船は単に荷物の運搬をしていたわけではなく、
寄港地で安くて良い品物があれば買い、船の荷物に高く売れる物があればそこで売る。
さまざまな商材を取り扱い「商売」をしながら日本海を航海する、まさに「総合商社」と言える船です。

また、北前船は「米を1千石(150トンの米)積むことができる大きさ」という意味から千石船ともよばれ、
北前船史上最大の船は、2,400石も積むことができ、巨大な帆1枚で逆風でも進むことができる、すぐれた帆走性能のある船です。

北前船の国内最大1/2スケールの模型船が日和山公園で見ることができます!

 

 

 

北前船

東廻り航路と西廻り航路で使用された主要な船舶は、
船の型からもっぱら「弁財船」(べざいせん)と呼ばれ、
東北・北陸ではこの呼称が多く使われた。
ただ大坂や瀬戸内の商人の間では「北前船」と呼ばれる。

とくに大型の「千石船」は、全長80尺(24m)、船体の幅30尺(9m)、
帆の横幅は63尺(19m)、積載量は1000石(約150トン)、
船員は15人ほどであった。

北前船は時代が進むにつれて輸送量の拡大や操船技術の向上によって大型化が進み、
最大級のものでは積載量が2400石(約360トン)もあったという。

航行速度は、潮流や風向きが理想的な海域では3~4ノット(時速5.6~7.4km)、
最大6ノット(時速約11.1km)ほどであった。

廻船業者は「一航海千両」といわれるほどの巨利を得ていた。

 

訪問日・2022年7月11日

 

 

 

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小鵜飼(こうがい)船

2022年07月23日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県酒田市山居町 「山居倉庫」

 

酒田市のシンボルでもある「山居倉庫」に行くと、小鵜飼(こうがい)船が新井田川沿いに展示してあった。

「小鵜飼船」は、それまで「ひらた船」のライバルとして最上川水運に登場しスピードを武器に栄えた。

明治以降は自由化によりさらに発展したが、鉄道の登場ともに、船は消滅し、水夫は失業していった。

 

・・・・


「流域をたどる歴史二東北編」 豊田武  ぎょうせい 昭和53年発行

 山形県のおよそ8割を潤す最上川は、全長229km、流域面積7.040km2の大河である。
人々は山形県の「母なる川」と呼んでいる。

ひらた船


ひらた線には5人乗り米350俵積の大船、縦横18.2m*2.7m、
の他に中船、小船があった。
大船は今の、10トン積トラックの2台ぶんの輸送力である。
元禄10年頃大小652艘の船が最上川に浮かんでいた。
城米は赤字で、商荷輸送でカバーしていた。

 

小鵜飼(こうかい)船

江戸末期になると、最上川の急流に適合する改良船が増加した。
これが小鵜飼船である。
阿武隈川で導入され、舳先がとがり、スピードも出て、上流向きであった。
ひらた船が左沢~酒田間を往復1ヶ月かかったが、小鵜飼船は10~12日間と大幅な短縮であった。
特に明治になって河岸場の統制が解かれてから、需要が高まった。


明治30年代にはいると蒸気船が航海するようになり、
明治32年には鉄道が山形県まで延長され、大正2年酒田まで延長された。
船運は急速に衰えた。

 

 

(三人乗り、生々しい迫力があった)

 

 

「山形県の歴史」  誉田・横山共著  山川出版社  昭和45年発行


最上川舟運


西廻り航路の発達とともに、最上川舟運も一大発展をみた。
幕領、諸藩の年貢米のほとんどが上方へ運ばれた。
輸送路に恵まれない米沢藩は、仙台や新潟など一定していなかったが、巨費を投じて難所黒滝を開削をして、最上川下しとした。

 

鵜飼(こうがい)船時代

酒田港は、江戸時代以来、山形県唯一の物資の集散地であり、表玄関であった。
庄内をはじめ、最上川流域にある内陸の物資の大部分は、この酒田港を通過したのである。

なかでも大半は米であるから、米倉庫と米会所は、酒田におけるもっとも重要な経済的機能をもっていた。
庄内藩の新井田(あらいた)蔵は、維新後官有になり、地租の金納化で減少したので豪農への払い下げを経て、のちには本間家の手にわたっている。
米商会所は、明治26年のちに山居倉庫と呼ばれる保管蔵を新築した。
山居の米は他の納入米と区別して、格差を設けて取引された。
山居倉庫は、明治26年の創立当時は7棟であったが、明治30年には15棟、
羽越線各駅に設けられた支庫をふくめると大小62棟をかぞえた。

明治5年、最上川運行の大小船は自由とし、藩船は廃止された。
明治7年の県の調査では、ひらた船101艘にたいし、小鵜飼船274艘に増加している。

 

奥羽線の開通


米沢に明治32年、新庄に明治36年、秋田県とは明治38年全通した。酒田線は大正3年に開通した。
最上川水運でにぎわった河岸場町のさびれようははなはだしかった。
本合海は、火が消えたようにさびれ
大石田は、船乗り・船大工は人力車夫や荷車引きになったり、移住していった。

 

 

訪問日・2022年7月11日

 

 

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旧西田川郡役所

2022年07月22日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山形県鶴岡市家中新町

鶴岡市は庄内平野の豊饒な地にあり、街からは鳥海山や月山を望める、落ち着いた城下町。
冬には「雪の降る町を」の音楽祭があるそうだ。

 


「歴史と文学の廻廊」 尾崎秀樹 ぎょうせい 平成4年発行

鶴岡

雪の降る町
中田喜直が作曲した「雪のふる町を」のメロディは、鶴岡で生まれた。
鶴岡が地吹雪に見舞われるころ、市民たちの「雪の降る町音楽祭」が催しされる。
この雪は、雪どけとともに庄内平野を潤す大切な水となる。
高山樗牛は鶴岡が生み出した英才である。
藤沢周平は、時代小説に異彩を放つ。
横光利一は鶴岡にある、妻の生家に疎開する。
「私は山形県の庄内平野に這入ってきたとき、ああここが一番日本らしい風景だと思った」

 


西田川郡役場


(山形県HP)

鹿鳴館時代を今に残すルネサンス風擬洋風建築 旧西田川郡役所(鶴岡市)

『旧西田川郡役所』は庄内を代表する建築家、高橋兼吉が手がけたルネサンス風の擬洋風建築で、
明治開花期といえる鹿鳴館時代を偲ぶことが出来る建築物である。

沿革

1876年(明治9)の廃藩置県によって置賜、山形、鶴岡の3県が統合し、現在の山形県が誕生した。
その後1878年(明治11)、郡制が施行され県下に11の郡が置かれ、鶴岡は西田川郡となり、郡役所が設置された。
設計・施工は当地の大工棟梁高橋兼吉・石井竹次郎があたり、翌年5月馬場町に落成し、この年の明治天皇の東北巡幸の行在所となった。
1969年(昭和44)12月に国の重要文化財に指定。
1970~72年(昭和45~47)、現在地に移築復元、保存され、致道博物館の展示館となっている。

 

訪問日・2022年7月10日

 

 

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神田明神

2022年07月22日 | 【史跡】を訪ねる

場所・東京都千代田区外神田二丁目  


銭形平次が住んでいた神田明神下から、男坂を登り、神田明神にお参りした。

・・・・

「街道を行く・神田界隈」  司馬遼太郎 朝日新聞社 1992年発行

「江戸っ子というのは・・・ただ、その・・・威勢がいいってだけのものでございますな」
古今亭志ん生が『祇園祭』のマクラで、いきなりそういうのである。

この噺では、江戸っ子が京見物をする。
逗留先で京都の番頭と、お国自慢のやりとりをするのである。

江戸っ子のほうは、
京なんざ寺ばかりで陰気で仕様がねえといい、

京都のほうは、
江戸はあんた、犬の糞だらけどすがな、

といってたがいにらちもない。

やがて祭の自慢になる。
京都は祇園祭ほど上品なものはない、といえば、江戸っ子はやりかえして
神田祭を活写し、神田囃子を口でやってしだいに相手を圧倒する。

志ん生は口一つで鉦、太鼓、笛、かけ声を入りまぜ、雷鳴と怒涛を一挙に擬声化する。

 


神田明神

(東京観光財団)


1300年の間、ビジネスの街で東京を守り続ける神社

「神田明神」は730年に現在の大手町近くに建立され、江戸時代に現在の場所に移り、徳川家康も参拝していたと伝えられています。
秋葉原に近いことから、パソコンやスマホに対応したIT用のお守り「IT情報安全守護」を扱うなど、常に時代や町を見守り続けています。

 

1300年の歴史を持つ神社は、時代に根ざしたお守りも扱います
日本三大祭の一つ「神田祭」は、奇数年の5月に開催されます


神田、日本橋、秋葉原、大手町・丸の内など、108の町々の総氏神である「神田明神」。
豊穣や縁結びの神とされる大黒天、漁業と商売の神様・恵比寿、平将門が祀られ、商売繁昌、縁結び、開運を祈願する人々で賑わいます。

 

奇数年の5月には、日本三大祭の一つ「神田祭」が開催されます。
日本橋や大手町など東京の中心エリアを含む30キロメートルにわたり、数千人の大行列が巡行します。
また、秋葉原が、神輿と担ぎ手、観衆で埋め尽くされる様子も壮観です。

 

神田明神

(Wikipedia)


神田祭を行う神社として知られる。

神田、日本橋(日本橋川以北)、秋葉原、大手町、丸の内、旧神田市場・築地魚市場など108か町会の総氏神である。

旧社格は府社(明治3年(1870年)まで准勅祭社)。

 

 

訪問日・2022年7月10日

 

 

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湯島天神

2022年07月22日 | 【史跡】を訪ねる

場所・東京都文京区湯島3丁目 

小説『女系図』は読んだことはないが、
この歌はよく知っている。
小畑実の甘い声が印象的だった。


湯島通れば思い出す
お蔦 主税の心意気
知るや白梅 玉垣に
のこる二人の 影法師
「湯島の白梅」

唄の舞台にやってきた。

 

 


(湯島天神のHP)

湯島天神


湯島境内は、広重の「江戸百景」などの画題となり、湯島十景、また武州洲学十二景に「南隣菅祠」と題されている。
古く文明十九年(1478)堯恵法師の「北国紀行」には当時の風致をたたえている。
天正十九年(1591)十一月、徳川家康公は湯島郷の内御朱印五石を社有として寄進した。

近世の縁日は、毎月十日・二十五日で、境内とその界隈は江戸有数の盛り場で、宮芝居や植木市、各地の出開帳があり、江戸町人の憩いの場として繁盛した。

また富突は、今日の宝くじに当たり、谷中感応寺・目黒不動とともに江戸三富と称して代表的なものであった。
文化九年には(1812)湯島天神は目黒不動とともに公許され、境内は熱狂した群集でわきかえった。

泉鏡花の「婦系図」の舞台として演劇に映画に歌謡曲に「湯島の白梅」の名を高らしめた。
江戸期から明治にかけて、例年七月二十六日夜の拝月は、遠近の老若男女が群集して雑踏を極めた。
また二月十日の祭礼には、砥餅(ともち)と号し砥石の形に作った餅を神供に備え、氏子へも同様の餅を配った。
境内には売薬香具見世・楊弓場があり、宮芝居が数度行われている。
また文政七年(1824)正月境内で大相撲本場所も行われた。

 

 


訪問日・2022年7月10日

 

 

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川越城

2022年07月21日 | 【史跡】を訪ねる

場所・埼玉県川越市郭町

江戸時代、知恵伊豆・松平信綱や柳沢吉保など多くの老中を輩出したことで知られる川越城。

中ノ門堀跡に行けば、開門前で見学ができず。
本丸御殿に行けば、御殿前が工事、それにここも時間前。
富士見櫓に行こうとしたが、雨ですべって転んでもいけないので登城しなかった。
雨に日に行ったのが不幸だった。

 

・・・・

 

川越市HP

川越城中ノ門堀跡

旧川越城内に残る唯一の堀跡~中ノ門堀の歴史と整備の概要
江戸時代、川越城は、江戸の北の守りとして重要視され、寛永16年(1639)に藩主となった松平信綱は、城の大改修を行いました。
この際に、中ノ門堀が造られたと考えられています。
堀は、現在の市役所付近に当たる西大手門側から本丸方向への敵の進入を阻むために巧みに配された堀のひとつであり、堀と堀の間に中ノ門がかつて存在していました。
門は、残されている絵図によると二階建ての立派な櫓門であったようです。

しかしながら、明治時代以降になると城内の建物が取り壊されたり、堀の埋め立てが行われ、城は、かつての姿から大きく変貌していきました。

現在では、旧城内域の宅地化が進み、かつての城の名残を留めるものは本丸御殿の一部のほかは、ほとんどなくなってしまいました。
そのようななかで、中ノ門堀は、城の堀跡としては唯一現在まで残されていました。
そのような貴重な遺構を保存し、市民の憩いの場として、また観光に活用していくために平成20年度から21年度にかけて整備工事を行いました。

整備された施設は、堀跡本体と説明板やベンチを設けた見学広場からとなります。
堀跡は、発掘調査に基づき、構築当初の勾配を復元しています。また、城の雰囲気を演出する土塀や冠木門も設置しました。

ぜひ、蔵造りの通りから博物館や本丸御殿へ向かう途中にお寄りください。

(中ノ門掘跡)

 

・・・

 

 

公益社団法人 小江戸川越観光協会

本丸御殿

川越城は、長禄元年(1457年)に、上杉持朝の家臣である太田道真・太田道灌父子が築いたといわれています。
現存する建物は嘉永元年(1848年)に建てられたもので、一部として玄関・大広間・家老詰所が残っており、江戸時代17万石を誇った川越城唯一の遺構が本丸御殿です。
現在において、川越城の周囲をめぐる堀はほとんどが失われていますが、土地の窪みにその名残が残っています。
また、本丸御殿のほど近くには、かつて天守閣が無い川越城の天守閣代わりとして見張りや防戦の足場として活躍した富士見櫓の跡があり、数少ない川越城の名残として現存しています。

(本丸御殿)

 

・・・

 

(富士見櫓)

 

 

訪問日・2022年7月13日

 

 

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甲府城

2022年07月21日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山梨県甲府市丸の内   舞鶴城公園

 

 

お城は、中央本線により分断されていて、鉄道を挟み南北に残されている。
城の規模は巨大だが、石垣や櫓や城門の多くが、近年の復元工事のものが多い。
駅から至近距離であることと、
天守台は、富士山や市街地や南アルプスの展望台を兼ねるのが特色かな。すばらしい。

市民などの訪問者が多いが、夏は樹木が少ないので日傘が必要。
煙突のようなオベリスクが城の中心に建つが、城とは調和を感じない。
将来的に他の公園に移転した方がいいように思った。

 


甲府城

「日本名城100選」  鳥羽正雄  秋田書店  昭和44年発行

甲府駅で下車して、左手に見えるのが甲府城である。

慶長3年、秀吉没し、甲府は江戸を守るための、最前線の重要基地と考え、
血縁の大名を封ずることとした。

その後は、甲府城には親藩の大名を封するという家康の遺言を破り、柳沢吉保が城主となったっこともある。

 

 


訪問日・2022年7月9日

 

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武田氏館跡(躑躅ヶ崎館)

2022年07月21日 | 【史跡】を訪ねる

場所・山梨県甲府市古府中町 武田神社

日本100名城の武田氏館、また躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)とも呼ばれている。
「人は石垣人は城」でも有名だが、行ってみると
ちゃんと石垣もあるし水堀もあり、すこし拍子抜けした。

城跡のことを地元では「武田神社」で統一されているようだ。
武田神社は大正時代に館跡地に創建された、新しい神社。

 

 

躑躅ヶ崎館

「日本名城100選」  鳥羽正雄  秋田書店  昭和44年発行

甲府市の郊外に標高800mの要害山城がある。
ここに城を築いたのは武田信玄の父信虎である。

信虎は永正16年(1519)新たに躑躅ヶ崎館(つつじがさきやかた)を築き、
信虎、信玄、勝頼三代の居城であった。

この館は平地に一重の堀をめぐらして、その土をもって土塁としたものを思われる。
東西約220m、東北135mである。

この館は一見、非常に狭く、設備などもきわめて簡単であったが、
信玄はここを「人は城なり」の本拠とした。

「風林火山」の旗印を立てて兵をくりだし、向かうところ敵なし、
また、堅固の城として、一歩も敵を近づけなかった。

 

 

 

甲府市教育委員会リーフレット

国史跡 武田氏館跡


武田氏館跡は、武田信虎・晴信(信玄)・勝頼が居住し政治を行った戦国大名武田氏の館跡です。
武田氏滅亡後も甲府城が築城されるまでの間、
甲斐国政治の中心として再利用されました。

館跡の随所にはは土塁や堀・枡形虎口・馬出・石積みなど、遺構が当時のまま残っています。
戦国大名の居館の構造を今日に伝える重要な文化財として昭和13年に国の史跡に指定されました。

 


訪問日・2022年7月9日

 

 

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お玉ヶ池の千葉道場

2022年07月20日 | 【史跡】を訪ねる

場所・東京都千代田区神田東松下町

 

秋葉原駅から神田駅までの町歩きで、来てみたいと思っていた”お玉ヶ池の千葉道場”の地を訪れた。

マンションやビルに挟まれた一角に小さな記念碑が建ってる。

もちろん”池”はないが、

近くに二刀流の道場があり、道路から見える稽古風景が千葉道場に地であったことのイメージができた。

 

・・・・・

「お玉ヶ池の千葉道場」といえば、
”天保水滸伝”の平手酒造や、
♪剣をとっては日本一の、赤胴鈴之助をまっさきに思いうかぶが、
残念ながら平手酒造は実在の剣士ではあるが、千葉道場とは縁がなく浪曲や講談や流行歌の作り話らしい。
赤胴鈴之助は漫画雑誌「少年画報」の少年剣士。のちにラジオ、テレビ、映画にも。
赤胴鈴之助の友達だった”さゆり”(←吉永小百合のデビュー作)も架空の人。
道場に実在したのは、千葉周作先生だけということなる。

 

・・・

 

「歴史と旅」  昭和55年6月号  秋田書店

剣術隆盛江戸の三大道場
千葉道場

幕末になると身分制度が崩れ、帯刀も武士の特権でなくなっていた。
庶民の中にも帯刀する者があり、武芸を習うという風が生じてきた。
そういう時代の要求によって、剣法道場が増え、
道場は企業として経営され、入門者も本気で剣を習うという機運が昂まってきた。

とくに千葉・桃井・中西の三大道場は評判が高かった。
斎藤弥九郎や男谷精一郎という声もある。
これらのなかでも、江戸最大の道場は、なんといっても千葉周作の北辰一刀流・神田お玉ヶ池の「玄武館」であった。

門人を見ると、
出羽出身の尊攘志士「新徴組」の清河八郎。
桜田門外で井伊大老の首級をあげた有村次郎左衛門。
新選組の山南啓助・藤堂平助、
新選組と分かれた伊東甲子太郎。

 

・・・・


「街道をゆく36」 司馬遼太郎  朝日新聞社 1992年発行

於玉ヶ池


於玉ヶ池という池は、江戸初期にはなお存在していたらしい。
周作のころは、於玉ヶ池はほとんど町方の地所だった。
周作は、旗本屋敷の跡を買って道場にしたという。
周作死後も千葉道場の隆盛はおとろえず、門人を収容しきれないほどの大道場になった。

いまは、道場跡も、なにもない。
於玉ヶ池という地名もない。
縦長のビルがひしめき、土一升も営業目的以外には使わないというまちになっている。
ただ、千桜小学校の校庭に立ったときは、かろうじて空が広かった。


・・・

司馬遼太郎先生が立った千桜小学校は20年ほど前に統合廃校、15年ほど前に建物解体で、

「かろうじて空が広い」場所は存在していない。

 

・・・

 

訪問日・2022年7月9日

 

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