しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

最後の日ソ戦・・・その2・米ソ関係

2020年06月15日 | 占守島の戦い
「一九四五年夏 最後の日ソ戦」 中山隆志著 平成7年 国書刊行会発行 より転記。

・・・・・・・・・・・・・・

1945年2月のヤルタ協定において、
ソ連の対日参戦の見返りとして千島列島全部がソ連に引き渡されることになっていた。
その後も米軍は艦隊や航空部隊に千島攻撃を反復し、潜水艦はオホーツク海まで進入した。

1945年7月のポツダム会談時の米ソの作戦境界に関する協議で、
オホーツク海は米ソの共同作戦区域、
千島は第四海峡(幌筵島の南の海峡)を米ソの作戦境界で合意していた。海峡の北をソ連、南を米軍。

1945年8月16日、スターリンはトルーマンに
「千島列島すべて、さらに釧路市と留萌市を結ぶ線以北をソ連降伏地域に含める」要求をした。
スターリンは18日に、
「千島の合意」と「北海道北部の拒否」と「中千島へ米軍基地を設ける」回答と要求を受けた。
スターリンはトルーマンへの返事も出さず、樺太・千島・北北海道の作戦準備を並行して行なった。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小説に描かれた占守島の戦い

2020年06月13日 | 占守島の戦い
「オホーツクわが愛」五十嵐均著 東京書籍 1996年発行  より転記する。

・・・・・・・・・



 午前2時15分、ロパトカ岬を隔てる占守海峡の海上から複数のエンジン音が聞こえて来た。
その音は数を増し次第に高くなって、同20分過ぎには海上を圧するほどの響きになった。
 敵の艦影が見えないうちに、その一隻が陸地に向けて機関銃の連射を始めた。
この瞬間、敵の来襲は疑いのない事実となった。
 旅団本部には旅団長、師団参謀以下が詰めている様子で、間髪を入れずに命令が返ってきた。
「直ちに反撃して、敵を水際で撃砕せよ。本日1600時まで停戦は発効しない。且つまた自衛の戦闘は妨げない」

 「撃ち方、はじめ!」
二門の野砲は上陸用舟艇を直撃した。

 占守島南部、片岡の丘上にある73旅団本部では、師団参謀郡少佐が戦況に、興奮を隠しきれないでいた。
「旅団長、敵は全軍を竹田浜に投入しつつあるものと思われます。
直ちに師団本部に連絡して、パラムシル島所在の友軍を海峡を越えて増援に投入したいと思います」
作戦を彼に任せきっている旅団長杉野少将に、自信をもって意見具申した。
「ソ連軍が、パラムシル島にも上陸してくる可能性はないだろうな」
「はい、兵員数から見て在カムチャッカのほぼ全兵力と思われます。両面作戦の余力はないでしょう」
「よろしい。すぐに師団長殿に増援を依頼しよう」

 17日の時点で占守島の日本軍は全軍の約4割、8.000余人であった。
郡少佐は現有兵力でも自信があったが、なお万全を期した。

 片岡の飛行場から97式艦上攻撃機2機が飛び立った。
敵艦に思うがままの攻撃をした。
次に2機が後を追った。
陸軍機「隼」が3機飛び立った。
隼には、ドイツの技術援助で完成した「タ弾」が搭載されていた。
タ弾は地上数十メートルで炸裂すると、花火の要領で広い範囲に小型徹甲弾をばら撒くのであった。

 ソ連軍の最後の上陸隊が竹田浜に到達したとき、
南側の霧の中から約20両の日本軍戦車が平坦な丘陵上を横一列になって、ソ連軍橋頭堡へ進攻してきた。
戦車第11連隊の隊長車では、丸坊主に口髭の池田連隊長が砲塔から裸の上半身を乗り出し、特大の日章旗をしきりに前の方へ打ち下ろして突進していた。
戦闘は占守島北端の草原を血に染めて日中いっぱい繰り返された。
8月18日の日没ともに日本軍が進撃を中止した。

 夜に入って、旅団本部では参謀の郡少佐と海峡を渡ってきた柳岡参謀長らを中心に作戦会議が開かれた。
「今夜はとくに霧が濃く、互いに仕掛けられない。明日はわが軍は13.000人をもってソ連軍を強圧することになります」
杉野旅団長、柳岡参謀長、それに各部隊の指揮官を前にして、郡少佐は理路整然と開陳した。
同じ参謀の加藤少佐から異議が出た。
「わが国はすでに四国共同声明を受諾して、戦争終結の大方針が定まっております。」
柳岡参謀長が言った。
「本日の日中、二度に亘って竹田浜に軍使を差し向けたが、射殺されるか拘留されたか目的を達していない。
このまま戦線を前に進めて、ソ連の侵略企図を挫くのが妥当だろう」
参謀長の考えに、杉野旅団長からも異論はでなかった。

 「今日は悪天候で敵機の来襲はなかったが、明日はわからない。
無用に命を棄てることのないよう、充分気を付けて行動してください」
杉野旅団長のねぎらいの言葉で、軍議は複雑な空気のうちに終了した。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の日ソ戦・・・その1

2020年06月10日 | 占守島の戦い
「一九四五年夏 最後の日ソ戦」 中山隆志著 平成7年 国書刊行会発行 より転記。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・

千島は地理上、歯舞・色丹、南千島、中千島、北千島に分かれる。
大小30余の島々からなり、総延長1.200km、
総面積10.395平方㌔。岐阜県の面積に等しい、最大の択捉島は鳥取県並み。
火山質の列島で、海岸線は断崖が連続する。港湾を得にくい。
北千島は身長以下のハイ松類が密生している。
列島最北端の占守島は伊豆大島の2.5倍の面積で、おおむね平坦な段丘状を成している。
夏季は濃密な海霧が発生する。
行政上は北海道占守郡占守島で、北海道根室支庁の直轄となっている。

千島の住民は常住するのは南千島以南に限られていた。
終戦の頃、国後島7.300人など計20.000人に達していた。
北千島はわずかな定住者だったが、
世界有数の漁場をひかえているため、季節労務者が夏季盛漁期には20.000人に達した。

千島はソ連にとっては太平洋への出口を遮断していていた、位置が悪かった。

1944年2月18日、第五方面司令部の編成が発令され、
北方軍司令官樋口季一郎中将が司令官に発令された
同時に、
千島方面の作戦に専念させるため第27軍司令部が編成された。
方面軍は、千島及び北海道東部地区に来攻する米軍にたいして随時反撃できる態勢におくため、第7師団を道東へ移駐させた。
第77師団は勇払平野の沿岸築城を行うことになった。

大本営は本土決戦準備にあたり、
1945年1月22日、
樺太、千島、北海道はすべて第五方面司令部が防衛を担任することになった。

1945年春、第91師団の任務は、
幌筵海峡周辺及び占守島確保に改められた。

さらに5月、配備を変える発令があった。
幌筵海峡を堅固に保持し、敵の海峡利用を破砕する。

歩兵第73旅団(歩兵四個大隊基幹)は峡東地区隊となり、
歩兵第74旅団(歩兵四個大隊基幹)は峡西地区隊となり、敵を撃滅する。
占守島では一部を持って国端崎、長崎東地区に陣地し、極力敵の内陸進攻を阻止する。

1945年8月15日、
連日行われていた米軍機の空襲は午後からなくなった。

1945年8月17日、
第91師団長堤中将は、陸海軍の大隊長以上及び日魯漁業を師団司令部に集めた。
「万一、ソ連が上陸する可能性がないでもないが、戦闘を行わず、爾後の命令指示にしたがい行動せよ」
終了後に、第五方面軍から
「一切の戦闘行動停止、
やむを得ない自衛行動を妨げず、
その完全徹底時期を18日午後6時とする」
という指示を受領し、直ちに各部隊に伝達した。
同日、師団命令により一切の築城は中止され、兵器処分のために信管をはずしたり、海中投棄やその準備が行われた。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

占守島  1945.8.18~23

2020年05月27日 | 占守島の戦い
「一九四五占守島の真実」  相原秀起著 PHP新書 2017年発行  より転記する



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第五方面司令官樋口季一郎は、ソ連軍が千島列島を占領した後、北海道まで攻め込むに違いないと察し、
91師団に対して「断乎、反撃に転じ、上陸を粉砕せよ」と命じた。
8月18日早朝より戦が始まった。

大本営が指示した自衛戦闘終了の刻限は18日、午後4時。
戦闘の最中、午後1時、長島大尉が停戦交渉に出発。
午後4時を迎え、各部隊は積極的な戦闘を中止した。
午後6時50分、池田連隊長敵中に突入。

19日朝、長島とソ連大佐の停戦交渉始まる。
午後3時、竹田浜で始まる。
72旅団長・杉野巌と参謀長の柳岡武らを派遣した。
杉野が口火を切って、現在、両軍が対峙している現状ラインで停戦することを提案した。
ソ連軍は停戦と同時の即時武装解除、さらに日本軍戦車を後退させる要求をしてきた。
杉野らはソ連側の要求を受け入れることにして、堤師団長のもとに戻ってきた。
しかし、
堤は停戦については承知するが、即時武装解除は認めなかった。
満洲の関東軍が即時武装解除の結果の、居留民の悲劇を恐れた。
このため、
柳岡と長島は翌20日、再びソ連軍と再交渉することとなった。
ソ連側は日本の背信行為と受け取った。

20日、
再び竹田浜へ柳岡と長島が目指した。
ソ連軍に監禁された。
午後7時、
旅団や戦車隊に明21日午前6時総攻撃の命令をした。
大本営から「即時停戦と武装解除」が届いた。

21日、
堤はソ連軍将校に停戦と即時武装解除に応じることを伝え、
午前6時直前
「攻撃止め!攻撃止め!」。

22日正午、
堤は長島や通訳とともに占守島沖合に停泊するソ連警備艦「キーロフ」に赴き、降伏文書に調印した。
武装解除は
占守島の中央部の三好野飛行場で行われる事が決まった。

23日、
弾薬・兵器・トラック・小銃などが集められ山積みにされた。
正午前、占守島防衛の指揮を執っていた73旅団の杉野巌少将が現地に到着、
約1万3千人の将兵が並ぶ中、蒼白な面持ちで入場して、全将兵に最後の別れの閲兵を行った。
全将兵が南西の皇居を排して君が代を斉唱した。
続いてソ連軍指揮官のグネチコ少将らが入場、杉野旅団長と握手をして武装解除は終わった。
この日、
モスクワのスターリンは「日本人捕虜50万人をソ連に移送し強制労働に従事させよ」と指令を出した。

武装解除後、
占守島の戦車兵・小田は島に上陸してきたソ連軍重戦車を見て衝撃を受けた。
「あの日にこんなものが上陸してこなくてよかった」とほっとした。
主力の97式中戦車でもまったくかなわないことは一目みればわかった。
その砲身はまるで高射砲のようだ。
「こちらはせいぜい6トン軽戦車、相手は30トンくらい。これじゃあ相手にならない。早く戦争が終わって良かった」。
この戦車に日本軍戦車の砲弾が命中しても簡単に跳ね返されただろうと思った。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

占守島 --「断乎反撃せよ!」知られざる戦記

2020年05月23日 | 占守島の戦い
「断乎反撃せよ!」知られざる戦記 歴史街道編 2017年 PHP発行 より転記する。

・・・・・・・・・・・・

「8月17日夜、占守島(しゅむしゅとう)北東部に奇襲上陸し、18日日没までに同島全域を占領する」。
ソ連軍は当初、一日あれば制圧できるとみて、四部隊で上陸を敢行した。
しかし日本軍は立ちはだかる。


画像(わしズム・小林よしのり 2005年・幻冬舎発行より)


17日深夜、ソ連軍先遣隊が竹田浜より上陸し始めると、歩兵282大隊は四嶺山に司令部を置き、ソ連軍部隊の「壁」となった。
日本軍の砲台から砲撃によりソ連軍艦艇が撃沈、部隊の体を為さなくなった。
そこへ戦車第11連隊が駆け付け、日本軍の優勢は確実となった。
以後、占守島の戦いは8月22日に停戦するまで続く。
しかし小戦闘が起きるのみであった。

停戦交渉
談・元陸軍大尉長島厚
8月18日14時ごろ、師団長の命令で護衛隊と日魯漁業の通訳とソ連軍司令部に出発した。
戦闘は継続中で、頭の上を日ソの弾丸が飛び交う状況でした。
19時ごろ、やっとソ連軍陣地に近づきました。
捕虜となり、後ろ手に縛られ尋問がはじまりました。
停戦文書に司令官の判子を押していたが、サインがないとわめいた。
翌8月19日早朝、
ソ連軍指揮官の大佐に連れてゆかれた。
大佐に朝の6時30分ごろ、堤師団長の停戦文書を手渡しました。
大佐は大柄でさすがに立派で魅力的な方でした。
8月19日15時、
日本軍とソ連軍による停戦交渉が行われました。
日本側は最高指揮官の代理として杉野旅団長と柳岡参謀長、私も同席しました。
しかし
「即決武装解除か否か」を巡り紛糾します。
満洲の居留民の悲劇もあり、停戦は承知するが、武装解除は容認できなかった。
8月22日13時、
堤師団長がソ連軍艦艇で降伏文書に調印した。
占守島の戦いは日本軍約800、ソ連軍約2.300の犠牲を出し、ようやく終わりました。
私はその後、収容所に連行、拘留され、無事に帰国を果たしたのは昭和23年5月でした。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

占守島 「8月17日、ソ連軍上陸す」③

2019年07月20日 | 占守島の戦い
平家物語の俊寛と有王の話しは有名だが、知るのは有王ひとりで、信憑性は心もとない。

近代の戦もそうゆう面が結構あり、
占守島の戦いの日本兵は多かったが(1万数千)、ソ連との停戦交渉では、立ち会った人数すら確認されていない。

正使であった杉野巌少将は、シベリア拘留を経て笠岡市に住み、戦後は隠居的な平穏な生活で一生を終えた。
杉野少将の日記が残され、発見される事が期待される。現代史の大きな資料に成るのは間違いない。



「8月17日、ソ連軍上陸す 占守島攻防記」 大野芳著・新潮社・平成20年発刊 より転記

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

グネチコ中将はニコリともせず、高圧的だった。
日本軍の武器引き渡しの手順、ソ連海軍が片岡湾に入る、など7ヶ条の文書が渡された。
長島は、
「軍使は杉野少将が正で、柳岡参謀長が副使です。グニチョコが”イエスかノーか“えらい剣幕で迫ってきた。
こうして杉野軍使以下の一行は19日午後8時ごろ、大観台に帰着した。
19日夕、戦車隊はふたたび師団参謀に後退を命じられた。

柳岡大佐は、すぐさま千歳台に進出していた師団長・堤中将に電話で報告した。
堤中将は“明日行って取り消してこい”と、
堤中将は、停戦したのち、武器引き渡しを交渉するのが手順だという。

8月19日夜、戦闘はまだつづいていた。
旅団司令部から、大観台に終結せよと命令が下った。
午後10時、撤退開始。

占守島の武装解除は、一日延びて8月23日に三好野飛行場で行われた。
その日正午、小雨そぼ降るなか、杉野巌少将は、1万3千の将兵を前に最後の別れの閲兵を行った。
総員、南西にむかって直立不動の姿勢をとり、遥拝したあと君が代を斉唱。
〈将兵は、流れ出る悲憤の涙を如何ともすることができなかった〉
やがて現れたグネチコ少将と杉野少将が握手をした。
戦車隊の須田准尉は現れず、軍刀を前に拳銃自殺した。

将兵の遺体収容は、再三交渉の結果、ようやく9月なかばに許された。
遺体の確認と埋葬が行われた。
移動可能な大砲や小銃は島から消え、壊れた大砲だけが残った。
12月8日より、将校が出航した。
着いたところはナホトカだった。
将校は軍刀を没収され、それぞれのラーゲルに送られることになる。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「北海道を守った占守島の戦い」 

2019年07月20日 | 占守島の戦い

「北海道を守った占守島の戦い」 上原卓 祥伝社新書 より転記

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx


8月9日午前0時、
ソ連軍は北満州、朝鮮北部および樺太への進攻を開始した。
タス通信によって知った大本営は、関東軍・支邦派遣軍・第5方面軍(千島・樺太・北海道)に「敵の進攻を破砕スヘシ」と下命した。

8月12日、第5方面軍司令官樋口中将は、
「宿敵ソ軍遂ニ我ニ向カッテタツ。断乎仇敵ヲ殲滅シ・・・」との訓話を出した。

8月16日、スターリンは、
「天皇が行った発表は宣言に過ぎない。極東のソ連軍は対日攻撃作戦を続行する」
同じ日に、トルーマンに親展電報を送り、クリル諸島全てと北海道の北東半分を占領することを認めるよう要求した。その上、東京にも保障占領を認めよと要求した。
--その理由は、日本は1919年から21年にかけて全極東を占領した(その報復をする)

8月17日、トルーマンから返信は、
ソ連軍のクリル諸島の占領は認めていたが、ソ連軍の北海道占領と東京駐留は拒否していた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

8月16日の夜、極東ソ連軍総司令官ワシレフスキー元帥は
カムチャッカの現有兵力をもって千島列島上陸作戦を命じた。
それを受け、極東軍は「占守島ほか北部諸島を8月25日までに占領する」
先遣隊が占守島の竹田浜に奇襲上陸する。
上陸部隊8000名が編成された。

・・・・・・・・・・・・・・・・・


8月18日の午前2時ごろ、
6.000トン級の輸送船14隻が約8.800名のソ連兵を乗せて竹田浜沖に現れた。


8月18日2時15分、国端崎監視硝から
「竹田浜沖に、輸送船らしきもの発見」
「上陸艇発見」
「敵、上陸開始、兵力数千人」と連続的に村上大隊に入った。
大隊長は司令部に連絡と、配下に射撃開始命令を発した。

8月18日2時30分、堤師団長は
旅団長・杉野巌少将に、「大観台に司令部を移し、兵力を結集して外敵を撃滅せよ」との命令を下した。
堤師団長は74旅団の一部を割いて占守島へ進出させることにした。

竹田浜に上陸しようとしたソ連軍先遣隊は、
上陸前に思いがけない障害にぶつかった。
上陸艇が重すぎる積載量のため、海岸線の150m~200mで座礁したのである。
大砲は置き去りにした。


泳ぐソ連兵、上陸したソ連兵に野砲・臼砲・速射砲を絶え間なく轟かせた。
前と左右の三方から日本軍の砲弾を浴びながらソ連軍は四嶺山方面を目指した。見晴らしの効く四嶺山を確保して主導権を握るためである。

千歳台にある第73旅団司令部の旅団長・杉野巌少将は、司令部の命令を受けると、直ちに大観台に司令部を移した。

午前4時ごろ、夜は明けたが、霧は深く、視界はよくなかった。

午前6時20分、戦車11連隊が出陣した。
午前6時50分、第一次攻撃。
午前7時50分、第二次攻撃。ソ連兵竹田浜に退く。

正午前、第5方面軍司令官樋口中将から
戦闘中止命令が届いた。
その命令を受け、堤師団長は
「18日16時をもって攻撃を中止し、防御に転移すべし」との命令を発した。

午後1時ごろ、堤師団長から杉野旅団長のところに
「ソ連軍司令部と停戦交渉をせよ。軍使は長島大尉をあてよ。長島大尉は停戦交渉に入ることを第一線の部隊に周知徹底させよ」との文書が届いた。

午後2時、軍使長島大尉は停戦文書を図嚢に入れ、旅団司令部を出発した。随行者は他に8名。
当日、ソ連軍に幽閉。


・・・・・・・・・・・・・・・・・


8月19日、午前6時30分ごろ
軍使・長島大尉とソ連軍の停戦交渉が始まる


午前8時30分ごろ、
長島大尉とソ連軍使が、杉野旅団長のいる大観台旅団司令部に着く。
ソ連軍使は、
「我が軍司令官が、本日15時竹田浜で会う」と伝えた。

午後2時、
軍使・杉野旅団長、長島大尉ほか随員4名が出発。

定刻の午後3時、
竹田浜の砂浜に立ったまま、停戦交渉は始まった。
杉野旅団長が、現在の線で停戦することを主張した。
ソ連司令官は、停戦即日本軍の武装解除を要求した。
ソ連軍の要求を受ける事にした。

午後6時ごろ、
杉野旅団長以下が大観台に帰還した。

杉野旅団長の報告を受けた堤師団長は、再度ソ連軍司令官との交渉に赴くよう柳岡参謀長に命じた。
「停戦即武装解除には応じられない。停戦後の治安を維持しつつ日本軍の武器を引き渡す手順、撤退について平和的に交渉したい」


・・・・・・・・・・・・・・・・・


8月20日の午前、
師団長の声明書を持った柳岡参謀長は、長島大尉他と竹田浜に向かった。
ソ連側将校は、これ以上交渉する必要はないと言った。
柳原参謀長と長島大尉は、ソ連軍に拘束された。

・・・・・・・・・・・・・・・・・


8月21日午前、
柳原参謀長と長島大尉は、ソ連軍将校3名とともにシープで大観台に帰還した。

柳原参謀長は幌莚島から占守島に進出してきた堤師団長に交渉結果を電話報告した。
その時すでに、堤師団長は第5方面軍司令官樋口中将から即時停戦と武器引き渡しに応認せよとの命令書を受け取っていた。

8月21日昼頃、
堤師団長は、ソ連軍将校に「停戦即武器解除」の要求を認める旨伝えるとともに、麾下の全軍に一切の戦闘行動の停止を命じた。
交渉は一段落した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・

8月22日、
スターリンは、北海道上陸作戦の中止命令を出した。
8月22日、
午後1時、堤師団長は降伏文書に調印した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・


8月23日、
スターリンは、「日本将兵50万人を抑留し、シベリアへ終結させよ」と極東軍司令官へ直電した。


・・・・・・・・・・・・・・・・・


8月24日堤師団長は、指揮官たちを集め、日本軍としては最後になる会同を行った。
「貴官たちは郷里に帰ったら、米軍管理下で生活しなければならなくなるが、その制約にめげることなく、新しい生活手段をみつけ、皇国再建のために鋭意努力してもらいたい」と訓示した。

しかし、下級将校と兵卒は樺太あるいはシベリアに、堤師団長以下の中・高級将校はヨーロッパに抑留されることになった。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「シベリア抑留」

2019年06月08日 | 占守島の戦い
「日本人はどんな目に遭ったのか」という副題の本の一部を転記する。


「シベリア抑留」長勢了治著・新潮選書 2015年発行より転記
xxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

北東方面では、もともとソ連軍ではなくアメリカ軍のアリューシャン方面からの進攻に対処することを重点としてきた。

樺太
8月11日早朝、樺太北部国境付近で日本軍と戦闘が始まった。
樺太では地上戦と空襲によって一般住民2000人が犠牲になった。
8月22日停戦協定を結んだ。
8月22日、難民を乗せた輸送船3船がソ連潜水艦により撃沈され1700人以上が犠牲になった。

占守島
8月18日の早朝、占守島を砲撃し竹田浜に上陸をはかった。
幌莚島の第91師団は国籍も定かでない敵に対して直ちに反撃し、激しい戦闘になった。
兵力は日本が優勢であったが、札幌の第五方面司令部は18日正午、正当防衛以外の戦闘を禁じた。
21日には休戦協定が成立した。
日本軍600、ソ連軍3000の死傷者としている。
ソ連軍は南下し、31日までに得撫(うるっぷ)島を武装解除した。

北方領土(南千島)
樺太から別部隊が上陸した。
8月28日択捉島、9月1日国後島、9月5日歯舞諸島に上陸した。
アメリカ軍の動向を気にしながら南千島を強行した。

北海道侵攻作戦
トルーマン大統領はスターリン首相に、8月15日
「満州・北朝鮮・樺太」がソ連軍に降伏することを報せた。
これに対して、スターリンは16日
「全千島を含める事、北海道の北半分を含める事」を要求する回答をした。
トルーマンは18日、
北海道の北半分は拒否した。
以降、千島列島の中部・南部の占領を急いだ。

スターリンは「国民への呼びかけ」を公表した。
「1904年、日露戦争の敗北は国民に苦しい記憶を残した。我が国の不名誉になった。
我が国民は日本を撃破し、その恥を拭う日が来るのを待っていた。
40年間その日が来るのを待っていたが今その日は来たのである」
樺太・千島の占領は、日露戦争の復讐であることを公然と宣言した。

千島からの引揚げ
千島には敗戦時、17.000の民間人と53.000の軍人、合わせて70.000人余りがいた。
軍人は、千島に拘留6.000、ソ連へ47.000送られた。
千島はソ連占領地では唯一、ソ連兵による略奪が少なく、暴行もほとんどなかった。
米ソ協定による正式引揚は昭和22年4月から昭和23年12月まで行われ、6.000の軍人、9.600の一般人が全員強制的に退去されられ、函館に送還された。












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

占守島 「8月17日、ソ連軍上陸す」②

2018年05月12日 | 占守島の戦い

「8月17日、ソ連軍上陸す 占守島攻防記」 大野芳著・新潮社・平成20年発刊 より転記

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx


それから何時間も経ったのか、爆音直後のことか国端崎の方向から砲声が聞こえた。
けたたましい有線電話のベルが鳴った。
戦車連隊本部から「心配いらん」との連絡だった。ソ連軍は座礁してる油槽船を砲撃しているだけだという。

17日午後10時45分ごろのことである。
国端崎は、とつぜんの砲撃をうけた。
「敵襲ですっ」監視哨の伝令がうわずった声で国端崎独立守備隊長・片桐中尉に報告した。
「よし、配置につけーっ」
彼の指揮下にあった40~50名が一斉に守備についた。

ここで片桐中尉は、大隊長・村上少佐に「ロバトカ砲台より射撃中」との一報を入れた。
第73旅団司令部情報係の下士官・松田は、通信士の脇にいて電話や無線のやりとりを確認傍受する役目であった。
手記で
≪「艦砲射撃?どこだアメリカか?」
「ロバッカから砲撃です!!」≫
ここから村上の記憶と、現場の将兵の手記とが食い違いを生じはじめる。

片桐中尉手記・
間断なく撃ち込まれる砲弾は、国端崎から小泊岬のあいだに炸裂した。
砲弾による砂煙りが無気味な様相を呈し、炸裂音で指示・号令も徹底しない。
村上少佐・
「刺激するな。放っておけ」と指示した。

団体長会同にあった堤中将の訓示に基づくものである。
これが17日午後10時45分ごろのことだ。


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南樺太--「最強師団の宿命」(南樺太)

2018年03月20日 | 占守島の戦い
南樺太のことを
著名な史家、保阪正康氏はどのように記述しているのだろう?

同書に限らないが、
8月9日未明・ソ連軍の参戦による満州の詳細な状況・情報は方面軍や樺太や千島の師団に届かなかったのだろうか。
満州の状況を知れば対策が違うが、どうもそこが気になる。



「最強師団の宿命」保阪正康著2008年毎日新聞発行より転記する。

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

南樺太

昭和20年8月9日にソ連軍は満州、そして南樺太に侵攻を開始した。
戦闘は8月15日以降もつづき、ソ連軍による民間人虐殺事件をも引き起こした。
そして第7師団は屯田兵以来の歴史に幕をおろした。


南樺太の守備にあたっている第88師団は、ソ連軍はこの地にも攻撃をしてくるだろうと、防備を固めている。
兵員は15.000余。この師団の上部は札幌に司令部を置く第五方面軍であった。
第88師団は樺太の防備であったが、司令部を豊原に移し、米軍上陸に備えて陣地をつくっていた。

ところが8月9日の早朝からソ連軍は、空軍機を飛ばし偵察を始めるとともに砲撃を加えてきた。
同時に南樺太と北樺太の国境線で激しい戦闘も起こった。
15日まで、双方の戦闘がつづいたが、日本軍は玉音放送のあとに武装解除することになった。

8月15日以後も、ソ連軍は戦闘を止めた日本軍部隊や民間人に激しい攻撃を行っている。
16日には恵須取への上陸を行い、正規の部隊でない義勇戦闘隊などが応戦しても、ソ連の攻撃に対峙することはできなかった。

『陸軍師団総覧』には、
「20日早朝、南部西海岸の真岡に突然ソ連軍が上陸を開始した。
すでに兵隊たちの召集解除を行った部隊もあり、あまりに一方的な戦闘であった。
ソ連軍は樺太全土を制圧するまで決して手をゆるめず、停戦交渉に訪れた日本軍軍使をも次々と射殺した。
そして22日になってようやく停戦交渉が成立するが、この間、真岡の戦闘で将兵105名、邦人は少なく見積もっても509名が犠牲になった」と書かれてある。

22日夕、第25連隊の連隊長がソ連軍に赴き、この地での停戦は成立している。
一方で、師団長とソ連との樺太全域の停戦交渉も22日から23日かけて、交渉は実った。
しかし、それでもなおソ連軍の攻撃はつづいたというのだ。

『旭川第7師団』の引用になるが、
「この成立時以降も、真岡での攻撃をゆるめず、さらに豊原駅に群がる集う避難民に銃爆撃を加えて、500名に及ぶ同胞を虐殺した。
樺太の戦いに於いてなくなった将兵は約700、
邦人の戦災死1.800
留萌沖で撃沈された引揚船の死者・不明者合わせて1.700
合計4.200が尊い命を散らした」

8月15日当時、南樺太には民間人が40.000~50.000人いたといわれる。
ソ連軍の攻撃に脅えた人たちは南樺太の各地から真岡や大泊などの港にむけて逃避行をつづけている。
しかし爆撃で死亡したり、
ソ連軍兵士の攻撃を前に自決する者も続出している。
真岡、大泊に上陸したソ連兵は略奪、暴行も行っている。

こうしたソ連の不法ともいうべき攻撃は未だに日本側の戦史には正確に記録されていない。



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする