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しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

占守島の闘い--「最強師団の宿命」(北千島)

2018年03月19日 | 占守島の戦い
占守島のことを
著名な史家、保阪正康氏はどのように記述しているのだろう?


「最強師団の宿命」保阪正康著2008年毎日新聞発行より転記する。

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北海道分割を阻止した昭和20年8月18日、占守島の戦い

スターリンは北海道分割占領を狙い、日本のポツダム宣言受諾後も戦闘を継続し、千島北端の占守島に上陸した。
しかし日本軍守備隊の予想外の頑強な抵抗の為、作戦は遅れ、北海道上陸は断念せざるを得なくなった。


玉音放送は、
国際法上は正式に戦争は終わったわけでないとの論もある。
しかし日本は、受諾の意思を明確にするため各地で戦闘を中止し、降伏の姿勢を示していった。

8月15日以後にも、ソ連と銃火を交えた師団がある。
8月15日以後の北海道の運命は、スターリンとトルーマン大統領との政治的駆け引きで決まったことがわかっているが、政治や軍の動きがわずかにずれただけで、北海道は分割されていたと理解している。

8月18日、午前2時15分に占守島への上陸を始めている。
「自衛戦闘」を命じられていた日本の守備隊も応戦している。
8月21日、第5方面軍は師団に停戦を命じ、正当な防衛以外は戦闘は禁止することを命じてもいる。
ソ連軍の兵力は8.000人で、日本の守備隊のほうが多く、戦闘をつづければ日本が勝つのも見えてもいた。
二日間の戦闘で、ソ連側の史料は日本側死者1.018人、ソ連は1.567人と見ている。

占守島で戦った日本兵は、二日間の戦闘のあとにに、23日に武装解除に応じ、極東ソ連軍の捕虜となっている。そしてシベリア収容所へ送られた。


占守島の戦いは、つまりは二日間だったが、
極東ソ連軍は全クリール諸島を軍事的に占領し、北海道に上陸するのは無理と悟ったことを認めた。
スターリンの計画を狂わせたのは、確かにこの二日間である。
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占守島 「8月17日、ソ連軍上陸す」① 

2018年03月01日 | 占守島の戦い
8月17日、ソ連軍上陸す 大野芳著・新潮社・平成20年発刊 より転記

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8月9日払暁、ソ連軍は、国境を越えて北満州、朝鮮北部、南樺太へ攻めてきた。
そして同日、大本営は、第5方面軍司令官・樋口中将に対して、国境方面所在の兵力をもって対ソ作戦の発動を準備するよう命じる。
第5方面軍は第91師団に戦闘準備を発令する。師団から旅団へ、旅団から大隊へという連携をみれば、北千島にソ連軍が絶対に来ないと断言できる保証は、どこにもなかったといえる。


8月14日夕刻、師団司令部は,隷下の大隊長に命令した。
「明日正午、重大な放送があるからもれなく聴くように」


終戦の聖断という大きな衝撃の中で、堤師団長がとくに考慮したことは次の二点である。
「第一は北千島の将来はどうなるかという問題である。これまでのいきさつから考えて、北千島は疑いもなく、一応米軍の領有するところとなろう。
したがって、遠からず米軍接収員がやってくると思われる。その際は世界に還たる精強なる大陸軍の最後を飾るにふさわしい堂々たる態度に出よう」


17日午前10時、
堤師団長以下40数名の部隊長は、師団作戦室に集まった。室内は異様な雰囲気につつまれた。
師団長は、終戦の将兵の心がまえ、終戦処理全般、一切の築城作業の中止を命令した。
「万一、ソ連が上陸する可能性がないでもないが、その場合は戦闘を行わず、以後の命令指示にしたがって行動せよ」と指示した。
席上、「対岸から砲撃を受けた」という報告もあったが、威嚇または演習とみなされた。
堤は言葉をつぎ、
「国端地域の村上大隊は、武装解除の軍使が来る可能性が高い。ごたごたが起こらないよう注意せよ。軍使が到着したならば即刻、連絡するよう配下に徹底させておけ」命じた。
この時、
「自衛のための戦闘を妨げず」と方面軍からの指示が伝えられた。

8月17日夕刻、
戦車第二中隊のの駐屯地は平穏、静謐に包まれていた。
ひさしぶりに飛行機の音がした。
「・・・?」
やがて、消えた。
歩兵第282大隊本部では、この機影を見ていた。
爆弾を一発落として行った。
「終戦だというのに何だろう。それにしても米軍機とは音が違うな」と話していた。



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8月18日(土)占守島

2018年02月21日 | 占守島の戦い

下記の本から転記する。
「年表 太平洋戦争全史」2005年 編者日置英剛 図書刊行会

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(昭和20年8月18日)

ソ連軍が千島列島最北端の占守島に、カムチャッカ半藤ロバトカ岬から直接長距離砲による砲撃を加え、午前一時半から上陸。
日本軍守備隊(第91師団基幹約2万3千人)と激戦。

占守島の艦攻、ソ連軍上陸船団を攻撃、海防艦2隻、輸送艦1隻を撃沈、4隻を撃破。(喜多和幸「われソ連艦隊を爆撃す」)

占守島上陸のソ連軍一個狙撃師団を海兵隊約8.300人を迎え撃った守備隊が水際に集中砲火を浴びせ、警備艇・上陸用舟艇など合計12隻を沈め大損害を与える。
午後4時の戦闘停止までにソ連軍の戦死傷2.000人以上。日本側は総攻撃で戦車27両を失い、戦車第11連隊長池田末男大佐はじめ戦死傷約600人。

午後、第5方面軍停船命令を出す。
19日現地で停戦協定成立。日本軍武装解除される。
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占守島 「黒崎の郷土史」

2018年02月19日 | 占守島の戦い
「黒崎の郷土史」平成19年発行より転記

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Kさんの太平洋戦争(シベリア抑留記抄)

昭和19年
4月15日 充員召集令状(赤紙)来る。
4月25日 独立白砲第18大隊第1中隊に入隊。
6月7日夜 隠密裏に小樽港を出航
6月16日 第1中隊は温称古丹島、第2中隊本部は占守島。

昭和20年
7月30日 内地より最後の郵便物来る。
8月4日 郵便戦にて出航、翌日占守島長崎海岸に上陸。
8月13日 後続の船団、米艦隊の攻撃でことごとく海没と知る。
8月15日 この日、天皇の重大放送有と聞くも、僻地の陣営では、その放送を聞くすべなし。全国民一大奮起の促すお言葉であろうと思っていた。
8月16日 15日の放送は終戦、といえども半信半疑、正式な示達はなし。
8月17日 朝、小隊長より終戦詔勅(しょうちょく)の確報を聞く。

8月18日未明 ソビエト軍占守島国端に上陸、現地部隊は竹田浜に上陸、戦闘中。
我々も戦闘戦備体制に入り命令を待つ、我が方、敵を水際まで押すも大本営よりは抵抗ならずの命令。
膠着対峙状態、我が方、軍使を出して15日ポツダム宣言受諾後の戦闘にして犠牲出すに忍びず、再三に渡り軍使を出し交渉に入れども事態は妥結せず。
見晴台の戦車部隊は全員四霊山の戦闘に参加、炊事要員2名を残し全員戦死。
8月21日 我々23名は孤立。食料無く、食料受領に中隊本部の所在も不明なまま出発する。 途中敵弾の雨あられ、進退窮する中、友軍の歩兵隊より退却を命じられ帰隊する。敵弾の飛来はようやく治まる。
8月22日 現地司令部よりたとえ大元帥閣下に背くとも武人の面目にかけ総攻撃に移らんと全軍前線に移り、ひたすら命令を待つ。
8月23日 漸く交渉妥結、正午三好野飛行場に全軍集結、武装解除される。

9月5日 ソ連の指揮下に入り作業に従事す。
10月10日 海軍基地の片岡湾に終結、ソビエト船に乗って占守島を出航。
10月18日 朝、ソビエト領カリマ州マガダン港へ投錨。
10月20日 マガダンより80キロ奥地フタロヒに着く、約4.000名。
10月22日 森林伐採作業に従事す。貧しい食料、作業はノルマの要求、寒気は募る、衣服はボロボロに破れ、寒地に適せぬ軍靴では耐えきれない冷たさに凍傷にかかる。栄養失調、体力は日々衰える。

・・・・・・・途中略・・・・・

(昭和24年)
10月11日 東舞鶴より、夕方京都駅に着く。岡山より妻・叔父来て下さる。
岡山駅頭で婦人会歓迎の茶の接待、父や娘や親類の方々来て下さる。
11時ごろ。金光駅に着く。黒崎村よりもの人たちが大勢迎えに来て下さり、郷関を出でて5年7ヶ月振りに夢にだに忘れ得ない故郷の土を踏む。


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占守島 「終わらざる夏」より

2018年02月12日 | 占守島の戦い

浅田次郎署「終わらざる夏」に、占守島旅団長、個人の話は載ってない。
小説より転記する。

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未明に攻撃が始まると、師団司令部は大本営宛ての電文を起案した。
札幌の方面軍の頭越しに打たなければ間に合わぬという緊急電である。


今十八日未明 占守島北端に敵(現地の報告不明成なるもソ軍なるか如し)の一部上陸し 第91師団もまたこれをむかえて自衛的戦闘実施中なる処 敵はさきに停戦を公表しながらこの挙に出つるは甚だ不都合なるを以って 関係機関より速やかに折衝せられたく上甲す  


少なくとも大本営は、この実情をただちに連合軍に対して訴えたはずである。
アメリカからソ連へという手間を差し引いたところで、前線部隊の錯覚ならばとうに戦闘は中止されていなければならなかった。
米国が日本の電文を無視したのか、ソ連が米国の要請を無視したのか、そのどちらかということになる。
こんな孤立無援な戦いがあるものだろうか。
世界大戦は三日前に終わっている。状況によっては止めても止まらぬ戦線もあるだろうが、終わったあとに始まったのだ。

攻められたなら迎え撃つほかはない。
敗れた国家がこの戦闘を命ずるはずがない。世界中の悪意を敵とみなして戦うほかはなかった。
まさに孤立無援の戦いである。
だが、これだけは言える。
死にたくないから戦う正当防衛の戦いではない。
千島列島はかつて平和的な外交条約によって定められた日本の領土である。
たとえ世界中が、あるいは仮に日本政府や大本営までもこの企みに加わっていたとしても、九十一師団はすべてを敵に回して戦うほかはなかった。
領土ばかりではない。この島には明治の昔から住みついている、開拓団の数家族がいた。彼らのふるさとを奪われぬために、二万三千の将兵は命を投げねばならぬ。軍人の務めとはそういうものだからである。




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8月18日 ソ連軍、占守島に上陸「太平洋戦争通史」

2018年01月31日 | 占守島の戦い

「太平洋戦争通史」筒居譲二著 文芸社 2013年発行 より転記

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8月18日 ソ連軍、占守島に上陸

15日以降もソ連軍による満州侵攻は続き、関東軍との戦闘は継続されていた。
ソ連も対日参戦を急いだため準備不足もあり、また戦力衰えたと言えども関東軍の必死の抵抗もあり、ソ連軍の進撃は予定より遅れていた。

そのような中の18日、マッカサーの要求によって大本営は、陸海軍全軍に対し停戦命令を下した。(自衛行動は24日まで認める)。
しかしソ連軍は、関東軍の降伏と停戦要求を無視した行動を続ける。

18日には、千島列島の最北端にある占守島に上陸。
同島には第73旅団、戦車11連隊などがあり、その反撃により上陸したソ連軍は大きな損害を出している。

その後ソ連軍は日本軍の抵抗を受けず、千島列島の島々に北から南へと次々に上陸。
9月3日までに色丹島や歯舞諸島まで、つまり千島列島全てを占領してしまう。
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占守島、ソ連軍上陸頃の年史

2018年01月30日 | 占守島の戦い
60年安保闘争は、
沖縄は、米帝が占領しているから返還は無い。
千島は、社会主義のソ連だから(帝国主義でないので)、講和すれば千島を返還してくれる。
という一面があった。
事実は逆となり、返還の見通しは全くない。
終戦前後のソ連の行動や、シベリア拘留を思えば、ソ連が千島を戻すことは考えらないが・・・・なぜに、浅はかな思考ができたのだろう?不思議だ。



「日本軍事史年表」吉川弘文館 2012年3月発行より転記する。

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8.6 B-29、広島に原子爆弾を投下
8.6 ソ連首相スターリン、極東ソ連軍に対日参戦を指令
8.8 (8.9未明)日本、モスクワ放送でソ連の対日宣戦布告を知る
8.9 ソ連軍、満州・朝鮮北部・樺太に侵攻を開始
8.9 大本営、関東軍に全面的対ソ作戦発動の準備を発令。関東軍対ソ全面開戦準備を発令
8.11 ソ連軍、南樺太に攻撃を開始
8.11 中共軍、満州への進撃を命令
8.15 大本営、積極進攻作戦中止を発令
8.15 ソ連軍、軍事作戦を継続、北東方面は9月5日まで続行
8.16 マッカサー、天皇・政府・大本営あてに戦闘停止を命令
8.16 大本営陸軍部、即時戦闘行動の停止を発令
8.16 大本営海軍部、即時戦闘行動の停止を発令
8.16 関東軍、戦闘行動停止の終戦命令を発令
8.16 第5方面軍、第88師団に自衛戦闘の実施と南樺太の死守を命令
8.16 ソ連首相スターリン、米大統領トルーマンにソ連軍による北海道北部の占領を要求。18日、トルーマン、これを拒否
8.17 ソ連軍、南樺太の恵須取を占領
8.18 ソ連軍、占守島に奇襲上陸
8.18 占守島の所在部隊、来攻のソ連軍を反撃、ソ連船舶に多大な損害を与える。16時、日本軍、戦闘を停止
8.21 占守島の日ソ両軍、停戦
8.22 南樺太で日ソ両軍の停戦交渉、成立。ソ連軍交渉成立後も無差別攻撃、直後に豊原を空襲。
8.22 樺太からの引揚船、国籍不明の潜水艦に攻撃され沈没。死者約1.700人。
8.23 ソ連首相スターリン、日本兵捕虜50万人のシベリア抑留、強制労働を指令。
8.29 ソ連軍、択捉島を占領
9.1 ソ連軍、国後・色丹島を占領
9.2 降伏文書調印式、東京湾上の米戦艦ミズーリで行われる。
9.5 ソ連軍、歯舞諸島占領。千島全島の占領、完了



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占守島③占守島水際殲滅戦

2018年01月24日 | 占守島の戦い

「陸軍部隊戦史」新人物往来社・2001年7月発行より転記する

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幌莚島のすぐ北方にある占守島へ日本降伏の三日後に、あたかも降伏は認めないかのように不当にもソ連軍が攻撃をしかけ上陸してきた。
占守島の部隊はこれにたいして徹底した自衛戦闘を展開し、最後はソ連軍約6.000名を海岸に追いつめ、崩壊寸前の態勢で矛を収めた。
日本軍死者数百名にたいして、ソ連軍は三千名以上が戦死した。
停戦に際しソ連上陸司令官は「日本軍が総攻撃しなかったことに感謝する」と述べたほど、近代戦まれに見る水際殲滅戦と言われる所以である。

万一占守島の日本軍が無抵抗でソ連軍に明け渡していたら、勢いに乗じて北海道に上陸していただろうし、あるいは東北地方まで占領地を広げていたかも知れない。

実際、占守島の占領後もソ連軍は武力で千島列島を侵攻し続け、8月28日は択捉島、9月1日は色丹島、5日に水晶島と進み、そこでようやく止まった。
北海道まであと一歩という地点である。
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占守島②失われた北の故郷

2018年01月24日 | 占守島の戦い

「北海道の歴史」山川出版社・昭和44年発行 より転記する

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失われた北の故郷

昭和20年8月15日、悪夢のような戦争は終わった。
しかし、北海道の周辺は、むしろそのあとで戦闘がおこなわれたのである。

8月17日、樺太へ侵入したソ連軍とのあいだに、18日には北千島占守島に上陸したソ連軍をむかえて激戦がおこなわれた。崩壊状態の大本営停戦命令が、末端まですみやかに伝達されなかったためである。
まさに、あたら死なずにすんだ尊い生命が、8月15日後の数日に多く失われたのである。

北千島守備隊は、ニュースとして終戦を知っていたが、命令のないまま迎撃し、18日夕刻にいたって停戦、全千島の日本軍は29日までに武装解除された。

島民たちの約半数は小舟で根室方面へ脱出したが、残った住民は、翌翌年、樺太経由で強制送還されたのである。
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占守島①

2018年01月11日 | 占守島の戦い
浅田次郎「終わらざる夏」集英社文庫2013年1刷より転記

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「千島列島に占守島という小さな島がある。
札幌の第五方面軍司令部からは遥かに離れ、91師団司令部も手前の幌莚島だ。
しかもその占守島には、最新鋭の戦車連隊と一個旅団、一万三千の精兵がいる。
本来なら本土決戦用に転用して然るべきだが、四十輌もの戦車を輸送する船腹がない。
実にもったいない話だが住民もいない北の孤島に、帝国陸軍の精鋭部隊が奇跡的に無傷のままあるというわけだ。
こうした場所にはともかく英語に堪能な兵隊を送っておかねばなるまい」

昭和18年5月アッツ島が玉砕した時、米軍が千島列島を南下すると考えられた。
そこで急遽、第91師団の動員を下令し、満州から戦車連隊まで転用して上陸に備えたのだが、米軍はついに千島にはやってこなかった。

占守島という千島列島最先端の島に、まさしく奇跡の帝国陸軍が残されたのである。

「米軍ではなく、ソ連が来るということはありませんか」
「ある。
だが、樺太と満州に限定されるだろう。わざわざカムチャッカから輸送船を出して、北千島に上陸するほど暇でもあるまい」

国土として価値も薄い北千島に、ソ連が米軍の頭越しに上陸してくるはずはあるまい。

「まあ、万一の為、通訳を出しておかねばならんという好例だ」











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