しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

大相撲笠岡に来る

2018年01月22日 | 昭和26年~30年
大相撲は昭和33年から本場所が6場所になった。
その1~2年前は4本場所で、九州と名古屋は準本場所と呼ばれていた。
準本場所が無い時代は一門別の巡業が主流だったようだ。

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2018.1.19、宴席(5名)での話。
Oさん・西本町、Iさん・吉浜、Fさん・北木島、Hさん・大島

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談・Oさん

今のホリディのことろ、
あそこにサーカスがようきょうた。
栃錦は来とった。
風呂は「おおゆ」(西本町の銭湯)があった。(相撲の後で力士は)みんなそこへ入った。
巡業はいちんちでおわった。(宿泊は笠岡にしていない)
笠岡にう来たはいっぺんだけ。
幕を張って柱を立てとった。
ワシの記憶では吉葉山が来てねぇん。(一門別のせい?または吉葉山は休場が多かった)
栃錦と千代の山は最後に横綱決戦をやった。

終わったら、
笠岡駅から汽車に乗って福山駅へ向かった。

大起(おおだち)がおった。50貫。大起は岩みたいじゃった。


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大相撲北木島に来る

2018年01月21日 | 昭和26年~30年
漫才師・千鳥の大吾が話す北木島。
いっぽう、映画館が3館、大相撲の興行もある北木島もあった。

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2018.1.19、宴席(5名)での話。
Oさん・西本町、Iさん・吉浜、Fさん・北木島、Hさん・大島
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談・Fさん

小学校の一年生か?その一年前じゃった。
(少学校には幼保に行かず直接進学)

うちのお祖父さんが勧進元じゃった。
お祖父さんが相撲好きじゃった。双葉山の写真があった。
九州の勧進元の紹介でこっちへ呼んだようた。
どっから(四国、福山、笠岡その他)北木へ来たのかはわからん。
小学校へ上がって行ったら(校庭に支度部屋、または有料区域の囲い?)、囲いより大内山の方が高かったことをワシは記憶しとる。
相撲場所は小学校か今の中学校か定かじゃなあない(忘れた)。たぶん小学校。
栃錦と若乃花が組んだのを桟敷で見た。
鏡里と栃錦は来た。
お祖父さんの膝のうえで(ただで)見ょうた。
栃錦と大内山をよう覚えとる。

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大相撲寄島に来る

2018年01月21日 | 昭和26年~30年

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2018.1.19、宴席(5名)での話。
Oさん・西本町、Iさん・吉浜、Fさん・北木島、Hさん・大島
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談・Hさん

ワシが中学校の時、寄島の大浦神社で大相撲をした。
小学校から見に行っとる。

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サーカス笠岡に来る

2018年01月21日 | 昭和26年~30年
場所は現在のホリディ。

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2018.1.19、宴席(5名)での話。
Oさん・西本町、Iさん・吉浜、Fさん・北木島、Hさん・大島
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談・Oさん

サーカスは3回ほど来た。

しょうもねえなあ思うサーカスもあった。(当時はサーカスの数が多かった)
なんでしょうがねぇか、ゆうと
大きな四角な箱があった。
その中へ人が入った。
蓋をする、
次に布かばーーんと降りる。
それが長しいこと開かんのよ。
蓋が開いたら、全然違う人が出てきた。
みんなわー、ゆうて手を叩いた。
あれだけ、たいくつするほど、長い間布を開けんのなら人が変わるのは当たりまえじゃ思うた。
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美空ひばり笠岡に来る

2018年01月20日 | 昭和26年~30年
子供の頃、近所の芸能通のおばさんが言っていた。
「美空ひばりが笠岡に公演にきた。
笠岡駅で、ひばりの尻をさわった人がいた。
それで、美空ひばりは笠岡がキライになったので、
もう二度と笠岡には来ない」と。

事の真実は知らないが、確かに死ぬまで二度と笠岡には来なかった。

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2018.1.19、宴席(5名)での話。
Oさん・西本町、Iさん・吉浜、Fさん・北木島、Hさん・大島
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談・Oさん

小学校へあがる前後の頃、大和座へ来た。

(ひばりの尻をさわったのは)
そりゃあ有名な話。
(ただし、出席の他3名は初耳)



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カバヤ文庫

2017年06月28日 | 昭和26年~30年
戦後70数年、岡山県内から生まれたもので最も有名なのが「カバヤ文庫」。
全国を席巻したが、ちょっと期間が短かったのが残念。

「明治・大正・昭和の郷土史・岡山県」昌平社出版1983発刊より転記する

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画期的な宣伝方式のカバヤ文庫

キャラメルを買うと絵本がもらえる。
昭和27年から29年にかけて、ちょうど子供向けの本が払底していた敗戦後の社会にカバヤ食品のこの商法は歓迎された。
キャラメルの箱に1点から10点までの文庫カードが入っていて50点ためると1冊の本がもらえる。
このためカバヤ児童文化研究所をつくり、池田隆政を所長に迎え、世界名作物を選んで各冊に京大・岡大はじめ大学教授の推薦文を載せた。
カバヤ文庫は2500万冊発行されたといわれる。
昭和28年には売上で明治製菓を追い越し森永製菓に迫った。






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茂平の「瀬戸の花嫁」

2015年10月02日 | 昭和26年~30年
歌だけでなく言葉としても「瀬戸の花嫁」は有名だが、では本当の“瀬戸の花嫁“を見たことがあるがある人は何人いるだろう。
これは神島内浦から船に乗って茂平に嫁入りした叔母の嫁入り写真。


結婚写真であるが、今や立派な記録写真と言える(と思う)。


茂平港に着いた叔母。
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港で花嫁を見物する子供たち。


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茂平内海(うちうみ)のイナ取り

2015年06月25日 | 昭和26年~30年
昭和30年頃、茂平にもっとも人が集まる行事だった。
遊水池(外海に対して内海・うちうみと呼ばれていた)で汽水魚を獲る行事。

主にイナとボラを獲る。ウダと呼ばる釣鐘状の竹籠を使い捕獲していた、。他に投網もあったが入漁料が高額だった。
主催者は漁協であったが、戦後は消防団へ移行した。
当日は茂平の婦人会が売店を出していた。

入漁者は近辺のみならず府中や井原から自転車にウダを積んで毎年来ていた。勤め人が多かった。
よーいドンで、およそ数百人の参加者が一斉に内海に入る様は壮観だった。

毎年9月第一日曜日に開催していた。茂平を挟んだ日曜日、吉浜や野々浜でも開催していたようだが確信はない。
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写真・茂平の水害

2015年06月03日 | 昭和26年~30年
江戸時代の干拓地の茂平は、大雨が降るとすぐに沼るでなく
すぐに大きな湖になった。

特に雨台風の時はそうだった。


大きな湖化した畑や水田への行き帰りは海の干拓堤防を大回りしてした。

それは昭和35年頃まで、つづいていただろうか?


所蔵・笠岡市生涯教育課

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写真・茂平の大池・小池

2015年06月03日 | 昭和26年~30年
茂平の大池と小池。

昭和20年代の写真と思えるが自信はない。


所蔵は笠岡市生涯学習課。
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