しょうやんはいつも大きな自転車で魚を売りに来ていた。
しょうやんは金浦から来ていた。茂平でも銅山は最後で、売れ残りが回ってきていたようだ。
しょうやんの自転車の魚の木箱には氷がまだ残っていて、うろこの匂いのついた氷を一つ二つ失敬するのが楽しみだった。
親はよく鯨肉を買っていたような記憶がある。
しょうやんは子のみのるさんといっしょに来だしてそれから2~3年後には来ないようになった。みのるさんが一人で来るようになる頃になってしばらくして、車での魚売りになった。
(父の話)
しょうやんは、親の代から茂平にきとった。
今はミーさんの子がきょうる。
宮の下の辺で夕方仕事から帰る人にうっとる。
今は好きな物を好きなだけに買うんで、皆大門のウエルマートやそわぁな店でこうてくるけぃのお。
(しょうやんの時代は家からざるや器を持って買いに出ていた)
魚屋は近辺で捕れるものを持って来ようた。笠岡(笠岡魚市場)のが主じゃった。
それと「送り」があらぁの。よそから氷詰めで持って来るのが。
笠岡の市場で分けて。せぇもきょうた。
時々、うたせがきょうた。
夜、うたせ網をしたのが朝売りにきょうた。
戦前から来ようた。
頭の髪にはシラミがいて、着物にはノミが何匹もいた時代。
小学生女子にはシラミ退治のため、まっ白い粉を頭からふりかけられていた。
男子は坊主頭で対象外、女子がやられる(?)のを見ていた。
(姉の話)
イヤダネェ!!!
運動場で。
一列に並んでね。
掻けてもらったんよ。気持ちわるぃ。
くしゃみは出るし。真っ白にはなるし。
粉をかけまくるんよ。
おじさんはどうしてこんな事を。と、憎らしゅうてね。
きゃーきゃー言いながら。
パタパタ粉を叩いて(服の粉を落としていた)
小学生女子にはシラミ退治のため、まっ白い粉を頭からふりかけられていた。
男子は坊主頭で対象外、女子がやられる(?)のを見ていた。
(姉の話)
イヤダネェ!!!
運動場で。
一列に並んでね。
掻けてもらったんよ。気持ちわるぃ。
くしゃみは出るし。真っ白にはなるし。
粉をかけまくるんよ。
おじさんはどうしてこんな事を。と、憎らしゅうてね。
きゃーきゃー言いながら。
パタパタ粉を叩いて(服の粉を落としていた)
昭和20年代の末頃、茂平の堤防(内海側)には
高丸から水門付近まで一直線のトロッコが走った。
(父の話)
苫無から茂平の水門までの堤防工事は八百万円で行った。
工事作業者は主に茂平・用之江などからであった。
高丸からトロッコを使用して、堤防の内側を補強する工事であった。
目的は台風・高潮などで茂平の堤防が決壊の心配が常にあったから。
ポンプ場も併せて新しくした。
(民間建設会社ではなく)村の直営工事でした。
高丸の上からトロッコで(土を積んで)降ろしょうた。
上からと~~んと降ろしょうた。若い人は平気で。
大怪我をしゃあせんか、言うくらい。危ない事をすんじゃ。
ほとんど助成でやっとった。国の助成金で。
それだけ運動して国から取りょうた。港湾関係はほとんど国の助成じゃった。
村であわんな大きな仕事は出来ん。
内海側を補強して(堤防自体を)強うした。
幅もちいと広げての。
高丸から水門付近まで一直線のトロッコが走った。
(父の話)
苫無から茂平の水門までの堤防工事は八百万円で行った。
工事作業者は主に茂平・用之江などからであった。
高丸からトロッコを使用して、堤防の内側を補強する工事であった。
目的は台風・高潮などで茂平の堤防が決壊の心配が常にあったから。
ポンプ場も併せて新しくした。
(民間建設会社ではなく)村の直営工事でした。
高丸の上からトロッコで(土を積んで)降ろしょうた。
上からと~~んと降ろしょうた。若い人は平気で。
大怪我をしゃあせんか、言うくらい。危ない事をすんじゃ。
ほとんど助成でやっとった。国の助成金で。
それだけ運動して国から取りょうた。港湾関係はほとんど国の助成じゃった。
村であわんな大きな仕事は出来ん。
内海側を補強して(堤防自体を)強うした。
幅もちいと広げての。
昭和28年10月城見村は笠岡市と合併した。
(父の話)
名義を変更するのが主であった。
城見小学校・村道そして茂平で言えば山があった。
城見村の場合大宣は、大宣の更に小単位での協同所有地が多く市への名義移管は少なく、茂平にあった村有地の笠岡市への移管が一番多かった。
茂平から多かった見返りとして茂平に道路工事をしてもらった。
合併はまず住民に説明会を開いた。
茂平はばんやのとなりの公民館で、用之江と大宣もそれぞれ公民館で住民に説明会をした。
説明は村長が主にした。
合併に対する意見(質問)や、反対意見もなく、ただの説明会であった。
反対意見はなんもありゃぁせん。
城見村議会での合併決議は全員賛成で可決された。
(合併に対して祝いの行事は、城見村は何かしたか ?の問いに)
なんもしとらん。なんも、ありゃへん。
市会議員の改選までは「協議会委員」という名目じゃった。
村会議員の時と同じように、城見地区で問題があれば(旧)村会議員で相談して。ということで、だいしょう(お金・手当てを)くりょうた。
最初の市会議員のときまで。それは陶山も城見も同じ。
のぼるさんは村長辞めて引退した。
村長は終戦後選挙で選ばれた。
選挙で選ばれたのはのぼるさんだけじゃ。
後は(戦前は)村会議員が談合して、決めっしまようた。
施設状況(昭和28年9月30日現在)
役場 延200平方米
小学校 1
保育所 1
伝染病隔離病舎 1
漁港 1
歴代村長
初代 大本苦楽一 M22・7・24~M25・4・10
二代 藤井偵太 M25・4・28~M29・4・27
三・四代 藤井偵太 M29・5・9~M37・5・8
五~八代 松浦亀寿 M37・5・17~T9・5・16
九・十代 松浦亀寿 T9・5・21~S3・5・16
十一~十三代 藤井益一 S3・5・21~S15・3・27
十四代 藤井久我太 S15・10・01~S19・9・30
十五代 加藤円ニ S19・10・01~S21・7・18
十六代 松浦昇 S22・4・5~S26・4・4
十七代 松浦昇 S26・4・23~S28・9・30
歴代村議会議長 初代 鳥越義夫 昭和22年5月10日~昭和24年4月25日
二代 山本武男 昭和24年4月26日~昭和26年4月29日
三代 山本武男 昭和26年5月8日~昭和28年9月30日
なお、「岡山県合併史」には下記の記述がある。
第三次合併 昭和28年10月1日 近接6村(小田郡城見村・陶山村・大井村・神島内村・吉田村・新山村と合併
近接2町7村(小田郡城見村・陶山村・大井村・神島内村・神島外町・吉田村・新山村、浅口郡大島村・里庄町)と昭和28年10月1日を目標の基本計画であった。
大島村・里庄町は郡を異としていて時期尚早で、神島外町は赤痢発生の対に追われ参加体制とれず見送った。
(父の話)
名義を変更するのが主であった。
城見小学校・村道そして茂平で言えば山があった。
城見村の場合大宣は、大宣の更に小単位での協同所有地が多く市への名義移管は少なく、茂平にあった村有地の笠岡市への移管が一番多かった。
茂平から多かった見返りとして茂平に道路工事をしてもらった。
合併はまず住民に説明会を開いた。
茂平はばんやのとなりの公民館で、用之江と大宣もそれぞれ公民館で住民に説明会をした。
説明は村長が主にした。
合併に対する意見(質問)や、反対意見もなく、ただの説明会であった。
反対意見はなんもありゃぁせん。
城見村議会での合併決議は全員賛成で可決された。
(合併に対して祝いの行事は、城見村は何かしたか ?の問いに)
なんもしとらん。なんも、ありゃへん。
市会議員の改選までは「協議会委員」という名目じゃった。
村会議員の時と同じように、城見地区で問題があれば(旧)村会議員で相談して。ということで、だいしょう(お金・手当てを)くりょうた。
最初の市会議員のときまで。それは陶山も城見も同じ。
のぼるさんは村長辞めて引退した。
村長は終戦後選挙で選ばれた。
選挙で選ばれたのはのぼるさんだけじゃ。
後は(戦前は)村会議員が談合して、決めっしまようた。
施設状況(昭和28年9月30日現在)
役場 延200平方米
小学校 1
保育所 1
伝染病隔離病舎 1
漁港 1
歴代村長
初代 大本苦楽一 M22・7・24~M25・4・10
二代 藤井偵太 M25・4・28~M29・4・27
三・四代 藤井偵太 M29・5・9~M37・5・8
五~八代 松浦亀寿 M37・5・17~T9・5・16
九・十代 松浦亀寿 T9・5・21~S3・5・16
十一~十三代 藤井益一 S3・5・21~S15・3・27
十四代 藤井久我太 S15・10・01~S19・9・30
十五代 加藤円ニ S19・10・01~S21・7・18
十六代 松浦昇 S22・4・5~S26・4・4
十七代 松浦昇 S26・4・23~S28・9・30
歴代村議会議長 初代 鳥越義夫 昭和22年5月10日~昭和24年4月25日
二代 山本武男 昭和24年4月26日~昭和26年4月29日
三代 山本武男 昭和26年5月8日~昭和28年9月30日
なお、「岡山県合併史」には下記の記述がある。
第三次合併 昭和28年10月1日 近接6村(小田郡城見村・陶山村・大井村・神島内村・吉田村・新山村と合併
近接2町7村(小田郡城見村・陶山村・大井村・神島内村・神島外町・吉田村・新山村、浅口郡大島村・里庄町)と昭和28年10月1日を目標の基本計画であった。
大島村・里庄町は郡を異としていて時期尚早で、神島外町は赤痢発生の対に追われ参加体制とれず見送った。
シャウプ改革以降市長村民税は「市長村民税」と「固定資産税」を中心の税体系となった。1950年度で両者の合計は80%を占めていた。
歳出の高いものでは、約20%を占める教育費とこれにつづく役場費があり、続いて土木費、産業経済費、社会および労働費などの順になっている。人件費をふくむ役場費が1955年度18.5%と高水準を維持している。
(父の話)
議会の報酬は年間100円ほどもらっていただけ。
いまでいうボランティアみたいなもんだった。
それと名誉職のようなもの。金もつこうとらん。
今は手当ても多いが、出る(出馬する時)時に金がいる。金持ちしかでれん。
予算は教育費。(突出して大)
次が産業経済費。
村役場費と続く。
何処の村の予算の構成も同じ。
城見村の議会の日数は?
飛び飛びで(年間累計)一ヶ月くれぃ。月に2~3日役場に行って(助役などから)相談受きょうた。
(その頃の城見村議はみんな百性だったのだろうか?)
みんな農業じゃった。おりゃあせん。
(百性仕事をしながら、行政・議案の勉強は出来ていたのだろうか?)
分からんのじゃ。年寄りはわからんのじゃ。
提案するんでもコッチが(自分が)若かったので作って(役場の人と打合わせ)議案を出していた。
ほれで、こうこうこうじゃ言うと(議員も)、ああそうか、それでええ言うてようた。分かるもんか爺さん議員ばっかりで。
ワシは役場に勤めとったし、数字もわかるし。そういうことで、なんやかんや皆こっちが(年寄り議員に説明を)しちゃりょうた。
(村の権限は限られていたのではないか?)
村の役人の給料、学校の先生の給料。
県が助成してくれても村が決定せんと、なんもきめられん。
じゃけい議員は強かった。
ワシは教育委員と土木委員と両方もっとった
(当時、城見村の上部は県になるが陳情等はどのようにしていたのか?)
岡山県小田郡城見村ようた。
西の浜の土木事務所、やこに行きょうた。
港湾やこ(県の出先では)むずかしい時にゃあ、県庁まで行きょうた。
県庁へ行く時にゃぁ、「何を持っていくか?」いうて。
(茂平の漁師が捕り立ての)いちばんエエ魚をくくんで持って行きょうた。
それをもって係長の机のほとりに置きょうた。「おお、すまん。すまんのう。」ようた。
そうやってしちゃらにゃあ、してくりょうらなんだ。
持って行ってやりゃあ、ようしてくりょうた。持っていかにゃあしてくれん。
昭和26年9月サンフランシスコで講和条約が結ばれ、翌
昭和27年4月28日
日本は被占領国家から独立国家に復帰した。
小田郡城見村の祝いの行事について。
(父の話)
(城見村ではどのような祝賀行事をしたのか)
これいうのは無い。
村としては別にしてない。
という事で、まだ生活することに精一杯の状態の城見村。それと、国民にとってマッカーサーの日本支配は関節統治であったために実際には国民生活になんの変化もなかった。
昭和27年4月28日
日本は被占領国家から独立国家に復帰した。
小田郡城見村の祝いの行事について。
(父の話)
(城見村ではどのような祝賀行事をしたのか)
これいうのは無い。
村としては別にしてない。
という事で、まだ生活することに精一杯の状態の城見村。それと、国民にとってマッカーサーの日本支配は関節統治であったために実際には国民生活になんの変化もなかった。
(父の話)
城見には医者は桑田がいた。大宣の為乗のとなりにいた。
それから桑田は湾頭に移った。その頃に鳥越先生が大宣に開院した。
鳥越先生は婿さんをもらい、病院の名前は婿さんの稲垣とした。
稲垣先生は他の病院にも(回生病院)にも勤務していた。
城見には医者は桑田がいた。大宣の為乗のとなりにいた。
それから桑田は湾頭に移った。その頃に鳥越先生が大宣に開院した。
鳥越先生は婿さんをもらい、病院の名前は婿さんの稲垣とした。
稲垣先生は他の病院にも(回生病院)にも勤務していた。
結核は長く日本の死亡率一位の「死の病」だった。
(母の話)
結核では大勢死んだ。
早い人は女学校の五年くらいで死にょうた。
薬が無かったんじゃけい。
(従兄弟は)学校の先生しょうたけぃ健康診断があった。それで、ひっかかった。結核がわかった。
嫁さん探すようたやさきに、そしたら結核じゃゆうてわかった。
「養生せにゃあいけん」ゆうてようたが、食べモンがなかろう。
へいで、鶏を飼おて『卵をたべぇ、たべぇ』ゆうてようた。せぃくれなことじゃ。
栄養食べて遊ぶしかねぃ。昔から結核はそうようた。「栄養とって遊べぇ」ようた。せぃだけのことじゃ。
めじろを獲って遊んでばぁ歩きょうた。
卵、卵ゆんで、「もう卵ばぁ、ほしゅうねぃ」いいだした。
ほれで、薬がねぇんでしでぃに弱ってな、・・・・かえぇそうにあった。・・・しめぃにゃ二十四・五で死んだ。
死ぬる時分に、・・・なんか肋骨を切りゃあ直る。ゆうていいだした。
じゃけどすすんどるけぃ、それもできなんだ。
ちいと早ようなけりゃいけんそうな。
結局しめいにゃ、どうにもどうもならんようになった。
ほれで早島の療養所にいった。このへんでは小平井にもあったが、岡山県では早島が一番大きかった。
おじいさんが見舞いに行った。
まだ若いけぃ気はしゃんとしとる。「かわいそうにあった」ゆうたが、・・・ほんとに。
「かわいそうにばぁあった。行かにゃぁえかった。」ゆうてようた。
直らん病気じゃった。へぃで恐ろしかった。
意識だけはしゃんとして、それで、死んでいく病気じゃった。薬が無かったんじゃけい。
(母の話)
結核では大勢死んだ。
早い人は女学校の五年くらいで死にょうた。
薬が無かったんじゃけい。
(従兄弟は)学校の先生しょうたけぃ健康診断があった。それで、ひっかかった。結核がわかった。
嫁さん探すようたやさきに、そしたら結核じゃゆうてわかった。
「養生せにゃあいけん」ゆうてようたが、食べモンがなかろう。
へいで、鶏を飼おて『卵をたべぇ、たべぇ』ゆうてようた。せぃくれなことじゃ。
栄養食べて遊ぶしかねぃ。昔から結核はそうようた。「栄養とって遊べぇ」ようた。せぃだけのことじゃ。
めじろを獲って遊んでばぁ歩きょうた。
卵、卵ゆんで、「もう卵ばぁ、ほしゅうねぃ」いいだした。
ほれで、薬がねぇんでしでぃに弱ってな、・・・・かえぇそうにあった。・・・しめぃにゃ二十四・五で死んだ。
死ぬる時分に、・・・なんか肋骨を切りゃあ直る。ゆうていいだした。
じゃけどすすんどるけぃ、それもできなんだ。
ちいと早ようなけりゃいけんそうな。
結局しめいにゃ、どうにもどうもならんようになった。
ほれで早島の療養所にいった。このへんでは小平井にもあったが、岡山県では早島が一番大きかった。
おじいさんが見舞いに行った。
まだ若いけぃ気はしゃんとしとる。「かわいそうにあった」ゆうたが、・・・ほんとに。
「かわいそうにばぁあった。行かにゃぁえかった。」ゆうてようた。
直らん病気じゃった。へぃで恐ろしかった。
意識だけはしゃんとして、それで、死んでいく病気じゃった。薬が無かったんじゃけい。
ペニシリンは、肺炎・中耳炎・破傷風・結膜炎・性病など細菌類の病気に効き、副作用もほとんどない「夢の万能薬」といわれた。
20年天皇の「人間宣言」を執筆中の幣原喜重郎首相が肺炎となりGHQの軍医長がペニシリンを射った。その効果は強力だった。
値段は昭和21年3930円から23年には513円まで下がった。
(父の話)
ペニシリンは万能じゃった。よう効きょうた。
肺炎なってもペニシリンを注射すりぁいっぺんに直りょうた。
戦前はなかった。
戦後は病気のひとも多く、なにぃでも効くんでなんでもペニシリンじゃった。
20年天皇の「人間宣言」を執筆中の幣原喜重郎首相が肺炎となりGHQの軍医長がペニシリンを射った。その効果は強力だった。
値段は昭和21年3930円から23年には513円まで下がった。
(父の話)
ペニシリンは万能じゃった。よう効きょうた。
肺炎なってもペニシリンを注射すりぁいっぺんに直りょうた。
戦前はなかった。
戦後は病気のひとも多く、なにぃでも効くんでなんでもペニシリンじゃった。