しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

終戦前後の②台湾

2020年04月21日 | 昭和20年(戦後)

「大日本帝国」の崩壊--東アジアの1945年 加藤聖文著・中公新書 2009年中央公論発行より転記。

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台湾の解放はもっとも遅かった。
台北で台湾総督安藤利吉が国民政府とのあいだで降伏文書に調印したのは、敗戦から2ヶ月以上経った10月25日。
暴動や略奪といった混乱もないなかでの台湾支配の終焉は、日本人にとっても台湾人にとっても、もっとも平穏に迎えられたものだった。
しかし、中華民国国民として「光復」を迎えたはずの台湾人にとって、期待が失望へと変わったこの日は、帝国臣民としての「降伏」でしかなかった。

台湾
8月15日、12:00。台湾全土に玉音放送が流れた。
しかし、台北の街は同じような日常がつづいた。
沖縄の米軍が進駐でなく、中国国民軍が進駐することになっていたためである。
重慶の奥の国府軍は、台湾に進駐するには相当の時間を要した。
そのため、日本軍がそのまま駐留し、台湾総督府が行政と治安をこれまで通り執り行う。

日本統治時代、
究極の目標は日本への同化なのか、自治権獲得なのか、台湾独立なのか、中国復帰なのか明確でなかった。
敗戦後、在台日本人は、
台湾人によって危害を加えられたり、不安に駆られたことがなかった。

日米開戦後に
中国は日本に宣戦布告し、日中戦争は第二次世界大戦に連結された。
中国は連合国の一員となった。

10月17日、ようやく国府軍が上陸。
目の当たりにした国府軍は、ボロ靴を履き鍋釜を担いで雨傘を背負った。
軍隊とはかけ離れ、侮蔑感さえ抱かせる姿であった。

蒋介石の台湾認識
中国軍=国府軍は解放軍なのか占領軍なのか----、台湾人のなかで計りかねる状態がしばらく続いた。
蒋介石は西方の国防の要と位置づけ、民心よりも戦略的価値にあったのである。
蒋介石は、台湾人も大陸と同じ漢族であって、祖国に復帰するのは当たり前だと考えていた。
だが、台湾は複雑な民族構成から成り立ち近代以降は大陸とは異なる独自の歴史経緯を辿っていた。

中国による接収と経済悪化
台湾で行われた日本側資産の接収ほど徹底されたものはなく、これは大陸でも同様であった。
大は建物、小は文具用品にいたるまで所持するすべての備品台帳の作成と提出であった。
さらに学校を含めた公的機関、三大国策会社ばかりでなく、個人経営も含めた企業も対象であった。
国民党の所有物となった。
対岸から中国商人も一攫千金を狙って大挙、台湾へ渡ってきた。
さらに大陸からインフレーションが持ち込まれ、台湾経済は急速に悪化していった。
台湾統治は大陸系によって握られ、
台湾人が期待した政治参加は限定され、言語や生活習慣の相違による軋轢が重なり、政府に対する不信感、大陸から来た中国人に対する反感は日増しに高まり、1946年早々に顕在化した。

日本人への冷たい視線
台湾人の不満は日本人へも向けられた。
新聞も反日記事による扇動が始まる。
在台日本人の中にも、接収にともなう失業、物価暴騰による生活苦、さらに反日の増加により、日本人の非特権化が明らかになってきたことで、日本への引揚を希望する者が漸次増加していった。

第10方面軍は、
敗戦時の30万人から17万人に減っていたが、依然として無傷で駐留していた。
中国大陸では国民党と共産党の対立が顕在化し、一挙に不安化がすすんだ。
12月15日、トルーマンは国民政府への積極的支援の政策を発表、残留日本軍の早期帰還も採り上げた。
大陸に留まる100万を越す日本軍と台湾の10方面軍の送還計画が立てられた。
12月25日、はやくも復員第一陣が出港するにいたった。
こうして1946年3月末から在台日本人の引揚がはじまり、5月末までに兵士の復員完了、民間人28万が引揚げた。
また台湾にいた朝鮮人は「韓僑」として扱われ、約2.000人が日本人引揚とほぼ同時に祖国へ送還された。

日本人の留用と「琉僑」
日本人の送還が決定されると同時に、日本人の本格的な留用を開始した。
日本人技術者を留用して技術移転を図るとうものである。
医者や金融関係、軍人まで含まれた。
台湾では、家族を含め約28.000人が留用された。
留用者を除き1946年末まで日本人が台湾を去った。
沖縄人(八重山諸島が多い)は、米軍占領の沖縄に還れず「琉僑」と呼ばれた。
日本人と区別して1946年4月から翌年にかけて15.000人が引揚げた。

1946年4月、軍の復員と民間人の引揚はいったん終了した。

1947年、「2・28事件」
台湾に土着する「本省人」と大陸から渡ってきた「外省人」といった区分が生まれ、彼らの溝は深まった。
1947年2月28日台湾全島に及ぶ政治暴動が発生した。
大陸からの軍隊増援により18.000~28.000人の台湾人が無差別に虐殺された。
とりわけ旧日本時代からのエリート知識層が大打撃を受けた。
この事件を機に対立は構造化され、大陸の中国人に対する「台湾人」意識が芽生えてゆく。

最後の皇軍兵士
1974年12月、インドネシアのモロタイ島で日本陸軍兵士であった中村輝夫一等兵が「発見」された。
中村は正式名「スニヨン」で日本統治時代に高砂族と呼ばれていた台湾原住民の出身であり高砂義勇隊として従軍していた。
日本語教育を受け、帝国臣民として志願して戦場に行った。
彼には日本政府から何の補償もなかった。
台湾人のあいだでいわれている「犬が去ったら豚がきた」、
台湾人の失望と日本に対する複雑な心情をよく表している。


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終戦前後の①朝鮮半島

2020年04月21日 | 昭和20年(戦後)
「大日本帝国」の崩壊--東アジアの1945年 加藤聖文著・中公新書 2009年中央公論発行より転記。

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1945年8月15日正午、「帝国臣民」は日本の敗戦を知った。
では”忠良なる爾臣民”とは誰を指したのか。
実はそこに表れる臣民とは、内地にいる「日本人」だけになっていた。
「国体護持」をめぐる対立のなかで、「帝国臣民」は一度も顧慮されなかった。


京城
韓国併合以来、朝鮮半島に君臨してきた「朝鮮総督府」の最後の総督は元首相の阿部信行であった。
8月9日午前0時にソ連軍が満州になだれこんだが、その30分後にはソ連軍機が朝鮮に侵入、日本の新潟と満州を結ぶ要衝の地であった羅津を数度にわたり爆撃した。
ソ連軍の侵入は、主戦場である満州を側面支援のものであった。
当時朝鮮半島に約70万人の日本人と財産をいかに守るか悩ました。
ポツダム宣言で朝鮮の解放が謳われ、日本の領土でなくなるのは確実だった。
だが、そこに住む日本人がどのように取り扱われるかは、わからなかった。
韓国併合前の状態に戻り、居留民として残留できるのか、
すべての日本人は朝鮮半島から追放されるのか、
どちらにせよ、誰が日本人の生命財産を保護するのか?

1919年に起きた3・1独立運動の
失敗によって海外へ亡命した独立運動家は上海で臨時政府をつくり、日米開戦時には日本に「宣戦布告」をしていた。
李承晩は米国で朝鮮独立を訴え続けていた。
金日成の抗日パルチザンはソ連領に逃げ込んでいた。

半島内にも総督府の監督下の民族主義者呂運亭がいた。
8月15日、総督府の進言で呂運亭は建国準備委員会を結成した。
敗戦時の警察官の7割は朝鮮人だった。そのため事態収拾の丸投げをしようとした。

日本人世話会
民間人が結成。仁川では残留か引揚かで議論が真っ二つに分かれた。
日本での生活基盤のない定住者が多かった。

第17方面軍の軍備
終戦頃北部は関東軍が担当、南部を方面軍が担当となった。
大本営は本土進攻作戦の一環として、大陸と日本の連絡を絶つため済州島か半島南部に上陸すると予測していた。
そのため増強された第17方面軍は無傷のまま23万の陸軍、3万の海軍兵力がいたとされる。

(8月19日に内務省で、朝鮮・台湾・樺太に在住する民間人は、出来る限り現地に於いて共存親和の実を挙ぐべく忍苦努力するとの方針が決定された)

8月22日、日本軍の武装解除は38度線以北がソ連軍、以南が米軍が担当すると連絡があった。

米軍が上陸後、公用語は日本語から英語になった。米軍政策への服従を求められた。
米軍は、朝鮮半島からすべての日本人を本国へ送還する方針を立てていた。
まず兵士の復員であった。
10月3日に米軍政長官が在朝日本人の本国送還を発表。
翌春まで40万人の民間日本人は引揚ていった。
その一方で、日本から多くの朝鮮人が帰還していった。

米英の独立に関する評価
第二次世界大戦で連合国は自由と民主主義を標榜していたが、民族自立と植民地解放を掲げていたわけではなかった。
植民地帝国の英・仏・蘭にとって、植民地解放は自殺行為に等しかった。
また多民族国家であるソ連や中国は、国家分裂を引き起こしかねない問題であった。
アメリカ以外は独立に関心を示さなかった。

米国が選んだ李承晩
米国生活が長く、ハーバード大で学びオーストラリア人の妻を持ち、英語が堪能な李承晩に白羽の矢を立てた。
その国の歴史も事情も知らないまま、米国本位の人物を押し付けて形式的な民主主義国家を作った結果、かえって独裁国家を生み出して事態を悪化させるという南ベトナムや中南米、中近東などで繰り返される米国外交の宿痾が、南朝鮮で早くも現れていたいたのである。

12月米英ソの外相会議があり、
統一国家は先延ばしとなった。
大日本帝国の崩壊後に朝鮮半島に生まれた二つの国家は、自らの力でなく米ソの思惑によって作られた。
しかし、朝鮮民族を代表する国家としての正統性を認めさせるためには、日本の敗戦と同時に自らの力で独立を勝ち取って、35年間にわたる屈辱を晴らしたとしなければならなかった。
韓国も北鮮も「建国の神話」を背負わなければならなかった。
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