「大日本帝国」の崩壊--東アジアの1945年 加藤聖文著・中公新書 2009年中央公論発行より転記。
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台湾の解放はもっとも遅かった。
台北で台湾総督安藤利吉が国民政府とのあいだで降伏文書に調印したのは、敗戦から2ヶ月以上経った10月25日。
暴動や略奪といった混乱もないなかでの台湾支配の終焉は、日本人にとっても台湾人にとっても、もっとも平穏に迎えられたものだった。
しかし、中華民国国民として「光復」を迎えたはずの台湾人にとって、期待が失望へと変わったこの日は、帝国臣民としての「降伏」でしかなかった。
台湾
8月15日、12:00。台湾全土に玉音放送が流れた。
しかし、台北の街は同じような日常がつづいた。
沖縄の米軍が進駐でなく、中国国民軍が進駐することになっていたためである。
重慶の奥の国府軍は、台湾に進駐するには相当の時間を要した。
そのため、日本軍がそのまま駐留し、台湾総督府が行政と治安をこれまで通り執り行う。
日本統治時代、
究極の目標は日本への同化なのか、自治権獲得なのか、台湾独立なのか、中国復帰なのか明確でなかった。
敗戦後、在台日本人は、
台湾人によって危害を加えられたり、不安に駆られたことがなかった。
日米開戦後に
中国は日本に宣戦布告し、日中戦争は第二次世界大戦に連結された。
中国は連合国の一員となった。
10月17日、ようやく国府軍が上陸。
目の当たりにした国府軍は、ボロ靴を履き鍋釜を担いで雨傘を背負った。
軍隊とはかけ離れ、侮蔑感さえ抱かせる姿であった。
蒋介石の台湾認識
中国軍=国府軍は解放軍なのか占領軍なのか----、台湾人のなかで計りかねる状態がしばらく続いた。
蒋介石は西方の国防の要と位置づけ、民心よりも戦略的価値にあったのである。
蒋介石は、台湾人も大陸と同じ漢族であって、祖国に復帰するのは当たり前だと考えていた。
だが、台湾は複雑な民族構成から成り立ち近代以降は大陸とは異なる独自の歴史経緯を辿っていた。
中国による接収と経済悪化
台湾で行われた日本側資産の接収ほど徹底されたものはなく、これは大陸でも同様であった。
大は建物、小は文具用品にいたるまで所持するすべての備品台帳の作成と提出であった。
さらに学校を含めた公的機関、三大国策会社ばかりでなく、個人経営も含めた企業も対象であった。
国民党の所有物となった。
対岸から中国商人も一攫千金を狙って大挙、台湾へ渡ってきた。
さらに大陸からインフレーションが持ち込まれ、台湾経済は急速に悪化していった。
台湾統治は大陸系によって握られ、
台湾人が期待した政治参加は限定され、言語や生活習慣の相違による軋轢が重なり、政府に対する不信感、大陸から来た中国人に対する反感は日増しに高まり、1946年早々に顕在化した。
日本人への冷たい視線
台湾人の不満は日本人へも向けられた。
新聞も反日記事による扇動が始まる。
在台日本人の中にも、接収にともなう失業、物価暴騰による生活苦、さらに反日の増加により、日本人の非特権化が明らかになってきたことで、日本への引揚を希望する者が漸次増加していった。
第10方面軍は、
敗戦時の30万人から17万人に減っていたが、依然として無傷で駐留していた。
中国大陸では国民党と共産党の対立が顕在化し、一挙に不安化がすすんだ。
12月15日、トルーマンは国民政府への積極的支援の政策を発表、残留日本軍の早期帰還も採り上げた。
大陸に留まる100万を越す日本軍と台湾の10方面軍の送還計画が立てられた。
12月25日、はやくも復員第一陣が出港するにいたった。
こうして1946年3月末から在台日本人の引揚がはじまり、5月末までに兵士の復員完了、民間人28万が引揚げた。
また台湾にいた朝鮮人は「韓僑」として扱われ、約2.000人が日本人引揚とほぼ同時に祖国へ送還された。
日本人の留用と「琉僑」
日本人の送還が決定されると同時に、日本人の本格的な留用を開始した。
日本人技術者を留用して技術移転を図るとうものである。
医者や金融関係、軍人まで含まれた。
台湾では、家族を含め約28.000人が留用された。
留用者を除き1946年末まで日本人が台湾を去った。
沖縄人(八重山諸島が多い)は、米軍占領の沖縄に還れず「琉僑」と呼ばれた。
日本人と区別して1946年4月から翌年にかけて15.000人が引揚げた。
1946年4月、軍の復員と民間人の引揚はいったん終了した。
1947年、「2・28事件」
台湾に土着する「本省人」と大陸から渡ってきた「外省人」といった区分が生まれ、彼らの溝は深まった。
1947年2月28日台湾全島に及ぶ政治暴動が発生した。
大陸からの軍隊増援により18.000~28.000人の台湾人が無差別に虐殺された。
とりわけ旧日本時代からのエリート知識層が大打撃を受けた。
この事件を機に対立は構造化され、大陸の中国人に対する「台湾人」意識が芽生えてゆく。
最後の皇軍兵士
1974年12月、インドネシアのモロタイ島で日本陸軍兵士であった中村輝夫一等兵が「発見」された。
中村は正式名「スニヨン」で日本統治時代に高砂族と呼ばれていた台湾原住民の出身であり高砂義勇隊として従軍していた。
日本語教育を受け、帝国臣民として志願して戦場に行った。
彼には日本政府から何の補償もなかった。
台湾人のあいだでいわれている「犬が去ったら豚がきた」、
台湾人の失望と日本に対する複雑な心情をよく表している。