「大日本帝国」の崩壊--東アジアの1945年 加藤聖文著・中公新書 2009年中央公論発行
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樺太・千島
樺太・千島は、帝国のなかで最後まで戦闘が続いていた。
「内地」の南端である沖縄は長く語り継がれても、内地北端で起きたソ連軍との戦闘はなぜか語り継がれることはなかった。
南樺太、
日本時代大泊の北方に位置を開発し豊原と名付けた。
1907年樺太庁が建設され豊原に置かれた。
人口比率は日本人95%で、アイヌやロシア人もいた。
1943年官製が改正され「内地」に編入された。
千島は
北海道の行政区域で、当初から「内地」だった。
千島列島の防備
1943年5月にアッツ島が玉砕すると、緊張が高まり、千島列島の日本軍は急速に増強されてゆく。
千島列島の戦略的要地は、
カムチャッカ半島との国境に位置する占守島および幌筵島。
最大の島である択捉島。
とくに択捉島は単冠湾や広大な土地があった。
1944年2月4日夜、幌筵島を米軍が艦砲射撃した。
1944年2月18日、千島・樺太・北海道を担当する第五方面軍(司令部は札幌)と、第27軍(司令部は択捉島)が新たに編成された。
さらに北千島に新設の第91師団(司令部は幌筵島)、南千島に第89師団(司令日は択捉)が配属され、対米防衛態勢が整えられていった。
樺太の防衛
ソ連との国境を接することから対ソ戦のなかに位置付けられていた。
やがて北樺太のソ連軍兵力が上回っていることが判明するが、対米戦で頭がいっぱいだった大本営と第五方面軍は、千島列島を最重要視し、樺太には関心を示さなかった。
1945年2月豊原の旅団は第88師団へ格上げされた。目的は、米軍の上陸を想定したものであって、ソ連を想定したものでなかった。
対米戦重視
戦局は悪化し、現実的になった本土決戦のために、千島防衛から北海道防衛に重点が移っていく。
その結果、千島方面の兵力を北海道へ抽出し第42師団は北海道へ移動、北千島と中千島は事実上放棄された。
第五方面軍司令部は、ソ連参戦の動きを把握しながらも、作戦計画を転換する柔軟性を持ち合わせていなかった。
ソ連侵攻
1945年8月9日朝、北樺太の国境にある国境警察がソ連軍の襲撃を受け2名戦死した。
第88師団はソ連軍の参戦を午前7時ごろ知った。
その2日後の8月11日、ソ連軍は本格的な攻撃を開始した。
第五方面軍は虎の子の第7師団(旭川)を樺太へ急派、北樺太への逆上陸を立案、しかし14日午後6時ごろポツダム宣言受諾が伝えられ、戦闘から停戦へ舵を切った。
国民義勇兵
1945年3月23日の閣議決定により、
本土決戦を控え一億玉砕が叫ばれるなか、一般住民を地域・職域・学校などの単位で編成し、作戦の後方業務・警防補助・災害復旧・物資輸送などに当たらせることを目的として結成された。
15~60才の男子、17~40才の女子を対象として敗戦間際に編成が行われた。
内地で編成された国民義勇兵は戦闘行為に参加することなく終わる、しかし樺太の義勇兵は実際の戦闘支援に従事していた。
玉音放送後も続く戦闘(樺太)
ソ連軍の攻撃は続き、第五方面軍は第88師団に対して自衛戦闘を命じたため、停戦と戦闘という相反する命令によって現場で混乱が生じた。
ソ連軍の攻撃が止まらないなか、第五方面軍も自衛戦闘の方針を変える事ができなかった。
ソ連の北千島への上陸
8月18日未明になり、今度はソ連軍が北千島の占守島に上陸したとの報がもたらされた。
占守島と幌筵島で米軍の上陸を待ち構えていた第91師団は、15日の玉音放送によって緊張感が一気に解けていた。
師団長の堤中将は北千島は米軍の占領になると考え接収準備を始めていた。
さらに17日には第五方面軍から18日午後4時までに戦闘行為の完全停止命令がもたらされ、内地帰還に向けた準備と兵器の処分もはじまっていた。
こしたなかで、ソ連軍の砲撃が開始され翌18日午前2時半ごろ、濃霧のなかソ連軍が占守島に上陸、日本軍との戦闘が始まった。
この報に第五方面軍も驚き、師団に対して即時停戦を命ずると同時に、大本営からも連合国最高司令部に対してソ連軍に停戦を伝えるよう依頼がなされた。
結局、
占守島の戦闘は21日の停戦まで続き、23・24日の両日にわたって武装解除が行われた。
日本軍の損害は死傷者600名といわれているが、ソ連軍の損害はそれをはるかに上回っていた。
北海道の占領要求
8月15日、トルーマンは日本軍降伏の担当区域の原案をソ連に送った。
8月16日、スターリンはソ連軍に対する日本軍の降伏地域に、千島列島全部を含めること、さらに釧路と留萌を結ぶ線の以北の北海道を含めることを要求した。
北海道を含める根拠は、シベリア出兵の代償であると主張した。
ヤルタ協定で千島列島をソ連に引き渡すことを決めている以上、拒絶するのは困難だった。
8月23日、スターリンは各方面軍に極秘電報を発信した。
「極東とシベリアの条件で肉体的に作業ができる日本人を、日本軍捕虜の中から50万人まで選び出すこと」
22日の豊原への空襲
真岡を占領したソ連軍は豊原へ向けて進撃をつづけた。
22日になって停戦協定が成立した、その直後ソ連軍が豊原を爆撃する事件が起きる。
最後の無差別爆撃となった豊原空襲は、22日正午を過ぎた頃、複数のソ連軍機によって行われた。
爆弾投下したうえに機銃掃射を加えた。100人以上が死亡した。
宗谷海峡では疎開者満載の三隻が国籍不明の潜水艦攻撃で撃沈され、1.700人の犠牲者を出した。
在留日本人
ソ連の占領下で生活することになった日本人は、多くがそのまま職場にとどまった。
ソ連は在留日本人の送還には全く興味を示さなかった半面、
ロシア人と同じ労働条件、同じ給与、同じ職場を与え実生活の面では大きな違いはなかった。
学校教育も神社も、日本人の生活習慣に寛容であった。
ロシア人のあいだでは、日本人がソ連国民になると見ていたようで、多民族国家であるソ連にとって、特に日本人を外国人扱いして排除する必要性もなかった。
主食の米は北朝鮮から輸入した。
引揚
米国は、占領地や植民地に在住する日本人を本国へ送還することにこだわっていた。
結局、
満州からの引揚が開始された1946年春以降、樺太と北朝鮮、大連のソ連占領地域からの日本人引揚が米ソ間で協議されるようになった。
1946年12月19日、「在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定」が締結され、樺太および千島からの日本人引揚が開始、1949年7月までに29万人が引揚げた。
残された民族
南樺太にはロシア人、白系ロシア人、ポーランド人、さらに23.500人の朝鮮人がいた。
ソ連は国交のある北朝鮮への帰国は認めたが、多くは南朝鮮出身者で韓国への帰国を希望した。
そのため1990年の韓ソ国交樹立まで待たなければならなかった。
朝鮮人などと結婚した日本人は残留し、ソ連国民となった。
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樺太・千島
樺太・千島は、帝国のなかで最後まで戦闘が続いていた。
「内地」の南端である沖縄は長く語り継がれても、内地北端で起きたソ連軍との戦闘はなぜか語り継がれることはなかった。
南樺太、
日本時代大泊の北方に位置を開発し豊原と名付けた。
1907年樺太庁が建設され豊原に置かれた。
人口比率は日本人95%で、アイヌやロシア人もいた。
1943年官製が改正され「内地」に編入された。
千島は
北海道の行政区域で、当初から「内地」だった。
千島列島の防備
1943年5月にアッツ島が玉砕すると、緊張が高まり、千島列島の日本軍は急速に増強されてゆく。
千島列島の戦略的要地は、
カムチャッカ半島との国境に位置する占守島および幌筵島。
最大の島である択捉島。
とくに択捉島は単冠湾や広大な土地があった。
1944年2月4日夜、幌筵島を米軍が艦砲射撃した。
1944年2月18日、千島・樺太・北海道を担当する第五方面軍(司令部は札幌)と、第27軍(司令部は択捉島)が新たに編成された。
さらに北千島に新設の第91師団(司令部は幌筵島)、南千島に第89師団(司令日は択捉)が配属され、対米防衛態勢が整えられていった。
樺太の防衛
ソ連との国境を接することから対ソ戦のなかに位置付けられていた。
やがて北樺太のソ連軍兵力が上回っていることが判明するが、対米戦で頭がいっぱいだった大本営と第五方面軍は、千島列島を最重要視し、樺太には関心を示さなかった。
1945年2月豊原の旅団は第88師団へ格上げされた。目的は、米軍の上陸を想定したものであって、ソ連を想定したものでなかった。
対米戦重視
戦局は悪化し、現実的になった本土決戦のために、千島防衛から北海道防衛に重点が移っていく。
その結果、千島方面の兵力を北海道へ抽出し第42師団は北海道へ移動、北千島と中千島は事実上放棄された。
第五方面軍司令部は、ソ連参戦の動きを把握しながらも、作戦計画を転換する柔軟性を持ち合わせていなかった。
ソ連侵攻
1945年8月9日朝、北樺太の国境にある国境警察がソ連軍の襲撃を受け2名戦死した。
第88師団はソ連軍の参戦を午前7時ごろ知った。
その2日後の8月11日、ソ連軍は本格的な攻撃を開始した。
第五方面軍は虎の子の第7師団(旭川)を樺太へ急派、北樺太への逆上陸を立案、しかし14日午後6時ごろポツダム宣言受諾が伝えられ、戦闘から停戦へ舵を切った。
国民義勇兵
1945年3月23日の閣議決定により、
本土決戦を控え一億玉砕が叫ばれるなか、一般住民を地域・職域・学校などの単位で編成し、作戦の後方業務・警防補助・災害復旧・物資輸送などに当たらせることを目的として結成された。
15~60才の男子、17~40才の女子を対象として敗戦間際に編成が行われた。
内地で編成された国民義勇兵は戦闘行為に参加することなく終わる、しかし樺太の義勇兵は実際の戦闘支援に従事していた。
玉音放送後も続く戦闘(樺太)
ソ連軍の攻撃は続き、第五方面軍は第88師団に対して自衛戦闘を命じたため、停戦と戦闘という相反する命令によって現場で混乱が生じた。
ソ連軍の攻撃が止まらないなか、第五方面軍も自衛戦闘の方針を変える事ができなかった。
ソ連の北千島への上陸
8月18日未明になり、今度はソ連軍が北千島の占守島に上陸したとの報がもたらされた。
占守島と幌筵島で米軍の上陸を待ち構えていた第91師団は、15日の玉音放送によって緊張感が一気に解けていた。
師団長の堤中将は北千島は米軍の占領になると考え接収準備を始めていた。
さらに17日には第五方面軍から18日午後4時までに戦闘行為の完全停止命令がもたらされ、内地帰還に向けた準備と兵器の処分もはじまっていた。
こしたなかで、ソ連軍の砲撃が開始され翌18日午前2時半ごろ、濃霧のなかソ連軍が占守島に上陸、日本軍との戦闘が始まった。
この報に第五方面軍も驚き、師団に対して即時停戦を命ずると同時に、大本営からも連合国最高司令部に対してソ連軍に停戦を伝えるよう依頼がなされた。
結局、
占守島の戦闘は21日の停戦まで続き、23・24日の両日にわたって武装解除が行われた。
日本軍の損害は死傷者600名といわれているが、ソ連軍の損害はそれをはるかに上回っていた。
北海道の占領要求
8月15日、トルーマンは日本軍降伏の担当区域の原案をソ連に送った。
8月16日、スターリンはソ連軍に対する日本軍の降伏地域に、千島列島全部を含めること、さらに釧路と留萌を結ぶ線の以北の北海道を含めることを要求した。
北海道を含める根拠は、シベリア出兵の代償であると主張した。
ヤルタ協定で千島列島をソ連に引き渡すことを決めている以上、拒絶するのは困難だった。
8月23日、スターリンは各方面軍に極秘電報を発信した。
「極東とシベリアの条件で肉体的に作業ができる日本人を、日本軍捕虜の中から50万人まで選び出すこと」
22日の豊原への空襲
真岡を占領したソ連軍は豊原へ向けて進撃をつづけた。
22日になって停戦協定が成立した、その直後ソ連軍が豊原を爆撃する事件が起きる。
最後の無差別爆撃となった豊原空襲は、22日正午を過ぎた頃、複数のソ連軍機によって行われた。
爆弾投下したうえに機銃掃射を加えた。100人以上が死亡した。
宗谷海峡では疎開者満載の三隻が国籍不明の潜水艦攻撃で撃沈され、1.700人の犠牲者を出した。
在留日本人
ソ連の占領下で生活することになった日本人は、多くがそのまま職場にとどまった。
ソ連は在留日本人の送還には全く興味を示さなかった半面、
ロシア人と同じ労働条件、同じ給与、同じ職場を与え実生活の面では大きな違いはなかった。
学校教育も神社も、日本人の生活習慣に寛容であった。
ロシア人のあいだでは、日本人がソ連国民になると見ていたようで、多民族国家であるソ連にとって、特に日本人を外国人扱いして排除する必要性もなかった。
主食の米は北朝鮮から輸入した。
引揚
米国は、占領地や植民地に在住する日本人を本国へ送還することにこだわっていた。
結局、
満州からの引揚が開始された1946年春以降、樺太と北朝鮮、大連のソ連占領地域からの日本人引揚が米ソ間で協議されるようになった。
1946年12月19日、「在ソ日本人捕虜の引揚に関する米ソ協定」が締結され、樺太および千島からの日本人引揚が開始、1949年7月までに29万人が引揚げた。
残された民族
南樺太にはロシア人、白系ロシア人、ポーランド人、さらに23.500人の朝鮮人がいた。
ソ連は国交のある北朝鮮への帰国は認めたが、多くは南朝鮮出身者で韓国への帰国を希望した。
そのため1990年の韓ソ国交樹立まで待たなければならなかった。
朝鮮人などと結婚した日本人は残留し、ソ連国民となった。