しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

五・一五事件・その2

2023年05月15日 | 昭和元年~10年

小田県庁門 笠岡市笠岡 2023.4.3 (犬養毅は明治6~8年、小田県に勤務した) 

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「昭和③非常時日本」 講談社 平成元年発行

犬養首相、海軍将校らに暗殺される

昭和7年5月15日の夕方5時半ごろ、
三上卓中尉ら海軍将校4名と後藤映範ら陸軍の士官候補生5名からなる一団が、
二台の自動車に分乗して首相官邸の表玄関と裏玄関に乗りつけた。
そして警護の巡査2人を撃ち、官邸でくつろいでいた76歳の犬養首相を襲った。
頭部に二発の銃弾を受け、同夜11時26分、絶命した。

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妙乗寺 笠岡市笠岡 2014.2.9 (犬養毅の所属した小田県地券局があった)

 

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「歴史街道」 2023・6月号

昭和史の分岐点
五・一五事件

政党政治の頂点を示した浜口内閣

浜口内閣はロンドン海軍軍縮条約を結ぶことに成功する。
ところが、天皇の「統帥権を犯している」として、海軍などが反発した。
浜口は一歩も引かず、枢密院に対しても果敢に論争を挑み、同意を取り付けた。
昭和5年11月、浜口首相が、東京駅で右翼に銃撃される暗殺未遂事件が発生した。
翌昭和6年(1931)9月の柳条湖事件を発端とする満州事変が起こる。
若槻礼次郎内閣は事変の不拡大を模索したが、関東軍は独断で拡大路線を突き進んだ。
柳条湖事件は、後世から見れば関東軍によるものだとわかるが、
当時の国民は「中国側が仕掛けたもの」と信じていた。
軍部は中国を懲らしめ、満州国という理想の国家をつくろうとしている---
そう思い込んだ国民は、軍部への評価を一変させていった。

昭和6年12月若槻内閣は総辞職、その後を立憲政友会の犬養毅が継いだ。
翌年
昭和7年3月「満州国」建国が宣言された。
五・一五事件のわずか二か月前のことである。

報道される戦果に接するうちに
「純粋で私利私欲がなく、真に日本のことを考えているのは軍人ではないか」
として、国民の評価が変化していったのである。

五・一五事件の後、新聞に掲載された首謀者の青年将校たちの動機を読むと、
失業者の増加、農村の貧困などを問題とし、
現代風にいえば社会的格差の是正を訴えている。
「首謀者たちは日本社会の現状を憂え、やむにやまれず直接行動に出た」
と当時の国民の多くが同情を寄せ、
減刑嘆願する署名活動が始まった。
手段はよくないが目的は評価できるという見方が広まった。

五・一五事件に始まる対外戦争への道
五・一五事件をきっかけに軍部の力が強くなると、
昭和11年(1936)の二・二六事件のころには、
「軍部がいなければ、クーデターを防げなかった」
とプラスの評価をされるようになった。
軍部が起した事件で、より軍部が強くなるという不思議な現象が起こっていたのである。

昭和12年(1937)7月、
盧溝橋で軍事衝突が起こる。
この盧溝橋事件を発端として、泥沼の日中戦争が始まるのだが
ここまでに軍部の力が強くなっていなければ、全面戦争に突入することはなかったかもしれない。

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「昭和③非常時日本」 講談社 平成元年発行
クーデターの下地を作った農村の疲弊

海軍側将校らの裁判が進むにつれて、全国から減刑を求める声が高まった。
三上中尉らの
「疲弊の極にある農村を救って健全な軍隊をつくらねばならぬ」
という陳述や、
資本主義の農村搾取を怒り、国家改造をはたしたのちにアジアを白人から解放しようという言葉に、説得力を感じさせる社会状況があった。

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「歴史街道」 2023・6月号

 

青年将校たちはなぜ減刑されたのか

荒木陸相と大角海相は、大臣講話を出し、
青年将校らの行為は間違っていた、としながらも、その動機を
「至純」と評して、
「涙なきを得ぬ」と同情をあらわにした。
特に陸軍側は「私心なき青年の純真」を称えた。
満州事変を境に軍へ接近しつつあった大手メディアも、
被告の公私にわたる情報を盛んに報道し、
在郷軍人団体や教育関係者などが、減刑嘆願運動を担っていた。
当時は、
軍人を裁く権限が軍部にあったことにも注意する必要がある。

 

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「ライシャワーの日本史」 ライシャワー 文芸春秋 1986年発行


日本は深刻な人口危機に直面しており、
それを解決するには軍事的な拡張しかない、というのが大方の見方であった。
国内の指導者はいずれも弱腰で優柔不断に見え、
一方で国民の意思と公徳心は後退していた。
増大する一方の人口と産業とをまかなっていくためには、
欧米列強に匹敵するようなそれなりの大帝国を手にしなければならない、
というわけである。

こうした考えが間違っていたことはほどなく歴史が証明することになる。
この考えに起因する戦いは無残をきわめた。
そして第二次大戦後の日本は、
帝国がなくなってかえって、
従来よりもはるかに繫栄し、成功した国家となったのである。

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