昭和の初期、「不景気」「娘の身売り」など社会不安の中、
「満州事変」は起こり、海軍は陸軍に遅れずと「上海事変」を起こした。
戦勝の報道に、国民は興奮し旗行列・提灯行列で迎合した。
以後は一貫して太平洋戦争へと戦争の一本道。
”15年戦争”の始まりであった。
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「教養人の日本史・5」 現代教養文庫 社会思想社 昭和42年発行
満州事変起こる
「(昭和6年9月)18日の夜は降るような星空であった。
河本は自らレールに小型爆薬を装置して点火した。
時刻は10時過ぎ、轟然たる爆発音と共に切断されたレールと枕木が飛散した。
こうして柳条溝事件にはじまる「十五年戦争」の幕は落とされた。
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「落日燃ゆ」 城山三郎 新潮社 昭和49年発行
関東軍の独走ぶりに、政府はもちろん、西園寺公爵あたりも、「実に今日は困った状態に なった」「実に困った実情である」と嘆息をくり返した。
若槻首相は嘆き、
「日本の軍隊が日本の政府の命令にしたがわないという奇怪な事態となった」
「関東軍は、もはや日本の軍隊ではない。別の独立した軍隊ではないか」
という関東軍独立説までささやかれた。
暴走したのは、関東軍だけではなかった。
朝鮮軍司令官林銑十郎大将は、「軍司令官が管外に出兵するときは、奉勅命令による』という規定に背き、
天皇の御裁可もまだ届かぬ先に、関東軍応援のために、勝手に鴨緑江を越えて朝鮮軍を満州へ送った。
昭和6年12月、若槻内閣が「事変処理に対する政治力の欠如と内閣改造に対する閣員の意見不一を理由に退陣。
政友会単独の犬養内閣がつくられると、青年将校に人気のある皇道派の荒木貞夫中将が、まだ五十四歳の若さで陸軍大臣となった。
この荒木の人事によって、軍は参謀総長に閑院宮載仁親王をかつぎ出した。
参謀総長が外務大臣あたりに文句をいわれてはおもしろくない。
皇族であり軍の長老である閑院宮を戴くことで、統帥部として威圧を加えようというのである。
海軍もこれにならって、伏見宮を軍令部長に戴いた。
この新しい軍中央は、積極策に寛大になった。そして、 翌昭和7年1月には、事変は、上海に飛び火した。
関東軍は独走し続け、3月には満州国建国宣言が行われた。
5月15日、犬養首相は海軍将校の一団に襲われて斃れ、軍部の無言の威圧が、また強まった。
9月15日に、日本政府は満州国を承認。
議会も満場一致でこれに賛成した。
満州における関東軍の暴走には、それだけの国民的背景があった。
日清、日露の両戦争に出兵して以来、満州は、日本人には一種の「聖地」と見られ、また「生命線」と考えられるようになっていた。
そこは、「10万の英霊、20億の国幣」が費やされた土地であり、単なる隣国の一部ではないという感覚が育っていた。
事実、昭和5年におけるわが国の満州への総投資額は16億を越え、これは満州における全外国資本の七割を占めていた。
そして、朝鮮人80万人をふくむ日本国民100万人が、すでに満州各地に移住していた。
日本の手で、長春・旅順間の南満州鉄道の整備をはじめ、大連の拡張が行われ、多くの炭鉱や鉱山の開発がなされた。
また満鉄付属地には病院・学校なども建設され、満人に開放された。
これらの地域は、関東軍や日本の警察が警備するところから、治安も良く、
それまで軍閥や匪賊に悩まされていた民衆が、他の地域から流入し続けた。
万里の長城以北に在る満州は、「無主の地」といわれるほど、明確な統治者を持たず、各軍閥が割拠し、抗争をくり返し、その間に匪賊 が跳梁する土地でもあった。
一方、日本の国内は、世界恐慌の波にさらされて、不景気のどん底に在った。
失業者は街に溢れ、 求職者に対する働き口は10人に1人という割合。
それにもまして農村、とくに東北の農村地帯は、冷害による凶作も加わって、困窮を極めていた。
娘を売るだけではない。
事変で出征する兵士に、「死んで帰れ」と、肉親が声をかける。
励ますのではない。戦死すれば、国から金が下りる。その金が欲しい。
植民地らしい植民地を持たぬ日本にとって、満州こそ、残されたただひとつの最後の植民地に見えた。
しかも、関東軍の石原莞爾参謀たちは、これを植民地としてでなく、
日本人をふくめたアジア諸民族の共存共栄の楽土にするという意気ごみであった。
「五族協和」そし 「王道国家の建設」がうたわれた。
ロマンチックな夢を、石原たちは抱き、これがまた、国民の多くに受け容れられる夢にもなった。
関東軍の突出は、屏息寸前の日本に 活路を拓いたという見方も強かった。
大方の新聞論調がそうであり、議会が満場一致で満州国を承認したのも、そのためであった。
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「金光町史・本編」 金光町 平成15年発行
戦争の拡大と町民の生活
昭和恐慌
昭和4(1929)年のニューヨーク株式市場の暴落と海外金利の低下という世界経済の中で、
昭和5年1月21日、米ナショナル=シティ銀行は日本から米国に正貨(金)を現送した。
前年11月に決まっていた金解禁が現実化したのであった。
これにともなって金貨の大量海外流出を招き、日本円は円高になった。
円高になると日本製商品の価格は上昇し、輸出は減少しだした。
世界恐慌は日本に波及し、昭和恐慌と呼ばれ、この不況は昭和7年頃まで続いた。
当時の状態を『山陽新報』でみたい。
昭和6年5月10日から10回にわたって「浅口郡青年座談会」を玉島で開き、それを記事にしたものである。
金光町からも2名が参加し総勢20名の座談会であった。
新聞の見出しは、
「好い副業でもなければ貧乏人は食えぬ」、
「火の消えた様な真田」
「里庄から出る酒屋働き2千人」
「漁村は全く引合はぬ」
満州事変勃発
金光町には
昭和4年金光温泉が開業することに決定、
昭和5年金光駅構内に公衆電話が設置、
昭和6年金光教上水道完成。東北地方は冷害・凶作となり、農村不況はさらに深刻化した。
中国では国民政府の主導による国権回復の運動が盛り上がり、
関税の自主権の獲得、
治外法権の撤廃と関東軍の撤退と満鉄の回収要求であった。
中国はまず満鉄の独占的地位の打開をめざし、東三省で日本が求めていた新鉄道の建設を拒否する一方、
自国鉄道敷設を進め、運賃を値下げし貨客の吸収に務めた。
満鉄の経営不振は中国鉄道との競合の結果でもあった。
ここで台頭してくるのが関東軍の軍人達で
「満蒙の権益がおかされる」という危機意識を抱く、満蒙領有構想を持つ一派であった。
彼らは「経済上・国防上、満蒙は我が国の生命線」を合言葉としたが、
マスコミもこの言葉を抵抗なく受け入れていった。
そして、満州を日本の勢力下におこうとして武力占領を計画した。
昭和6(1931)年6月27日中村震太郎大尉事件、同年7月2日の万宝山事件を経て、
同年9月18日柳条湖事件を起こし中国軍に攻撃を加え、満鉄沿線の主要都市を占領した。
これが満州事変とよばれたのである。
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「福山市引野町誌」 引野町誌編纂委員会 昭和61年発行
第一次世界大戦の戦後恐慌から始まって、
関東大震災による震災恐慌、金融恐慌、更に世界恐慌の波をかぶった農村恐慌と、
大正末期から昭和初期にかけての我が国は、息つくひまもないほどの不景気のあらしに襲われた。
特に、昭和5年(1930)に入ってから、米価・農産物価格が暴落して、農村社会の貧窮は深刻であった。
このような国情の中から、満蒙地方を日本の「生命線」として、
この地帯への民族的な進出を図ることによって、国内の矛盾を解消しようとする考えが、軍部や右翼思想家を中心に強く唱えられるようになった。
こうして、昭和6年(1931) 9月、関東軍の謀略によって始まった満州事変を手始めに、日本はいわゆる「十五年戦争」の時代に突入することになった。
戦火は、翌7年の上海事変、昭和12年(1937) 7月からの日華事変(日中戦争)へと拡大し、
更に第二次世界大戦とも連動して、昭和16年(1941) 12月8日、ついに太平洋戦争が引き起こされたのである。
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「NHKラジオ深夜便」 2014年7月号
保阪正康の昭和史を味わう (第4回)
昭和四年から八年ごろまでの、いわゆる昭和初期、
農村は工業恐慌の影響と豊作・凶作からくる市場価格の不安定さにより、未曽有の苛酷な状態に置かれた。
昭和六年九月の満州事変は、軍部による満蒙地域の利権拡大を意図したものだが、
つまるところ日本は軍事主導による戦略で解決策をめざすことになったのである。
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