しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

犬養木堂⑥5.15事件後の国政

2022年06月07日 | 昭和元年~10年

(岡山市吉備津)

 

木堂翁が亡くなって、軍国主義は歯止めが効かなくなった面がある一方
木堂翁が軍人に阿て政権を取ったので、事件はその付けが回った要因も大きい。

清廉潔白な政治家で、多くの人々に慕われたのは間違いない。

 

”無私”

(笠岡市今井公民館)

 

・・・・


「日本の歴史20」  岩波書店 1976年発行

斎藤内閣が成立し、この頃から「非常時」という言葉が一般化した。
はじめは平時と戦時の中間とか、満州に戦時状態が存続する間とかの意味に用いられ、のちしだいにエスカレートしてゆく。
概して軍部が、軍備を拡張するため、危機意識を高揚する必要上、ことさら喧伝したとみるべく、挙国一致内閣の出現を合理化し、
軍部に軍拡とその予算先取権の口実を与え、インフレ財政を余儀なくさせ、
無謀な「自主外交」を賛美し、
侵略をも「暴支膺懲」の名の下に美化するにいたった。

荒木陸相は皇国・皇軍・皇道をふりまわす精神家であるが、政治的才幹には乏しく、
「大和民族の満蒙支配たることは之を否むること能はさるなり」と述べている。
米ソに対し、万一の時は武力戦も辞せず、ときには連盟脱退もありうる、とした。

組閣直後、関東軍司令官より強硬な働きかけがあり、政党がこれに迎合した。
満場一致で「満州国」承認決議が可決された。
東京市民は祝賀会を開き、旗行列、提灯行列がくり出された。
リットン調査団の報告書提出の半月前であったことは、明らかに連盟に対する挑戦であった。

10月2日、リットン報告書が公表された。
融和的であったが、
翌3日の新聞は、
「全編随所に日本の容認しえざる記述」と評し、この頃「アジア・モンロー主義」がさかんに唱えられ、排外主義は高揚された。
世論は急速に軍部の希望する方向に傾斜していった。

内務省に国民更生運動中央委員会ができ、
言論機関や在郷軍人会・青年団を利用し愛国心高揚にのり出した。

昭和8年(1933)3月、ついに国連を脱退した。
日本は国際的孤立に陥り、軍部は総力戦体制を急いだ。
左翼運動の弾圧、皇国イデオロギーや軍国主義を高揚する行事が広汎に開催された。
脱退後、日本の最も恐れた連盟の経済制裁がなかったことは、
断固として所信を貫徹すれば連盟恐るるに足らずという観念を生ぜしめた。

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