犬養木堂の選挙区は岡山県二区で、
父も母も、その選挙区内に住んでいたが投票権はなかった。
男性は25歳以上で選挙権、
女性には選挙権も被選挙権もなかった。
木堂翁は、普選にたいへん尽力した政治家。
昭和3年2月20日の「第16回衆議院議員総選挙」が、国政では初めての普通選挙。
この時、家では
祖父と曾祖父が生まれて初めて投票所に行っている(と思うが棄権しているかもしれない)。
祖父は明治生まれで平成まで生きたが、戦前の政治や政治家の話をしているのを見たことがない。
この選挙に、政界を引退していた木堂翁は無理やり立候補することになり、13,680 票で5位(最下位)で当選した。
翌年政友会総裁就任。
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昭和6年(1931)9月、満州事変。
昭和6年(1931)12月、首相就任。
昭和7年(1932)5月、暗殺。76才。(その後、犯人は全員恩赦で釈放された)
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(岡山市吉備津 2023.4.30)
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5.15事件
サンデー毎日(2017.11.26号)「憲政の神様」と「統帥権干犯」発言・保坂正康
議会の誕生と共に岡山県から当選し、ただの一回も落選することなく、その座を守った「憲政の神様」。
議会政治家として使命を全うし、テロの犠牲になった悲劇の政治家であった。
5.15事件は奇妙な事件であった。
とくに軍人側には存分に法廷で弁明の機会が与えられた。
自分たちは自分自身のことなどこれっぽちも考えていない。考えているのはこの国ことだけ。軍の指導者は、この国の改革について考えてほしい。
テロの決行者は英雄だとの受け止め方が一気に広がった。
テロの犠牲になったはずの犬養家のほうが社会的な制裁を受けることになったのだ。
事件当日、首相官邸にいた11歳の少女は祖父の死をどのようにみたか?
道子氏はこのような歪な日本社会を具体的な作品に書き残している。
昭和6年12月、政友会が与党になり、その代表であった犬養毅は元老西園寺公望の推挙もあり、天皇から大命が降下される。
満州事変から3ヶ月ほどあとのことだ。
満州事変解決を目指して動くと、森恪内閣書記官長は激越な調子で食ってかかった。
「兵隊に殺されるぞ」森は閣議後に、捨てるように言った。
『兵隊に殺させるという情報が久原房之助政友会幹事長の筋に入っている』、父(犬養健)が外務省から密かな電話を受けたのはその晩であった。この情報は確かだったのである。
道子氏は、こうした動きを当時から聞きとめ、メモに残していたのである。
「あの事件は本当にひどい事件でした。テロに遭った私たちのほうが肩を狭めて歩く時代だったのですから。何か基軸になるものが失われていたのですね」。
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城山三郎「落日燃ゆ」新潮社
(5.15事件の4ヶ月後)
日本政府は満州国を承認。議会も満場一致で賛成した。
これにより、関東軍の本庄司令官は爵位を与えられ、板垣、石原らの参謀連は要職に栄転した。
軍はいよいよ思い上がった。
天皇の御意向に背いたかも知れぬが、結果としては、日本の利益になったではないか。
天皇の御意向に忠実なのは「小忠」、天皇にご心配をおかけしても、皇国の発展になるようなら、それこそ「大忠」である。
それに、満州における関東軍の暴走には、それだけの国民的背景があった。
日清・日露に出兵して以来、満州は、日本人には一種の「聖地」と見られ、「生命線」と考えるようになっていた。
朝鮮人80万人を含む日本国民100万人が、すでに満州各地に移住していた。
日本の手で、南満州鉄道の整備をはじめ、大連港の拡張、多くの炭鉱や鉱山の開発がされた。
満鉄付属地には病院・学校なども建設され、満人に開放された。
万里の長城以北にある満州は「無主の地」といわれるほど、明確な統治者を持たず、各軍閥が割拠し、抗争をくり返し、匪賊が跳梁する土地でもあった。
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5.15事件
サンデー毎日(2017.11.26号)「憲政の神様」と「統帥権干犯」発言・保坂正康
犬養毅は「憲政の神様」といわれ、日本の議会政治の申し子とされている。
しかしミステークもまた何度か犯している。
たとえば、昭和5年のロンドン海軍軍縮では対米英7割を不満とした軍令部長に、
政友会の犬養や鳩山一郎が「統帥権干犯ではないか」と攻撃を続けた。
つまり軍部の力を借りて政府を攻撃するという構図になった。
軍部に伝家の宝刀があることを教え、
つまるところ日本が戦争に入っていく武器になった。
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