しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「麦と兵隊」

2021年07月18日 | 昭和の歌・映画・ドラマ
徐州戦争に従軍した父は、
「歌と同じ」だったと言っていた。
つまり、毎日毎日、”行けど進めど 麦また麦”の徐州会戦で、
(岡山の歩兵10聯隊は)
徐州には入城せず、武漢へと進攻(侵攻かな)していった。





麦と兵隊
戦記の傑作『麦と兵隊』

火野葦平は芥川賞を陣中授与で、支那事変下の輝ける星だった。
陸軍伍長として第18師団に属し、南京攻略に参加。
このあと、中支派遣軍報道部へ転属、5月徐州会戦に従軍することになった。
支那事変下の傑作『麦と兵隊』は、ここに誕生することになった。
出版されると、たちまち百万部の大ベストセラーになり、映画化されて、
人気歌手の東海林太郎が同名の主題歌を切々と歌って、戦時歌謡屈指のヒットとなった。

・・・
出発、果てしもなく続く麦畑の進軍である。
陽が昇ってくると次第に熱くなってくる。
雨が降れば泥濘と化す道は、天気になると乾いて灰のようになる。
黄色い土煙が濛々と立ちのぼり、
煙の幕の中に進軍して行く部隊が影絵のようになったり、見えなくなったりする。

・・・

軍の検閲が厳しく、かなり美化して描いていた。
当時としては超の付くベストセラーになったのは、戦う「軍」でなく「兵」の姿が描かれているからだった。


・・・

「前進。
又も黄塵の中の行軍が続けられていく。
背嚢が肩に喰い込んでくる。
銃を右に担ったり肩を換へたりするが、背嚢は下すわけには行かない。
胸が緊る。弾ね上げる。一寸楽になる。
また肩に喰い込んでくる。
兵隊はそれでも何でもないような顔をして、進んで行く。
黄塵を被り、土人形のようになり、汗に濡れて、歩いて行く。
この麦畑はまさに恐るべきものである」

・・・


この原作をもとに、藤田まさとが作詞した一行目は、

「ああ生きていた生きていた
生きていました お母さん」という詩句だった。

ところが「生きていた」とはけしからんと、陸軍にクレームをつけられ
「徐州徐州と人馬は進む」に改作された。



麦と兵隊
作詞:藤田まさと
作曲:大村能章
歌唱:東海林太郎
 

徐州徐州と 人馬は進む
徐州居よいか 住みよいか
洒落た文句に 振り返りゃ
お国訛りの おけさ節
ひげがほほえむ 麦畑


戦友を背にして 道なき道を
行けば戦野は 夜の雨
「すまぬすまぬ」を 背中に聞けば
「馬鹿を云うな」と また進む
兵の歩みの 頼もしさ



腕をたたいて 遥かな空を
仰ぐ眸に 雲が飛ぶ
遠く祖国を はなれ来て
しみじみ知った 祖国愛
友よ来て見よ あの雲を



行けど進めど 麦また麦の
波の深さよ 夜の寒さ
声を殺して 黙々と
影を落として 粛々と
兵は徐州へ 前線へ


「昭和の戦時歌謡物語」 塩澤実信  展望社 2012年発行





(玉井伍長(=火野葦平)と文芸春秋社から芥川賞表彰式のため派遣された小林秀雄)



「従軍歌謡慰問団」  馬場マコト 白水社 2012年発行


東海林太郎と「麦と兵隊」

ラジオが新しい事件を歌謡化するので、遅れてはいけないとレコード会社も必死だった。
東海林太郎はロシアと満州の国境の街、黒河に。
火野葦平は5月4日から22日まで、徐州の戦場を歩いていた。

葦平は歩いた。麦畑の中を歩きつづけた。
この先どこまでつづいているのか想像もつかない。
大麦、燕麦、小麦の海だった。
その様は、単に麦を植えるというか、耕作するというような、なまやさしい感じではなかった。
彼らの前には、ただ農作物を荒らす蝗か、洪水か、旱魃と同じように、ひとつの災難にすぎなのかもしれない。
徐州攻略戦は一週間で終わった。
5月20日午前12時、入城式が行われた。葦平も一員としてその行進に加わった。

火野葦平は徐州従軍から帰国すると雑誌「改造」に「麦と兵隊」を発表した。
120万部の大ベストセラーになった。
国民は誰もがなまなましい戦地の現実を知り、興奮したがっていた。

ポリドール製作部長藤田正人は、小説と音楽の一体化はきっと成功すると直感した。
売れっ子作詞家でもあった藤田は、この作詞はぜひ自分がしたいと思った。

〽徐州徐州と

東海林太郎が歌う「麦と兵隊」は大ヒット作となった。
東海林太郎は「歌う兵士」の座を、ゆるぎないものとした。




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