ニュー井原新聞・縮小版 昭和55年2月20日
冨士ベークが35周年記念式典
小田小へ50万円 芳井中へ350万円贈る
冨士ベークライト(株)では、創業35年の記念式典を、2月2日矢掛町小田の同社本社で挙行した。
あいさつに立った藤井社長は、
「当社の淵源は、先代が天産物商だったことから、戦争末期コンニャクから風船爆弾を造るため、昭和19年8月矢掛町小田の乾けん場跡に工場を設けたことに始まる。
然しこの風船爆弾に疑惑をもった軍により、翌20年1月には生産を中止、2月から三菱電機(株)福山製作所の疎開工場として、航空部品の製造を開始したが8月終戦により軍需品の生産中止、
同年10月、同製作所の平和産業への切り替えに伴い、専属工場として、積算電力計の部品を製造するようになった。
自今幾多の辛酸と風雪に耐え、特に昭和39年11月には、兄昇社長が疲労困憊から急逝するなどの痛手にも見舞われたが、
従業員並びに協力工場の皆さん、それに三菱電機の並々ならぬお力添えにより、今日の発展をみたことは、感謝と感激にたえない。
私は不敏な者だが皆さんと共に今後も精いっぱい努力する所存なので、何卒ご協力願いたい」、と決意の程を披歴した。
これに対して、上原同社労組委員長が、
「いまや業界で五指に入る優秀な会社に成長したことは、偏に労使の信頼関係と、社長の手腕人徳である。
この円満な会社の気風を大切に育て、会社と従業員が一体となって発展するよう努めたい」と誓いのことばを述べた。
藤井社長は、35周年を記念して、芳井中学校視聴覚教育機器の購入費に350万円、小田小学校の新築費助成金として50万円をそれぞれ寄贈した。
なお同社は、芳井、美星に分工場を持ち、従業員は265人。
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「しらべる戦争遺跡の事典」 十菱・菊池編 柏書房 2002年6月発行
大津風船爆弾放流地跡
アメリカ本土を攻撃した奇抜な発想の兵器
敗戦が色濃くなった1944年11月、アメリカ本土を直接攻撃する兵器を発射していた基地があった。
「ふ」号作戦と呼ばれ「風船爆弾」を放球していた主力基地が大津風船爆弾放流基地跡である。
1944年8月、五浦から平潟、通称長浜の土地を陸軍が借り上げ、周辺の住民は基地造成の工事に動員された。
その後、放球の大隊が到着して秘密基地となった。
基地周辺を通過する際には常磐線の列車の窓を覆って走り、住民に対しても厳重な注意がなされていた。
風船爆弾の基地は勿来・大津・一宮の合計3ヶ所であった。
晩秋の11月から翌年の4月まで合計9.300個撃ちあげられた。
この時期、アメリカ本土に向かって吹く偏西風に乗って風船爆弾は50時間で到着する計画であった。
1945年4月、東京大空襲の影響も絡み、風船爆弾の資・機材の補給は完全に不可となり、
風船爆弾の役割は終わり、8月15日の無条件降伏の夕刻から「ふ」号作戦のすべての証拠資料を一切焼却し、隊員の早期解散が命ぜられた。
気球は焼却され、大津基地の水素発生工場も破壊された。
1945年9月19日、連合国の細菌兵器の研究をしていた調査チームに風船爆弾の製造責任者が呼ばれ、経緯と実態の査問を受けている。
もちろん細菌搭載の風船爆弾としてのアメリカ本土攻撃に関する重大な嫌疑であった。
風船爆弾を研究開発した旧陸軍登戸研究所の役割も含め,
戦後の今日になってもこの風船爆弾の全貌は明らかにされていない。
現在、大津基地の跡には誤爆事故で亡くなった兵隊供養の『鎮魂碑』が建ち、
アメリカのオレゴン州で亡くなった6名の方々の慰霊の言葉をも織り込んだ『わすれじ平和の碑』が建っている。
冨士ベークが35周年記念式典
小田小へ50万円 芳井中へ350万円贈る
冨士ベークライト(株)では、創業35年の記念式典を、2月2日矢掛町小田の同社本社で挙行した。
あいさつに立った藤井社長は、
「当社の淵源は、先代が天産物商だったことから、戦争末期コンニャクから風船爆弾を造るため、昭和19年8月矢掛町小田の乾けん場跡に工場を設けたことに始まる。
然しこの風船爆弾に疑惑をもった軍により、翌20年1月には生産を中止、2月から三菱電機(株)福山製作所の疎開工場として、航空部品の製造を開始したが8月終戦により軍需品の生産中止、
同年10月、同製作所の平和産業への切り替えに伴い、専属工場として、積算電力計の部品を製造するようになった。
自今幾多の辛酸と風雪に耐え、特に昭和39年11月には、兄昇社長が疲労困憊から急逝するなどの痛手にも見舞われたが、
従業員並びに協力工場の皆さん、それに三菱電機の並々ならぬお力添えにより、今日の発展をみたことは、感謝と感激にたえない。
私は不敏な者だが皆さんと共に今後も精いっぱい努力する所存なので、何卒ご協力願いたい」、と決意の程を披歴した。
これに対して、上原同社労組委員長が、
「いまや業界で五指に入る優秀な会社に成長したことは、偏に労使の信頼関係と、社長の手腕人徳である。
この円満な会社の気風を大切に育て、会社と従業員が一体となって発展するよう努めたい」と誓いのことばを述べた。
藤井社長は、35周年を記念して、芳井中学校視聴覚教育機器の購入費に350万円、小田小学校の新築費助成金として50万円をそれぞれ寄贈した。
なお同社は、芳井、美星に分工場を持ち、従業員は265人。
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「しらべる戦争遺跡の事典」 十菱・菊池編 柏書房 2002年6月発行
大津風船爆弾放流地跡
アメリカ本土を攻撃した奇抜な発想の兵器
敗戦が色濃くなった1944年11月、アメリカ本土を直接攻撃する兵器を発射していた基地があった。
「ふ」号作戦と呼ばれ「風船爆弾」を放球していた主力基地が大津風船爆弾放流基地跡である。
1944年8月、五浦から平潟、通称長浜の土地を陸軍が借り上げ、周辺の住民は基地造成の工事に動員された。
その後、放球の大隊が到着して秘密基地となった。
基地周辺を通過する際には常磐線の列車の窓を覆って走り、住民に対しても厳重な注意がなされていた。
風船爆弾の基地は勿来・大津・一宮の合計3ヶ所であった。
晩秋の11月から翌年の4月まで合計9.300個撃ちあげられた。
この時期、アメリカ本土に向かって吹く偏西風に乗って風船爆弾は50時間で到着する計画であった。
1945年4月、東京大空襲の影響も絡み、風船爆弾の資・機材の補給は完全に不可となり、
風船爆弾の役割は終わり、8月15日の無条件降伏の夕刻から「ふ」号作戦のすべての証拠資料を一切焼却し、隊員の早期解散が命ぜられた。
気球は焼却され、大津基地の水素発生工場も破壊された。
1945年9月19日、連合国の細菌兵器の研究をしていた調査チームに風船爆弾の製造責任者が呼ばれ、経緯と実態の査問を受けている。
もちろん細菌搭載の風船爆弾としてのアメリカ本土攻撃に関する重大な嫌疑であった。
風船爆弾を研究開発した旧陸軍登戸研究所の役割も含め,
戦後の今日になってもこの風船爆弾の全貌は明らかにされていない。
現在、大津基地の跡には誤爆事故で亡くなった兵隊供養の『鎮魂碑』が建ち、
アメリカのオレゴン州で亡くなった6名の方々の慰霊の言葉をも織り込んだ『わすれじ平和の碑』が建っている。
一言連絡があれば対応できたのに、誠に残念でした。