しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

宦官最後の日

2022年02月19日 | 大正
中国の宦官制度は、日本でいえば大正13年までつづいた。


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(Wikipedia)
宦官

1924(大正13)年の馮玉祥のクーデターで宣統帝とともに宦官も紫禁城から追放され、その歴史の幕を閉じることとなった。
このとき追放されたのは、宦官2000人と女官200人と伝えられる。


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「歴史よもやま話」  池島信平 文春文庫 1982年発行 

宦官最後の日

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三田村泰助
明治42年生。立命館大教授。清朝史が専門。
橋川時雄
明治27年生。大正2年、中国に渡り、北京在30年。文学博士。
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(橋川)
宣統帝が出宮されたあと、午後5時近くでした。
宦官がゾロゾロ紫禁城の北にある玄武門から出てきました。
70人くらいいましたね。
それがいかにも女がしくしく泣くように、細い声で泣きじゃくりながら夕日をあびて出て行く。
一つの歴史のけじめですね。
もうこれで宦官はおしまいで、秦・漢以来4千年、宦官が今や歴史から姿を消す瞬間ですね。

(池島)
宦官になるには、男の象徴を全部取ってしまうわけですね。あるいは一部分ですか。
(三田村)
半分くらいのも、根元から取るのもある。
しかし陰嚢のほうは、全部取るのが原則らしいです。それでなければ子供ができますから。
古い時代は完全去勢だったから、わりに死亡率が多いので、のちに不完全にとどめるのがあったようです。

(池島)
宦官は小便などどうしてたしていたのでしょうか。
(橋川)
いや、もう女のものと同じですよ。
いつごろ切ったと言うたら、15・16だという。



(三田村)
いきさつはお聞きになりましたか。
(橋川)
第一は皇帝の側に居れる。
それから宦官で出世した人があるから。
うまいものを食べて、ぜいたくもできる。
大事なことは、誰に手術してもらうかということです。
それをまず決めてもらう。命がけで、出世にも関係することですから。
その人ならよいというところで、その意思を決定する。
親も少しばかりお金を貰える。
その金が必要なんで子を宦官にする。


(橋川)
手術して一両日かで、仮死状態からさめて、小便が出るのです。
そこで大きなお祝いをするわけです。
切除した代物は煮えたぎった油で揚げ、小さな壷に密封する。
大切に保存し、宦官が死んだときは必ず棺に納められる。
(橋川)
死ぬ人の率は少しだと聞きました。
(三田村)
昔は、死亡率50~60%であったように覚えています。

(橋川)
宦官だとは、顔を見ればすぐわかるのです。
私の屋敷に老ボーイがいて、宦官は怖いから、決して話しかけてはいかん、ひどい目にあうからと忠告してくれました。


(橋川)
はじめ清朝は宦官を置かない方針だった。
(三田村)
ツングース族には宦官はなかった。
中国では漢民族、トルコ、古代ペルシャ、バビロン、アッシニア、古代エジプト。
蒙古にはありませね。
後宮が成立しないところには。宦官の必要はありません。
宣統帝、今の溥儀も、多い時で三千人。
皇帝をほんとうに守ってくれるのは、宦官しかないのです。
だから宦官が指揮権を持つようになる。


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♪時は1900年 55日の北京城
肉弾相打つ 義和団事件
連合軍を向こうに回し 決戦挑む暴動の輩
フランス イギリス イタリア ロシア
さらに加えて精鋭日本 華の北京 いまや死の街
ボンボンボンボン・・・・





70mm映画「北京の55日」、
女帝のまわりに宦官が見える。
この義和団事件(北清事変)の24年後、宦官は無くなった。



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