武漢攻略は10月26日に終わったことになっている。
しかし父の部隊は12月2日に入城。武漢は燃えていた。
(聯隊史は11月28~30日となっている↓)
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「歩兵第十聯隊史」 歩兵第十聯隊史刊行会 昭和49年発行
聯隊は、8月下旬以来、百日に亘る漢口攻略作戦に従事し、
昭和13年10月27日漢口陥落後も、武漢大平原を彷徨する負敵を追い、
11月28日、29日、30日漸く漢口に入城した。
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【父の野戦日記】
激戦なまぐさき漢口にて
あの丘この森。 堂々たる陣地の集落。 防備実に驚くべきことだ。
銃砲の塚などなかなか良くできている。
これもソ連・米国・英国の援助なくしてなにができるものかとも思う。
ああしかし、堅陣も吾が皇軍の前にはいかんともせん。 攻撃数日にて陥落か?
昭和13年12月2日
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【父の野戦日記】
上陸以来、一路漢口へ、漢口へと血の出るような進軍行軍。 出発以来5日目に漢口城に入城できた。
漢口へ上陸へした。
その間支那大陸の帝都 漢口・武昌・漢陽、武漢三鎮。
揚子江が流れ政務・行政・軍事・交通・経済・外務の中心地たるや、その建物もまた雄大かつ壮大だ。
しかし高く聳える高層の上に、日章旗がひるがえる光景は実に美しい。
この日章旗をあおぎ見るとき、共に皇軍の一員として無事入城できたことは実に嬉しい。
しかし戦火なかばにして倒れ、多くの鬼と化した戦友の英霊に対して忠心より哀悼の意を表す。
12月2日(漢口にて)
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(「赤柴・毛利部隊写真集」 武漢入城)
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「満州事変から日中全面戦争へ」 伊藤俊哉 吉川弘文館 20087年発行
徐州攻略
1938年春、華北と華中の結節点ともいえる要衝、江蘇省徐州に中国軍50~60万人が集結した。
しかし日本軍(6個師団余り約20万人)は中国軍をほとんど補促することができず、
5月19日に徐州を占領しただけに終わった。
武漢攻略
大本営は武漢攻略作戦に着手した。
当時武漢は中国軍主力の拠点であり、国民政府・党の機関も存在していたため、
その攻略が戦争終結に結びつくと期待されたのである。
また国民政府の遷都先である重慶は、武漢からさらに1.000キロほど揚子江をさかのぼったところにあった。
重慶を攻撃するためには航空機による爆撃しかなく、
そのためにも武漢の攻撃は必要とされたのである。
30万人の兵力を投入して8月22日に発動された武漢作戦は、
10月26日の武漢攻略により幕を閉じた。
武漢を攻略したものの、中国軍主力は退却しており目的は果たせなかった。
日本国内では武漢や広東の陥落が華々しく報じられたが、日本の軍事動員力は限界に達しつつあった。
もはや前線への補給もままならない状態で戦線が拡大していったのである。
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武漢作戦
(Wikipedia)
日本軍が漢口に突入したとき、市内はいたるところで火災が発生しもうもうたる黒煙に覆われていた。
撤退した中国軍が放火したのである。
一部の中国軍は残っていたが主力の姿は既になく中国軍殲滅は果たせなかった。
また武漢三鎮を占領して戦争解決の糸口をつかもうという期待も、国民政府の重慶移転でむなしく消え去ってしまった。
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(「歴史街道」2021・9月号)
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「近代日本戦争史・第三編」 奥村房雄 東京堂 平成7年発行
日本内地では昭和13年10月27日午後6時半、
「武漢三鎮を完全に占領せり」との勝報が発表された。
すると日本全国にサイレンが鳴り響き、国民は祝賀に湧いた。
翌10月28日東京の目抜き通りは旗行列で埋まり、その人出は50万人と推定された。
29日も早朝から旗行列。
夜は雨にもかかわらず、提灯行列が行われた。
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