(父の話)2001年8月15日
(敵陣地は)租界地を利用して攻撃できんように、ええようにできとった。
蒋介石軍は、火をつけてにげるんじゃけぃ、ぼっこう燃ようた。
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娯楽の時、佐野周二軍曹(毎日新聞「一億人の昭和史」)
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【父の野戦日記】
漢口防御の支那軍
第三国の援助無くしては出来なかったであろう、揚子江岸の防備を見た。
英租界、前には支那軍の陣地、その前に銃岸じつにものものししい。
前は陣地、その後ろは英国の国旗がひるがえっている。
攻撃したくても、攻撃できない。
食糧は外国からの援助、防護は指導があったものかもしれない、混ざっていたかもしれない。
それでも我皇軍の前には落城か! 蒋介石の直系軍の遁走。
漢都とはいえ見よ皇軍の蹂躙の跡、支邦人家の惨状も格別なり。
家・屋根・壁、集落焼け落ち、ただ残るのはレンガ、焼け石ばかり。
その間、我が軍が警備・復活を見つめている。
外国の国旗は判然とひるがえっている。
我砲撃の、爆撃の成果だ。
陸戦隊の警備、陸軍の警備。
その中央には軽気球が上棟高く北風に吹かれている。
海上の警備艇、我軍艦が江上をにらみ海上をはしりまわっている。
ああ、我皇軍の揚子江は如何。
昭和13年12月3日
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(父の話)
白米を食べる
家の長屋のようなところに白米が、真っ白ぃ。なんぼうでもある。
大別山を越ようた時にゃ(食べるものが)無いんで、よそのを盗って食ようたが。
漢口に来ればなんぼうでもある。
おおけい街じゃけぃ、倉庫の中は白米がそのままじゃ。積んである。
せえつぅ、今度はこっちが食わねばしょうがねぃ。
なかににゃ、食いすぎてピーピーになったのもようけいおる。
大別山の時にゃ、そりゃ食いもんがのおて、食べてないけいのぅ。
談・2001年8月14日
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作家・林芙美子はペンの戦士として漢口の前線に行き、従軍記『戦線』を書いた。
それは大ベストセラーになった。
抗戦する支那兵を捕えたら兵隊のこんな会話をきいたことがあります。
「いっそ火焙りにしてやりたいくらいだ」
「馬鹿、日本男子らしく一刀のもとに斬り捨てろ、それでなかったら銃殺だ」
捕らえられた中国兵は実に堂々たる一刀のもとに、何の苦悶もなくさっと逝ってしまいました。
部隊長の話では「味方の戦死者は5名、負傷者は81名です」
そして敵の損害は約7万。
丘の上や畑の中に算を乱して正規兵の死体が点々と転がっていた。
その支那兵の死体は一つの物体にしか見えず、
城内に這入って行くと、軒なみに、支那兵の死体がごろごろしていた。
沿道の死体は累々たるものであった。
しかも我軍勢は、沢山の土民や捕虜を雑役に使っております。
この戦場の美しさ・・・。
「生きるということ」 なかにし礼 毎日新聞出版 2015年発行
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身を守る日章旗(毎日新聞「一億人の昭和史」)
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「歩兵第十聯隊史」
聯隊は、8月下旬以来、百日に亘る漢口攻略作戦に従事し、
昭和13年10月27日漢口陥落後も、武漢大平原を彷徨する負敵を追い、
11月28日、29日、30日漸く漢口に入城した。
休む間もなく第十師団は京漢線の警備に任ず、北支転進が下令され、
各隊それぞれ翌日には輸送船「かもめ丸」ほかに乗船、
南京、浦口を経て、鉄道輸送により北支京漢沿線へ向かった。
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北支転進
漢口より揚子江を下り、北支京漢線沿線へ
(「赤柴・毛利部隊写真集」)
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