しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「父の野戦日記」⑨信陽の戦い・第八中隊の全滅

2022年08月14日 | 盧溝橋事件と歩兵10連隊(台児荘~漢口)

(父の話)
信陽までは歩くだけ。
何日までに信陽に着け。信陽ではボッコウ犠牲者がでた。

8中隊は占領した平坦地の上から(山から)砲で攻撃され、行ってみたらほとんど死んでいた。
見るのもかわいそうじゃった。生きとる者はわずかじゃた。
戦闘力もなんも無い。青白い顔をしとった。

作戦に引っかかった。


談・2000・7・2

・・・

八中隊の全滅

大別山で、八中隊は砲の攻撃でほぼ全滅状態になった。

四面楚歌の状態で
702(ななれいに)高地と呼んどったが、一度奪った処に敵が砲を打ち込んできた。


大別山中腹の敵が山頂の八中隊を砲で攻撃したがほとんどが砲でやられた。
いっぽう大別山の下側の味方は逃げるだけでせいいっぱい。

8中隊があせったためにこの様に成った。

生き残った人は息もたえだえで、口も聞かれん状態じゃった。
生きている人は戦闘力もなく青い顔をしていた。

死んだ人は70人くらいいた。みな焼かりゃせん。
焼くのに困るくらいであった。

焼いた骨は分けて送った。(人別でなく・・・同じ人の骨を何人ぶんか適当に)
「これが骨だと」。・・・・言われんけど。殺されたものは骨は帰ってくりゃあへん。

じゃけど頭髪が残っておる。
頭髪は遺留品として本人のを送った。

談・2000年07月09日

・・・

8中隊は相手の砦を真っ先に占拠した。
占領して喜んどった。
そこは大別山中の一番高いところで要塞みたいにしとった。

勢い込んで占領した8中隊に、敵は砲をぼんぼんぼん打ち込んできた。
敵は占拠されたんでなく引いとった。

地形も不慣れな8中隊はどうすることもできず、やられっぱなしで死んだ。ほとんど全滅したんじゃ。
敵はそこを知り尽くしていた。大砲を撃ったあとはいんでしもうた。
向こうは信陽の連兵場からそこ(大別山の砦)に向かって撃つのを練習しょうたとこで、そりゃ撃ちゃあ当たらぁのぅ。

作戦にやられたんじゃ。日本人は死んだばぁじゃった。

谷間にいたおじいちゃん達もどうすることもできず攻撃が終わった後で行った。

大勢死んどった。怪我をしたのもいた。怪我をしていない元気なのもいたがヒーヒーしょうた。

(周りが廻りだけに意識がしゃんとしてなく)物も言えん。

 

談・2001年7月14日


  

・・・

     

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「岡山県郷土部隊史」  岡山県郷土部隊史刊行会 山陽印刷 昭和41年発行

漢口攻略戦
その三 信陽南方への迂回作戦

羅山を出発した第三十三旅団は右・歩兵第六十三連隊、右・歩兵第十連隊がすすむと、わずか5キロ南進して急射を受け、逐次敵は兵力を増加してきた。
10月1日頃より、信陽の攻防戦は最高潮に達する。
10月6日京漢線は爆破され、敵の退路は遮断された。
6日間の山岳踏破の苦心を重ねた毛利部隊は突如信陽の南方に出現し、
休む間もなく北上して、山又山をこえて信陽西南3キロの721・5高地に迫ったが、
敵大軍の後方に進出したのであるから四面楚歌で、
毛利部隊は死傷続出で信陽攻撃の最大の苦戦となった。
11日包囲網を縮め、東方からの戦車隊が城門を爆破して、城壁の一角を占領する。
信陽陥落まで毛利部隊が払った犠牲は戦死57,負傷者111人に達した。

・・・・

 

 

 

 

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