縄=わら縄、という時代が有史以来つづいてきたが、
1960年代になって化学製品に追いやられた。
家では祖父が、雨の日に藁縄を編んでいた。
父や母はしない。
祖父専用の雨の日の仕事だった。
祖父が作ったワラ縄は長屋に積んで保管していた。
そのワラ縄は、すべて家の自給用で他家にわけたり
売ってお金にしてなかった。(家の必要量だけ作っていた)
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製縄(せいじょう)
千田の製縄の歴史は古く、かつ重要な副業として重んじられていました。
農家の各戸毎に足踏み製縄機を据え付け、老若男女の別なく、副業として精励したものです。
昔の家の建築は、壁は土壁でした。
細長い竹が組まれ、それを手ないのわら縄で組んで止め、泥壁が塗られたもので、
建築には必須のものとなり、小遣い稼ぎになっていました。
太平洋戦争後、化学工業の発展で化学製品の縄が大量に生産販売されるようになり、仕事がなくなってしまいました。
「千田学区地域誌」 (福山市千田町)千田学区町内会連合会 2008年発行
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「梶島山のくらし」 (福山市引野町)梶島山のくらしを記録する会編 2011年発行
梶島山の大事な副業としての縄ない
梶島山には、どの家にも一台の縄ない機があり、二台三台と据えて、その収入で食べていく家もあったほど盛んだった。
縄は梱包に欠かせないもので、米俵、麦や塩を入れる「かます」などに大量に需要があった。
縄ないはいい副業になった。
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稲を脱穀した後は毎日庭に干して乾燥させて、藁をいろいろ加工しました。
この度のご紹介の「足踏み製縄機」懐かしいです。
学校が休みの時には1歳年上の従姉とよく藁縄を編んでいました。
伯父の家では「山狩り」と称して松葉などをススキで囲って結わくために必要でした。
サツマイモの苗を育てる芋床の温度調節に必要なこも編みなどに日曜日は良く働きました。
ですから昔の農事の説明はすべて経験しておりますので懐かしく拝見させて頂いております。
今は、藁も貴重なものになってしまい家庭菜園などに購入しております。