しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

学徒動員解除

2024年01月23日 | 学制150年

戦争が終わったので、戦闘や空襲で命を落とす恐れは兵も市民もなくなったが、
食糧難は、敗戦後さらに悪化していった。

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笠岡高等女学校

〇8月15日終戦全員早退してラジオ玉音をきく。
〇2学期より4年生水島動員より解除され、敷紡の友とも一緒に なり、授業始まる
〇吉田山、西大戸の山と開墾と授業とが半々位。 
 教科書もなくザラ紙の洋半紙に先生が印刷したものを使用す。 
 英語の授業も再び始まる

 

「笠岡高校70年史」 笠岡高校 昭和47年発行

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「学校の歴史 第3巻 中学校・高等学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行

平時教育体制への復帰

戦時下の中等学校では戦時学徒動員が行われ、戦争の末期には学校の授業は停止されていた。

学徒動員の解除
戦後の教育は戦時下の体制から平時の体制に切り換えることから始められた。
文部省および 厚生省は昭和20年8月16日に、学徒の「動員解除」について通達を出している。
男子学徒はなるべくすみやかに動員を解除し、帰校のうえ晴耕雨読等の適当な措置をとること、
ただし農業および運輸通信関係等に出動中の学徒は原則として当分の間動員を継続すること。 
女子学徒は原則としてただちに動員を解除すること、
しかし学校の授業は適当と認める場合のほかは指示があるまで休止することとしている。

 

文部省は8月28日の通達によって、はじめて正式に学校の授業の再開について指示した。
学校の授業の再開
これによれば、各学校は原則として遅くとも九月中旬から平常の授業を開始すべきものとしている。
そのほか、戦災学校ではさしあたって食糧増産等の作業にあたらせること、
教科書・教材等の取り扱いについては十分な注意をはらい、一部省略等の措置をとるよう指示している。
なおこれ以前に、
学校教練および戦時訓練等の廃止についての通達が出されており、軍事教育的要素が学校教育から排除された。
授業再開当初の状況について、
一例として大阪の旧制中学校の沿革史の中から一節を次にあげよう。

9月に入ってようやく授業が再開された。
学校の周辺は、6月の空襲で灰燼と化して焼野原のままである。 
全校生徒の作業でやっと授業再開となったが、
校内ではなお焼け落ちた建物の残骸が無残に姿をとどめ、運動場はいも畑でおおわれている。
食糧増産・戦災復旧等が当面の急務であり、中等学校の生徒は積極的にこれに協力することが求められた。
戦後は戦時中とは別の事情から勤労作業が引き続き実施されたのであった。

陸海軍諸学校は廃止され、そのためその在学者および出身者の諸学校への編入学等の問題もあった。
中等学校でも出身者の母校への復帰や編入学等が行われた。
また外地から引き揚げた中等学校生徒の転入学の問題もあった。
したがって終戦直後の中等学校は生徒の面からみても複雑な状況にあった。

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中等学校の修業年限は、戦前は五年を標準としていたが、戦時中(昭和18年)に定められた「中等学校令」によって四年に短縮されていた。
戦後は昭和21年2月に 「中等学校令」を改正し、五年制が復活された。
ただし一部の学校および入学資格等について特例が設けられた 。


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「笠商70年史」  笠岡商業高校  昭和46年発行

思い出はみななつかしい 元教諭 


就任二週間後に終戦になり、極度に緊張した息づまる焦燥感から解放されたあの時の異様な感情、
それに続く虚脱放心の状態、
物資欠乏の窮状など当時の余りにも厳しかった思い出は忘れようとしても忘れることはできません。
校庭は耕されて畠に変わりました。
紙や印刷のそまつな教科書、試験問題を印刷する原紙もなく問題を板書したので出題にも一苦労でした。
答案用紙もなく古い答案の裏を使ったものです。 
寒くなっても職員室にはストーブがなく、
職員が交代で木をひいて燃料を作ってたいたので天井はすっかりすすぼけてしまいました。
弁当の盗難、
職員のオーバー盗難等々、
ないないづくしの連続で明け暮れたひどい時代でした。 
しかしそういう中にも徐々に新教育の精神が確立し、
新制高校への移行統合など新時代に生きるための激しい陣痛によって現代の笠商は誕生したのです

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動員解除記念写真(井原高女)

「創立100周年記念誌・萩の道」 井原高校 2004年発行


私の高女時代
昭和20年の8月15日終戦。 
心身共に打ち砕かれた様などん底の悲しみに泣いた。 
やがて母校に復帰出来、複雑な気持の中にも喜びの湧き上がるのを覚えた。 
全校生徒に漢字のテストが行なわれたが、学力低下で満点を取った人は居なかった様である。 
アメリカ進駐軍兵士が学校へ訪問することもあり、丁度同級生にアメリカ帰りの蔦川さんが居り、 
通訳をし、オーマイサンシャインという歌を教わった。
(昭和21年卒)
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女学校時代の思い出
昭和20年8月15日終戦となり、私達は学校に帰り、学徒動員は解かれ、いつの間にか4年生になっていました。 
なつかしい学校に帰りましたが、学校は学童疎開の児童のために校舎の三分の一は使用できず、 
私達は教室に入れるだけ詰め込まれて、何の授業ということもなく、憲法の解釈を聞かされたり、
新聞を読んでもらったり、漢字のテストをしたりして何日かが過ぎました。 
着る物も食べる物もなく、教科書さえない学生生活でしたが、誰も不足を言う人もなくみんな仲良く勉強しました。 
英語と洋裁が選択教科になるなど教科の内容も大きく変化しました。 
そして4年生が終わりそのまま卒業する人と5年生に進み卒業する人と二つにわかれました。 
(昭和22年卒 )

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戦前・戦後にわたって
8月15日の終戦。 
残務整理の後、やっとみんな学校に戻り学業に専念することに なりました。 
廃止になっていた英語の授業も復活しました。 
又放課後のクラブ活動も盛んになりました。 
今迄読めなかったいろいろな本とか、小説とかみんな一生懸命に読みました。 
昭和22年学制改革により、6・3・3制になり、
私達は5年生で卒業か、後1年高校3年に残るか、希望で進学と就職組に分かれました。
1年生の時、中止になっていた修学旅行が出来るようになり、お米持参で、四国琴平宮と栗林公園に行った想い出、終戦直後で、みんな感激し、新婚旅行は、絶対琴平にすると言って帰りましたが ・・・
私達は昭和23年3月に井原高等女学校最後の卒業をしました。
戦前・戦後両方の教育を受け、一番波乱に富んだ時代であったと思います。
(昭和23年卒 )

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「小学校誌 ―創立百年を記念して― 笠岡市大井小学校」 (昭和52年発行)

大井国民学校

終戦前後の思い出  K男(旧職員)

昭和20年8月15日正午、
あの高い玄関先へラジオを持ち出し職員が並び、生徒は下の運動場へ勢揃いして学校での終戦風景でした。
両眼からは止め度もなく涙が流れ、職員室に入って何時間も机にかじりつき悲しくて動けなかった事が思い出されます。

戦後はマッカーサーの指令とかで、色々の命令が次々と達せられ今まで大切に使用していた掛け軸や図書は一纏めにして提出、どう処理されたか不明です。
一番聖域として崇めていた奉安殿も取毀されてしまうし、
国民の混乱は児童生活のうえにも反映して昭和21年22年は極度の動揺を来たし、学校経営の困難にも遭遇しました。

・・・

 

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