しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

学徒動員(高等女学校)

2024年01月16日 | 学制150年

大戦末期、女学校の高学年(4・5年生)は家を離れて工場へ、
2・3年生は家から近郊の工場や学校工場へ、
1年生は食糧増産、が多いようだ。

小学生(小国民)は集団や縁故で、町を離れて疎開した生徒がいるが、
中等学校の年齢では、その行為は”非国民”となるのであろう。誰一人いない。

 

(報国隊分列)「笠岡高校70年史」 笠岡高校 昭和47年発行

 

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「学校の歴史 第3巻 中学校・高等学校の歴史」 仲新 第一法規出版 昭和54年発行


戦局の激化と学徒動員

昭和18年6月には「学徒戦時動員体制確立要綱」が閣議決定され、「有事即応」の態勢を確立するため、
中等学校3年以上に戦技訓練・特技訓練・防空訓練等の徹底強化を図り、また食糧増産、国防施設の建設、緊要物資の生産、輸送力増強等に学生生徒を動員するものとし。

翌昭和19年に入ると戦局は極度に悪化し、政府は中等学校以上の諸学校の学徒を、今後一年間常時勤労その他の非常勤務に出動させられる態勢下におくこととした。
4 ・中学校商業学校および高等女学校の生徒については、地域の情況、労動力需給の情況を考慮して、食糧増
産・国防建設事業または工場・事業場(輸送を含む)等の作業に動員する。
なお女子については、できるだけ学校設備の工場化を図り、そこで勤労に従事させるように考慮する。

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「笠岡高校70年史」 笠岡高校 昭和47年発行

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学校報国団

「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

作業は軍人遺家族留守宅を含めて農村では米麦増産の作業全般に協力した。
このような集団作業を進める組織が、学校報国団の結成である。

軍需工場における集団勤労作業は、18年から断続的に行われた。 
岡山市津島の陸軍兵器補給廠、上伊福海軍衣料廠、倉敷絹織岡山工場、三菱重工業水島航空機製作所、倉敷絹織倉敷工場、三井造船、出動した。


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「笠岡高校70年史」 笠岡高校 昭和47年発行

昭和16年4月戦時体制の強化にともなって千鳥会は改組され、千鳥報国団が結成された。 
同年9月には報国団に報国隊が編成され、この組織のもとに勤労作業が行われるようになった。 
このような情勢のうちに太平洋戦争はいよいよさを加え、
昭和19年には学徒動員がはじまり、同年6月から翌年4月にかけて5・4・3・2年の順で水島航空機工場等に出動した。
戦争はいよいよ深刻化し、ついに20年8月終戦を迎えることとなった。

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「創立100周年記念誌・萩の道」 井原高校 2004年発行


防空ずきんの中の青春

大東亜戦争勃発のニュースを聞いたのは私が女学校4年の時でした。 
その後戦局の悪化と共に日常生活はもとより、敵国語である英語の教科は廃止され、
学生生活も日に日に戦時色を増し、先生方の服装も背広から国民服へ、
そして私達はモンペ姿と防空頭巾で通学の毎日となりました。 
当時としてはめずらしかった学校給食も廃止され、
防火訓練、避難訓練、分列行進等授業の合間に繰り込まれ、張り詰めた緊張感が今懐かしく甦ります。
非難訓練の時は大きなおむすびを各クラスバケツー杯に詰めこんで横手山に避難、手づかみで食べた時のおいしかった事。 
出征兵士の留守宅の勤労奉仕に友と汗を流し、鎌を手にふっと見上げた秋空に吸い込まれ充実感に浸った時もありました。 
2月8日の針供養は荒んだ時代のまことにほのぼのとした私共の行事でした。 
出征兵士への慰問袋にそれぞれの乙女心の便りを託しセンチになった時もありました。 
授業中に千人縫いが廻って来たり、又下校時の校門脇にテーブルが出され、その上に沢山の千人縫いが待ち受けていました。 
一番抵抗のあったのはトイレの汲み取り当番が廻って来る事でした。 
友達と呼吸を合わせ天秤棒で担いで校庭の向こうの学校農園まで運ぶのです。

(昭和18年卒 )

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私の高女時代
(昭和20年3月、5年生で卒業生)

私は昭和20年井原高等女学校5年制最後の卒業生です。 
したがって、4年生と2学年同時卒業という珍しい現象となりました。 

最後の5年生の6月、倉敷紡績工場へ学徒動員として入社、戦闘機の部品作りに各部に配置されました。
岡山一中、一女、倉敷の旧中学校、女学校の生徒、一般の工員、沖縄からの挺身隊など、
入り混じっての職場でした。 
エアーハンマーで鋲を打つ金属音の大音響の中でも、栄養失調と単調な仕事の繰り返しで眠いばかり。 
ベークライトの茶色の食器に、皮つきのままの芋や豆、こうりゃん入りのごはんが、 
窓口から投げるように滑り出てくるのをもらい、水のような汁と漬物の貧しい食事でした。
私達学徒は、中隊、小隊と呼ばれ、寮の廊下で点呼を受け、
先生は、カーキ色の国民服、戦闘帽ゲートル巻き、国中が戦争一色にぬりつぶされているあけくれでした。
教科書もないのだから、ここでは授業もない。 
休日には外出する人もありましたが、ろくに売っている品物もなく、金もなく、
1年弱この生活が続き、3月に卒業しても、 大半の人はそのまま動員されました。

岡山あたりも空襲で危なくなり、工場も里庄へ疎開しましたが、資材が届かず、仕事がなかったそうです。 
今、観光地のアイビースクエアは、倉敷紡績第二工場でした。 
ここで、訓練期間を過ごし、駅裏の万寿工場まで、鉢巻をして隊列を組み、 「赤い血潮の予科練の...」と歌いながら通ったこともありました。

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「広島県史近代2」

 学校の工場化
たとえば福山高等女学校は昭和19年7月より、事実上、陸軍被服廠の下請工場と化した。
同校の校内にはミシンなどの機械が設置され、生徒は被服廠員となって、ボタン付け、穴かがり、まつりなど軍服仕上げ作業を行なうことになったのである。
この作業もはじめは上級の生徒だけで行なったが、だんだんと下級生を含めていった。

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