昭和20年8月8日、
ソ連軍の満州侵攻でたちまち、日本人は棄民となった。
これは、おば(父の妹)の引揚時の話。
昨日、姉と雑談していたら高齢のおばのことが話題となり、
記録として書き残す。
一番困るのが・・・
おばの話(2002・4・30)
吉林から葫蘆島(ころとう)まではゴットン車ででた。
ゴットン車なので雨が降ればびしゃ濡れ。
食事は日に一食。
高粱のお汁のようなお粥。金(かね)の皿で二人に一つ、じゃから夫婦で一つ。
汽車が止まるのは一日一回。
止ったとこは(駅でなく)何処ゆうもんじゃない。
野宿。
一度だけ、焼けて屋根も半分ないような家か工場へ寝ることがあった。その時は病人や、子供や、年寄りがその中で寝た。
野宿じゃから毛布を頭から被って寝んと顔に露がつく。
とにかく私らはづっと野宿をしとった。
若かったけぇなあ。何日かかかってコロ島へでた。
一番困るのが・・・
吉林から葫蘆島(ころとう)までで一番困ったのが・・・おしっこ。
汽車は走りだしたら止まらんし。
満員でみんな立ったまま。
私が「おしっこがでたい」言うたら、身体へ毛布を巻いて、それからカナダライの洗面器にして。
それを、びっしり(満員)乗っとるひとの頭の上を、みんなで運び動いている貨車から外へ棄てていた。
そのカナダライは洗いもなにもせん。
管理人記
ここに出る「カナダライ」は、カナダライでなく、・・・じつは「鍋」だった。↓
・・
姉の話 2023.7.3 (姉とおばの会話日時は不明)
一つの鍋
日本に引き揚げる時、かね(金属)の手荷物は鍋一つだった。
この鍋で全部の用を足した。
オシッコをするのも鍋にした。
大便もするのも鍋にした。
水を飲むのも鍋にくんで飲んだ。
食糧を受けるのも鍋に貰い、鍋で食べた。
・・・・
ソ連軍の侵攻後、何度も生命の危機があり、
その中で一子を失ったおばは、
引揚時の苦労程度は、たいした問題ではなかったような話しぶりだった記憶がある。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます