以前からも神国・日本ではあったが、
それがにわかに強調され、宣伝されだしたのは昭和12.13年頃から。
その当時、小学生や上級学校にいっていた少年少女が、
軍国・愛国民の中核となり、
その数年後
新聞テレビでみるように敗戦を聴いて嗚咽した。
その上の世代は敗戦で安堵したり、(不幸にも)戦線で死んでいった。
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「太平洋戦争全史」 亀井宏 講談社 2009年発行
8月14日の夕刻から、東京中央放送局は
「明15日正午に重大な放送があるので、国民はもれなく聞くよう」
くり返した。
8月15日正午、
終戦の詔書を朗読する天皇の声は予定どおり電波にのって、全国に流れた。
この日、日本列島はおおむね快晴、暑い日であった。
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父の話(岡山市・陸軍下士官)
ワンワンようたが、
聞き取りにくかったが意味するところはよく分かった。
「日本は負けん、これからじゃ!」と勇ましいのを言うのもいたがすぐ収まった。
(勇ましい事を言う人は、それが一週間つづいたのだろうか?2~3日だったのだろうか?それとも一晩寝ると収まったのだろうか?)
『決起する』といっていたのは・・若い・・兵である。(将校でも下士官でもない)
終戦で「ほっと・・した」のが・・ホンネ・・大部分なので、勇ましいことをいうのは不思議でもないがその時点で既に少数意見(というくらい敗戦の状態の現実と、厭戦気分であった)であった。
いさましいのはとても一週間はつづいていない。いってみれば一晩寝ればおしまいの『決起する』であった。
談・2000年09月16日
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(父)
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母の話(茂平・農婦)
(放送があることは「隣組・回覧版で知ったのか ?」)
回覧も何もありぁあせん。
「重大放送がある」と繰り返し、ラジオがしつきょうた。
家でラジオで聞いた。
もう戦争が負けるんじゃけえ、そりょを言うんじゃろう思うとった。
(茂平みたいな)田舎の人でも、「そりょう言うんじゃ」言ゆうてようた。
じゃけいわかっとった。
(放送の雑音と内容は)天皇陛下の言うことは今でもぐつぐつ言うて、何を言ようるんかようわからんが。
(2000年01月30日 日曜日)
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おば(父の妹=満州帝国吉林市・主婦=既に棄民状態)の話
玉音放送は聞いた。
社宅の前にみんな集まって、いっしょにラジオを聞いた。
あれはほんとに天皇の声じゃった。
「おおお~」いう声だったが、わかったのは『日本が降伏した』ということ。
内容ははっきり聞き取れなかった、だがその意味(降伏・敗戦)だけは聞いてる人、みんなわかった。
談・2002・4・30
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(おじ)
おじ(母の弟=安芸安浦・海軍兵=17才)の話
(戦争の情報のことは)なんにも分からん。
戦争が負けとるとは思ようならんだ。
そりゃ。
新聞を見るわけでなし、ラジオを聞くわけでなし。外のことは何んにもわからんものお。
負きょうるとは知らなんだ。
飛行機が無いんで、あんまり良ぅない・・・ゆうことは感じょうた、けど。
ラジオを聞いたのは終戦の時だけじゃ。
あの時は聞いた。あれだけは聞いた。
談・2003年3月20日
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「美星町史」
終戦の刻
国民の生活は日増しに苦しくなり、疲労と飢えにあえぎながらも
「負けたら一人残らず殺される」という宣伝がされて一段と緊張を増した。
夜は遠くの方の空が真っ赤に染まり、どこかが焼けていることを感じた。
前線は玉砕の報が次々と入り、遂に昭和20年8月15日を迎えた。
丁度その日、私どもの周囲に「降伏せよ」と印刷したビラが飛んできた。
母が「戦争が終わったら電灯がつけられるかなあ」と言った。
妊産婦は栄養もとれず、特に動物蛋白源は何一つなく、
煮干しさえ一週間に一度、食べるか食べないかの生活、
胎児の順調な発育等は望むすべもない。
~ 終戦の年 細々と生まれし吾子達は からくも育ち父母となる ~
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再び戦争の惨禍を繰り返すことが亡きことを願っております。
正座して玉音放送聞きし日は
われが五歳のあの夏座敷
祖父が家族全員にラジオに向かって正座するように命令したことを思いだしております。
18畳の部屋に家族12人が正座しました。
その席には伯父(母の兄)と私の父は居りませんでした。
伯父は間もなく復員しましたが、父は19年10月のレイテ沖海戦に鳥海と運命を共にしておりました。
父の戦死の公報は昭和21年4月私が小学校入学直後に届いたそうです。
いつも大切な事柄を心して拝読させて頂いております。
姉妹のお父さんは戦死していました。
ところが、ある夏の日、姉の「くに子」さんが赤痢になってあっという間に、死んでしまいました。
それから15年ほど経ち「よし子」さんに見合い話があり、
相手の男性が「お母さんを大切にしよう」と言ったとき、
よし子さんは、そのひとことで、相手の人の収入・容姿等すべてぶっとび、
その男性と結婚を決めました。
それからまた30年、40年経ち、
よし子さん夫婦は、お母さんと同居し今も幸せに暮らしている、と母が話していました。
幼い時、いっしょに遊んでいた姉妹なので、忘れることができません。