しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

「東京裁判」”南京虐殺”

2025年03月06日 | マッカーサーの日本

昭和13年秋、父が所属していた部隊は、
大別山を越えて漢口城(武漢市)へ入城した。

日本軍の兵糧は現地調達で大別山を越えこともあり
漢口へ入城後は、
漢口の街の倉庫にある米は略奪、当然のことのように皇軍の兵糧となった。

なにしろ皇軍は正義の戦いであり、
東洋平和のために戦っているのだから・・・米(こめ)の略奪は、平和のへの贈もの・・・ぐらいの意識だったのだろう。

 

同じころ、南京で日本軍の行動が、(日本以外の)世界中に発信され報道されていた。

 

・・・

「年表 太平洋戦争全史」 日置英剛 国書刊行会  2005年発行

極東国際軍事裁判における南京大虐殺判決(昭和12年・12月)


1937年12月の初めに、松井の指揮する中支那派遣軍 [中支那方面軍]が南京市に接近すると、100万の住民の半数以上と、
国際安全地帯を組織するために残留した少数のものを除いた中立国人の全部とは、この市から避難した。
中国軍は、この市を防衛するために、約5万の兵を残して撤退した。

1937年12月12日の夜に、日本軍が南門に殺到するに至って、残留軍5万の大部分は、市の北門と西門から退却した。 
中国兵のほとんど全部は、市を撤退するか、武器と軍服を棄てて国際安全地帯に避難したので、
1937年12月13日の朝、日本軍が市にはいったときには、抵抗は一切なくなっていた。


日本兵は市内に群がってさまざまな残虐行為を犯した。
目撃者の一人によると、
日本兵は同市を荒し汚すために、まるで野蛮人の一団のように放たれたのであった。
目撃者達によって、同市は捕えられた獲物のように日本人の手中に帰したこと、
同市は単に組織的な戦闘で占領されただけではなかったこと、
戦いに勝った日本軍は、その獲物に飛びかかって、際限のない暴行を犯したことが語られた。
兵隊は個々に、または2、3人の小さい集団で、全市内を歩きまわり、殺人、強姦、掠奪、放火を行った。
そこには、なんの規律もなかった。
多くの兵は酔っていた。

それらしい挑発も口実もないのに、中国人の男女子供を無差別に殺しながら、兵は街を歩きまわり、
遂には所によって大通りや裏通りに被害者の死体が散乱したほどであった。
他の一人の証人によると、中国人は兎のように狩りたてられ、動くところを見られたものはだれでも射撃された。
これらの無差別の殺人によつて、
日本側が市を占領した最初の2~3日の間に、少くとも1万2千人の非戦闘員である中国人男女子供が死亡した。 
多くの強姦事件があった。
犠牲者なり、それを護ろうとした家族なりが少しでも反抗すると、その罰としてしばしば殺されてしまった。
幼い少女と老女さえも、全市で多数に強姦された。 
そして、これらの強姦に関連して、変態的と嗜虐的な行為の事例が多数あった。
多数の婦女は、強姦された後に殺され、その死体は切断された。
占領後の最初の1ヶ月の間に、約2万の強姦事件が市内に発生した。

日本兵は、欲しいものは何でも、住民から奪った。 
兵が道路で武器をもたない一般人を呼び止め、体を調べ、
価値のあるものが何も見つからないと、これを射殺することが目撃された。
非常に多くの住宅や商店が侵入され、掠奪された。
掠奪された物資はトラックで運び去られた。
日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあった。
最も重要な商店街である太平路が火事で焼かれ、さらに市の商業区域が一劃々々と相ついで焼き払われた。
なんら理由らしいものもないのに。

全市の三分の一が破壊された。
中国の一般人は 一にまとめられ、うしろ手に殴られて、城外へ行進させられ、 
機関銃と銃剣とによって、そこで集団ごとに殺害された。
兵役年にあった中国人男子2万人は、こうして死んだことがわかっている。
ドイツ政府は、その代表者から、「個人でなく、全陸軍の、すなわち日本軍そのもののと犯罪行為」について報告を受 けた。 
この報告の後の方で、「日本軍」のことを「畜生のような集団」と形容している。

城外の人々は、城内のものよりもややましであった。
南京か二百中国里以内のすべての部落は、大体同じょうな状態にあった。
住民は日本兵から逃れようとして、 田舎に逃れていた。
所々で、かれらは避難民部落を組織した。
日本側はこれらの部落の多くを占拠し、避難民に対して、南京の住民に加えたと同じような仕打ちをした。
南京から避難していた一般人のうちで、5万7千人以上が追いつかれて収容された。
収容中に、かれらは飢餓と拷問に通って、遂には多数の者が死亡した。
生き残った者のうちの多くは、機関銃と銃剣で殺された。
 
中国の大きな集団が城外で武器を捨てて降伏した。
かれらが降伏してから72時間のうちに、揚子江の江岸で、機関銃掃射によって、射殺された。
このようにして、右のような捕虜3万人以上が殺された。

南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、20万以上であったことが示されている。
これらの見積りが誇張でないことは、埋葬隊とその他の団体が埋葬した死骸が、15万5千に及んだ事実によって証明されている。
これらの団体はまた死体の大多数がうしろ手に縛られていたことを報じている。
これらの数字は、日本軍によって、死体を焼き棄てられたり、 揚子江に投げこまれたり、
またはその他の方法で処分されたりした人々を計算に入れていないのである。

 
〔1948年11月11日判決『極東国際軍事裁判速記録』 


・・・

 

・・・

「昭和第5巻一億の新体制」  講談社 1989年発行


「東京裁判」南京虐殺

日本も批准していたハーグ陸戦条約では、捕虜や投降兵の殺傷を禁じていたが、
そのことは日本軍部隊には徹底されていなかった。
激戦が続くなか、日本兵は中国兵に対して強い敵愾心、報復心をいだき、
当時の日本人がもっていた中国人に対する蔑視意識と相まって、中国兵捕虜や投降兵、敗残兵の虐殺が広範におこなわれた。 
南京攻略を目ざして、徒歩による強行軍を強いられたため、日本軍部隊の軍紀は乱れ、
女性を強姦、輪姦する婦女凌辱事件と、食糧・物資の略奪や、人家を放火・破壊する不法事件が多発した。 
しかし兵士たちの不法行為を取り締まる憲兵はわずかしかいなかった。
日中全面戦争へ本格的に移行した日本は、11月20日に宮中に大本営を設置、
12月1日、大本営は南京攻略を正式に下令した。

以後、中支那方面軍九個師団と数支隊を加え、
総兵力16万とも20万ともいわれた中支那方面軍の大軍が、南京の中国軍に対する包囲殲滅作戦を展開した。
南京は国民政府の首都として、当時、城壁の内部と周辺からなる市部人口100余万、
近郊農村と県城からなる県部人口130万人をかかえた大都市であり、
南京攻略戦の戦域には、市部と農村を含む県部をあわせて、100万を超える住民や難民が残留していて、
南京攻略戦と占領後の残敵掃討戦の犠牲になった。


南京事件の第一段階は、
日本の大本営が南京攻略を下令し、中支那方面軍が南京戦区に突入した 12月4日前後からはじまる。
日本軍部隊は、南京近郊の農村地域において、
農作物や食糧を略奪、家畜を殺して食べ、宿営した農家を移動するさいに放火した。
村の成年男子は殺害され、隠れているところを発見された女性は強姦、輪姦されたあげくに、
日本軍憲兵に通告されないよう、証拠隠滅のために殺害された。
輜重部隊をともなわなかった部隊は、農民を拉致、連行して使役した。

第二段階は、
南京城内と城壁周辺区においておこなわれた。
12月12日深夜に南京は陥落し、 13日から日本軍は「残敵掃討」を開始した。 
中国軍兵士や市民はパニックに陥り、長江を渡って逃げようと埠頭のある下関へ殺到したが、
日本軍はここを制圧し、投降してきた中国兵らを次々殺害した。
折から長江を遡上してきた海軍の軍艦が、渡して逃げようと小舟や筏、戸板などで川面に漂う中国兵や市民の群を機銃で殺害した。
南にある中華門外でも投降勧告にしたがって収容された多くの中国兵が殺害された。

第三段階は、
12月14日から16日にかけておこなわれた。日本軍は17日に入城式をおこなうことを決定、
それまでに残った中国軍を徹底的に掃討しようと、市街地を虱潰しに探しながら殺害していった。
多くの成年男子が軍服を脱ぎ捨て、民間服に着替えた「便衣兵」とみなされて殺害された。
欧米人が管理して市民、難民を収容した「国際安全区」にも入り、
兵士が民間人かを明確に区別しないまま数を運行して殺害した。
日本軍は「捕虜はつくらない」という上部の命令で、長江沿岸において、捕虜、投降兵、敗残兵を数千、数百の集団で次々に殺害し、体を長江に流した。 
城内の大掃討作戦において、日本兵は「花姑娘 (若い娘)探し」をおこない、民家に隠れていた女性を探しては強姦、輪姦した。


第四段階は、
入城式以後、長期にわたった軍事占領期間におこなわれた。
日本軍は市民にまぎれこんでいる中国兵を摘発するため「兵民分離」と称して市民登録をおこない、
元兵士の疑いをかけ多くの成年男子を運行して、下関などで殺害し 女性を拉致して、部隊へ連行、炊事・洗濯に 使役しながら強姦、輪姦するケースも頻発した。 
長期駐留した日本兵による商店、倉庫、民家からの食糧や商品さらに財宝などの略奪が横行、略奪後に証拠隠滅のための放火も多発した。


大本営が中支那方面軍の戦闘序列を解き中支那派遣軍に改編した1938年2月14日が南京作戦の終了にあたるが、
南京における残虐事件はその後も続いた。
南京事件の終焉は、日本軍の残虐行為が皆無ではないまでもずっと少なくなった3月28日の中華民国維新政府の成立時と考えることができる。 
南京事件発生の区域は、南京城区とその近郊の六県を合わせた行政区としての南京特別市全域であり、それは南京作戦(中国にとって南京防衛戦)の戦区であり、
南京陥落後における日本軍の占領地域でもあった。
南京事件は、事件当時南京に残留していた外国人記者や外国大使館員、
さらには難民や市民の救済にあたった南京安全区国際委員会のメンバーたちによって海外に報道され、
国際世論は、日本軍の残虐行為を厳しく批判した。 

 

・・・

(福山市史)

福山には歩兵41聯隊があった。
現在福山市には、聯隊の記念館はない。
が、
なぜか?郷土部隊にまったく関係ない「ホロコースト記念館」がある。

・・・

 

 

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