しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

鈴木三重吉文学碑

2024年02月10日 | 銅像の人

場所・広島市中区大手町(元安川左岸)

児童文学『赤い鳥』で有名な鈴木三重吉。
先生は広島市の原爆ドームの東隣の地(現・エディオン本店の場所)に生まれ、東京帝大を卒業後教育者となり、
夏目漱石の門下生として小説も書いていたが、後に児童文学に転向した。

銅像は広島県御調(みつぎ)出身の圓鍔勝三さんの作。

 

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鈴木三重吉

(Wikipedia)

鈴木 三重吉(すずき みえきち、1882年〈明治15年〉9月29日 - 1936年〈昭和11年〉6月27日)は、広島県広島市出身の小説家、児童文学者。日本の児童文化運動の父とされる。

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児童雑誌「赤い鳥」105年 名作を世に 業績しのぶ

毎日新聞Web
2023.7.31
児童雑誌「赤い鳥」105年 名作を世に 業績しのぶ 
「赤い鳥」は1918年7月創刊。
明治期以降の教訓的なおとぎ話とは異なり、芸術的価値の高い作品を子どもに紹介しようと、
三重吉は当時の一流の作家に声をかけてオリジナルの童話を寄せてもらった。
創刊号には、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」を掲載。
新美南吉の「ごんぎつね」など「赤い鳥」が発掘して世に送り出した名作も数多くある。

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撮影日・2016.3.31

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「斎藤のラーメンは汁に指を入れたまま・・・」客に出す

2024年02月07日 | 昭和36年~40年

戦後の笠岡では、”斎藤”といえば、それは中華そばを意味していた。
支那そば、中華そば、ラーメンと40年間ほど笠岡の中央でお店を出していた。


昭和が終わる頃、斎藤ラーメンもお店を終い、以後は現在まで笠岡ラーメンの超有名な”伝説の店”となった。

 

 

「斎藤のラーメンは指を汁に入れたまま・・・」客に出す

 

今から数年前のこと、雑談中に、年齢からみて実食の経験はないであろう方から
「斎藤のラーメンはどんぶりの汁に指がはいったままテーブルに置いてたんですよね」
という話が出た。
そうだった。
思い出した。
”斎藤”に行くと、いつも、という程ではないが、置く時に、よく汁に指をつっこんでいた。
でもそれは、見慣れてきた光景だった。
小学校の脱脂粉乳をアルミに注ぐ先生や生徒は、
注ぐ方も受け取る方も、指が粉乳に浸かっていた。
それは毎日毎日の日常風景だった。
ついでに言えば、自分はその頃
朝、歯をみがいたり、顔を洗ったりするのも稀だった。(週に2~3度)
母方の祖父母宅では箱膳で、椀も箸も洗わずに再使用していた。 

 

 

「斎藤のラーメンは客の残した汁を、・・・次の」客に出す


高校生の時、隣の席の人がヒソヒソと教えてくれた。
「斎藤がなあ、保健所から営業を止められたんでぇ。
残った汁を捨てずに、混ぜて、使うたんでぇ。
昨日から3日間、店は閉まっとるでぇ。」

ウチでは残りもんは、翌日も、翌々日にも食べていた。
それでも残って腐りそうなものは、
大きいものは牛、
小さいものは猫、
に回し、いよいよ食えないものは穴に埋めて堆肥としていた。
”斎藤”のことは、さして驚かないし、半ば普通のことと思っていた。


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自分の思いは、貧しい農家の自分だけの思い出だけでなかった。
花の東京のど真ん中で、
時代の寵児だった舟木一夫さんと林与一さんが同じような経験をしている。

なにか安心したような気持になった。
それでブログ記事にして残すことにした。

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舟木一夫・林与一、東京NHK裏で「客の残したラーメン汁を食べる」

YouTube
与一チャンネル「舟木一夫さんを語る」

舟木一夫さんとは昭和38年からのお付き合いでございまして。
大河ドラマ「赤穂浪士」でごいっしょし、気が合いました。
それでまあ、時間がある時に「ラーメンでも」って時代劇の衣装のまま内幸町のNHKの裏、
そこの屋台に入って食べたんですけど、今思うとよくあんなラーメンを食べられたなと思うのは、
あの食べおわるとですね。
食べ終わったラーメンをざるに落として、スープを残すんです。
それであの、バケツにいれたものを注いでやってたんですね。
今だったらもうあれ見たらお腹にはいらなくなっちゃうんですけど、
当時は平気で食べてましたね。はい。

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東京よりも岡山県の保健所の方がきびしかったのか?
いやいや、
”斎藤”が、それにより客が減ったという話もなかったし、
運転の速度制限にたまたま掛かった、程度の感じでお店も客もみていたのだろう。

茂平の名産「干しイチジク」は、作っているところを”見たら食べれない”と思っていた。
NHKの赤穂浪士の放送から6~7年後、「干しイチジク」は食の安全に問題があり生産中止となった。
その頃から、やっと食の安全や衛生に国や国民が気にするようになった、ということなのだろう。

 

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笠岡高校、笠岡工業、笠岡商業の倍率

2024年02月06日 | 令和元年~

山陽新聞に岡山県立高校の予想倍率(最終)が載っている。


それを見ると笠岡市内の県立三高校のうち、笠高・笠工は大幅に定員割れ。
笠商のみ定員以上の受検者がいることになる。

笠岡市の住民として非常にさみしさを感じる。
新聞記事の理由に「卒業見込み者も減少」していることをあげているが、
そもそも定員数が十分減っている。

われわれの当時は一校で現在の三校合わせた定員数だった。
ということは、
現在は定員割れですんでいるが、いずれ三校統合の話も出てくるのだろうな。
いよいよさみしい。

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山陽新聞
2024年1月26日 金曜日 全県版

県立全日制高 平均競争率1.05倍

岡山県教委は25日、今春の県内中学校の卒業見込み者を対象にした進学調査結果(最終10日現在)を発表した。
県立全日制高校50校の平均競争率は1.05倍と低下。
卒業見込み者も減少に加え、県内の私立通信制や県外校を 選択する生徒が増えたことが要因とみられる。

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新制大学発足

2024年02月06日 | 学制150年

大日本帝国の崩壊で、用なしとなった師団や聯隊の広大な跡地の多くは
新制大学の校地となった。

 

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(岡山大学・2018.11.11)

 

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「岡山県教育史・続編」  岡山県教育委員会 昭和49年発行

岡山総合大
中国総合大学誘致運動

昭和22年12月中旬、第1回中央陳情の際、文部省はCIEの示唆のもとに新学制による国立総合大学を全国に十一校設立する意向をもっていることが明らかにされた。
それによれば、11校のうち、7校は従来の帝国大学をそのまま移行し、
ほかに金沢、熊本と中国、四国に各一枚程度認める模様で、中国では広島、岡山、松江が有力視されているということであった。
この結果、従来の岡山総合大学設立運動は、中国総合大学誘致運動へと発展し、六高誘致のときと同様、広島県としのぎをけずることとなった。

23年1月、岡山総合大学設立期成会は、中国総合大学設立期成会と改称し、
本格的な誘致運動が展開された。
これには六高、岡山医大も積極的に参加した。
中国総合大学誘致運動は、岡山と広島との争奪戦となったが、
3月に文部省は各方面から猛反対をうけていた大学地方委譲案と十一国立大学案を否定した。


岡山大学の設立と認可 

岡山大学が正式に認められたのは、昭和24年5月31日である。
岡山大学の開学24年5月に学生募集が行われ、同年7月28日第一回入学宣誓式が挙行された。 
入学者は858人で、授業は9月15日に開始され、10月22日に設立期成会による開学式が行われた。
初代の学長には林道倫岡山医大学長が就任した。

 

岡山県立短期大学
岡山栄養科学園

岡山県立短期大学の前身である岡山栄養科学園は、昭和21年上道郡高島村(現岡山市)に結核予防会の施設をかりて、
国民栄養協会岡山県支部の経営で発足した。
戦後間もないころで、国民の栄養状態もきわめて悪く、国民の体位向上をめざして栄養知識の普及をはかるには、栄養士の養成が必要であるとの立場から、
衛生部が岡山医科大学の指導のもとに設立開校をすすめたものである。
初代学園長は岡山医大の清水多栄教授であった。
修業年限1年で男子11人、女子11人、計22人が第一回卒業生である。
しかし、2年目は休校となった。
3年目に県営となり再開、24年には第一岡山高女の校舎に移った。
25年に修業年限が二年となり、26年には津島に移った。
岡山県栄養短期大学
30年短期大学に昇格、食物科が開設された。
36年岡山県立短期大学と名称を変更、同年3月、体育科増設が認可された。
40年県立高等看護学校を吸収し看護科、42年県立保育専門学園を吸収し保育科を増設した。

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草戸稲荷の「節分豆まき」

2024年02月04日 | 令和元年~

場所・広島県福山市草戸町「草戸稲荷神社」節分豆まき
日時・2024年2月3日 11:00~11:15

 

今年の「節分豆まき」は何処の寺社に行こうかと、いろいろ検討した。
寒いので温泉と併せ、国宝明王院とも併せ、草戸稲荷に行くことにした。

 

 

まず、国宝「明王院」にお詣り。

 

 

 

 

次に「草戸稲荷神社」にお詣り。

 

 

 

午前11時00分、草戸稲荷の豆まき始まった.

 

 

 

豆は”雨あられ”に投げまくられた・・・のではなくて、

ゆっくりと、じっくりと本日の参拝者の動向を確かめながら、遠くへ、そして真下へと投げられた。

普通は数分で終わるが、草戸稲荷の豆まきは15分間だった。

境内は”興奮のるつぼ”を、15分間楽しむことできた。

 

 

 

この後で、本庄のスーパー銭湯「ゆらら」に寄ってからおうちに帰った。

 

 

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