しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

足摺岬  (高知県土佐清水市)

2024年06月10日 | 旅と文学

「足摺岬」は二十歳くらいの時読んだ。
当時、若者の読むべき本とか言われていた。
他にもいろいろあった。
新潮文庫などは大々的に「夏の100冊」とか称して宣伝して、読むのを脅迫(?)していた。
今は、新潮社に限らず、ああいう宣伝がないのがさみしい。


「足摺岬」を読んだ当時は、若者らしく本に共感した。
年を経て今読むと、昭和初期の「大学は出たけれど」の暗い世相の方を強く感じる。

 

・・・

旅の場所・高知県土佐清水市足摺岬
旅の日・2018.10.2
書名・足摺岬
著者・田宮虎彦 
発行・旺文社文庫  昭和42年発行

・・・

 

 


「足摺岬」 田宮虎彦

それは、もう十七、八年も前のことになる。
その時、私は自殺しようとしていた。
なぜ、自殺しようと思いつめていたのであろうか。
死のうとしたその時でも、理由ははっきりとは言えはしなかっただろう。
何となく死にたかった。
理由もなく死にたかった。
身体も弱かったし、金もなかった。
父親とは憎みあっていた。
母が死んだ直後であった。
しいて理由といえば、母を追って死のうとしたのかもしれぬ。

私はまだ大学をあと二年近く残していた。
それまでも私は父から学資を貰っていたのではなかったけれども、それまで苦しみながらつづけて来た大学もやめようと思っていた。
やめれば数年の苦しみも無駄になるとはわかっていたが、大学を出たところでむなしい人生しか残されていはしないことが、
既にのぞき見ていた世の中から私にははっきりわかっているように思えていた。
私はあてどもなく東京の町をあるき、生きて行く仕事をさがしもとめようとした。
私には休息が必要だったけれども、休息をあがなう金は一銭もなかったのだ。
死のうと思いたったのはその頃だが、そんなことが死ぬ理由になるかどうかは私は知らぬ。
一度死ぬことを思いたった私は、一途に死にた い思いに誘われつづけたのであった。

 

・・・

 


清水の町に辿りついた翌日にでも、東京の下宿で思いつめたとおり私は死んでいたにちがいなかったのだ。
私は死にたかった。
死ぬ以外に自分を支えるものがなかった。
だが、あの時、私はなぜ足摺岬などを死場所にえらんだのだろう。
数十丈の断崖の下に逆巻く怒濤が白い飛沫を上げて打ちよせ、投身者の姿を二度と海面にみせぬという。
八、九日もすぎた後だっただろうか。
雨はまだ悲しく降りつづいていたが、待ちきれずその雨の中を私は濡れて足摺岬の方へあるいていった。

しかし、その日は私は死ぬつもりではなかった。
格好の死場所を探しに行くつもりであったといえばいいだろうか。
私は清水の町並から、その日、二里近くもあるいたようにも思う。
雨に洗われた白い県道が馬目樫の林をぬい、たぶや榕樹の大樹のかげを曲折しながら上り坂になった。
人一人 会わなかった。
幾つめかの淋しい部落をすぎ、道が崖肌を通って左に折れた時、ふいに、暗い雨雲におおいつくされた怒濤の果てしないつらなりが、私の眼の前にくろぐろとよこたわっていた。
重たく垂れこめた雨雲と、果てしない怒濤の荒海との見境いもつかぬ遠いから、荒波のうねり が幾十条となくけもののようにおしよせて来ていた。そのうねりの白い波がしらだけが真暗い海の上にかすかに光って見えた。
それはうねりの底からまき上がり、どうとくずれおち、吼えたてる海鳴りをどよませながら、深い崖の底に噛みついては幾十間とわからぬ飛沫となって砕け散った。
にぶい地ひびきがそのたびに木だまのように尾をひいて共鳴りを呼んでいた。

 

・・・

 

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井上成美 (広島県江田島)

2024年06月08日 | 旅と文学

軍や民の指導者としては、救いようもない狭さと時代遅れの思考レベルだった大日本帝国陸海軍の上層部の中にも、
少数ではあるが、広く、長く日本を考える将官たちもいた。

陸軍では2.26事件で斃れた渡辺錠太郎大将。
海軍では、米内・山本・井上とうたわれた井上成美大将がその代表。


井上大将の現実を見る目は鋭い。
日米開戦前に、
日本はアメリカに海上封鎖されたら何もできない(負ける)。
日本はアメリカを海上封鎖することは出来ない。出来たとしてもアメリカはすべて国内自給できる。(負けない)

今ならだれでも言えることを
当時の日本で発想した軍人・政治家はいない。
井上大将の言う通り、日本は封鎖され、負けた。

 

・・・

旅の場所・広島県江田島市江田島町 元・海軍兵学校+古鷹山
旅の日・2013年1月16日 
書名・井上成美
著者・阿川弘之
発行・新潮文庫 平成4年

・・・

 

 

「井上成美」 阿川弘之  

支那事変がすでに四ヶ月目に入っており、海軍は、艦隊航空部隊の一部を戦線へ投入しているけれど、
米内山本の最上層部が大陸の戦火に消極的、陸軍のやり方に批判的であるのは、部内周知の事実であった。
山本次官は、七月盧溝橋事件突発の報を聞いて、「陸軍の馬鹿がまた始めた」と腹を立て、
好きな煙草をやめてしまった。
米内海相は事変の拡大を憂慮して、先任副官近藤泰一郎大佐に、「君、揚子江の水は、一本の棒ぐいで食いとめられやせんよ」と洩した。 

彼らを補佐して最も忙しい海軍の大番頭格が軍務局長で、新任多忙の井上は、事変関係の書類を決裁しながら、よく、
「動物、動物」
と苦々しげに口走っていた。
自分が罵られているのかと、初めて聞いた副官が恐る恐る問い返すと、
「何故陸軍のことを動物とお呼びになるのですか」
「理性が欠如してるからだよ」


年が明けて昭和十三年一月十六日、首相の近衛文麿は、
「爾後国民政府を対手にせず」の声明を発表した。
東亜同文書院の院長大内暢三が、
「何という馬鹿だ。中華民国の唯一の指導者と世界が認めている蒋介石を、対手にしないなどと、
陸軍にかつがれて自ら交渉の道を閉ざすような声明なんか出して、近衛はほんとうに馬鹿だよ」と慨歎したそうだ。
これで事変の解決はますます難しくなり、英米との溝がさらに深まるだろうと見ていた。

 

 

昭和十七年十一月十日、井上成美が飯田秀雄中佐一人供に随え、第四十代目の海軍兵学校長として江田島へ着任した時、
此処には後年井上伝記刊行会の母胎となる七十一期七十二期 七十三期の三クラスが在校していた。

英語不評判の時世が来て海軍当局が困ったのは、対陸軍の関係であった。
英語追放に関し、陸軍のやり方は徹底していた。
自動車部品の呼称にも、片仮名は一切使わせない。
ハンドルが走向転把、アクセルペダルが加速践板、
聯隊によっては兵隊に食わすライスカレーまで、「辛味入り汁かけ飯」と言い換えを強制した。
それだけなら海軍が格別関心を持ったり困惑を感じたりしなくても良いのだけれど、
陸軍は開戦前の昭和十五年秋、士官学校生徒の採用試験科目から、早々と英語を除外してしまった。

身体も強健な軍人志望の少年たちが、海軍を避けて 陸軍士官学校を目ざす傾向が、統計上はっきり見られる。
それを憂慮した本省教育局の主務者が、
海軍もせめて生徒採用試験の英語は来期から廃止したらどうかと、兵学校宛に勧告を寄せて来た。
この問題が教官研究会で取り上げられた。
全員が廃止 賛成の意思表示をした。
「よろしゅうございますか、これで」
教頭に念を押された井上は、
「よろしくない」
と答えて立ち上った。
「一体何処の国の海軍に、自国語一つしか話せないような兵科将校があるか。
そのような者が世界へ出て、一人前の海軍士官として通用しようとしても、通用するわけが無い。
英米海軍のオフィサーならフランス語スペイン語、吾人の場合は最小限英語、
この研究会でも繰返し言っている通り、海軍の将校たらんとする人間にとり、英語は必須下可欠の学術であり技能である。

 

 

構内の古い桜並木が花をつけ始めた。
兵学校の桜と言えば、海軍関係者のみならず、呉広島の市民の間で昔からよく知られた春の美観だが、
今年の四月、井上は諸種の新事態へ新たな対応を迫られ、敬慕する山本聯合艦隊司令長官が亡くなり、久々の内地の花時を慌しい思 いで過した。
予備学生たちを普通学教官として江田島へ受け入れること、
皇族賀陽宮治憲王の入校準備教育を開始すること、いずれも彼にとって初めての経験であった。

中央は在校生徒の修業年限短縮を一方的に決めて各教育現場へ押しつけて来そうな気配があり、これにも対処しなくてはならなかった。

 

・・・

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金色夜叉  (静岡県熱海温泉)

2024年06月06日 | 旅と文学

尾崎紅葉は小説に、ずいぶん大仰な題名、「金色夜叉」をつけ
男女の主人公二人を熱海海岸で歩かせる。
大衆演劇が顔負けの「死ぬ」の「生きる」の、と大げさなセリフを何度も繰り返させ
セリフが尽きると、体力で遣り込める。

本も演劇も歌も、たいそうな人気があったんだろうな。明治・大正・昭和と。


熱海海岸で二人の銅像を初めて見た時は驚いた。
”婦女暴行”!
これが文学作品の銅像か!?
どこからみても暴行にしか見えなかった。
また、それほど迫力満点の像ではあった。

・・・

旅の場所・静岡県熱海市東海岸町
旅の日・2015年7月8日
書名・「金色夜叉」 
著者・尾崎紅葉 
発行・岩波文庫 1939年発行

・・・

(岩波文庫の表紙)

 

 

「金色夜叉」 尾崎紅葉 

貫一は蹈留りて海に向いて泣けり。
宮はこの時始めて彼に寄添いて、気遣しげにその顔を差覗きぬ。
「堪忍して下さいよ、皆私が・・・・どうぞ堪忍して下さい。」
貫一の手に縋りて、忽ちその肩に面を推当つると見れば、彼も泣音を洩すなりけり。
波は様々として遠く煙り、月は朧に一湾の真砂を照して、空も汀も淡白き中に、立尽せる二人の姿は、
墨の滴りたるようの影を作れり。


「宮(みい)さん、お前はよくも僕を欺いたね。」
宮は覚えず慄けり。
「病気といってへ来たのは、富山と逢うためだろう。」
「まあ、そればっかりは・・・・・・・」
「おお、そればっかりは?」
「あんまり邪推が過ぎるわ、あんまり酷いわ。何ぼ何でもあんまり酷い事を。」
「操を破れば奸婦じゃあるまいか。」
「何時私が操を破って?」
貫一は力なげに宮の手を執れり。


「ああ、宮(みい)さんこうして二人が一処にいるのも今夜限だ。
お前が僕の介抱をしてくれる のも今夜限、僕がお前に物を言うのも今夜限だよ。
一月の十七日、宮さん、善く覚えてお置き。
来年の今月今夜は、貫一は何処でこの月を見るのだか!
再来年の今月今夜・十年後の今月今夜........ 一生を通して僕は今月今夜を忘れん、
忘れるものか、
死でも僕は忘れんよ! 
いいか、宮さん、
一月の十七日だ。
来年の今月今夜になったらば、僕の涙で必ず月は曇らして見せるから、
月が............月が曇ったならば、宮さん、
貫一は何処かでお前を恨んで、今夜のように泣いていると思ってくれ。」


「ちええ、腸の腐った女! 姦婦!」
その声とともに貫一は脚を挙げて宮の弱腰をはたけたり。
地響して横様に転びしが、貫一は猛獣などを撃ちたるように、なお憎さげに見遣りつつ、
「宮、おのれ、おのれ姦婦、やい! 貴様のな、心変をしたばかりに間貫一の男一匹は失望の極発狂して、
大事の一生を誤ってしまうのだ。学問も何ももう廃だ。
この恨みのために貫一は生きながら悪魔になって、貴様のような畜生の肉を啖って遺る覚悟だ。」

「や、怪我をしたか。」
寄らんとするを宮は支えて、
「さあここを放さないか。」
「私は放さない。」
「剛情張ると蹴飛すぞ。」
「蹴られてもいいわ。」
貫一は力を極めて振断れば、宮は無残に伏転びぬ。
「貫一さん。」

 

・・・・

 

 

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中将姫     (奈良県当麻寺)

2024年06月06日 | 旅と文学

小学校にあがる頃、絵本を読むことはあったが、漫画も絵本も
男子は侍で、女子はお姫様、とほぼ決まっていた。
それで「中将姫」を知ることはなかった。

中将姫の存在を知ったのは、二十代も後半の頃。
講談社が戦前の絵本の復刻版が発売し宣伝し、その新聞広告で知った。

大人になって児童の絵本を見ると、
子どもの時とは違って、物語の解釈や絵のすばらしさに気づくことがあった。
今でも図書館で絵本をめくることがある。

・・・


旅の場所・奈良県葛城市當麻・當麻寺(たいまでら)
旅の日・2012年10月30日   
書名・ちゅうじょうひめ
原作者・不明
現代訳・小学館の絵本 昭和40年発行

・・・

 

 

ちゅうじょうひめは、
「こう して しあわせになれたのも、やさしい ほとけさまのおかげ ですもの。 
わたしは、ほとけさまが よろこんでくださるような りっぱなにんげんになりましょう。」
と、いつも おもいました。

そして、いちどでもいいから、
ほとけさまのおかおを みることができたら、 どんなにうれしいでしょうとかんがえて、
「ほとけさまに あわせてください まし。」
と おいのりしました。
あるひ、ちゅうじょうひめは、にわのはすいけの まわりをあるいて いました。
いけには、きれいにはながさいて います。 
あおい はに、しんじゅ のような つゆがひかって います。 
ひめが はすをみていると、 「はすの くきを おって、いとを ひきだして ごらん。」
と、いうこえがきこえました。

・・・

ひめが、ごしきのいろにそまった いとをはずしていると、また、
こんな こえがきこえました。
ごしきの いとを、たていととよこいとにして おってごらんなさい。
ひめは、ごしきの いとを はたおりだいのまえにもって ました。
そして、 あかやあおや、くろ、しろ、きいろの はすの いとを、 はたおりだいの
たていとよこいとに、 くみあわせました。

とんから、
とんから。

ひめは、はたをおりはじめました。
かるいおととっしょに、ごしきのきの いとでおった きれが、すこしずつ、でき あがって いきましす。
きれには、ふしぎなもようがあらわれました。

 

 

・・・

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出口のない海   (山口県大津島)

2024年06月04日 | 旅と文学

戦前の日本軍は何にも増して”勇ましさ”が優先した。
その行きつく先は、戦果よりも、勇ましく”死ぬ”方が優先された。

魚雷に人を乗せた回天は、
訓練中の殉死、親船もろとも戦死は数知れず伝えられ、
戦果は何一つ報告されていない。

 

 

旅の場所・山口県周南市大津島  
旅の日・2014年7月12日 
書名・出口のない海 
著者・横山秀夫
発行・講談社 2004年発行

 

 

「出口のない海」 


人間魚雷・・・・・カイテン。
だが、「甲標的」のように敵艦に向かって魚雷を発射するのではない。
自らがその魚雷なのだ。
爆薬を満載した改造魚雷に人が乗り込み、たったひとり暗い海の中を操縦し、
敵の艦船の横腹めがけて搭乗員もろとも突っ込む。
それは筆舌に尽く しがたい壮絶な特攻兵器だった。


「でかい......」
魚雷だ。
形そのものは魚雷には違いない。だが、それは巨大な棺桶に見えた。
鉄の棺桶。
十四、五メートルはある。
傍らにいた佐久間が、回天の上方を指差した。
潜望鏡がついていた。魚雷の上部に波切りがあり、そこから小型の潜望鏡が突き出している。
「貴様らには、これに乗ってもらう」
馬場大尉が重々しく言った。


天を回し、戦局の逆転を図る。
名付けて回天である。
弾頭に搭載する一六トンの炸薬は、いかなる戦艦、空母といえども一撃で轟沈可能だ。

並木はすべてを悟った。
―そういうことだ。
俺たちは魚雷の目になって敵艦に突っ込むんだ。
大尉が回天の解説を始めていた。
並木は改めて回天を見つめた。
それは想像を絶する水中特攻兵器だった。 
人間を歯車の一つとして呑み込んでしまうだけの威感と不気味さを兼ね備えていた。

母艦となる潜水艦の甲板に、五、六基の回天をバンドで固定し戦闘海域へ赴く。
回天は海中で母艦から発進する。
途中で一旦浮上し、潜望鏡で敵艦の位置を確認 後は深度数メートルの海中を、ただひたすら命中するまで回天を走らせる――。
長い説明が終わった。
最後にこう付け加えた。
「回天に脱出装置はない」
並木は声をなくした。 
佐久間も他のみんなも沈黙した。

 

「訓練始め!」
馬場の声が響いた。
並木は弾かれたように動いた。
回天に覆い被さるような格好で上部ハッチを開き、その丸い空洞に腰と足を滑り込ませる。
すとんと腰が座席に落ちた。 
ひんやりした硬い椅子だった。
狭い。
第一印象はそうだった。
胴直径一メートル。その数字以上に狭く感じる。前も後ろも酸素タンクの壁が迫り、頭の上は僅か数センチの空間しかない。
身動きもままならない。
右足に至 っては機械につかえて伸ばすことすらできなかった。
――これが回天か......。
並木は改めて衝撃を受けた。
人が乗るスペースは、ぴったり人の大きさの分だけしかない。
人が機械の歯車として組み込まれるようにちゃんと設計されているのだ。


訓練は「航行艦襲撃法」に多くの時間が割かれていた。
動く標的に突っ込む。
航行艦襲撃は回天搭乗員に極めて高い技能を要求した。
シミュレーションはこうだ。
敵艦を発見後、回天は母艦である潜水艦から敵艦の方向と距離の情報を得て発進する。 
途中で一旦浮上し、特眼鏡で数秒間、敵艦を観測。 
この数秒間にすべての状況を把握し、次の行動を決定する。
「すべての状況」の項目は多岐に及ぶ。 
まず第一に敵艦の種類を判別する。 
空母か、戦艦か、重 巡洋艦か、大型輸送船か。
同時に艦の高さを知る。これは特眼鏡の分割目盛りで敵艦の見かけの 高さを読み取る。
次いで、読み取った目盛りの数値を換算式に当てはめ、敵艦との距離を知る。 
さらに敵艦の航行速度を、艦首や艦尾にできる波の形で推測する。
そして最後に、敵艦と自分の回天との方位角、つまり、敵艦と回天がどういう角度で向かい合っているかを特眼鏡で見て判断する。
これらすべての情報をもとに一つの結論を導き出す。
「射角」の決定だ。
 回天が敵艦にぶつかるように、最終的な突撃の方向を定めるということだ。
射角を決めたら、速力三十ノット、深度四メートルを維持してひたすら突っ込む。
敵艦は動いているが、こちらは動いたその先を読んで射角を決定しているわけだから、観測と計算に間違いがなければ、数分後、回天と敵艦の二つの線は交わる。
だが観測と計算に一つでも誤りがあれば、襲撃は空振りに終わる。

訓練中の事故は回天の宿命と言えた。
元々が魚雷を無理やり膨らませて造った代物だし、研究開発期間などと呼べる時間もほとんどなかった。
搭乗訓練に使いつつ、それと並行して機械の精度を高めていく。
要は、搭乗訓練がそのまま回天のテスト運転という自転車操業的な状態だったのだ。

 

兵舎を出て桟橋を見た。
並木らの乗る六基の回天は、母艦である伊号潜水艦の甲板に特殊バンドで固定されていた。
前甲板に二基、後甲板に四基。百メートルからある潜水艦の背に乗った回天は、大木にしがみつく蝉のように見えた。
午前十一時。
厳粛な雰囲気の中で出陣式が挙行された。

「頑張れよ!」
「おう!」
「空母を頼んだぞ!」
「おうとも!」
「六万トン、ボカチンだ!」
「任せとけ!」
並木らがボートに乗り込み伊号潜水艦へ向かうと、見送る基地隊員は岸壁に鈴なりだ。
「帽ふれ!」の合図で一斉に何百もの帽子が打ち振られる。


並木らを乗せた伊号潜水艦は、浅い深度で潜航しながら沖縄を目指していた。
本土では「国民総武装」の決定がなされ、女性も子供も竹槍で敵を突き刺す訓練を始めているという。
「いざ本土決戦」のスローガンは、今や「一億玉砕」にエスカレートし、日本という国そのものが、生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれていた。
沖縄では既に血が流されている。それは戦う術を知らない島民を巻き込んだ凄惨な戦いだった。

回天戦用意! 搭乗員乗艇!
「敵は船団だ。五隻いる。 絶好の目標をとらえて必中撃沈を期すように」
「成功を祈る。心から......」
艦長の唇が震えた。
並木は背筋を張った。
「敵厳戒の中、ここまで連れてきていただき感謝の言葉もありません。艦長以下、乗員一同の武運長久をお祈りします」
「ん........」
「行きます!」
並木はラッタルを駆け上がり、五号艇に乗り込んだ。レシーバーをつける。
≪方位角右八十度、距離八千。 発進用意のうえ待機せよ》

 


昭和二十年八月十五日。
日本は連合国に無条件降伏した。
軍部は最後まで「一億総玉砕」を叫んだが、既に国内は疲弊しきっていた。
沖縄では血みどろの敗北を喫し、街という街は連日連夜の空襲で焼け野原となり、
広島、長崎は原爆で壊滅させられていた。
遅きに失した降伏だった。
戦争は終わった。
日本は負けた。
国民は現実を受け入れた。
大隊は解散された。 
昭和十九年十一月から終戦までの出撃回数は三十一回を数え、出撃隊員、事故による殉職者、搭乗整備員ら百四十五名が回天と運命をともにした。
その戦果ははっきりしない。
明らかに回天特攻によって沈没した輸送船が、米軍の発表では沈没はおろか、攻撃すら受けていないことになっていたりした。

日本側もすべての戦果を掴みされなかった。 
戦果を挙げた隊員が戻ることのない特攻作戦だから、確かな資料が作れるはずもなかった。

・・・

 

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婉という女  (高知県宿毛市)

2024年06月03日 | 旅と文学

江戸時代の初期の四国・土佐藩家老”野中兼山”は、
土佐藩の新田開発や港湾建設で有名な人だが、
失脚後、一族が長期間幽閉されたのもよく知られている。

幽閉されていたのは現在の宿毛市立宿毛小学校の校地。
校地内には記念碑や多くの説明板が建ち、
野中一族の功績や、一族の幽閉の史実を長く伝えていくという意思が伝わる。

宿毛小学校の説明板。↓

野中兼山一族の幽閉
野中兼山は江戸時代、土佐藩(今の高知県全域)の奉行で、藩内の政治のリーダーでした。
兼山は新田を開発したり、港を築いたり、お米の値段を調整したり、次々と新しい仕事を実行しました。
宿毛でも、河戸堰や宿毛総曲輪 (堤防)を築いたり、沖の島や山でおきた国境争いを解決しました。
しかし、兼山のやり方はとても強力だったので、各地で反発を生み、結局、奉行を辞めて隠居します。
そして その直後、四十九歳で死去してしまいました。

ところが、それでも反発の声はやみません。 
兼山の政治が土佐藩の人々を苦しめたといって、兼山の子どもたちに、その罪を負わせることになったのです。
親の罪が子にもおよぶ時代でした。
子ども八人は宿毛に送られ、今の宿毛小学校のプールの場所に幽閉されました。
一番幼い貞四郎は、まだ二歳でした。
竹で囲まれた家での外には出られない生活の間に、子どもたちは成長し、そして次々に亡くなりました。 
四女の婉は、兄、姉を失う悲しみを和歌を詠みます。

つらなりし梅の枝枯れゆけば のこる梢の涙なりけり

つらなる梅の立枝が枯れていくと、のこる小枝は涙を流すばかりだ。
約四十年という長い長い年月が過ぎ、男子の全員が亡くなると、
寛、婉、将の三人の女子だけが、ようやく釈放されました。
釈放された三人の内、婉は今の高知市朝倉に移って医者になったということです。 
この婉の生涯は、高知県出身の大原富枝の小説『婉という女』で紹介され、大きな反響を呼びました。

 

・・・

旅の場所・高知県宿毛市桜町
旅の日・2018.10.3
書名・婉という女
著者・大原富枝  講談社 2005年発行

・・・

 

 

「婉という女」

第一章 赦免ということ

今日、安東家からお使者が見え、藩府からの赦免状を受けた。
お使者の帰ったあと、母上を中に、乳母、姉上、妹と相擁して泣いた。
八十を越えた母上と、六十五歳の乳母、姉妹たちもみんな四十をすぎた老嬢ばかり、
こうして相擁して泣いている涙も一人一人が別であった。


「野中婉、四歳にして獄舎に囚われ、九十歳の生涯をここに置く」
もしも墓碑銘を刻むことが許されたら、そう記して貰おう。
わたくしは遂に生きたことはなかったのだ。
門外一歩を禁じられ、
結婚を禁じられて、四十年間をわたくしたちはここに置かれた。 
他人との面会を許されず、他人と話すことを許されないで、わたくしたち家族はここに置かれていた。

わたくしたち兄妹は誰も生きることはしなかったのだ。
ただ置かれてあったのだ。
四十年の間に、わたくしの兄姉は次々に死んでいった。

生き残った三人の姉妹のうち、姉上と妹は同腹のきょうだいであった。
二人はわたくしのように赦免を待ち望んではいなかった。
ほとんど迷惑に思っていた。
彼女たちはいった。
いまさら自由になって何としましょうぞ、 路頭に迷うばかりでございます。
このまま、生涯をここで終る方がようございます。

見たこともない新しい世界への不安と怖れは、勿論わたくしにもあった。
ましてこの四十をすぎた異腹の姉妹たちは、
もはや生涯を終っていた。
一度も生きることなく、彼女たちはすでに生涯を終っていた。

 

 

第四章 生きること

まず高知のお城や町を見たい、という母上のおのぞみで、駕籠は遠廻りしてゆくことになった。
城下にはいったのは日も暮れ方で、商いの家並もまだ灯は入れず、夕映えの反照で赤っぽい明るさの往来を、
慌しく人々が往き交うているのを、わたくしは心緊まる思いで眺めた。
井口の老人に出迎えられ、わたくしたちは駕籠を止めてお城を仰ぎ見た。
白堊三層の天守閣は、夕映えを背に淡紅色に 壁を染めて聳えていた。
権力と権威を誇示するためには、このような玲瓏な形式と結構の美しさが必要なのだ。 
政治という怪物めいたものが生れるには、このような優美な高楼がなければならないのだ。

泰山先生とのおめもじは、ある日思いがけなく訪れた。
飄然と、まったく飄然と先生はその日お見えになったのだ。
「おお、お婉どのかー」

 

乳母と日毎薬湯をつくり、丸薬を練る。
越鞠丸と名づけて旧臣のものの行商に委せる。
一人二人、診察を乞う人もきて、いささかの銭や米、野菜などがわたくしに与えられる。
こうしてわたくしの生活の道も、ささやかながらなりたってゆくようであった。

帰国されてからの先生は、江戸の渋川先生、貝原益軒先生、安家博士などと、ご研鑽の
御状おとり交しに以前にもまして忙しく、講義も絶えてなくおめもじの機会はなかった。
--母上をお送りしてわたくしの毎日は一層自由を加えた。
貧しい病人を診てやり、惜しげなく薬をあたえ、のどかな生れつきの老いた乳母と二人、興のおもむくまま読み耽ることもできた。

享保五年が明け、そしてこの年も暮れた。
享保六年、宿毛から、妹、将女の死を告げるたよりが遥々と届いた。
涙もこぼれず、わたくしは乾いた眼にそれを読み、丹念に畳んでいった。
幽獄を出て十九年、ここでもまた、わたくしの周りには夥しく死が堆積した。
わたくしはそして六十一歳になった。
こうして、孤りここに生きている。これからも、生きてゆく・・・。

 

 

 

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林 譲治

2024年06月02日 | 銅像の人

場所・高知県宿毛市桜町(市役所隣の公園)

 

林譲治さんは高知県宿毛出身の政治家。
翼賛選挙は非推薦で落選。
戦後は吉田茂さんと縁戚もあり、党役員や衆院議長を務めた。

 


【宿毛市HP】

林 譲治(はやし じょうじ)

明治22年~昭和35年(1889年~1960年)

-吉田内閣副総理-

林譲治は林有造の次男で、戦前戦後を通じて中央政界で活躍しました。
戦後、実父を宿毛にもつ吉田茂が第二次吉田内閣を組閣した際に副総理として入閣し、
世間から「宿毛内閣」と呼ばれました。

その後も衆議院議長、
自民党幹事長などを歴任し、
昭和34年には衆議院議員在職25年の永年在職議員として表彰されました。

 

 

 

訪問日・2018.10.3

 

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「玉島ハーバーフェスティバル」に行く 2024.6.1 

2024年06月02日 | 令和元年~

日時:2024.6.1~6.2 (行った日・6.1)
名称:第10回玉島ハーバーフェスティバル
場所:岡山県倉敷市玉島乙島・玉島外貿1号埠頭 特設会場

 

晴れ過ぎない、おだやかな天気だったので玉島港(水島E地区)で開催のイベントに行った。


「第10回玉島ハーバーフェスティバル」は初めての見物だった。
イベントの場所がハーバーで、イベント名もハーバーなので、
どんな催しだろうか?

港の港湾関係の、
作業船・大小の運搬船・警備船が見れるのか、
コンテナーヤードやE地区の企業PRや商品説明、仕事の説明などあるのかな?

イベントなので食物・物産市は間違いなくあるだろう。

 

 


行ってみると、
予想は外れて、
国の安全、防災の安全、生活の安全を業務とする
「自衛隊」「消防」「警察」の展示のイベントだった。
メインは海上自衛隊の「くろべ」の来艦だった。

 

 

 

 

「くろべ」が一番の人気だったが、
消防の消火訓練や警察のパトカーも家族連れに人気だった。

 

制服の人たちとの記念写真、運転席での記念写真も人気だった。

 

 

 

 


でも、やはり食べ物も強い。
長い列のお店が多くあった。

 

 

 

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