遅い三社参りに行った。
昨年家族に不幸があったから、少し遅らせた。
それと、
じつは「とんど」を見るのが目的でお出かけした。
明王院(広島県福山市草戸町)。
次に、お隣の「草戸稲荷」。(広島県福山市草戸町)
快晴で雲ひとつない福山市中心部、芦田川。
三つめに福山城にある「三蔵稲荷神社」。(広島県福山市丸之内町)
寒い日だったが、無風で、気持ちよくお詣りができた。
行った日・2025年1月11日
【つぎ・とんど】
遅い三社参りに行った。
昨年家族に不幸があったから、少し遅らせた。
それと、
じつは「とんど」を見るのが目的でお出かけした。
明王院(広島県福山市草戸町)。
次に、お隣の「草戸稲荷」。(広島県福山市草戸町)
快晴で雲ひとつない福山市中心部、芦田川。
三つめに福山城にある「三蔵稲荷神社」。(広島県福山市丸之内町)
寒い日だったが、無風で、気持ちよくお詣りができた。
行った日・2025年1月11日
【つぎ・とんど】
終戦とほぼ同時に日本の役所の軍事関連の書類が焼却された。
日本史の汚点となった。
(城見国民学校の奉安殿)
・・・・
「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行
日本では敗戦によって軍事に関する極秘資料が多く焼却された。
そして、 数としてはもっと多かったはずの全国各市町村の徴兵・召集関係資料も、
敗戦の日から数日の間にすべて焼却されてしまった。
この徹底ぶりには驚くほかはない。
末端の行政部門にいたるほど、勝者が敗者に加える危害を本気に信じこんでいた証左といえるであろう。
戦争責任の追及という法的措置から逃れるために証拠を湮滅しようとする軍の上層部や高級官僚の行為とは異質なものを感じないではいられない。
それでも、戦後、年がたつにつれて、村の文書が姿をあらわすことがある。
・・・
「戦争の時代」 福山市・坪生郷土史研究会
終戦の次の日に学校に行くと、兵隊さんが日本刀で孟宗竹を切っていた。
「この刀はもう要らなくなった」と言いながら涙を出していたのを覚えている。
先生からは、剣道の防具を全部ばらして焼き捨てるように言われる。
学校に銃もあったが、それも焼く。
進駐軍が来るからと言って、何もかも焼き捨てていた。
・・・
「新市町史・通史編」 広島県芦品郡新市町 2002年発行
戰後処理
国民義勇隊をはじめあらゆる機関をとおして浸透させた戦争協力体制を、一片の通知によって解体したと同様に、
戦時色を残す形体をも除去することとなった。
その一つに忠魂碑がある。
「戦災死者の供養塔慰霊碑を存置するは軍国主義的ないし超国家主義的な」建造物を処理しようとした。
日露戦役従軍碑・記念碑・慰霊塔・忠魂碑のうち、戦没者のための碑であることを示すに足りるものはこれを除去し、
軍国主義ないし超国家主義を鼓吹するものを除去しようとしたのであるが実際にはそのまま放置したり、
その日延ばしに延期したものが多い。
また、表面をセメントで固め、新憲法発布記念碑・平和塔と名称をかえたものもある。
1947 (昭和22)年4月から5月にかけて、たび重ねて撤去命令が出されるが、容易に聞き入れられなかった。
たとえば常金丸小学校の敷地内にある忠魂碑(日露戦争戦病死者9名を記す)は1917(大正6)年在郷軍人会によって建立されたものであるが、
これを慰霊碑として処理対象とせず、強く撤去を求められると、
撤去日を5月30日とし、すぐ7月5日に変更するという具合に引延しが行われた。
この方法は各地とも同様であったが、その上の撤去要請に引延し策も通ぜず、
土台を残して上部の碑だけ傍に下ろし、仮の撤去を装ったのである。
その後、講和条約が発効するに及んで撤去前の原型に復した。
・・・
「美星町史」 岡山県美星町 昭和51年発行
敗戦の思い出
敗戦の終戦後の混乱の記憶は殆んど薄れ去ったが、心に残る二、三の事柄を記すと、
進駐軍の命令といって忠魂碑がこわされ、
戦争に関係のあった書類は次々に焼き払われた。
御真影奉安殿などはど うなったのか解らないが、
青年学校にあった教練銃銃剣術用木銃、防具や女生徒用薙刀は知らぬ間に埋めたり、 焼き捨てられていた。
銃後の国防活動責任者は、次々追放されて戦犯を問われた。
ある人は翼賛壮年団長であったため、職を追われ、家にかくれての生活を送っていた。
従軍記念碑
旧日里村鷹山公園にある従軍記念碑は北清、日清、日露、日中戦争での戦歿者の慰霊を行う碑であった。
これも進駐軍の指示による命令で昭和23年に倒したのであるが、45年に至って、日里村軍友会が発起し、
鷹山神社の宮司、氏子総代、財産区の委員などが合同して、再建委員会を組織し、旧村内有志の協力を得て、
約39万円の寄付金と労力奉仕により45年4月、再建し、落成式を行った。
・・・
「戦争と戦後を生きる」 大門正克 小学館 2009年発行
占領軍がやってきた
敗戦は占領に対する不安をかきたてる。
敗戦直後からたとえば山梨県では、
六三部隊(旧甲府連隊)や県庁・市町村役場で、多数の書類が焼かれ、戦争遂行に関する証拠隠滅が行なわれた。
進駐軍は暴行略奪をするといった流言が飛び交い、女性や子どもを疎開させ、
兵士による婦女暴行を避けるために慰安所開設が相談された。
9月に入ると、戦時中に各所に貼られていた「米英撃滅」や「必勝」の標語をはずす指令が各自治体に出された。
9月24日、山梨県甲府市にアメリカ陸軍1.000人の大部隊が進駐する。
進駐軍は、県内各地で旧日本陸軍の武器や衣類、軍国主義にかかわる残存物を厳しく調べた。
国民学校の奉安殿の御真影などが見つかるとその場で粉々に破砕された。
占領軍は軍隊の解体や植民地の喪失だけでなく、社会の隅々から武器や軍国主義の除去をめざしたのである。
甲府に軍用車のアメリカ兵がやってきたとき、最初こそ市民は遠巻きに見守っていたが、
若者のなかには、同世代のアメリカ兵に手を振って歓声をあげたり、
アメリカ兵の捨てたタバコの吸い殻を拾って吸ったりする者も出てきた。
・・・
対米戦争に勝つことはできないのを知っていながら開戦した指導者たちは、
相手を見下すことで国民を鼓舞した。
それが、
「大和魂」と「神風」。
国民は信じた。
大和魂で勝つ!最期の最期には神風が吹く!
まさに、一億総発狂とも言える戦争だった。
前線に武器なく、銃後に食なく、最後には吹くと言われた神風は、寝言のたぐいだった。
”一億総特攻”とか”一億総玉砕”がなかったのが、せめてもの幸いだった。
・・・
・・・
「ライシャワーの日本史」 ライシャワー 文芸春秋 1986年発行
それまで国民は、ひたすら指導者を盲信し、いつかは「日本精神」が勝つと信じて、戦争の遂行に全力をあげてきた。
いまや国民は、心身ともに精も根も尽きはてていた。
多くの国民が住むに家なく飢餓線上をさまよい、誰もが茫然自失、放心状態におちいっていた。
「神風」は最後まで吹かなかったのである。
歴史始まって以来、日本ははじめて被征服国となった。
日本人は、容易ならざる前途に直面して身のすくむ思いだったが、
天皇みずからが述べたように「耐え難きを耐え」るほか、なすすべはなかった。
アメリカの占領とその指導監督の下におかれた7年近い歳月は、
日本のみならず世界にとってたしかにかけがえのない体験となった。
一つの先進国が相手先進国の欠陥をこれと見定め、内部からその改革をはかるというのは、前代未聞の試みであった。
日本人は、自分たちが西欧の圧制をはねのけるアジアの解放者として歓迎されるどころか、
中国、朝鮮、フィリピンのいたるところで激しく憎悪され、
他のアジア諸国でも徹底的に忌み嫌われていたことを知って、
いまさらながら慄然とした。
かつて歓呼の声に送られて出征した日本の将兵であったが、外地から悄然と引き揚げてきたときには、
恨みを抱く都会の群衆から、つばを吐きかけるような仕打ちで迎えられた。
ほとんどの日本人は、指導者に騙されていたのだと感じ、
個人として罪の意識一つもつこともなく、ひたすら変革を待ち望んでいた。
・・・
「もういちど読む日本戦後史」 老川慶喜 山川出版社 2016年発行
GHQの本拠は, 東京日比谷のお堀端の第一生命ビルにおかれ、連合国の対日占領政策の実施命令はここから発せられ,
日本政府を通じて実施された。
占領軍の日本政府に対する要求は、法律の制定をまたずに勅令 (「ポツダム勅令」) によって実施に移され,
憲法をもしのぐ超法規的性格を有していた。
さらにアメリカ政府は, マッカーサーに対して日本政府の措置に不満な場合には直接行動をとる権限をあたえていた。
占領軍の指令は,天皇制のもとでの抑圧体制を否定するものであった。
そのため, 戦前期の国家体制をそのまま維持しようとしていた東久邇宮内閣は,
この指令を実行することはできないとして総辞職した。
・・・
「ライシャワーの日本史」 ライシャワー 文芸春秋 1986年発行
1946年当時、工業生産は1941年実績の1/7に落ちこみ、農業生産ですら、3/5に減っていた。
一方、人口はといえば、海外からの6百万人の引揚者と、
長年離別していた家族が再会した結果のベビーブームのおかげで、
ざっと8千万にふくれ上がっていた。
この狭い国土で、かほどの人口を養うに足る食糧を確保できるかどうか疑わしかった。
抜本的な改革計画を背負わされたために、政府は身分不相応なやりくりを強いられ、
倍率百倍を上回る手のつけようもないインフレに輪をかけていた。
もしこれ以上の改革を推しすすめれば、経済を安定させ再建に取りかかるのを妨げることになった。
日本は、いずれの主要交戦国と比べてみても、はるかに大きな戦禍を被り、いまだ復興は遅々として進まなかった。
将来、国としてまともな経済発展を期待できるかどうか、きわめて怪しかった。
日本人はかつかつの最低生活でしのいでおり、それとてアメリカの援助物資年額5億ドル近い配給食糧に頼ってのことであった。
結局のところは、民主主義にせよ、いかような政治安定にせよ、経済の安定を抜きにしては達成不可能であった。
政治改革も社会改革も、それ自体がいかに望ましいものであろうと、
堅固な経済基盤を欠いていては、究極の成功は望むべくもなかった。
このような状況は、都市と地方の住民の経済的な地位関係を根底から逆転させた。
農村地帯では、農家は父祖伝来の家をもち、一家を養うに足る食糧を自給していた。
だが都市の居住者は、大多数が家を焼かれ、生計の道を絶たれていた。
たいていの都市住民は、アメリカの船積み食糧に頼ってかろうじて生きていたが、
この食糧たるやあまり馴染みのないもので、本来の米の食事の代用としては日本人の口に合わなかった。
都市では闇市ばかりが栄えたが、
そこはヤクザと朝鮮人が支配していた。
これら朝鮮人は戦時中に日本に連行され、日本人が召集で出払った鉱山や工場で働かされてきたが、
日本の敗戦後、そのうちの約60万人がそのまま日本に残留を決めた。
その年、1945年11月になって、占領軍当局がこれら朝鮮人に戦勝国人に準じた身分資格を与えた結果、
日本に深い恨みを抱いていた朝鮮人は、日本の法律を頭から無視してかかった。
都市の住民は闇市に頼らなくては生きていけなかった。
それはただ金がかさむというばかりでなく、法と慣習を几帳面に守ろうとする日本人にとって心理的な苦痛であった。
また、戦後日本のむさ苦しさ、猥雑さも、身だしなみよく清潔でありたいと細やかな気遣いをする人々の心を傷つけた。
敗戦に打ちひしがれ、15年にわたる軍部支配を体験して、戦後の日本は知的活動の拠りどころを失い、
政治的に分裂した国であった。
一連の大きな衝撃は、日本人の心に深い傷を残し、その痛手は容易に癒えなかった。
旧来の価値はすべて不信の対象となり、状況が目まぐるしく変わるなかで、新しい価値観をめぐる甲論乙駁がつづいた。
アメリカ占領軍が掲げたもろもろの目標は、
ときとして日本人の理解を超え、どのみち手に負えるしろものではなかった。
しかしながら、おおかたの日本人が意見の一致をみた事柄がいくつかあった。
その一つは、
何よりもまず経済復興を最優先すべきだという暗黙の認識であった。
国は完全に破綻をきたし、自立もままならない状態であった。
外部世界のほとんどの国が憎悪と侮蔑の目で日本を眺めていた。
日本がふたたび立ち上がるためには、多大の犠牲を払い身を粉にして努力する必要があった。
・・・
アジア太平洋戦争の終戦日は、
日本では昭和20年8月15日に記念日だが、国際的には1945年9月2日。
東京湾で米軍の戦艦ミズーリ艦上で降伏文書が交わされた。
署名したのは、
アメリカ
中華民国
イギリス
ソビエト連邦
オーストラリア
カナダ
フランス
オランダ
ニュージーランド
の各代表と、日本代表。
その日から連合軍の日本占領が始まったが、
敗戦国日本では国民のほぼ99%が、
衣・食・住のすべて、またはどれかが不足していた。
国民が、着る・食べる・住む、の人間として最低限の欲求を追い求めているとき、
占領軍は戦後の日本の制度をきわめて短期間で決定した。
最大の例として、日本国憲法は2週間ででき上がった、といわれる。
あれから80年近く経つ。
国民が”食べる”こと以外に目が行かない時に、出来た制度が今につづいている。
・・・
「マッカーサーの日本(上)」 週刊新潮編集部 新潮文庫 昭和58年発行
ミズーリ号
降伏調印式が、なぜ米第三艦隊の旗艦ミズーリ号(45.000トン)の上で行われたのか――。
進駐当初のマッカーサーの副官だったボナ・フェラーズ准将によると、「元帥は、ほんとうは宮城でやりたかった」。
しかし、ミズーリ号もまた、決して歴史的儀式にふさわしくない場所ではなかった。
第一に、洋上であって、万が一にも日本の〝好戦分子"が降伏調印を妨害しに来る心配がないこと、
第二に、〝ミズーリ〟は時の大統領ハリー・S・トル ーマンの生れた州の名であり、
大統領の娘マーガレットが命名した戦艦だった。
そして第三の理由は、これがいちばんたいせつなのだが、「海軍に花を持たせた」わけである。
というのも、陸軍と海軍の先陣争いは、日本の降伏前から激しかった。
チェスター・W・ ニミッツ太平洋艦隊司令長官は(昭和20年)7月ごろ、
「第三艦隊と海兵隊で、東京湾およびその一帯の戦略拠点を制圧する」作戦を提議したが、
マッカーサーは「水兵の力では日本陸軍の迎撃戦力にかなわない」と退け、
また、「陸軍と空軍が〝二番手〟になることは、あとあと悪い影響を残す」と漏らしたという。
いっさいの儀式が終ったあと、ニミッツ長官はハルゼー大将が先に下した命令、
「日本人にコーヒーもタバコも与えるな」を解除するよう指令し、
「もはや敵でないという事実を証明するかのごとく、(日本全権団は)丁重に送り返された」とある。
この時のマッカーサー元帥の演説「今や砲は鳴りをしずめ・・・・・・」はあまりにも有名であり、
”演劇人" マッカーサーの生涯での最大の見せ場であったと語り草になっているのだが、
ミズーリ号で舞台の裏方をつとめた作戦部長、ラルフ・E・ウィルソン元大佐は、
「あれが一つの演技であるとすれば、すばらしい演技であり、それは必要なことであった。
なぜならマッカーサーは連合軍最高司令官で、しかも天皇を通して日本を支配する役割をになっていた。
そこで、天皇以上の威厳を、日本国民に対して示さなければならなかった」
と好意的な見方をしていた。
実際、かなり陸軍をきらっていた多くの海軍の将校たちも、
この時初めて見るマッカーサーの威容に、スッカリ魅せられたものであったらしい。
・・・
(Wikipedia)
・・・
「語りつぐ昭和史5」 朝日新聞社 昭和52年発行
日本の降伏 (ミズーリ号調印式)ミズーリ号から占領へ 加瀬俊一
ポツダム宣言受諾の英文の覚書は私が起草したものです。
そのときに日本が付けた唯一の条件は、天皇制の維持でございました。
天皇の国家統治の大権に変更を及ぼさないという了解のもとにポツダム宣言を受諾する、
これが日本が付けた条件でございます。
それに対して翌日アメリカから、天皇と政府の国家統治の権限は占領軍司令官に「サブジェクト・トゥ」と、
占領軍司令官に従属する、そういう返事がきました 。
マッカーサーが厚木に到着しましたのは8月30日、 彼は愛機のパターン号に乗ってきたわけです。
到着してから地上に降りるまでの彼の動作というものは、今日までも語り草になってます。
飛行機のドアがあく、
悠然と現れる、
決して下を見ない、
まず空を見てそれから顔をぐるりと回して地平線を見る、
そしてやおら地上を眺めてから飛行機から降りてくる。
そのへんの所作は、団十郎の名演技のようなものでした。
誰に頼んでも みんな腰が重い。
そこでとうとう外務大臣重光葵ということになりまして、副全権は統帥部を代表して梅津大将にお願いした。
結局、陛下が「お前、行け」とおっしやってるんだということで、
梅津さんはやむなく全権を引き受けてくださったわけです。
横浜まで、かれこれ一時間かかりました。
路面が爆弾のあとで真っ直ぐに走れないんですよ。
数台の自動車を連ねてジグザグに走るのです。ついに横浜に到着いたしました。
その沿道の光景は、もう目もあてられないものでした。お若い方にはおわかりにならないでしょう。
目の届く限り焼け野原、わずかに焼け残った蔵らしきものがあちこちに点々と残っている。
まだ煙が上っている。
それに、まだ放置された死体もあるらしいのですね。
異臭芬々としていて、窓をあけられないんです。そういうところを通ったのです。
私はそのとき「国敗れて山河あり」という言葉があるけれども、
これは国敗れて山河もなし、目もあてられない惨状だと思いました。
県庁で打ち合わせをしてから埠頭に参りますと、駆逐艦が四隻並んでまして、ABCDという標識を掲げておりました。
Dという標識のある駆逐艦に乗りました。
やがてミズリー号を指呼の間に望むところに行きますと、海面を圧してアメリカの艦隊が整列しているんです。
観艦式なのです。日本に勝ったおめでたい日に観艦式をやろうということですね。
これに各国の艦隊が加わっているわけです。
私は連合艦隊も知ってますけど、まあ、ほんとうにこんなにたくさん敵の軍艦はあったのかと思うほどダーッと並んでる、
海を圧して。
やがて駆逐艦が停泊すると、そのままでは巨大な軍艦に接舷できませんから、こんどは快速艇がやってまいりまして、駆逐艦から乗り移るわけです。
駆逐艦は非常に傾斜が急ですから、縄ばしごを伝って快速艇へ乗り移るんです。
われわれはできますが、 重光外務大臣は左脚がないのです。
上海公使のとき、朝鮮人に爆弾を投げられてひざの中ほどから義足です。
「力自慢のもの四人集まれ」そうすると水兵が駆けてきました。
そして抱きかかえて降りるんですが、重光さん、すぐ私に小さな声で
「君、写真を写さないように言ってくれないか」。
マッカーサーの名演説
ともかくまいりますと、艦上は人であふれていました。
マストの上、砲塔の上、煙突の上まで、 一寸の余地もないというのはあのことでしょう。
将校、水兵、記者が鈴なりになってました。
それがみんなわれわれの一挙一動を見ているわけですね。
それは好奇の目であり憎悪の目である。むしろ憎悪の目でしょうね。
私どもは導かれて、両全権が先頭に立ち、あと三人ずつ三列に並びました。
われわれと対面する形で連合軍の将官がズラーッと並んでました。
赤あり、黄あり、青あり、緑あり、みんな勲章をつけて威風堂々としているわけですよ。
きのうまでの敵国の軍部代表者ですね。
みんなにらみつけるようにして私どものほうを見てるのです。
その将官団とわれわれの間にテーブルがあって緑のカバーがありました。
その上に、 ああ、これだなと思う降伏文書が二通乗ってました。
そういう時間がしばらく続きました。
大した時間じゃないんでしょう、しかし私どもにはたいへん長い時間のような感じがしました。
すると靴音が聞こえる、長身の将軍が出てくる、マイクの前に立つ、マッカーサーですね。
短い演説でしたけれども、素晴らしい演説でした。
マッカーサー、5年8ヵ月日本にいた間、これがただ一回の演説です。
彼としては一世一代の演説だったでしょうね。
「理想とか思想とか理念とかいうイデオロギーの紛争は、戦場で勝負がついた。
今日はもうすでに争いの対象にはならないはずだ。
われわれここに集まった戦勝国の代表者は、憎悪とか猜疑とか不信とかいう気持ちを持ってきのうまでの敵に対しているのではない。
われわれは全く違う見地から和解を達成し、平和に導かんがためにここに集まっているのであって、
日本に課する占領政策は降伏の条件に従って行われるけれども、それを実施する精神は自由であり正義であり寛容である」
ジャスティス、トレランスということばが、何度も出てくるんです。
私どもは終生の恥辱を受ける覚悟で行ったわけです。
ところが正義、自由、寛容というような言葉を強調するんですね。
私は「これは違うな」と思いました。
彼自身「マッカーサー回想記』(朝日新聞社)のなかに、
私はあのとき、神様と自分の良心とこの二つだけに導かれてマイクの前に立ったんだといってます。
いい演説でした。
・・・
「昭和戦後史・上」 古川隆久 講談社 2006年発行
ミズーリ号上で降伏文書調印
昭和20年8月30日に、フィリピンから、
米太平洋方面陸軍総司令官で連合国軍総司令官を兼ねるダグラス・マッカーサー元帥が厚木飛行場に降り立った。
9月2日、東京湾上の戦艦ミズーリ号の甲板で降伏文書の調印式がおこなわれ、
日本側からは重光葵外相と梅津美治郎参謀総長らが出席した。
これにより、日本は歴史上初めて正式に占領下に入った。
独立国ではなくなったのである。
ただし、日本政府の要請もあり、占領軍は日本政府を利用して統治する間接統治というかたちを選んだ。
外交権は停止され、日の丸の掲揚や「君が代」の演奏も原則として禁止された。
・・・
「もういちど読む日本戦後史」 老川慶喜 山川出版社 2016年発行
アメリカの占領方針
日本が降伏すると, アメリカはただちにフィリピンにいた太平洋陸軍司令官マッカーサーを
日本占領のための連合司令官総司令部(GHQ / SCAP)に任命し、ソ連やイギリスもこれを認めた。
日本を占領したのは連合国とされているが、 実質的にはアメリカの単独占領であった。
また、同じ敗戦国のドイツのように、占領軍が行政や司法を担当する直接統治ではなく,
最高司令官が日本政府に命令し、日本政府が実行するという間接統治の方式がとられた。
1945(昭和20)年8月30日 マッカーサー元帥が神奈川県厚木飛行場に降り立ち、
9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ号の艦上で降伏文書の調印式がおこなわれた。
連合国側はマッカーサー1人, 日本側は重光外相と梅津美治郎参謀総長の2人が署名した。
降伏の申し入れと同時に鈴木貫太郎内閣は総辞職し、
天皇の血縁にあたる皇族の東久邇宮稔彦が首相となった。
はじめての皇族内閣であったが,
木戸幸一内大臣が枢密院議長の平沼騏一郎と協議をして,
軍部の抗戦論をおさえるには皇族内閣を樹立するしかないと判断し, 天皇に東久邇宮を推挙したのである。
記者会見で「国体護持, 一億総懺悔」を強調した。
同内閣は, 天皇の権威と警察権力をもって国民にのぞみ,
「国体護持」, すなわち天皇制を維持することを最大の目的としていたのである。
「この際私は軍官民, 国民全体が徹底的に反省し懺悔しなければならぬと思ふ。
全国民総懺悔することが,わが国再建の第一歩であり,わが国内団結の第一歩であると信ずる」と,
「一億総懺悔」論を展開し,
全国民に戦争責任をおしつけようとした。
・・・
賀山の摩利支天大祭。
最大の特徴は、
投げて投げて投げまくる。
拾って拾って拾いまくる。
戦時中は”神州不滅”の武の神様として隆盛を極め、
戦後は福まきで近隣住民の平穏な幸せを招く行事で信仰が衰えない。
静かな山村で、これほどの福を招く行事は珍しい。
見た日・2025年1月3日
岡山城から後楽園に行く。
後楽園も元旦無料デー。
園内は筝曲が流れお正月らしい雰囲気。
正月風景と言えば”鶴と亀”。
後楽園には鶴も亀もいる。
今日は鶴が放鳥されて空を飛ぶ。
自由に空を飛べない飼育の鶴なので、低空飛行しかできないし、飛ぶ時間も短い。
それでも飛ぶ姿は美しい。
日本人の元旦風景に欠かせない。
鶴を見ようとする人の数は多いが、
かんじんの鶴は人が望んでも、なかなか飛んではくれない。
飛ぶか飛ばないかわからない鶴をじっと待つのは忍耐が必要。
見た日・2025年1月1日
山陽新聞に12月連日、元旦の岡山城と後楽園のイベントが載っていたので
それにのせられうように元旦は雑煮を食べて家を出て、岡山に向かった。
初めに岡山城へ行く。
岡山城では本丸の天守閣前で「少年剣士による初稽古披露」。
本丸・下の段では「烏城DE凧揚げ」。
快晴で、風なし。
凧は揚がらず。
子どもの手前、凧糸をもって必死に突っ走る父親の姿が見ていて楽しかった。
岡山城天守閣は元旦無料デー。
2022年、磯田道史先生の監修でできた新展示。
おもしろくお勉強ができた。
見た日・2025年1月1日