しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

書類を焼却する・奉安殿を壊す・忠魂碑を隠す

2025年01月07日 | マッカーサーの日本

終戦とほぼ同時に日本の役所の軍事関連の書類が焼却された。
日本史の汚点となった。

 

(城見国民学校の奉安殿)


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「在郷軍人会」 藤井忠俊 岩波書店 2009年発行

日本では敗戦によって軍事に関する極秘資料が多く焼却された。
そして、 数としてはもっと多かったはずの全国各市町村の徴兵・召集関係資料も、
敗戦の日から数日の間にすべて焼却されてしまった。
この徹底ぶりには驚くほかはない。
末端の行政部門にいたるほど、勝者が敗者に加える危害を本気に信じこんでいた証左といえるであろう。
戦争責任の追及という法的措置から逃れるために証拠を湮滅しようとする軍の上層部や高級官僚の行為とは異質なものを感じないではいられない。
それでも、戦後、年がたつにつれて、村の文書が姿をあらわすことがある。

 

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「戦争の時代」 福山市・坪生郷土史研究会


終戦の次の日に学校に行くと、兵隊さんが日本刀で孟宗竹を切っていた。 
「この刀はもう要らなくなった」と言いながら涙を出していたのを覚えている。
先生からは、剣道の防具を全部ばらして焼き捨てるように言われる。 
学校に銃もあったが、それも焼く。 
進駐軍が来るからと言って、何もかも焼き捨てていた。

 

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「新市町史・通史編」 広島県芦品郡新市町 2002年発行


戰後処理

国民義勇隊をはじめあらゆる機関をとおして浸透させた戦争協力体制を、一片の通知によって解体したと同様に、
戦時色を残す形体をも除去することとなった。

その一つに忠魂碑がある。
「戦災死者の供養塔慰霊碑を存置するは軍国主義的ないし超国家主義的な」建造物を処理しようとした。
日露戦役従軍碑・記念碑・慰霊塔・忠魂碑のうち、戦没者のための碑であることを示すに足りるものはこれを除去し、
軍国主義ないし超国家主義を鼓吹するものを除去しようとしたのであるが実際にはそのまま放置したり、
その日延ばしに延期したものが多い。
また、表面をセメントで固め、新憲法発布記念碑・平和塔と名称をかえたものもある。

1947 (昭和22)年4月から5月にかけて、たび重ねて撤去命令が出されるが、容易に聞き入れられなかった。
たとえば常金丸小学校の敷地内にある忠魂碑(日露戦争戦病死者9名を記す)は1917(大正6)年在郷軍人会によって建立されたものであるが、
これを慰霊碑として処理対象とせず、強く撤去を求められると、
撤去日を5月30日とし、すぐ7月5日に変更するという具合に引延しが行われた。
この方法は各地とも同様であったが、その上の撤去要請に引延し策も通ぜず、
土台を残して上部の碑だけ傍に下ろし、仮の撤去を装ったのである。
その後、講和条約が発効するに及んで撤去前の原型に復した。


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「美星町史」  岡山県美星町  昭和51年発行


敗戦の思い出

敗戦の終戦後の混乱の記憶は殆んど薄れ去ったが、心に残る二、三の事柄を記すと、
進駐軍の命令といって忠魂碑がこわされ、
戦争に関係のあった書類は次々に焼き払われた。
御真影奉安殿などはど うなったのか解らないが、
青年学校にあった教練銃銃剣術用木銃、防具や女生徒用薙刀は知らぬ間に埋めたり、 焼き捨てられていた。
銃後の国防活動責任者は、次々追放されて戦犯を問われた。 
ある人は翼賛壮年団長であったため、職を追われ、家にかくれての生活を送っていた。


従軍記念碑
旧日里村鷹山公園にある従軍記念碑は北清、日清、日露、日中戦争での戦歿者の慰霊を行う碑であった。
これも進駐軍の指示による命令で昭和23年に倒したのであるが、45年に至って、日里村軍友会が発起し、 
鷹山神社の宮司、氏子総代、財産区の委員などが合同して、再建委員会を組織し、旧村内有志の協力を得て、
約39万円の寄付金と労力奉仕により45年4月、再建し、落成式を行った。


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「戦争と戦後を生きる」  大門正克 小学館 2009年発行

占領軍がやってきた

敗戦は占領に対する不安をかきたてる。
敗戦直後からたとえば山梨県では、
六三部隊(旧甲府連隊)や県庁・市町村役場で、多数の書類が焼かれ、戦争遂行に関する証拠隠滅が行なわれた。
進駐軍は暴行略奪をするといった流言が飛び交い、女性や子どもを疎開させ、
兵士による婦女暴行を避けるために慰安所開設が相談された。
9月に入ると、戦時中に各所に貼られていた「米英撃滅」や「必勝」の標語をはずす指令が各自治体に出された。

9月24日、山梨県甲府市にアメリカ陸軍1.000人の大部隊が進駐する。
進駐軍は、県内各地で旧日本陸軍の武器や衣類、軍国主義にかかわる残存物を厳しく調べた。
国民学校の奉安殿の御真影などが見つかるとその場で粉々に破砕された。
占領軍は軍隊の解体や植民地の喪失だけでなく、社会の隅々から武器や軍国主義の除去をめざしたのである。

甲府に軍用車のアメリカ兵がやってきたとき、最初こそ市民は遠巻きに見守っていたが、
若者のなかには、同世代のアメリカ兵に手を振って歓声をあげたり、
アメリカ兵の捨てたタバコの吸い殻を拾って吸ったりする者も出てきた。

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コメント (3)
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「神風」は吹かなかった。身を粉にして努力する必要があった。

2025年01月07日 | マッカーサーの日本

対米戦争に勝つことはできないのを知っていながら開戦した指導者たちは、
相手を見下すことで国民を鼓舞した。
それが、
「大和魂」と「神風」。

国民は信じた。
大和魂で勝つ!最期の最期には神風が吹く!
まさに、一億総発狂とも言える戦争だった。


前線に武器なく、銃後に食なく、最後には吹くと言われた神風は、寝言のたぐいだった。
”一億総特攻”とか”一億総玉砕”がなかったのが、せめてもの幸いだった。

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「ライシャワーの日本史」  ライシャワー 文芸春秋 1986年発行


それまで国民は、ひたすら指導者を盲信し、いつかは「日本精神」が勝つと信じて、戦争の遂行に全力をあげてきた。
いまや国民は、心身ともに精も根も尽きはてていた。
多くの国民が住むに家なく飢餓線上をさまよい、誰もが茫然自失、放心状態におちいっていた。
「神風」は最後まで吹かなかったのである。


歴史始まって以来、日本ははじめて被征服国となった。
日本人は、容易ならざる前途に直面して身のすくむ思いだったが、
天皇みずからが述べたように「耐え難きを耐え」るほか、なすすべはなかった。
アメリカの占領とその指導監督の下におかれた7年近い歳月は、
日本のみならず世界にとってたしかにかけがえのない体験となった。
一つの先進国が相手先進国の欠陥をこれと見定め、内部からその改革をはかるというのは、前代未聞の試みであった。

日本人は、自分たちが西欧の圧制をはねのけるアジアの解放者として歓迎されるどころか、
中国、朝鮮、フィリピンのいたるところで激しく憎悪され、
他のアジア諸国でも徹底的に忌み嫌われていたことを知って、
いまさらながら慄然とした。

かつて歓呼の声に送られて出征した日本の将兵であったが、外地から悄然と引き揚げてきたときには、
恨みを抱く都会の群衆から、つばを吐きかけるような仕打ちで迎えられた。
ほとんどの日本人は、指導者に騙されていたのだと感じ、
個人として罪の意識一つもつこともなく、ひたすら変革を待ち望んでいた。


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「もういちど読む日本戦後史」 老川慶喜  山川出版社 2016年発行


GHQの本拠は, 東京日比谷のお堀端の第一生命ビルにおかれ、連合国の対日占領政策の実施命令はここから発せられ, 
日本政府を通じて実施された。

占領軍の日本政府に対する要求は、法律の制定をまたずに勅令 (「ポツダム勅令」) によって実施に移され, 
憲法をもしのぐ超法規的性格を有していた。 

さらにアメリカ政府は, マッカーサーに対して日本政府の措置に不満な場合には直接行動をとる権限をあたえていた。
占領軍の指令は,天皇制のもとでの抑圧体制を否定するものであった。 
そのため, 戦前期の国家体制をそのまま維持しようとしていた東久邇宮内閣は, 
この指令を実行することはできないとして総辞職した。

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「ライシャワーの日本史」 ライシャワー 文芸春秋 1986年発行


1946年当時、工業生産は1941年実績の1/7に落ちこみ、農業生産ですら、3/5に減っていた。
一方、人口はといえば、海外からの6百万人の引揚者と、
長年離別していた家族が再会した結果のベビーブームのおかげで、
ざっと8千万にふくれ上がっていた。

この狭い国土で、かほどの人口を養うに足る食糧を確保できるかどうか疑わしかった。 
抜本的な改革計画を背負わされたために、政府は身分不相応なやりくりを強いられ、
倍率百倍を上回る手のつけようもないインフレに輪をかけていた。
もしこれ以上の改革を推しすすめれば、経済を安定させ再建に取りかかるのを妨げることになった。
日本は、いずれの主要交戦国と比べてみても、はるかに大きな戦禍を被り、いまだ復興は遅々として進まなかった。
将来、国としてまともな経済発展を期待できるかどうか、きわめて怪しかった。

日本人はかつかつの最低生活でしのいでおり、それとてアメリカの援助物資年額5億ドル近い配給食糧に頼ってのことであった。
結局のところは、民主主義にせよ、いかような政治安定にせよ、経済の安定を抜きにしては達成不可能であった。
政治改革も社会改革も、それ自体がいかに望ましいものであろうと、
堅固な経済基盤を欠いていては、究極の成功は望むべくもなかった。

このような状況は、都市と地方の住民の経済的な地位関係を根底から逆転させた。

農村地帯では、農家は父祖伝来の家をもち、一家を養うに足る食糧を自給していた。
だが都市の居住者は、大多数が家を焼かれ、生計の道を絶たれていた。
たいていの都市住民は、アメリカの船積み食糧に頼ってかろうじて生きていたが、
この食糧たるやあまり馴染みのないもので、本来の米の食事の代用としては日本人の口に合わなかった。

都市では闇市ばかりが栄えたが、
そこはヤクザと朝鮮人が支配していた。
これら朝鮮人は戦時中に日本に連行され、日本人が召集で出払った鉱山や工場で働かされてきたが、
日本の敗戦後、そのうちの約60万人がそのまま日本に残留を決めた。 
その年、1945年11月になって、占領軍当局がこれら朝鮮人に戦勝国人に準じた身分資格を与えた結果、
日本に深い恨みを抱いていた朝鮮人は、日本の法律を頭から無視してかかった。

都市の住民は闇市に頼らなくては生きていけなかった。
それはただ金がかさむというばかりでなく、法と慣習を几帳面に守ろうとする日本人にとって心理的な苦痛であった。
また、戦後日本のむさ苦しさ、猥雑さも、身だしなみよく清潔でありたいと細やかな気遣いをする人々の心を傷つけた。
敗戦に打ちひしがれ、15年にわたる軍部支配を体験して、戦後の日本は知的活動の拠りどころを失い、
政治的に分裂した国であった。

一連の大きな衝撃は、日本人の心に深い傷を残し、その痛手は容易に癒えなかった。
旧来の価値はすべて不信の対象となり、状況が目まぐるしく変わるなかで、新しい価値観をめぐる甲論乙駁がつづいた。
アメリカ占領軍が掲げたもろもろの目標は、
ときとして日本人の理解を超え、どのみち手に負えるしろものではなかった。
しかしながら、おおかたの日本人が意見の一致をみた事柄がいくつかあった。

その一つは、
何よりもまず経済復興を最優先すべきだという暗黙の認識であった。
国は完全に破綻をきたし、自立もままならない状態であった。
外部世界のほとんどの国が憎悪と侮蔑の目で日本を眺めていた。 
日本がふたたび立ち上がるためには、多大の犠牲を払い身を粉にして努力する必要があった。 

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