年賀状を買う。
最近は、郵便局の臨時出張所ができて、駅構内でも買えるようになったのは便利である。
来年は年女である。
店頭で見かけた雪うさぎのスタンプを記念にと手に取ってみたものの、
次に使うのは12年後だなあ、と思ったら、何だか心もとないような気分になったので、戻す。
さて、ひと回り前の年女はもちろん、ふた回り前の年女の時期も、わたしにもそれなりに、あった。
20代の頃は、根気も体力もあって、よかったなどと、むやみにうらやましがってしまいがちだが、
果たしてその当時、華やかなりし日々をを送っていたかというと、そういうわけでは決してない。
24歳の頃、わたしは焦っていた。
今や死語となったが、クリスマスケーキなどいう言葉が出回っていた。
女性を値踏みするような言葉である。
24歳までに片付かないと、一気に女性としての価値が下がってしまうような言われ方に、
煽られていたのだ。
学校を出たら、2,3年働いて(これを腰かけと呼ぶ)、そしてウエディングベル。
もちろん違うコースを歩む人もたくさんいたに違いないが、そうした選択肢は、
一部の才能ある人に与えられた特権のように思われた。
この唯一と思われるコースからはずれたり、出遅れたりすることに、恐怖していたのだ。
腰かけにふさわしい、「お茶くみ、コピー取り」などという言葉も、ご丁寧なことにあった。
その頃の、OL生活の目標は、寿退職であった。
タイムリミットは、職場で、「女の子」と呼ばれることに違和感を覚えるようになる前まで。
廊下に並んだ同期たちの愛想笑いの中、花束を受け取り、ほほえましく退職するという構図。
両脇に居並ぶ同世代が、ひとり欠け、ふたり欠け、果てはだ~れもいなくなってしまうその前に、
是非とも、実行させなくてはならないと、強迫的でさえあった。
そのためだけに、日々、同期との関係を大切に、ランチを供にしてきたとも言える。
こうして、時代は流れ、時は過ぎた。
役所だからかもしれないが、今や、結婚したからと言って、退職する人は見かけない。
その一方では、どうやら休職しているらしいという噂を風の便りに聞き、
そのうち職員録から忽然と姿を消すということも多い。粘れるだけ粘り、
もらえるものは、もらえるだけもらって、やっと退職という新たなコースも、珍しくなくなった。
長い間働き続けていると、それはそれで、いろんな意味で疲弊してくるものらしい。
それはともかく、この業界に就職し、何が驚いたと言って、
上司自らが、コピーをとっているのを見かけた時である。
そうした仕事は、(少なくともわたしのいた会社では)、女性の仕事だったのである。
クリスマスケーキなどと脅し文句のように言われ、年齢制限付きで、
ひとつの選択肢を付きつけられることは、さすがになくなった。
生き方の多様性も認められ、選択肢も増えたように見える。
しかし、一見、可能性が増したようでも、実際のところ、
自分に合った行き方は、それほど増えたわけではないのではないか。
それなのに、無限に開かれているような幻想ばかりが増えるので、
いくつになっても、心中穏やかではいられない。
右へ行くべきか、左へ行くべきか。
「隣の芝生は青い」などというのがあったが、今や、比較対象は、お隣さんどころではなくなった。
こっちを選んでみたものの、どうやらあっちの料理の方が、おいしそう。
ああ、あんな生き方もあったんだ、ちょっと頑張れば、わたしにだってできるかもしれない……。
あれも、これもと、人の欲求は果てしない。
背負い投げばかりしている人生に飽き足らず、「先生」になった方もいる。
オリンピックでも金、ママでも金、金を追求し過ぎて、とうとうお金の疑惑にからむ某政治家の、
イメージ払拭キャラクターとして利用されるようになったというのもまた、人生の醍醐味、
畳の上だけでは味わえなかった展開である。
「先生」といえば、48歳にして初出産に挑む方も登場した。
同じ立場の人に勇気を与えたというポジティブな意見から、
経済的に余裕があるからできるのよね、という冷めたまなざしまで、さまざまなようである。
「なんだかんだ言っても、結局、自分のお腹を痛めるということにこだわってるよね」
などと、わたしのようにひねくれた見方をする人もいる。
個人の生き方なのだから、他人がとやかく言える筋合いのことではないのだが、
必ずしも血のつながりだけが大事ではないとか、
子供は地域みんなの宝物などという政治で使われるようなキャッチフレーズが、
案の定建前だったような気がして、鼻白むのである。
出産ということさえも、自己実現のひとつ、多くのものを手に入れたように見える人でさえ、
というか、だからこそ、可能性があるのならば、あきらめきれないというところかもしれない。
明治から昭和にかけて、随筆や日記で、食事について書いている作家は多い。
使われる食材は、そら豆だの、豆腐だの、茄子だの、特別なものではなく、そこらへんにあるものである。
描写する力にもよるのだろうが、それらが一様においしそうである。
ああ、食べてみたい、真似してみたい、そんな気持ちにさせられることもある。
彼らの生きた時代、太ったタレントが、高価な料理を美味しそうにがっつくのを
テレビ画面越しに見せつけられることもなく、
ネットでどんなに遠くのものでも自由にお取り寄せができるわけでもない。
到来物というのは、普段口にできないものを食べられる特別な機会であった。
手に入る食材も、情報も限られている分、目移りすることもなく、惑わされることもなく、
目の前にある食材をいかに工夫して美味しく食べるか、
それだけを考えていられたというのは、幸せである。
最近は、郵便局の臨時出張所ができて、駅構内でも買えるようになったのは便利である。
来年は年女である。
店頭で見かけた雪うさぎのスタンプを記念にと手に取ってみたものの、
次に使うのは12年後だなあ、と思ったら、何だか心もとないような気分になったので、戻す。
さて、ひと回り前の年女はもちろん、ふた回り前の年女の時期も、わたしにもそれなりに、あった。
20代の頃は、根気も体力もあって、よかったなどと、むやみにうらやましがってしまいがちだが、
果たしてその当時、華やかなりし日々をを送っていたかというと、そういうわけでは決してない。
24歳の頃、わたしは焦っていた。
今や死語となったが、クリスマスケーキなどいう言葉が出回っていた。
女性を値踏みするような言葉である。
24歳までに片付かないと、一気に女性としての価値が下がってしまうような言われ方に、
煽られていたのだ。
学校を出たら、2,3年働いて(これを腰かけと呼ぶ)、そしてウエディングベル。
もちろん違うコースを歩む人もたくさんいたに違いないが、そうした選択肢は、
一部の才能ある人に与えられた特権のように思われた。
この唯一と思われるコースからはずれたり、出遅れたりすることに、恐怖していたのだ。
腰かけにふさわしい、「お茶くみ、コピー取り」などという言葉も、ご丁寧なことにあった。
その頃の、OL生活の目標は、寿退職であった。
タイムリミットは、職場で、「女の子」と呼ばれることに違和感を覚えるようになる前まで。
廊下に並んだ同期たちの愛想笑いの中、花束を受け取り、ほほえましく退職するという構図。
両脇に居並ぶ同世代が、ひとり欠け、ふたり欠け、果てはだ~れもいなくなってしまうその前に、
是非とも、実行させなくてはならないと、強迫的でさえあった。
そのためだけに、日々、同期との関係を大切に、ランチを供にしてきたとも言える。
こうして、時代は流れ、時は過ぎた。
役所だからかもしれないが、今や、結婚したからと言って、退職する人は見かけない。
その一方では、どうやら休職しているらしいという噂を風の便りに聞き、
そのうち職員録から忽然と姿を消すということも多い。粘れるだけ粘り、
もらえるものは、もらえるだけもらって、やっと退職という新たなコースも、珍しくなくなった。
長い間働き続けていると、それはそれで、いろんな意味で疲弊してくるものらしい。
それはともかく、この業界に就職し、何が驚いたと言って、
上司自らが、コピーをとっているのを見かけた時である。
そうした仕事は、(少なくともわたしのいた会社では)、女性の仕事だったのである。
クリスマスケーキなどと脅し文句のように言われ、年齢制限付きで、
ひとつの選択肢を付きつけられることは、さすがになくなった。
生き方の多様性も認められ、選択肢も増えたように見える。
しかし、一見、可能性が増したようでも、実際のところ、
自分に合った行き方は、それほど増えたわけではないのではないか。
それなのに、無限に開かれているような幻想ばかりが増えるので、
いくつになっても、心中穏やかではいられない。
右へ行くべきか、左へ行くべきか。
「隣の芝生は青い」などというのがあったが、今や、比較対象は、お隣さんどころではなくなった。
こっちを選んでみたものの、どうやらあっちの料理の方が、おいしそう。
ああ、あんな生き方もあったんだ、ちょっと頑張れば、わたしにだってできるかもしれない……。
あれも、これもと、人の欲求は果てしない。
背負い投げばかりしている人生に飽き足らず、「先生」になった方もいる。
オリンピックでも金、ママでも金、金を追求し過ぎて、とうとうお金の疑惑にからむ某政治家の、
イメージ払拭キャラクターとして利用されるようになったというのもまた、人生の醍醐味、
畳の上だけでは味わえなかった展開である。
「先生」といえば、48歳にして初出産に挑む方も登場した。
同じ立場の人に勇気を与えたというポジティブな意見から、
経済的に余裕があるからできるのよね、という冷めたまなざしまで、さまざまなようである。
「なんだかんだ言っても、結局、自分のお腹を痛めるということにこだわってるよね」
などと、わたしのようにひねくれた見方をする人もいる。
個人の生き方なのだから、他人がとやかく言える筋合いのことではないのだが、
必ずしも血のつながりだけが大事ではないとか、
子供は地域みんなの宝物などという政治で使われるようなキャッチフレーズが、
案の定建前だったような気がして、鼻白むのである。
出産ということさえも、自己実現のひとつ、多くのものを手に入れたように見える人でさえ、
というか、だからこそ、可能性があるのならば、あきらめきれないというところかもしれない。
明治から昭和にかけて、随筆や日記で、食事について書いている作家は多い。
使われる食材は、そら豆だの、豆腐だの、茄子だの、特別なものではなく、そこらへんにあるものである。
描写する力にもよるのだろうが、それらが一様においしそうである。
ああ、食べてみたい、真似してみたい、そんな気持ちにさせられることもある。
彼らの生きた時代、太ったタレントが、高価な料理を美味しそうにがっつくのを
テレビ画面越しに見せつけられることもなく、
ネットでどんなに遠くのものでも自由にお取り寄せができるわけでもない。
到来物というのは、普段口にできないものを食べられる特別な機会であった。
手に入る食材も、情報も限られている分、目移りすることもなく、惑わされることもなく、
目の前にある食材をいかに工夫して美味しく食べるか、
それだけを考えていられたというのは、幸せである。