昨日、上野千鶴子氏後援の、ジェンダーコロキアムを聴きに行った。
カウンセラーの信田 さよ子さんが書かれた、『ザ・ママの戦略』『生存戦略としての依存症』についての、
書評セッションである。
彼女のブログに書かれていた紹介文、「ママが好きだと言えば、マザコンと言われ、キライだと言えば、
親不幸だと言われる。ちょうどいい距離を保ちながら、愛することはできないのか」に惹かれたのである。
ひとことで言って、母と娘の境界線、がテーマである。
小さな教室に、ぎっしりと集まった聴衆者は、ほとんどが女性である。
その人数たるや、主催者側が驚くほどで、一時、用意したレジメが足りなくなった。
信田さん人気もあるだろうが、娘の立場から、母の立場から、心理的な距離について、
日頃、重いものを抱えている人が多いということだろう。
母娘の葛藤は、家の中の、例えば台所といった片隅で起こるような、ほんの些細なできごとの、
積み重ねである。
正月の2日間、わたしは母手作りの、おせち料理を食べた。
両親と食事をするのは、昨年の正月以来、1年ぶりである。
たわいのない話しをしながら、食事は進んだ。
長年馴染んだ、味と会話は、やはりどこか、落ち着くものである。
その和やかな雰囲気に気を良くした母親が、正月が終わってからも、
いそいそとやって来て曰く、
「このトマト、安かったから、つい買い過ぎちゃったのよお。食べて食べて」
見るとトマトが山になって、食卓の上に積まれている。
それが片付かないうちに、今度は、
「野菜は身体にいいから……」
と、タッパーにてんこ盛りの手作り総菜が、食卓の、まさにわたしの座る位置に、
鎮座している。
買い過ぎちゃったから…の類は、これまでにも、よくあることであった。
父親の偏食が、極端なため、その分、わたしに回ってくるのである。
よく言えば、おすそ分けといったところだろうか。
そのたびに、わたしは、いつ何を食べるかといった計画(というほど、大げさなものでもないが)、
を変更せざるをえなくなる。
確かに、彼女の料理はおいしい。
しかも、野菜は、身体にもいい。
年寄りを喜ばすと思って、そのくらい食べてやりゃいいじゃないかと思うのだが、
どうも素直に感謝することができない。
”良かったら食べてね”と、一見、控えめな申し出なのだが、
いざ断ると、すこぶる機嫌が悪い。
「せっかっく身体にいいと思って作ってやったのに」
「いらないならいいわよ、捨てといて」
と、全人格を否定されたような勢いである。
こうなってくると、母親を傷つけたのではないかという罪悪感と、
罪悪感を抱かせた彼女に対する怒りが湧き上がってくる。
食べても、食べなくても、後味が悪いのである。
しかし、果たして、買い過ぎた食材は、一体誰の責任だろうか?
買う時点で、多過ぎるのは、わかっていることである。
わかっていながら、なぜ、何度も何度も、”つい買い過ぎる”のか?
後始末してくれる、娘の存在を、初めっから、想定していないだろうか?
それとも、こんなことを言うのは、バチ当たりなんであって、
せっかくの”好意”なのだから、ありがたく、いただいておくべきなのか?
夫との間の、満たされない部分を、娘に肩代わりしてもらおうとする母親の話は、
しばしば耳にするが、偏食の激しい夫を持った責任を、娘がとるべきなのか?―
当事者研究というのがあるそうだ。
自分の抱える問題を研究しながら、その問題と共存していこうというものだ。
親とのやりとりで、感じる、違和感、怒り、心もとなさ、…
それらを対象化して観察する―。
わたしの研究テーマは、さしずめ、
「買い過ぎたトマトは、誰の責任か?」ということになるだろう。
これは好意?
それとも、押しつけ?
他人とのやりとりで感じてしまう、こんな疑問も、おそらく、
母親とのやりとりに影響されているのかもしれない。
セミナーは、
「もっと母親に冷たい娘が、増えてくれればいいと思っています」
という、信田さんのコメントで、おひらきになった。
誤解を招かないように、言い添えれば、これは、母親に対する罪悪感で、いっぱいになりながら
自分の人生を費やして欲しくないという、彼女から娘たちへのエールなのである。
カウンセラーの信田 さよ子さんが書かれた、『ザ・ママの戦略』『生存戦略としての依存症』についての、
書評セッションである。
彼女のブログに書かれていた紹介文、「ママが好きだと言えば、マザコンと言われ、キライだと言えば、
親不幸だと言われる。ちょうどいい距離を保ちながら、愛することはできないのか」に惹かれたのである。
ひとことで言って、母と娘の境界線、がテーマである。
小さな教室に、ぎっしりと集まった聴衆者は、ほとんどが女性である。
その人数たるや、主催者側が驚くほどで、一時、用意したレジメが足りなくなった。
信田さん人気もあるだろうが、娘の立場から、母の立場から、心理的な距離について、
日頃、重いものを抱えている人が多いということだろう。
母娘の葛藤は、家の中の、例えば台所といった片隅で起こるような、ほんの些細なできごとの、
積み重ねである。
正月の2日間、わたしは母手作りの、おせち料理を食べた。
両親と食事をするのは、昨年の正月以来、1年ぶりである。
たわいのない話しをしながら、食事は進んだ。
長年馴染んだ、味と会話は、やはりどこか、落ち着くものである。
その和やかな雰囲気に気を良くした母親が、正月が終わってからも、
いそいそとやって来て曰く、
「このトマト、安かったから、つい買い過ぎちゃったのよお。食べて食べて」
見るとトマトが山になって、食卓の上に積まれている。
それが片付かないうちに、今度は、
「野菜は身体にいいから……」
と、タッパーにてんこ盛りの手作り総菜が、食卓の、まさにわたしの座る位置に、
鎮座している。
買い過ぎちゃったから…の類は、これまでにも、よくあることであった。
父親の偏食が、極端なため、その分、わたしに回ってくるのである。
よく言えば、おすそ分けといったところだろうか。
そのたびに、わたしは、いつ何を食べるかといった計画(というほど、大げさなものでもないが)、
を変更せざるをえなくなる。
確かに、彼女の料理はおいしい。
しかも、野菜は、身体にもいい。
年寄りを喜ばすと思って、そのくらい食べてやりゃいいじゃないかと思うのだが、
どうも素直に感謝することができない。
”良かったら食べてね”と、一見、控えめな申し出なのだが、
いざ断ると、すこぶる機嫌が悪い。
「せっかっく身体にいいと思って作ってやったのに」
「いらないならいいわよ、捨てといて」
と、全人格を否定されたような勢いである。
こうなってくると、母親を傷つけたのではないかという罪悪感と、
罪悪感を抱かせた彼女に対する怒りが湧き上がってくる。
食べても、食べなくても、後味が悪いのである。
しかし、果たして、買い過ぎた食材は、一体誰の責任だろうか?
買う時点で、多過ぎるのは、わかっていることである。
わかっていながら、なぜ、何度も何度も、”つい買い過ぎる”のか?
後始末してくれる、娘の存在を、初めっから、想定していないだろうか?
それとも、こんなことを言うのは、バチ当たりなんであって、
せっかくの”好意”なのだから、ありがたく、いただいておくべきなのか?
夫との間の、満たされない部分を、娘に肩代わりしてもらおうとする母親の話は、
しばしば耳にするが、偏食の激しい夫を持った責任を、娘がとるべきなのか?―
当事者研究というのがあるそうだ。
自分の抱える問題を研究しながら、その問題と共存していこうというものだ。
親とのやりとりで、感じる、違和感、怒り、心もとなさ、…
それらを対象化して観察する―。
わたしの研究テーマは、さしずめ、
「買い過ぎたトマトは、誰の責任か?」ということになるだろう。
これは好意?
それとも、押しつけ?
他人とのやりとりで感じてしまう、こんな疑問も、おそらく、
母親とのやりとりに影響されているのかもしれない。
セミナーは、
「もっと母親に冷たい娘が、増えてくれればいいと思っています」
という、信田さんのコメントで、おひらきになった。
誤解を招かないように、言い添えれば、これは、母親に対する罪悪感で、いっぱいになりながら
自分の人生を費やして欲しくないという、彼女から娘たちへのエールなのである。