10年以上も前に読んだ小説を引っ張り出して読み返している。
電話をかける場面で、子機だの親機だのという言葉が出ると、スマホどころか携帯もなかった頃に書かれた話だとわかる。
そして読みながら気がついた。
混みあった店で開かれる飲み会や、向かい合って珈琲を飲む場面、今まであたりまえだった場面の描写を読むと、ほぼ自動的に「密」という文字が浮かんでしまう。
それだけではない。“顔をそっと近づける”だの“相手の吐く白い息が頬にかかった”だのと親密性を表す描写を読むと、「あらあら、ちょっとまずいんじゃいの。マスクしてないよね」などと即座に考えてしまう。
もちろんこれを書いた時期の作者には、全く思いも及ばなかったことである。
戦争を描けば生き死にの話になり、震災を書けば津波は避けて通れない。
たとえ小説は架空の話でも、現実味のある生活様式や道具立ては必要である。
これからの登場人物はみなさんマスクをしているのが前提で、待ち合わせの店を選ぶときは、感染症対策がとられているかどうかを確認する‥‥‥。そうするか否かが、その後のストーリー展開に重要な意味を持つことになってくるかもしれない。
そして、身なりの描写。服装や背格好だけでなく、どんなマスクをしているのか。使い捨てマスクか、布マスクか。使い捨てなら、おろしたてか、それとも何度か洗濯してヒダのとれかかっているものか。布マスクなら、手作りの柄物か、だったらそれを作ったのは誰なのか。それらが主人公の人となりを知る大事な手がかりとなってくるかもしれない。
生活パターンの変化も重要だ。今まで“出勤”があたりまえだった働き方も、テレワークが主流となれば、男女ともに一日中家にいることになる。顔を合わせる時間が増えれば、よくも悪くも話の展開が大きく違ってくることは確かだ。
こんなにも急に、生活や考え方、感じ方の隅々にまではいりこんでしまったものは未だかつてない。
それなのに、“新しい生活様式”は、完全に習慣化されたわけでもなく、本当にこれからもずっと続いていくのかもわからない。
プロの作家も、今の時期、この状況をどうとらえて、どの程度までストーリーにとりこんでいいかわからずにとまどっているのではなかろうか。
スマホが登場しました、程度の変化ではないのだから。
電話をかける場面で、子機だの親機だのという言葉が出ると、スマホどころか携帯もなかった頃に書かれた話だとわかる。
そして読みながら気がついた。
混みあった店で開かれる飲み会や、向かい合って珈琲を飲む場面、今まであたりまえだった場面の描写を読むと、ほぼ自動的に「密」という文字が浮かんでしまう。
それだけではない。“顔をそっと近づける”だの“相手の吐く白い息が頬にかかった”だのと親密性を表す描写を読むと、「あらあら、ちょっとまずいんじゃいの。マスクしてないよね」などと即座に考えてしまう。
もちろんこれを書いた時期の作者には、全く思いも及ばなかったことである。
戦争を描けば生き死にの話になり、震災を書けば津波は避けて通れない。
たとえ小説は架空の話でも、現実味のある生活様式や道具立ては必要である。
これからの登場人物はみなさんマスクをしているのが前提で、待ち合わせの店を選ぶときは、感染症対策がとられているかどうかを確認する‥‥‥。そうするか否かが、その後のストーリー展開に重要な意味を持つことになってくるかもしれない。
そして、身なりの描写。服装や背格好だけでなく、どんなマスクをしているのか。使い捨てマスクか、布マスクか。使い捨てなら、おろしたてか、それとも何度か洗濯してヒダのとれかかっているものか。布マスクなら、手作りの柄物か、だったらそれを作ったのは誰なのか。それらが主人公の人となりを知る大事な手がかりとなってくるかもしれない。
生活パターンの変化も重要だ。今まで“出勤”があたりまえだった働き方も、テレワークが主流となれば、男女ともに一日中家にいることになる。顔を合わせる時間が増えれば、よくも悪くも話の展開が大きく違ってくることは確かだ。
こんなにも急に、生活や考え方、感じ方の隅々にまではいりこんでしまったものは未だかつてない。
それなのに、“新しい生活様式”は、完全に習慣化されたわけでもなく、本当にこれからもずっと続いていくのかもわからない。
プロの作家も、今の時期、この状況をどうとらえて、どの程度までストーリーにとりこんでいいかわからずにとまどっているのではなかろうか。
スマホが登場しました、程度の変化ではないのだから。